『二村一夫著作集』バナー、クリックすると著作集目次に戻ります

『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──原子化された労働者」説批判──




Ⅰ 治安警察法下での労働組合組織化の企て

1) 大日本労働同志会(3)

同志会の成果
西川光二郎「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)

 こうした活動はどのような成果をあげたか?  その第1は少数ではあるが熱心な活動家を育て上げたことであった。後に運動が大日本労働至誠会足尾支部として再興した時,組織の中心となって活動したのは,大部分が同志会以来,永岡と行動をともにした人々であった。具体的に名をあげれば,井守伸午,早瀬健二郎,林小太郎,岸清,山村角次,加藤栄松,滝川八郎,武田誠之助,山本利一,本多信次,山崎猪之平らである。彼等の経歴の詳細は明らかではないが,職業は4人を除きすべて坑夫である。なかでも岸清,山村角次,加藤栄松,滝川八郎,井守伸午らはいずれも友子同盟で飯場ごとに2人づつ選ばれていた山中委員(山中惣代とも呼ばれた)であった。年齢は30歳代が多く,坑夫として15年前後の経歴をもつ者であったと推定される。坑夫以外の4人のうち武田は支柱夫,山本が選鉱夫,本多,山崎は不明である。
 第2の成果は,同志会の力で,坑夫の不当解雇を撤回させ,逆に飯場頭や役員を辞めさせたことである。永岡の談話によれば,「これまで足尾では鉱夫は頭に勝てぬものと定まり,ドンナに不当な解雇をされても鉱夫は何んともすることが出来なんだのを打破せんとし,長吉といい鉱夫が不当な解雇をされかかった時,同志会から所長に向って談判を始め,其の結果長吉が勝って頭が反て解雇されました(28)」という。また,彼は別のところで「所員の六人は免職と成り,頭役二人は下山致しました(29)」とも語っている。
 この談話が真実か否か,にわかには信じ難いところである。しかし,すでに指摘したように,南所長と同志会とは,永岡の足尾入山直後では接触をもっていたことは確かである。それは後に永岡が「斯ノ如ク立派ナ書面ヲ送リナガラ三年後ノ今日何ノ改善モシナイ」と演説会で手紙を読み上げながら所長批判を展開したことからも明らかである。またこの時期,古河は経営政策を転換し,その一環として職員定数を定め,冗員を解雇する方針をとっていた(30)。同志会の要求が,たまたまこうした方針を実行するのに利用された可能性は皆無ではなかろう。現にその1年余り後には,「資本家へ忠議〔義〕立てのツモリにて吾人の運動を妨害せし,足尾銅山の小役人及巡視中の五六十名は,今回銅山に役員改革ありて忽ち失業することゝなりたり(31)」といった事態が生じている。こうしたことを考え合わせれば,永岡らが,同志会の力で飯場頭や役員を解雇させたと受けとめる事実は確かにあったと見てよいのではないか。

