高野房太郎より高野岩三郎宛書簡(1890年10月9日付)
高野岩三郎 殿
在桑港
十月九日 房太郎拝
前略
然者〔=さて〕 小生義ハ去ル九月三十日「タコマ」表出立仕リ、去ル三日当地ヘ着致候。定メテ妙ナ運動ト思所モ有之候ハンガ、実ハ明年末ニハ御地ヘ一寸帰朝致シ、先般来心掛居候材木伐出場設立ノ義ニ付充分取調致度、極々熟考ノ末「タコマ」ヲ去リテ当地ヘ来リタル義ニ御座候。是迄小生ノ友人ノ内ニテ、内地ヘ帰朝シタル者ニテ、一人ニテモ御地ニテ是ゾト申ス事業ヲ致シ居ル者ハ、無之様ニ思ハレ候。何ガ為メニ、皆内地ニ帰レバ彼ガ如ク無為ナルカ、トハ小生ガ常ニ考ヲ運ラシ居リ候事ニ候ガ、別段此ト申考モ相附キ不申候得共、日本ニ於ケル事業ノ成リ立チガ、大ニ彼ラヲシテ其ノ事業ヲ為スニ難カラシムルハ其一因ナルカトモ考エラレ候。故ニ、小生ガ明年帰朝スル場合ニ於テモ、矢張リ仝様ノ困難ニ出逢ヒ、為メニ其目的上大ニ齟齬スル事出来ルヤモ難計、依テ小生ハ此等ノ場合ニ処スル為、此国ニアリテ、幾分デモ学事ヲ研究シ置クハ真ニ必要ナルカト考ヘ候。元ヨリ小生ノ考ニテハ高尚ナル専門ノ科学ヲ学バントニテハ無シ。唯普通ノ学問、即チ日本ニ帰リテ彼ノ人ハ米国ニ居リタルニモ関ハラズ外人トサヘモ充分ノ談話ガ出来ヌト云ハルルヲ避ル事ヲ得ル限リニ勉強ヲ致サント思候。夫ニシテハ「タコマ」ニアリテハ充分ナル学校モ無之、夫故当地ヘ来リ、奉公口見当リ次第、当地ノ商業学校(無月謝ナリ)ヘ通校致ス心組ミニ有之候。斯クシテ当所ニアリテ四五月通校致候ハバ、会話等ハ大ニ熟達シテ如何ナル場所ヘ行クモ差支ナキ談話相出来可申ト思候。
「タコマ」ヨリ当所ヘ来リ候時ニ雑費ヲ引去リテ二十五弗許リ相残リ居候。是ニ毎月「スクール・ボーイ」ヲナシテ得ル給料ヲ加ヘ、今后学校ヘ通ヒ候間、御地ヘノ送金トナサン心組ニ有之。若シ小生ノ思フ所ト相違ヒシテ、此等ノ準備金相断チ候場合ハ、即チ小生ガ学事ヲ止ムル時ニ御座候。夫故、今日ノ処ニテハ、四五ヶ月ト思ヒ居候得共、或ルハ二三ヶ月ニシテ止ムル場合モ生ズベク、唯其生セザル事ヲ祈リ居候義ニ御座候。夫レノミナラズ、小生等ガ従事致居候事業ノ内ニテ料理人ノ仕事ガ最モ多額ノ給料ヲ得ラレ候事ニテ、小生ハ是迄モ料理人ノ仕事ハ大禁物ニ有之候ヒシガ、此度「スクール・ボーイ」ヲスルヲ幸ヒトシ、幾分米料理ノ事ヲ勉強シ、給料ノ多額ヲ得ル事ニ心掛ケベク候。未タ奉公口モ見当ラズ候故、詳細ノ事ハ申上グルニ便ナラズ候儘、唯当地ニ来候単簡ナル理由ノミニ止メ置候。匆々。
書面ハ左ノ名宛ニテ差出被下度候。
O. F. Takano
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