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高野房太郎とその時代 (100)




7. 終 章

拾遺(3) 岩三郎──兄への想い

1909(明治42)年ころの高野岩三郎

 岩三郎は、その生涯を通じ、兄・房太郎に対し、深い〈感謝の念〉と同時に強い〈負い目〉を感じ続けていたようです。前回、房太郎の遺児・美代について「祖母や叔父に手厚く保護され、岩三郎の子供たちと分け隔てなく、のびのびと育てられた」と述べました。しかし岩三郎は、美代に対して、実の子に対するよりずっと気を遣っていたように見えます*1。そこには、孤児となった姪への思いやりというだけではない、兄への〈あがない〉ともいうべき気持ちが働いていたようです。
  〈感謝の念〉は、房太郎が長年アメリカで辛苦して、高野家の家計と岩三郎の学資を補ってくれた恩義に対するものでした。幼くして父を失い、火災に遭って没落した長崎屋の子、それも次男坊が最高学府まで進学しえたのは、兄が父親代わりに異国で外国人労働者としての辛い日々に耐え、仕送りを欠かさなかったからでした。岩三郎は、人びとから尊敬される立場にたちえたのは兄の犠牲があったからだ、との思いを終生忘れることはありませんでした。しかもその兄が最初から最後まで、志を得ないまま「失敗の人」としてその短い生涯を終えたことは、岩三郎の心に小さからぬ傷を残したのでした。

 彼の兄は、アメリカで労働組合を発見し、これを祖国に広げようと、岩三郎が大学院在学中に運動を開始しました。岩三郎は兄の良き理解者としてその活動を助けはしましたが、自身の生活を支えるのに追われて研究時間の不足をなげく毎日で、十分な支援は出来ませんでした。その上、間もなくドイツ留学が決まり、兄の苦労を横目に日本を離れてしまったのです。
  岩三郎の留学は、出稼ぎ労働者としての兄の海外生活とは大違いの、恵まれたものでした。4年近く、国費で、なに不自由なく学問に打ち込むことが出来たのです。そればかりか、ミュンヘンでは最愛の人とめぐり逢い、「10年遅れの青春」を謳歌し、愛の巣まで営んだのでした。この間、日本の兄は、労働組合運動で挫折し、共働店経営にも失敗し、故国を去っていたのです。こうした事情を知らされた岩三郎は、なんとも後ろめたい気持ちに苛まれたに相違ありません。しかもその兄は、実業界への再転身を図って渡清したのですが、そこでも成功にはほど遠く、最後は異国で病に倒れ、帰らぬ人となってしまったのでした。兄の生涯を考えるたびに、岩三郎の胸は締め付けられました。房太郎の遺骨を青島から連れ帰った折、横山源之助に「兄は失敗の人なりき」と述べた岩三郎の一言には、彼の悔恨の念が色濃くにじんでいます。

 こうした思いを抱きながら、岩三郎は学問に専念しました。選んだ道は、経済学です。 これも、兄の影響によるものでした。実業界での成功を夢見ていた房太郎は、早くから経済学に強い関心をよせ、アメリカ滞在中も貧しい生活を送りながら、いくらかでも余裕ができると経済学書を買い集め読みふけっていました*2。そうした房太郎にとって、岩三郎が第一高等中学校〔のちの一高=第一高等学校〕の予科から本科への進学にあたって政治学科を選んだとき、いささか不満だったらしく、次のように批判的な意見を書き送っています*3

 第一高等中学の卒業試験の結果はどうでしたか? もちろん立派な成績で合格されたこととは思いますが、十六日付のお便りでふれておられなかったので、念のためにお訊ねいたします。また、お選びになった科目などについては、私から特に申し上げるべき意見はありません。また、学校のことについて良く知らない私には、分からないことばかりです。しかし、君が政治科に進学されようとしていることについては、ちょっと不満がないわけではありません。もちろん君には君の考えがあることですから、将来どのような方向に進もうと考えておられるのか聞きたいと思います。そうすれば、私としてももう一度考える材料を得ることになると存じます。