同志会の分裂と共和会

 しかし,同志会の発展は短期間で終わった。その転換点となったのは1904年11月3日のことであった。この日,これまで同志会足尾支部の相談役として永岡に力を貸し,また自宅の一室を永岡の住居兼同志会事務所として提供してきた山田菊三が,同志会を脱退するとともに,突如として永岡に対する人身攻撃を始めたのである。山田によれば「永岡ハ本会設立後酌婦ヲ妻トシ,品行ヲ乱シ,同志会ノ主義目的等ヲ違反スル行為少ナカラザル(32)」ものがあったという。この攻撃はある程度事実であった。永岡は何時のころからか,彼自身の言葉によれば「私の飯焚き(33)」と同棲するようになっていたのである。当の女性は取調の予審判事に「永岡鶴蔵内縁の妻(34)」であることを認めている。その福田フヨは足尾銅山の役員の妻であったが夫に死別していたといい,単に永岡の〈飯焚き〉をしていただけでなく,「菓子石鹸杯ヲ背負フテ毎日売リニ歩」いて生活を支え,あるいは女工として働いており,二人が共同生活を営んでいたことは確かである。これだけであれば,別に「品行ヲ乱シ,同志会ノ主義目的」に反すると攻撃されるようなことではない。だが問題は永岡には妻子があり,その7人の家族の犠牲の上に彼の足尾での活動が可能であったことである(35)。しかも永岡が同志会員に「会員之心得」として要求していたのは「労働者之品位を高むること」であり,「正義公道を踏んで弱者を救ひ世の罪悪と戦ふこと(36)」であった。山田菊三の非難も一理はあったというべきであろう。
 しかし,山田が永岡攻撃に動いた原因は,これだけではない。山田活版所は1903年までは「足尾唯一にして銅山の用達たり。分工場を宿に設け和洋の製本を兼ぬ。所主山田菊三氏は多年東京に於て斯業を研究し,業に巧みにして常に繁忙を極む(37)」る存在であった。ところが,1904年に別の印刷所が営業を開始し,山田活版所は「足尾唯一にして銅山用達」たる地位を脅かされていたのである。このまま同志会への協力を続けていれば,経営が困難となることは目に見えていた。
 ところで,山田が「自分方楼上デ演説会ヲ開キ仝人ノ行為ヲ攻撃シ私行上仝人ノ仝居ヲ謝絶シ」た1904年11月3日は,同志会が「五十人の代表者」を招集し,協議会を開いた日であった。50人中永岡側に集まったのは29人である。残る21人全員が山田側についたか否かは不明だが,おそらく多くは同志会を脱会し,山田が飯場頭と結んで組織した共和会に加盟したのではないかと想像される。
 共和会は,それ自体の活動力,組織力はそれほど強くはなかった。東京から弁士を呼んできて人身攻撃的演説をさせたり,「新聞通信員をして讒謗の記事を書かせたり」するのが関の山であった。永岡が急遽上京して西川光次郎らを招いて演説会を開いたのは,これに対抗するためであった。この西川,松崎の演説会に1,000人を超える聴衆が集まった事実は,共和会の結成がすぐには同志会に決定的な打撃となったわけではないことを意味していよう。それから1カ月後の演説会の聴衆は大幅に減少したが,それでも150人から350人を集めている。飯場頭が公然と反対にまわったにもかかわらず,同志会がしばらくは組織を維持し得たことは注目される。足尾における飯場頭の坑夫統轄力が弱体化していたことの証左とみてよいのではないか。しかし,飯場頭による反対運動が同志会に打撃となったことは確かである。1904年11月初めの1,400人をピークに会員数は減少傾向をたどり,翌年1月には1,000人を割っている。会費収入の減少,演説会の聴衆の減少は,もともと弱体だった同志会の財政を危機的なものとした。



