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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──原子化された労働者」説批判──



Ⅰ 治安警察法下での労働組合組織化の企て

1) 大日本労働同志会(2)

宣伝啓蒙活動
西川光二郎(1876-1940)、1901年撮影の社会民主党創立記念写真より

 大日本労働同志会足尾支部がもっとも力を入れたのは口頭での宣伝啓蒙活動である。読み書きの訓練を十分受けていない者の多い鉱夫が対象であってみれば,これは当然であった。すでに見た通り,1904年2月から5月はじめにかけての3ヵ月間に8回の演説会と2回の幻燈会を開いている。また同年11月から1905年1月には,東京の平民社から西川光二郎と松崎源吉を招き,6 回の演説会を開催している。5月中旬以降10月までについての記録はないが,おそらく月平均3回程度は演説会を開いていたのではないか。
  今ではとても考えられないことであるが,演説会はいずれも有料であった。1904年11月に〈平民社〉の社会主義者,西川光二郎と松崎源吉が出演した際には1人5銭の入場料をとっている(18)。東京から呼んだ弁士ということで高くしたものであろう。通常は1人3銭であった。もっとも人が集まりそうな場合は高くしており,後の大日本労働至誠会の演説会も,初めは3銭,つぎに4銭,最後には5銭まで値上げしている(19)。西川らの演説会は入場料5銭にもかかわらず,会場の劇場に「立錐の余地なし千人以上なりとぞ云はる」ほどの聴衆を集めている。演説会には〈娯楽〉としての意味合いもあったのである。
 では,これらの演説会でどのような呼びかけがなされたのであろうか? 西川,松崎の演説内容については『週刊平民新聞』に簡単な記述がある(20)

「労働者団結の力によりて古河に向ては先ず鉱業法の励行を迫る事,相互扶助の一方法として消費組合の如きを起す事,及び足尾の町は鉱夫ありての町故鉱夫も其の代表者を足尾町会へ入るゝの方法を講ずる事,其の上に普通撰挙の請願を為して労働者の代表を国会に入れ,徐々法律の改正を計り,日本全国労働者の位置を高むる為めに力を致すの必要なる事等を,出来る限り平易に話」をした。

 鉱業法の励行はともかく,消費組合にせよ,町会や国会への鉱夫代表選出にしても,この時点で足尾銅山労働者に対する有効な運動方針の提起であったとは思えない。しかし,東京から来た弁士が労働者の地位の向上を呼びかけたことで聴衆の多くは満足したのであろう。西川の見たところ,鉱夫らは「大分解ったと見えニコニコ顔の連中多かりき」。
 では,同志会の組織者・永岡鶴蔵はどのような主張を展開したのであろうか。演説そのものではないが,彼が中央の〈社会主義者〉に演説会への出演を依頼するため上京した際,片山の留守をあずかり『社会主義』を編集していた山根吾一に語った談話の要旨が残っている(21)

「主張 吾等は常に弱者の身方です。如何に難儀を致しましても,憐れなる鉱夫に同情するのです。鉱夫に同情すると申しても,直ちに資本主義に抵抗するといふ意味ではありませぬ。鉱山の実況を調査すれば資本主の方針とか勢力とかは我々では実際分りませぬ。鉱夫を直接苦しむるものは,役員と頭役です。資本主の方針でもないに,権威を振ひ,暴慢を極むるものは彼等です。彼等に改悛の心を起さしむるは,直接鉱夫に利益を見ることになります」。

 この永岡発言は,はたして彼の真意を伝えているであろうか。資本主の方針を役員や飯場頭がねじまげ鉱夫を苦しめていると永岡は本気で信じていたのであろうか。その後の彼の主張からみると,そのようには考えがたい。むしろ,永岡が言いたかったのは,鉱夫と日常的に接している職制や飯場頭の横暴・不公正によって鉱夫等がいちじるしく苦しめられている事実であり,その横暴・不公正は資本主といえども認めざるを得ないほどのものである,というにあったと思われる。
 いずれにせよ,この発言は『社会主義』記者に対するものであって,労働者相手の演説会で述べられたものではない。実際に同志会時代の永岡が鉱夫にどのような議論を展開したかは明らかではない。しかし,その2年後の至誠会時代に永岡が演説した内容はその度に記録されており,これらによって永岡の考えを知ることができる。なかでも,1906(明治39)年12月5日,通洞金田座における至誠会発会式で,「強盗殺人ト資本家ト何レガ罪悪多キカ」と題しておこなった演説は,2人の〈巡視〉によってその内容が記録されている。そこで彼は年来の主張を繰り返しており,永岡鶴蔵が労働運動の組織者としての道を歩むようになった動機も知ることができる。一部には彼の肉声も聞こえてくるところもあるので,多少長くはなるが2つの記録の全文を紹介しておこう(22)。なお,各項冒頭の数字は2つの記録で演説内容が共通する箇所を示すために,引用者が付したものである。