 おそらく房太郎は、岩三郎が政治学科でなく経済学科にすすむことを望んでいたものと思われます。しかし岩三郎は、第一高等中学本科でも、さらに東京帝国大学法科大学でも、政治学科に進学しました。実は法科大学にはまだ経済学科がなかったのです。
  法科大学に経済学科が設立されたのは、それから15年も後の1908(明治41)年のことで、岩三郎はこの新設の経済学科の創立メンバーとなったのでした。さらに、日本最初の経済学部が東京帝国大学に設けられたのは、それからさらに10年余も後の1919(大正8)年のことです。この日本最初の経済学部創立を提唱し、法科大学からの独立を推進したのは、ほかならぬ高野岩三郎でした*4。いま日本の総合大学のほとんどは経済学部を設けていますが、その口火を切り、かつモデルとなったのは東京帝国大学です。「春秋の筆法」をもってすれば、高野房太郎の経済学への関心が、まさに日本中の大学に経済学部を設立させたと言えるのです。
  話がちょっと先に進みすぎました。私が言いたいのは、岩三郎が自らの専門分野を決めた際、房太郎の影響がきわめて強かったことです。それは、彼が大学院の研究テーマとして選んだのが「労働問題を中心とする工業経済学」であった事実から明らかです。現実には、その後、岩三郎を大学に残すため、統計学の講座が新設されたため、彼の専門分野は統計学ということになりました*5。しかし、岩三郎が統計学者として具体的に取り組んだテーマを見れば、労働組合や消費組合、さらには労働者家計などに関するものが多いことに気づかされます*6。研究者としての高野岩三郎には、兄の影が色濃く投影されているのです。

 岩三郎はまた、兄の遺志をつぎ、生涯を通じて労働者の自助こそが労働問題を解決する王道である点を主張し続けました。たとえば「工場法と労働問題」をテーマとして開かれた社会政策学会の第1回大会では、日本的な主従関係を重視する添田寿一に反対し、岩三郎は工場法が効果をあげるには工場監督官だけでなく労働者による監督が必要であり、それには労働者の団結、すなわち職工組合の形成が不可欠である点を強調しています*7
  岩三郎は、学界においてこうした主張を述べただけでなく、運動面でも組合支持の立場を鮮明にしていました。鉄工組合の創立大会で、岩三郎が来賓のひとりとして挨拶したことはすでに述べましたが、大正期労働運動の中心組織となった友愛会でも、彼は評議員に就任しています。そして1914(大正3)年には、友愛会員の協力を得て「東京ニ於ケル二十職工家計調査」を実施したのです。これは日本最初の本格的な統計学的手法を用いた家計調査として統計史の上でも注目される業績となりました。

 さらに、高野岩三郎は政府に対しても労働組合の合法化を提言しています。たとえば1918(大正7)年に内務省救済事業調査会の一員となった時には、調査会が労働組合問題を取り上げるべきことを強く主張し、さらに治安警察法第17条の削除を提案して、ついにこれを認めさせたのでした。その日の日記に、彼は「十七年振リニテ亡兄ノ仇ヲ報ヒタル心地ナ〔キ〕ニアラズ」と記したのでした。この一句には、岩三郎の、兄への強い思いが込められています。

 岩三郎はまた、1919(大正8)年2月に新設された大原社会問題研究所の初代所長となり、日本における労働問題研究に関して数々の業績を残しています。なかでも研究所創立と同時に編集を始めた『日本労働年鑑』は、日本の労働運動の足跡を同時点で記録したものとして注目されます。同年鑑は、第二次大戦の前後に10年間の中断を余儀なくされましたが、現在まで75冊、戦時下の労働者状態と労働運動に関する特集2冊を加えれば77冊も刊行されています。この年鑑は、年によって出来不出来はあるものの、日本の労働運動の歩みをそれぞれの時点で記録したものとして、世界でも例のない出版物と言ってよいでしょう。
  『日本労働年鑑』の編集のためには労働運動、社会運動の資料を系統的に集めざるをえず、いつの間にか大原社会問題研究所は日本の労働関係アーカイブスとしてトップレベルの内容をもつものとなりました。岩三郎はまた、研究所内に資料室を設け、労働組合本部などが保管しえなくなった記録類を購入・保存してきました。これによって、貴重な記録が湮滅をまぬがれたのです。いまは法政大学の付置研究所となった大原社会問題研究所は、これらの史料を公開し、数多くの研究者がこれを利用しています。

   岩三郎はまた、折にふれて兄房太郎の生涯について語りました。『大日本人名辞書』に兄の略伝を記したほか、総同盟の機関誌『明日』の求めに応じ、兄を回想する談話を記録した「兄高野房太郎を語る」を掲載しています。彼自身、いずれは兄の伝記を書きたいと考え、材料を集めていました。しかし、残念ながらその望みが実現することはありませんでした。

 ただ、岩三郎が果たして兄の思想や行動を正確に認識していたのかと言えば、疑問があります。岩三郎は、房太郎がアメリカで出稼ぎ労働者として労働の体験を有していたことが、兄を自然発生的に労働組合運動に関心を抱かせ、その組織者たらしめたと、一貫して主張しています。しかし、すでに見てきたように、房太郎はかつて一度たりとも自分が労働者階級の一員だと考えたことはない、と思われます。彼はあくまでも「有識者」として、労働者を導き育てようとしたのでした。その目指したところは、日本の経済発展、日本の文明化でした。
  問題は、なぜ岩三郎がこうした主張を展開したのか、ということでしょう。岩三郎は、後年の学者から、房太郎が「低調なる労使協調論者」といった評価を受けたことを批判しようとしてのことだったと思われます。つまり、房太郎は自ら辛い労働の体験を有し、その上で労働運動を構想した点を強調したかったからでしょう。しかし、これは贔屓の引き倒しというか、かえって房太郎の運動の特長を見失わせてしまったのではないかと考えられます。しかし、この問題についてはすでに述べていますから*8、繰り返しは避けたいと思います。

