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高野房太郎とその時代 (97)




7. 終 章

「失敗の人」か?

高野房太郎

 横山源之助は、房太郎を追悼した「労働運動卒先者の死」の最後で、すでに紹介した岩三郎の「兄は失敗の人なりき」という言葉に続け、「しかれども君が二三年の活動は、労働運動史の第一頁を作れり、ひとつの成功ならずとせじ」と述べています。

 私もこうした横山源之助の考えに賛成です。房太郎は高野家の戸主としては「失敗の人」でした。しかし、彼が日本労働運動史の巻頭を飾る人物であることに、誰ひとり異論はないでしょう。今回は、この点をもう少し詳しく検討し、初期労働運動における高野房太郎の位置を確定したいと思います。つまり「高野房太郎をどう評価するか」、これが今回のテーマです。

 1) 房太郎評価において、まず第1にあげるべきは、まだ日本中の誰もが労働組合のことを良く知らなかった時に、彼がいち早くその意義を理解し、これを故国の人びとに伝えた事実でしょう。これはまさに高野房太郎個人の功績です。これについては、すでに「日本最初の労働組合論」で述べましたから、繰り返しは避け、簡単に見ておくことにします。
  日本で最初に労働組合の意義を説き、その結成を勧めた文献は、通説では、1890(明治23)年9月23日の『国民之友』に掲載された「労働者の声」だ、ということになっています。実は、私は、この無署名論文「労働者の声」の筆者も高野房太郎に相違ないと考えています。その根拠は「〈労働者の声〉の筆者は誰か」で詳しく論じました。ただ、これは論旨や文体・用語、その後の運動への関与などによる推論で、残念ながら今となっては決定的な証拠を見出すことは、まず不可能です。
  しかし、房太郎は「労働者の声」より4ヵ月前に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」と題する長文の論稿を『読売新聞』に寄せ、労働組合の目的や役割を日本の読者に向けて説いています*1。仮に「労働者の声」の筆者が房太郎でなかったとしても、彼の先駆性に疑問の余地はありません。「北米合衆国の……」は、直接的にはアメリカの労働事情、労働組合の紹介がテーマですが、内容的には資本主義社会における労働組合成立の必然性と労働組合の意義を論じています。この論稿は、労働組合期成会の誕生より7年も前、サンフランシスコの職工義友会創立よりも1年以上昔に書かれたものなのです。
  このほか房太郎は、職工義友会の創立直前の1891(明治24)年7月にも「日本における労働問題」*2を執筆し、日本の「労役者の地位を上進しその権利を拡張」するためには、「結合〔団結〕の一法あるのみ」と、日本の労働者と有識者に向けて、労働組合の結成を呼びかけています。一部に、労働組合期成会の前身ともいうべき、サンフランシスコの職工義友会創立時における房太郎の参加を疑問視する見解*3がありますが、これらの諸論稿を見れば、職工義友会でも高野房太郎が指導的な役割を果たしていたことは明らかだと考えます。  

 第2の、そして房太郎の歴史的貢献として最も重要な点は、組織者として、労働組合をゼロから作り上げたことでしょう。単に啓蒙家として労働組合の意義を説いただけではないのです。さらに言えば、運動開始後2年近く、無報酬で、というより身銭を切って、職工義友会と労働組合期成会のただ一人の専従役員として、運動に専念したのでした。
  教科書などをふくめ、日本近代史に関する多くの文献は、労働組合期成会の創設者として、高野房太郎とともに片山潜の名を並記しています。しかし、期成会の成立過程を仔細に検討すれば、こうした位置づけは正確を欠いています。事実関係の詳細は「労働組合期成会の創立者は誰か?」で述べましたが、結論だけ言えば、労働組合期成会の創立者の名をあげるとすれば、まず高野房太郎、ついで沢田半之助、城常太郎という職工義友会の2人の会員です。また知識人の支援者の名をあげるとすれば、期成会の設立前後に限られますが、鈴木純一郎の方が片山潜より大きな役割を果たしていました。

 いまさら強調するまでもないかも知れませんが、労働組合期成会の発足に際し高野房太郎が果した役割は、いま名をあげた人びとの誰より決定的に大きかったと、私は考えています。彼がたった一人の専従役員だったという点も重要ですが、それだけではありません。そもそも「労働組合期成会」という組織形態を最初に構想したのは、他ならぬ高野房太郎であり、アメリカ労働総同盟のゴンパーズに会う前のことだったのです(第43回参照)。
  房太郎が重視したのは、日本の労働者が置かれている労働条件や教育水準のもとでは、組織化に際し有識者の援助が不可欠であるという点でした。これは、かねてからの房太郎の持論でした。このため、彼はゴンパーズから勧められた職業別組合の結成を後回しにし、先ずはあらゆる職種の労働者を結集し、知識人も参加しうる準備団体の結成を先行させたのです。その「準備団体」こそ他ならぬ「労働組合期成会」でした。
  片山潜や鈴木純一郎、あるいは佐久間貞一らが労働運動家や運動の支援者となり、大きな役割を果たしたのも、こうした有識者の参加を重視する組織方針がとられたからでした。片山潜は日本の社会運動、とりわけ社会主義運動の先駆者として大きな役割を果たした人物ですが、彼が社会運動家となるきっかけは、他ならぬ高野房太郎によって与えられたのです。
  さらに鉄工組合をはじめ、日本鉄道矯正会、活版工組合など、短命に終わったとは言え、近代的な労働組合を日本にもたらしたのは、労働組合期成会の貢献でした。その意味で房太郎の組織構想は、日本の現実に適合的だったと言えるでしょう。