足尾鉱業所巡視、『足尾銅山図会』より
〔小滝見張 巡視 山本久筆記〕

 1) 冒頭ニ曰ク 自分ハ幼時四十四歳迄カ生キナイコトヲ知リ得タ。然ルニ去〔明治〕三十六年ノ或日夢ヲ見テ早四十四ニ成テ頗ル悲観シタ処ガ夢デアッテ三年命ヲ拾ッタ。当年四十四デアルガ未ダ死ナヌ。来年カラハ命ガ無イ身デアルカラ思フ存分本問題ノ解決ニ努メタイ,トテ或意味ヲ暗示セント試ム。
 2) 之ヨリ本問題ニ入リ,是迄同人ガ各地ニテ再三演ジタル各坑内及ビ坑外軌道ニ於ケル傷死等ヲ一々列挙シテ,由来理由ヲ細説シテ敢テ資本家ノ遣方ハ強盗殺人以上ナリト叫ブ。
 3) 進ンデ曰ク。資本家ノ強盗ハ財物ヲ奪フナリ。足尾ノ坑夫三千人ガ銅七百本(一本九貫目)ノ富ヲ出ス。乃チ一日一人ノ坑夫ガ七円三十五銭産出スルノニ自ラ其ノ得ル処ハ幾何ゾ。実ニ言フニ忍ビヌデハナイカ。南京米モ喰兼ネ,節季ニ餅モ搗ケヌトハ情ナイ限リデアル,云々トテ,今日ノ古河ホド資本主デモ労働者ニ冷酷ナルハナイト云ヒ。
 4) 次デ小島甚太郎氏ノ米国坑夫状況談批評ヲ為シ。
 5) 転ジテ頭役ヲ攻撃シ,鉱業所ハ今回坑夫募集ヲ頭役等ニ命ジタガ,斯カゝ〔ル〕生地極〔獄〕ヘ来ルモノモアルマイ。若シ騙サレテ来ルモノモアッタル〔ラ〕,吾々ハ流行歌(自ラ作リシモノ)デ追払フ考デアルト云ヒ。
 6) 実〔次〕ニ進ンデ忠勤坑夫錠清吉ノコトニ就テ曰ク。清吉ノ会社ニ忠実ニ働キタル模範坑夫ナルコトハ自他之ヲ認メイタリ(同人ニ與ヘタル賞状ノ写ヲ読ム)。然ルニ彼清吉ガ先年死スルトキハ何デアルカ,五十円ノ借金ガ残ッタノミデアル。忠実ニ働キ爾カモ二十年モ其余モ居タルモノガ借金ガ出来テ死ヌ。何ト心細イデハアリマセンカ。ソレデ会社ガ此ノ坑夫ニ対シテ何トシタ。三十五円賞与シタ。唯之レ丈ケ見ルト聞エガ良イガ,全体彼レ清吉ガ二十年モ稼イデ会社ノ為メニドレ丈ノ金ヲ産ミ出シテ居ルカヲ考テ見ヨ。彼ハ実ニ二万七千七百二十円カヲ会社ヘ利益ヲ與ヘテ居ルデハナイカ。其レノ特別賞与ガ三十五円トハ何タル目腐レ金デハアルマイカ云々トテ,資本主ノ目ハ欲ノ為メニ労働者ノ困難ガ映ラズト口ヲ極メタリ。
 7) 尚同人ハ,是迄一再演ジタル,労働者ノ月計ヲ説明シテ同情ヲ惹ケリ。