予戒令発動

 さらに警察の干渉がこれに追い打ちをかけ,同志会の衰退を決定的づけた。1905年5月7日,日光警察足尾分署は栃木県知事名で永岡に予戒命令を発動したのである(38)。この命令の法的根拠である予戒令は1892(明治25)年1月緊急勅令として公布されたもので,もともとは選挙干渉で名高い第2回総選挙に先立ち,選挙取締りのために制定されたものであった。予戒令にはその対象として次の4つのケースがあげられている(39)。1)一定ノ生業ヲ有セズ平素粗暴ノ言論行為ヲ事トスル者 2)総テ他人ノ開設スル集会ヲ妨害シ又ハ妨害セントシタル者 3)公私ヲ問ハズ他人ノ業務行為ニ干渉シテ其ノ自由ヲ妨害シ又ハ妨害セントシタル者 4)第2号又ハ第3号ニ掲ゲル妨害ヲ為スノ目的ヲ以テ第1号ヨリ第3号マデニ記載シタルモノヲ使用シタル者。 
 はたして,永岡がこの4号のうちどれに該当するとされたかは明らかでない。しかし,永岡は予審廷で,予戒命令の執行を受けたその同じ月に3日の拘留を受けたことを陳べている(40)。〈拘留3日〉は予戒令違反の処罰としては最も軽いもので,第1号の該当者のみに科せられるものである。永岡は「一定ノ生業ヲ有セズ平素粗暴ノ言論行為ヲ事トスル者」とされたに違いない。この第1号該当者に対する〈予戒命令〉の内容は次の通りであった。1)一定ノ期間内ニ適法ノ生業ヲ求メテ之ニ従事スベキ事ヲ命ズ 2)総テ他人ノ開設スル集会ニ立入リ妨害ヲ為スベカラザルコトヲ命ズ 3)如何ナル口実ニ拘ハラズ財物ヲ強請シ不当ノ要求ヲ為シ強テ面会ヲ求メ脅迫ニ渉ル書面ヲ用ヒ勧告書ヲ送リ又ハ如何ナル方法タルヲ問ハズ暴威ヲ示シテ他人ノ進退意見ヲ変更セシメントシ其他他人ノ業務行為ヲ妨害シ又ハ妨害セントスルノ所行ヲ為スベカラザルコトヲ命ズ。
 本来はいわゆる〈壮士〉取締りのための法令が,ここでは労働運動者取締りに利用されたのである。もはや永岡は同志会の活動に専念する訳にはいかなかった。労働運動者では〈一定の生業〉とは認められないからである。また,安全施設の充実を要求するため鉱業所長に面会を求め,あるいは書面を送るといった行動も処罰の対象となる危険があった。そこで彼は「此処暫時は静穏の態度を取り,更に捲土重来の策」をとり,雑貨行商をその生業とし,「豆類ヲ車ニ載セテ売リニ歩イ」た。しかし,常時,巡査の監視つきでは商売にはならなかった。「室内射的ヲ営業シ側〔傍〕ラ氷屋ヲ開イタ」りもしたが,これも同じことであった。
 予戒令発動を機とした警察の取締りの強化は,同志会員の離脱を招いた。少数の活動家を除き,ほとんどの労働者は永岡のもとに寄りつかなくなた。1905年の暮れに,永岡が旧知の西川光次郎らに寄せた手紙(41)は,この間の窮状をよく伝えている。
「資本家と警察との圧制が甚しきより,常に大言壮語せしものも腰を抜かし胆を潰し,甲は去り乙は退き,吾人が迫害せられて苦しむ時の如きは誰一人近寄る者なく,全く雇主より兵糧攻めに襲はれて断食することも屡々,知人より南京米五合或は一升貰ひ全く乞丐の如き生活を百五十日間此の銅山で送りました」。
 こうした経験を経てからの永岡の一般労働者に対する評価はきわめて醒めたものがある。公判廷で同志会の衰退理由について問われた彼は,財政の赤字をあげた上で,つぎのように述べている。「一体労働者などには実際会の必要なる事を感じて入会する様の者は極めて尠ない。只進〔勧〕めらるれば這入る。全然御祭り騒ぎを遣るのみで先き先きの事などは考がひ〔へ〕ぬ(42)」。
 この時期,永岡は行商と運動を結びつける形で,当時流行っていたラッパ節などに自作の歌詞をつけて歌いながら,飴などを売り歩いた。その1つ〈足尾銅山労働歌〉(43)にも,彼の労働者仲間に対する気持ちが現れている。

 「生存競争の烈しさに,気絶をしたかタマゲタカ,眠って居るか死でるか,我友人の有様は。
見るも気の毒蒼ざめて,痩せ衰へて骨枯れて,ボロボロ着物に垢染みて,額に苦痛あらはれて。
 妻子も碌に喰わせずに,終日終夜働きて,甘味は他人に吸とられ,我友人のはかなさや」。


2) 大日本鉱山労働会

同志会と共和会の合同

 ところが1905(明治38)年の11月に入って事態は意外な方向に発展した。少数の活動家が残っただけの同志会と,同志会撲滅を目的に作られた共和会とが合併したのである。何故このようなことが起こったのか。公判廷で裁判長からその理由を問われた永岡は,同志会が衰えただけでなく「共和会の方も根が烏合の衆でありますから遂に衰へて来て相互協議の上合併する事になりました」と答えている。
 「相互協議」のきっかけを作ったのは,通洞1号飯場の飯場頭・石田喜四郎であった。石田は「同志会が衰ひ〔へ〕て困るなら共和会と中〔仲〕直りして遣るとて個人的に申込み(44)」,合併が決まったのであった。