 第3に、高野房太郎は日本における生活協同組合運動のパイオニアでした。彼の協同組合運動への着目は、実際に運動を始める時よりずっと早く、すでに1891(明治24)年の「日本における労働問題」*2で、次のように論じています。

 労役者をして直接的利益を享有せしめんとせば、まずこの会合〔労働組合〕をして友愛協会たらしめんことを要す、すなわちその会員の疾病に罹るやこれを救助するの資金を与え、その死亡するやその家族に扶助金を給与し、その火災その他の不幸に遭遇するや、これを援助するの仕組みを設く、これその一方なり。
  労役者の貯金を集めて共同営業会社を設け、労役者をして資本家の地位を兼ねしめ、生産上分配上労役者をしてその利益を享有せしむるにあり。あるいは物品の製造に従事し、あるいは日用必需品の売捌に従事し、以て労役者の収入を増し、若しくはその生計費用を減ぜしむ、これその二なり。

 つまり、房太郎は、労働組合運動を維持するには、労働者が組合参加の直接的利益を実感する必要があるとし、それには労働組合が相互救済機能と同時に「共同営業会社=協同組合」機能を備えるべきだ、と主張したのです。

 ところで日本の生活協同組合史研究の第一人者である奥谷松治氏は名著『日本生活協同組合史』のなかで次のように論じています*4

 当時物価が急激に暴騰したので、〔鉄工〕組合員の家計をまもり、あわせて労働組合の組織を固めるために、片山潜、高野房太郎らの組合幹部がこの組織を奨励した。この運動に対してとくに熱意を示したのは片山潜であった。生協が普及したのは片山の指導によるところが大きい。

 奥谷氏がなぜこのような評価をくだしたのか、その根拠を示していないので分かりませんが、私は、この判断は誤っていると思います。鉄工組合内で、生協運動に強い熱意を示し、その普及に力を入れたのは高野房太郎であり、片山潜が生協運動において指導的な役割を果たした事実はありません。
  なぜこのように主張するかと言えば、片山潜は、共働店について無署名の短文をひとつ書いている*5だけなのに対し、房太郎は「鉄工組合何支部共働店規約」なるモデル規約を作成し*6、共働店をどのように運営すべきかを具体的に説いているのです。さらに実践面でも、横浜共営鉄工合資会社と八丁堀の共営社という、鉄工組合内で最大規模の共働店を2つまでも設立し、その経営の中心となったのでした。この高野房太郎と共働店の関係について、横山源之助はつぎのように述べています*7

 加之しかのみならず、君は労働者を翕合(きゅうごう)〔=糾合〕するを以て安んせず、翌三十一年「会員及組合員の間に日常消費する物品を配布し其生計上の便宜を得せしむるを目的」とせる共働店──消費組合を起せり、啻に之を労働者に奨励せるのみならず、身自ら前垂に筒袖を着け前には横浜に、後には石川島造船所の職工を中心として、京橋八丁堀に共働店を起こし、君之を主宰す、蓋し消費組合は、君の最も心血を凝せる所にして、君は、共働店と生死を同ふすべしとさへ言へることあり。
  当時君の前垂的奨励は、着々として効を奏し、各地其の風に倣ふ者多く、福島、原ノ町、平、黒磯、仙台、青森等の東北地方最も盛大を致せり。

 高野房太郎にとって共働店は「心血を凝」らし「生死を同ふすべし」と言い切るほどの存在でした。しかし、片山潜にとって共働店は、それほどの重みをもつものでなかったことも、また明らかです。彼が心血を注いだのは『労働世界』の刊行の維持であり、社会主義思想の普及だったのです。

 以上、高野房太郎が日本の労働組合運動、労働者生活協同組合運動の創始者として、誰よりも大きな役割を果たしたことを確かめることが出来たと思います。もちろん、労働運動は大衆運動ですから、房太郎ひとりの努力で実現するはずもありません。その意味では、労働組合期成会にせよ、鉄工組合にせよ、多くの有名無名の人びとの努力の結晶でした。ただ、その結晶の核となったのが高野房太郎その人であったこともまた確かです。



【注】

*1 高野房太郎「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」『読売新聞』の1890(明治23)年5月31日から6月27日まで、11回に分けて掲載された。『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫)245〜276ページ。

*2 高野房太郎「日本における労働問題」『読売新聞』1891(明治24)年8月7日〜10日。『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫)277〜288ページ。

*3  隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompers との関係を中心に」『経済学論集』第29巻第1号(1963年4月)。なお、こうした隅谷三喜男氏の主張は、職工義友会が1890年に設立されたという、『日本の労働運動』の誤った記録を鵜呑みにしたものである。くわしくは拙稿「職工義友会と加州日本人靴工同盟会──高野房太郎の在米時代」参照。

*4 奥谷松治『改訂増補 日本生活協同組合史』(民衆社、1973年刊)第2節「鉄工組合と共働店」参照。

*5 『労働世界』第6号〔1898(明治31)年2月15日付〕に掲げられた無署名の短文「共働店の利益」。奥谷氏はかつてこの筆者を高野房太郎であると推定していたものを『片山潜著作集』にしたがって、片山潜であると訂正している。これが『労働世界』で共働店が論じられた最初の論文であることから、奥谷氏は、片山潜の役割を評価したものであろう。

*6 高野房太郎「東京だより」(『労働世界』14号、1898(明治31)年6月15日付)。

*7 横山源之助「労働運動卒先者の死」、『毎日新聞』1904(明治37)年5月4日付、および5月9日付。  






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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