〔武田綱五郎筆記〕

2A) 社会ハ富ノ分配ガ不均デアルカラ色々ノ罪ガ出来ルトノ冒頭ニテ。
2B) 強盗殺人ハ悪ヒト云フコトハ皆様ガ云ッテ居ラルゝガ,資本家ガ 〔ハ〕夫レ以上ノ罪悪ヲ犯シツゝアルノデアル。殺人ニハ合口ヲ以テ突キ,或ハ毒薬ヲ用ル等色々ノ方法ガアルガ,資本家ノ殺人ハ夫レトハ違フ。皆サンガ御承知ノ通リ,本山,小滝,通洞各方面ニアルトロー車デアル。彼等ハ賃金ガ安ク銭ニナラナイカラ走ル。走ルカラ怪我人ヲ出ス,ト云フ様ナ訳デ,会社ハ一体無理ナ仕事ヲサセルカラデアル。足尾ノ老人ヤ小児ノ内不具者ハ十中ノ八九マデハトロー車ノ為メノ怪我デアル。夫カラ花柄平ト文造〔象〕トノ間ノ橋デモ二人死亡。昨年大日久保〔窪〕ノ橋デ人夫亀ナル男ガ死ンダノモ鉱業所デ電極運搬ノ為メ橋ノ手摺ヲ外シテアッタ為デアル。本年ノ春ハ本山鷹ノ巣デ糞汲女ガ死亡セルノモ会社ハ規則通リノ設備ヲシナカッタカラデアル。其他枚挙ニ遑アラヌ程デアル。次ニ六年前ノ洪水ニ何十人死ンダカ知レヌ。内務省ヘハ三十七人ト届テアルソウダガ簀橋斗リデモ三十人ヤ三十五人ハ必ズ死ンデ居ル。是ハ皆会社ガ機〔起〕業費ヲ惜ンダ結果デアル。亦来年モ鷹ノ巣デ人ガ死ナゝケレバ能ヘ〔イ〕ト思ッテ居ル。簀橋デモソウダ。之ハ豫メ豫定シテ置ク。次ハ坑内ノ人殺シデアル。三十八年二月一日,通洞四号坑夫山下五郎松ガ坑内デ死ンダノモ其場所ニ留木ヲ一本モ付ケナカッタカラデアル。夫レハ死体ヲ掘リ出スニ,留木ヲ二本附ケテ漸ク掘リ出シタノデモ判明ル。
2C) 其死人ガ負傷シテ入院後死亡シタ様ニナッテ居ルトハ怪シカランデハナイカ。第二号ノ坑夫谷本孝次郎ナルモノハ過般通洞坑内デ電気ニ触レテ死ンダガ,病院ノ佐藤ハ病死ノ診断書ヲ与ヘテアル。診断書ニハ心〔神〕経震蕩病トシテ,飯場デ死ンダコトニシテアル。一体鉱業規則ニ依ルト,坑内ニハ安全ナル人道ヲ設ケネバナラヌコトニナッテ居ル。夫レヲ会社デ設ケヌカラデアル。設ケヌカラシテ車道ヲ歩行ク。車道ハ迚モ歩行ケヌカラ電車ニ乗ルノデアル。電車モ役員ノ乗ルノハ空車ニシテ乗セルガ,坑夫ハソウデナイカラ危険ナノデアル。
 2D) 是迄ハ直接ノ分ダガ,今度ハ間接ノ人殺シ,兵糧攻ノ点ヲ述ベヤウトテ,坑内空気ノ不完全ノ処ニテ長時間働ク坑夫ガ病気ノ際,米ヲ貸シ出サヌトノ点及ビ南京米等ノ点ヲ指的〔摘〕シ,夫レガ為メ坑夫ハ六十年ノ寿命ハ大概四十前後デ死ヌト論ジ。
 6A) 次ニ資本家ガ純益金ヲ吾々坑夫ニハ少シモ配当セズ,自分ノミ贅沢ヲ盡シ,酒池肉林トハ非道ナリト罵倒シ。
 7) 次ニ坑夫ノ収入ト支出ト項ヲ挙ゲテ説明シ,差引勉強スル坑夫ニテ一ヶ年十八円余ノ借金ガ残ルト痛論シ。
 5) 今度足尾デ坑夫ヲ募集スルソウダガ,諸君ハ足尾ノ生地獄ヘ吾々ノ同朋ヲ導ク勿レト警告シ,労働ノ頭ハ,中ノ能ヘ〔イ〕処ハ皆資本家ニ取ラレ,尾ト頭ノミヲ得ル丈ダカラ全クノ尾頭ダ,ト冷笑的ニ論ジ
 6B) 次ニ本山元坑夫錠清吉ニ対シ金員ヲ給セシ件ニ付会社ヲ罵倒シ。
 8) 最后ニ赤沢銅山ノ同盟罷業ノ拙ナリシヲ論難シ,足尾ノ坑夫ハ五百人や千人ノ坑夫ハ何時下山セラルモ毫モ差支ナキ準備アレバ,赤沢銅山ノ轍ヲ踏マズト結論セリ。

