高野房太郎とその時代 (97)7. 終 章「失敗の人」か?横山源之助は、房太郎を追悼した「労働運動卒先者の死」の最後で、すでに紹介した岩三郎の「兄は失敗の人なりき」という言葉に続け、「しかれども君が二三年の活動は、労働運動史の第一頁を作れり、ひとつの成功ならずとせじ」と述べています。 私もこうした横山源之助の考えに賛成です。房太郎は高野家の戸主としては「失敗の人」でした。しかし、彼が日本労働運動史の巻頭を飾る人物であることに、誰ひとり異論はないでしょう。今回は、この点をもう少し詳しく検討し、初期労働運動における高野房太郎の位置を確定したいと思います。つまり「高野房太郎をどう評価するか」、これが今回のテーマです。
1) 房太郎評価において、まず第1にあげるべきは、まだ日本中の誰もが労働組合のことを良く知らなかった時に、彼がいち早くその意義を理解し、これを故国の人びとに伝えた事実でしょう。これはまさに高野房太郎個人の功績です。これについては、すでに「日本最初の労働組合論」で述べましたから、繰り返しは避け、簡単に見ておくことにします。
第2の、そして房太郎の歴史的貢献として最も重要な点は、組織者として、労働組合をゼロから作り上げたことでしょう。単に啓蒙家として労働組合の意義を説いただけではないのです。さらに言えば、運動開始後2年近く、無報酬で、というより身銭を切って、職工義友会と労働組合期成会のただ一人の専従役員として、運動に専念したのでした。
いまさら強調するまでもないかも知れませんが、労働組合期成会の発足に際し高野房太郎が果した役割は、いま名をあげた人びとの誰より決定的に大きかったと、私は考えています。彼がたった一人の専従役員だったという点も重要ですが、それだけではありません。そもそも「労働組合期成会」という組織形態を最初に構想したのは、他ならぬ高野房太郎であり、アメリカ労働総同盟のゴンパーズに会う前のことだったのです(第43回参照)。 第3に、高野房太郎は日本における生活協同組合運動のパイオニアでした。彼の協同組合運動への着目は、実際に運動を始める時よりずっと早く、すでに1891(明治24)年の「日本における労働問題」*2で、次のように論じています。 労役者をして直接的利益を享有せしめんとせば、まずこの会合〔労働組合〕をして友愛協会たらしめんことを要す、すなわちその会員の疾病に罹るやこれを救助するの資金を与え、その死亡するやその家族に扶助金を給与し、その火災その他の不幸に遭遇するや、これを援助するの仕組みを設く、これその一方なり。 つまり、房太郎は、労働組合運動を維持するには、労働者が組合参加の直接的利益を実感する必要があるとし、それには労働組合が相互救済機能と同時に「共同営業会社=協同組合」機能を備えるべきだ、と主張したのです。 ところで日本の生活協同組合史研究の第一人者である奥谷松治氏は名著『日本生活協同組合史』のなかで次のように論じています*4。 当時物価が急激に暴騰したので、〔鉄工〕組合員の家計をまもり、あわせて労働組合の組織を固めるために、片山潜、高野房太郎らの組合幹部がこの組織を奨励した。この運動に対してとくに熱意を示したのは片山潜であった。生協が普及したのは片山の指導によるところが大きい。 奥谷氏がなぜこのような評価をくだしたのか、その根拠を示していないので分かりませんが、私は、この判断は誤っていると思います。鉄工組合内で、生協運動に強い熱意を示し、その普及に力を入れたのは高野房太郎であり、片山潜が生協運動において指導的な役割を果たした事実はありません。
高野房太郎にとって共働店は「心血を凝」らし「生死を同ふすべし」と言い切るほどの存在でした。しかし、片山潜にとって共働店は、それほどの重みをもつものでなかったことも、また明らかです。彼が心血を注いだのは『労働世界』の刊行の維持であり、社会主義思想の普及だったのです。 以上、高野房太郎が日本の労働組合運動、労働者生活協同組合運動の創始者として、誰よりも大きな役割を果たしたことを確かめることが出来たと思います。もちろん、労働運動は大衆運動ですから、房太郎ひとりの努力で実現するはずもありません。その意味では、労働組合期成会にせよ、鉄工組合にせよ、多くの有名無名の人びとの努力の結晶でした。ただ、その結晶の核となったのが高野房太郎その人であったこともまた確かです。 【注】*1 高野房太郎「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」『読売新聞』の1890(明治23)年5月31日から6月27日まで、11回に分けて掲載された。『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫)245〜276ページ。 *2 高野房太郎「日本における労働問題」『読売新聞』1891(明治24)年8月7日〜10日。『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫)277〜288ページ。 *3 隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompers との関係を中心に」『経済学論集』第29巻第1号(1963年4月)。なお、こうした隅谷三喜男氏の主張は、職工義友会が1890年に設立されたという、『日本の労働運動』の誤った記録を鵜呑みにしたものである。くわしくは拙稿「職工義友会と加州日本人靴工同盟会──高野房太郎の在米時代」参照。 *4 奥谷松治『改訂増補 日本生活協同組合史』(民衆社、1973年刊)第2節「鉄工組合と共働店」参照。 *5 『労働世界』第6号〔1898(明治31)年2月15日付〕に掲げられた無署名の短文「共働店の利益」。奥谷氏はかつてこの筆者を高野房太郎であると推定していたものを『片山潜著作集』にしたがって、片山潜であると訂正している。これが『労働世界』で共働店が論じられた最初の論文であることから、奥谷氏は、片山潜の役割を評価したものであろう。 *6 高野房太郎「東京だより」(『労働世界』14号、1898(明治31)年6月15日付)。 *7 横山源之助「労働運動卒先者の死」、『毎日新聞』1904(明治37)年5月4日付、および5月9日付。 |
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