 いずれにせよ、房太郎の志は岩三郎に受けつがれ、彼を介して、その後の日本の労働運動に、さらには労働問題研究や経済学研究に生かされたのでした。「高野房太郎、もって瞑すべし」です。



【注】

*1 美代さん自身がこうした岩三郎の思いを理解していました。大島清氏が『高野岩三郎日記』のコピーを送った際、それに対する礼状のなかで、美代さんは次のように記しています。

 叔父岩三郎の日誌の一コマ有がとう存じました。涙で一杯に成りました。そうして娘時代を思ひ叔父が実の娘以上に私に心を使ひ、あまりにも十二分の事をしてくれました事を思ひいつも感謝で一杯です。祖母あり叔父あり、よく両親を失ひつつも幸せだったと思ひます。

*2 1892年9月23日付の房太郎より岩三郎宛書簡には、次のように記されている。

 経済書ハ今ヤ二十冊以上有之、両三日前更ニ十冊計リ注文致候間経済書ノ書籍ニハ恥チ不申ト存候。
実ハ月々二三冊ト思ヒ候処十冊以上一度ニ注文スレ バ弐割ノ割引有之候故、其方利益ト〔1字抹消〕考ヘ候儘剰余金アル時ハ貯ヘ置キテ、一回ニ注文致候。小生帰朝ノ節、貴弟ヘノ土産物ハ唯経済書ト Encyclopedia Britanica 廿八冊アルノミニ候。

*3 1890年8月8日付の高野房太郎より高野岩三郎宛書簡。この手紙の現代語訳はすでに第32回「タコマチョップ・ハウス」で紹介している。原文通りに翻字した手紙およびて同書簡画像も掲載済みである。

*4 大島清著『高野岩三郎伝』(岩波書店、1968年)第2部第5章参照。

*5 高野岩三郎は、その学問の歩みを回想した一文のなかで、次のように述べている。

〔帝国大学法科大学〕卒業の前後において将来の方針につき頗る苦悶を重ねたのである。一方には身辺の事情はただちに糊口の途を求むるの必要を感ぜしめたのであるけれども、他方には研学の念抑え難きものあり、いかにもして学問界において身を立てたきの情に駆られた。しかも研究せんと欲したところはいわゆる労働問題、社会問題であった。そして深く考慮を費やした結果、ついに意を決して無謀にも大学院に入学することとし、専攻科目は労働問題を中心とする工業経済学とし、金井延教授の指導の下に研究に従事することになったのである。

高野岩三郎「統計学を専攻するまで」(『かっぱの屁』法政大学出版局、1960年刊、所収)。

*6 「高野岩三郎著作目録」(『高野岩三郎伝』所収)参照。

*7 《社会政策学会論叢》第一冊『工場法と労働問題』(同文館、1908年4月刊)参照。
ちなみに、1907(明治40)年12月に東京帝国大学で開かれたこの大会で、桑田熊蔵は社会政策学会創立のころを回想しつつ、房太郎の名をあげてその功績をたたました。同大会の「大会記事」には、つぎのように記されています。

  かねての計画に従ひ大学構内学生集会所に於て、来賓及会員の懇親会を開く。会する者島田〔三郎〕代議士を初めとして数十名の多きに上れり。窪田〔静太郎〕衛生局長を座長となし、席上種々有益なる談話もありしが、桑田博士は起立して曰く、本会も百名以上の会員を有し、今日の如き盛大なる討議会を開くを得たれども、本会成立の往時を追想すれば無限の感に打たるる者あり。本学会の創立は二十九年神田今川小路玉泉亭に於て、独逸工場法の輪講をなしたるにはじまる。爾来幾度の変遷を経て、以て今日あるに至れり。それにつけても思出さるゝは、高野博士の令兄故高野房太郎氏が本会の為めに大に尽瘁せられたること是なり。氏にして今日本席に在るを得ば、如何なる辞を以て諸君に告けんと。高野博士も之に対して、亡令兄のために感謝の意と無限の述懐とをのべられたり。席にあるものは覚えず襟を正うして、感慨やや久し。

 なお同大会の「大会記事」全文は社会政策学会サイトに復刻掲載されている。URLは次の通り。
http://jasps.org/1taikaikiji.html

*8 第30回「労働運動への開眼」参照。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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