 同じ演説についての2つの記録を,繁をいとわず引用したのは,出来るだけ永岡の肉声に近づくことを意図したからであるが,同時に要点筆記の場合は,記録者によって重点の置きどころにこれほど大きな違いが生ずることを示したかったからでもある。たとえば山本巡視が「各坑内及ビ坑外軌道ニ於ケル傷死等ヲ一々列挙シ」とたった1行で片付けているところは,永岡が最も力を込めて語った,まさに演説の〈さわり〉であることが,武田綱五郎筆記によって浮かび上がってくる。何故こうした違いが生じたかといえば,山本巡視はこれまで何回も永岡の演説を記録しており,その話は余りに耳慣れたものであったからであろう。「是迄同人ガ各地ニテ再三演ジタル」という一句がそれを明示している。これに対し,武田は永岡の演説にいささかならず関心を抱いて筆記しているかに見える。
 実際,ここでの永岡演説は,労働災害の犠牲者の名を挙げ,彼らの死亡原因を具体的に指摘し,その古河批判には迫力がある。それというのも永岡にとって,資本家が鉱夫の命を軽視していることは,彼がかねがね問題にしてきたところであり,いわば永岡の労働運動者としての原点ともいうべきことであったからである。『社会新聞』に連載された永岡の自伝(23)には,彼自身の親分の死に始まり,脚気による多数の坑夫仲間の死,クリスチャン坑夫の事故死,夕張炭鉱でのガス爆発による26人の非業の死など,2万字にも満たない小伝のなかに実に多くの事故死や病死の記述があり,人命の軽視に対する永岡の怒りが語られている。一般に,労働災害による死亡・負傷等は,賃金問題以上に労働者が自身の置かれている立場を深刻に考えさせ,労働運動への参加のきっかけとなることが少なくない。永岡もそうした1人であった。ちなみに至誠会の中心的な活動家となった山本利一〔本名 山本利一郎〕も,労働災害により左手を失い(24),それが運動参加のバネとなっている。

 永岡の主張でもう1つ注目されるのは,自己の正当性の根拠を国の法律に求めている点である。戦前日本の労働運動において〈権利〉が説かれた時,〈天賦人権〉といった自然権に基づく主張が展開された例はほとんどない。多くの場合,明治憲法第29条によって団結権が保障されていると指摘するなど,制定法に基づく〈権利〉が主張されている。永岡の場合も例外ではない。彼は演説会の度に「古川鉱山主が坑夫殺害の目録を読み上げ,鉱業法例を実行せざる事実を列挙し,古川は日本の法律を蹂躙せる大悪人なることを證明」し続けたのである。とくに彼が拠りどころとしたのは鉱業条例,鉱業法,鉱業警察規則などである。1889年に制定され,92年から施行された鉱業条例には,労働者保護に関する条項が含まれていた。とくに第5章の鉱業警察は,現在の用語でいえば鉱山保安に関するもので,「鉱夫ノ生命及衛生上ノ保護」の監督を農商務大臣の権限とし,省令で「鉱業警察規則」を定め得ること,この監督業務を一般の司法警察でなく鉱山監督署が担当することを定めていた。鉱業警察規則は1892年3月に制定され,同年6月,鉱業条例と同時に施行された。同規則には安全柵や人道など坑内の保安設備の設置を義務づけていた(25)。資本家側が法律に違反し,そのため多数の仲間が命を失い不具になっているとの永岡の指摘は,日々さまざまな危険にさらされながら働いている労働者(26)の胸に強く響くものがあったに違いない。

 それと同時に,鉱業条例,鉱業警察規則の励行を要求する永岡の主張は,足尾鉱業所の弱点を突くものでもあった。鉱業条例第59条にもとづく鉱毒予防工事命令の記憶はまだ生々しかった。何よりも,予防命令を発した当の東京鉱山監督署長・南挺三が他ならぬ足尾銅山の最高責任者であった。これまでの生涯を官僚として過ごしてきた南挺三にとって,法律遵守の要求をまったく無視するわけにはいかなかった。永岡が足尾に着いて間もない時,南所長が永岡の要望に対し〈善処〉を約束する「立派な書面」を送っている(27)ことも,こうした背景を考えれば理解できよう。



【 注 】


(18) 西川〔光二郎〕生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)。

(19) 「被告南助松第五回調書」に次のような問答が記されている。

「問 演説の傍聴料ハ何程取リシカ。
    答 始メハ三銭,次ギニ四銭,一番終リニ五銭取リマシタ。
問 一回ノ演説デ何程位ノ収入アルカ。
答 二三十円ヨリ五十円位アッタコトアリ,又〔2字不明〕等ノ時ハ一円五六十銭ノコトモアリマシタ」