 同志会撲滅運動の中心人物であった石田喜四郎(45)が「共和会との仲直り」を申し込むという展開は意外ではあるが,不可解ではない。〈強きを挫き,弱きを助ける〉という侠気は頭役に要求される素質の一つである。通洞1号飯場は100人を超える坑夫を擁する足尾最大の飯場であり,永岡が「意思の極めて強い奴」と評する石田喜四郎がこうしたタイプの男であったろうとは容易に想像される。永岡も共通するメンタリティの持ち主であったことは,彼の言動から明瞭にうかがえる(46)。石田の目からすれば,永岡がさまざまな迫害や生活難に苦しみながら,あくまで活動を続ける姿は,〈敵ながら天晴れ〉と映り,その苦境を見過ごすのは足尾一の大飯場の頭役としての〈男がすたる〉と感じたものであろう。

 11月17日,24日,12月10日と「足尾通洞部千人近き坑夫は一飯場より二人の代表者を選出して」「三回の協議会を開き規約を結(47)」んだ。「合併するには何だか潰れたと云ふても面目ないから改称することとし,〔明治〕三十九年一月一日大日本鉱山労働会(48)」を正式に発足させた。ここで注目されるのは,「足尾通洞部千人近き坑夫」が「一飯場より二人の代表者を選出して」「協議会を開」いている事実である。注目点の第1は「通洞部千人近き坑夫」という表現は,大日本鉱山労働会の会員が同志会や至誠会のように個人個人の任意加入でなく,通洞の飯場所属坑夫が一括加入したことを推測させる。
 第2に,「一飯場より二人の代表者を選出」し,「協議会を開」くというのは,この時点の足尾銅山における友子同盟の組織構造と共通していることである。大日本鉱山労働会の飯場代表の氏名は全く分かっていないので確認するすべはないが,労働会の飯場代表と友子同盟の山中委員は同一であったのではないか。構成員が同一で,選出単位が同一で,しかも被選出人数が同じであるとき,同じ人が選ばれる可能性は高いであろう。
 第3に,労働会が同志会や至誠会とは違って,通洞だけの組織であった点も見逃せない。これも労働会が飯場頭を通じて上から組織されたものであることを示している。足尾の友子同盟の組織単位は通洞,本山,小滝,簀子橋の4坑で,それぞれ独自の規約を持ち,独自に運営されていた。いかに石田喜四郎が大飯場の頭役で,他の飯場頭に影響力があったとしても,彼が直接動かし得たのは通洞に限られていたのである。

それでは通洞の友子同盟と労働会はどのような関係にあったのであろうか。この点を具体的に知る資料はない。ただ,労働会の発足を伝えた『光』の記事から見れば,労働会が友子同盟の機能を吸収したり,代行していないことは明らかである。そこには,友子同盟はおろか同志会が持っていた程度の共済機能も含まれていないのである。
『光』には労働会の目的が次のように記されている。

「(一)来る七月一日より施行される新鉱業法令には,労働者を保護する点少なからず,故に法律顧問として相当の弁護士と特約して頼み置き法律上の権利を遺憾なく主張する事
 (二)事ある時の準備として毎月の会費中成丈け多く貯金し置く事
 (三)労働者に新思想を注入する為めに時々学問見識ある人を聘して研究会及談話会を開く事
 (四)不具者及老衰者の為に養老院を設置する事
 (五)団結の力によりて鉱夫の間の失業者を保護する事
 (六)鉱業家の不法行為,係員の不正及不親切を新聞雑誌に発表して,彼等に制裁を加ふる事
等にありて,日本中の鉱夫を悉く之に加入せしむるの目論見なりと(49)」。

 これだけの材料で結論するのは困難で,ほとんど推測の域を出ないのであるが,あえて労働会の性格を規定すれば,友子同盟の組織を利用し,これを近代的な労働組合に作りかえていくための1つの試みであった,といえよう。しかし,現実には労働会はごく短期間盛り上がっただけで,すぐ衰えてしまった。新しい事態の発展に驚いた鉱業所が,石田喜四郎に「頭役としての辞令書を返せと迫」るといった圧力を加えたのである(50)。石田の侠気も,頭役の解雇をふりかざしての圧迫には至って弱く,すぐ労働会から手を引いてしまった。





【注】


(28) 西川〔光二郎〕生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)