(『栃木県史』史料編・近現代二,622ページ)。

(20) 西川生「足尾銅山遊説」(『週刊平民新聞』第57号,1904年12月11日付)。

(21) 永岡鶴蔵「足尾銅山」『社会主義』第8年第14号(1904年12月3日)。

(22) 山本久「明治三十九年十二月五日通洞金田座に於ける労働演説会々況」,武田綱五郎「明治三十九年十二月五日至誠会発会式労働問題政談演説会大要」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』 第2巻,185ページ,187〜188ページ)。

(23) 永岡鶴蔵の「坑夫の生涯」は,労働者の自伝としては,もっとも早い時期のものの1つとして注目される。これは,足尾暴動の後,片山潜が主筆であり,永岡自身も社員となった『社会新聞』の第38号(1908年3月8日)から第51号(1909年1月15日)に,8回にわたってとびとびに連載されたものである。『労働運動史研究』第20号(1960年3月)に筆者が紹介したのをはじめ,『近代民衆の記録 2 鉱夫』(新人物往来社,1971年),中富兵衛『永岡鶴蔵伝』(お茶の水書房,1977年)などに復刻されている。

(24) 「自ラ左手ヲ失ヒタルコトニツキ当時ノ状況ヲ告ゲ,之ニ就テ会社ハ何等顧ル所ナシ。未ダ若キ身体ヲ会社ガ不注意ノ為メニ不具者トナリ爾後妻ヲ迎エ家庭ヲ作ルコトモ出来サルカト思ヘハ,実ニ血涙ニ咽バザルヲ得ナイノデストテ満場ニ訴エタリ」(「十二月十六日労働至誠会演説会々況」,『日本労働運動史料』第2巻,190ページ)。

(25) 鉱業条例,鉱業警察規則については,さしあたり通商産業省『商工政策史』第22巻,鉱業(上)第2章を参照。なお,永岡が,鉱業条例や鉱業警察規則の労働者保護の規定のもつ運動上の意義に気づいたのはきわめて早く,その施行とほとんど同時であった。当時,彼は同じ古河が経営する院内銀山で働いていたのであるが,数十人の仲間と鉱業条例の研究会を組織し,そこに「鉱夫ノ生命及衛生上ノ保護」がうたわれていることに強い印象を受けている。しかも,単に条例の内容を検討しただけでなく,院内鉱山がその規則を守っていないことに気づき,1893年2月にその是正を要求して3日間のストライキを行い,「請願の七分まで」認めさせた経験をもっていた。その後も,彼は山形県の朝日鉱山で山内に医師を置くことを要求しているが,その際も,鉱業条例中の「鉱夫ノ生命及衛生ノ保護」をその根拠にしている。こうした国法を拠りどころにしたことで,彼らは資本家や警察に対しても,自己の正当性を確信し,権利として主張することが出来たのである。またこうした確信は,彼らの闘争形態も規定した。院内銀山のストライキについて永岡が次のように述べていることは示唆的である。「然し我ら坑夫は彼等の見る如く野蛮乱暴な者ではない。鉱業条例をたてとしつ請願するのであるから,合法的に秩序的にやるのである」。

(26) この時期の足尾銅山における労働災害について『玉木二五三九実習報告書』は,次のような数字を記録している。1905年中の業務上の死者は28人,負傷者は1,722人。死亡者の原因別では,〈誤ッテ竪坑又ハ坑井ニ顛落〉が11人ともっとも多く,ついで〈火薬使用ノ際〉および〈磐石,土石ノ墜落マタハ崩壊ノタメ〉が各5人,〈機械器具ニ接触〉3人,〈転倒又ハ顛落〉2人,〈電車等脱線,衝突等〉,〈感電〉が各1人となっている。負傷者では〈磐石,土石ノ墜落,又ハ崩落〉が最も多く1,030人に達している(同報告書168ページ)。なお,1905年下半期,足尾銅山の労働災害による死者は17人であるが,このうち鉱山病院が〈職務変死〉として記録しているのは10人だけである(『大河原三郎実習報告書』168ページ)。永岡が批判するように,会社の経営する病院が,労働災害を記録上で少しでも減らすために,作意的な処理をしていた可能性は高い。

(27) 「明治四十年一月廿六日労働問題政談演説大要」(労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第2巻201ページ)。



[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
 [本著作集掲載 2003年10月8日]

【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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