(29) 永岡鶴蔵「足尾銅山」(『社会主義』第8年第14号,1904年12月3日)。

(30) 本書第3章第 節(ページ)参照。

(31) 「鉱夫の友」『光』第1巻第5号(1906年1月20日)。

(32) 「山田菊蔵聴取書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』291ページ)。

(33) 『下野新聞』1907年8月4日付。

(34) 「参考人福田フヨ調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』284ページ)。

(35) 永岡鶴蔵が夕張を発つ時,片山潜に送ったつぎの手紙は,この家族の犠牲がどれほどのものであったかを明らかにしている。

 「拝呈毎々御書面被下有難く存候。愈々本月七日当地出発致す考へにて準備中に御座候。何分共同店の事業にて長らく困難して又ぞろ失敗を重ねたる身の随分の苦戦に有之,貧困の点丈けはカールマークスに近く相成候。小生は一大覚悟を以て日本数万の坑夫の為めに一身一家を犠牲にするも顧みず候。……七名の家族を北海の雪中に投じ。一家の諸道具を売飛ばし旅費として出発可致候。主義の為めに己が身命を賭して掛る位は当然の事と承知致居り候。然し一家の処分に就ては大略左の如く相定め申候
 一,四歳になる児は養女に遣る
 二,八歳の子は二歳の児の守をなす
 三,十歳の子は学校より戻りて菓子売りをなす
 四,十三歳の子は朝夕の御飯焚きを引き受け通学す
 五,十五歳の子は昼は機械場に労働し夜は甘酒を売る
 六,妻は昼間停車場に出て荷物運搬をなし夜分は甘酒を売ること
右昨日より実行致居り候,愈々之れよりは大いに天下に遊説して主義の為めに殉する心組みに御座候」。

 現実には,この後、永岡の家族は文字通り一家離散に近い状態になってしまった(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』参照)。

(36) 大日本労働同志会は会員証の裏面に,〈会員之心得〉として,この2項をふくむ4項目を印刷していた(『社会主義』第8年第14号,1904年12月3日)。

(37) 蓮沼叢雲『足尾銅山』(公道書院,1903年)72ページ。

(38) 「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』233ページ)。なお,『直言』第2巻第17号(1905年5月28日)にも関連記事がある。

(39) 『新聞集成明治編年史』第8巻,201〜202ページ。

(40) 「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』233ページ)。

(41) 永岡鶴蔵「足尾銅山より」(『光』第1巻第4号,1906年1月1日)。

(42) 「第二回公判傍聴記」(『下野新聞』1907年8月3日付)。

(43) 「足尾銅山労働歌」(『光』第1巻25号,1906年10月25日付)。

(44) 「第二回公判傍聴記」(『下野新聞』1907年8月3日付)。

(45) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其二」は,永岡鶴蔵が通洞1号飯場の山中委員に「同志会ヲ潰シタルニ原動力ハ君ノ所ノ飯場頭ナリ」と言ったと記している(『栃木県史』史料編・近現代二,560ページ)。

(46) 永岡は自伝の中でつぎのように述べている。

「秋田県の院内銀山へ乗り込んだのが同年〔1886年〕の冬で,翌年の夏まで一生懸命に働き,随分銭取りも沢山あったが,相変らず博奕で取られ素寒貧であるし,之れと云ふ楽みもなく,焼け糞半分で喧嘩好きで,少数で多数を相手に蛮勇を振ふのが何に依りの愉快であった。或る時賤ヶ嶽の七本槍を讀んで居ると坑夫同士の喧嘩があった。自分が加藤清正にでもなった考へで二十人斗り居る処へ駆け込,身方は三人であったが,こちらの勢に恐れて勝利であった。其の当時は喧嘩好きで他人を撲け〔ぐ〕ることを楽み,人の迷惑を喜んだ予は,今日他人を救はんが為に苦み,多数の幸福を増進の為に働き,血の涙を滴して貧乏するのが楽みとなり,愉快と感ずる様になった」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』208ページ)。


(47) 永岡鶴蔵「足尾銅山より」(『光』第1巻第4号。1906年1月1日)。

(48) 「第二回公判傍聴記」(『下野新聞』1907年8月3日付)。

(49) 『光』第1巻第4号の〈鉱夫の友〉欄,1906年1月1日。

(50) 『下野新聞』1907年8月4日付。





[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月10日。掲載に当たって若干の加筆をおこなった。]


【最終更新:








Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

本書 詳細目次           本書 書評



法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

 Wallpaper Design ©
あらたさんちのWWW素材集


   先頭へ