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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──原子化された労働者」説批判──



II 大日本労働至誠会の結成とその波紋

1)大日本労働至誠会足尾支部

南助松の入山と運動方針の転換
夕張炭鉱における大日本労働至誠会の中心メンバー、左から2番目が永岡鶴蔵、3番目が南助松

 1906(明治39)年10月27日,永岡の夕張時代の同志・南助松が足尾にやって来た。彼は7月にも来足し演説会を開いたが,今回は運動の本拠を夕張から足尾に移す決意で,妻の操をともなって入山したのであった。彼は,足尾の中央部にあたる通洞の目抜き通りの松原町に部屋を借り,そこに大日本労働至誠会の大看板を掲げた。はじめの1ヵ月余はいわば準備期間で,10月29日に小規模な演説会を開いただけで,主として永岡をはじめ同志会以来の活動家と協議して情報を集め,あるいは鉱業所役員や飯場頭を歴訪し,その協力とりつけに努力している。その上で,12月5日夜,通洞・金田座で大日本労働至誠会足尾支部の発会式が盛大に開かれた。この夜に向けて足尾全山の飯場頭,山中委員の全員,それに鉱業所の役員や町内の有力者にまで招待状が送られた。さらに旗を先頭に,太鼓を打ち鳴らしての宣伝隊が街中を練り歩き,広告ビラをばら撒いて気勢をあげた。この大宣伝に,永岡らの3年余の活動で演説会には慣れっこになっていた人々も,はるばる北海道からやってきた男が何を言うだろうかと集まってきた。その数は会社側の巡視の観測でも500人余り,うち4銭の入場料を払った有料入場者は400人と推定された(1)
 午後6時15分,予定より1時間余り遅れて開会。この時,楽屋で〈労働唱歌〉が歌われた。南助松の開会の辞,林小太郎,井守伸午がそれぞれ〈祝文〉を読み上げ,北海道の至誠会会員からの祝電5通が披露され,発会式は終わった。すぐ演説会に移り,井守,岸清,林,永岡に続き最後に南助松が「足尾鉱夫諸君ニ告グ」と題して熱弁を振るった。この南の演説は,(1)足尾銅山の現状認識 (2)運動の目標 (3)目標達成のための手段の3点を明示し,至誠会足尾支部の運動方針を提起したものであった。

 足尾銅山の現状について,南は永岡とは全く逆の見方を示した。すなわち永岡が「鉱夫を直接苦しむるものは役員と頭役です。資本主の方針でもないのに,暴威を振ひ,暴慢を極むるものは彼等です」と述べたのに対し,南は次のように主張した(2)

「飯場〔頭〕ハ実際悪ヒノデハナイ,止ヲ得ヌノデアル。次ニ,役員モ賄賂ヲ取ルノハ薄給ダカラデアル。所長モ学士連モ実際気ノ毒ナモノデアル。坑夫ノ賃金ノ少ナイノモ,会社ガ仮ニ二十万円ノ機〔起〕業費ノ予算デヤラセルノデアルカラ〔アレバ〕,役員ハ亦其内一万円ハ余サナケレバ成績ガ能クナラナイカラ,ナル丈ケ余シテ賞詞ニ預リタイト云フ忠実心カラ割リ出サレテアル。其ノ結果,坑夫ノ賃金ガ少ナクナル。結局,皆会社ガ悪ヒカラデアル」。

 この南の現状認識は,永岡のそれに比べより正確であったと言えよう。第3章で詳しく検討するが,1897年の鉱毒予防命令を機に古河の経営政策は積極拡大政策から守成に変わり,各事業所でも経費の節減が中心的な課題として追求された。これこそがインフレの昂進,銅価の高騰にもかかわらず坑夫の名目賃金の上昇を抑え,実質賃金の低下を招いた主たる要因であった(3)

 2番目の至誠会の運動目標について,南は次の2点を提起した。1)労働者の賃金,役員の給料の引き上げ 2)労働者の食米の改良。賃金の引き上げについては改めて説くまでもないであろう。しかし,食米の改良については若干の説明が必要である。
 当時,足尾銅山の従業員はその日用品を主として鉱業所の〈倉庫〉から入手していた。本山,下間藤,通洞,小滝の4カ所に〈倉庫係〉の出張所があり,米,味噌,醤油,塩,薪炭,草鞋などの生活必需品をとりあつかっていた。〈倉庫〉では現金は通用せず,鉱夫各人に渡されている〈貸下品請求帳〉を用い,購入代金は月末に賃金から差し引かれた。この制度は,日用品を市価より安く,しかも比較的安定した価格で手に入れることが出来,また現金がなくとも生活し得るという利点の反面,多くの問題をともなっていた。たとえば,物品供給の際「書記は日給額を精算し,果して現品に引換へ得べきや否やを査定し,其の之を超過するを許さず,一面出納を厳にし,一面労働者の〔出勤の〕奨励方」としていたから,病気や怪我で欠勤すると供給量が制限された(4)。量目の不正,品質の粗悪に対する不満は絶えなかった(5)足尾鉱業所〈倉庫〉=物品供給所

 さらに,問題は,この物品供給について職員と一般労働者との間に差別が存在したことであった。〈上米〉と称する内地米は役員だけに〈貸下げ〉られ,鉱夫はいかに高給をとっていても〈並米〉と称する輸入の〈南京米〉しか手に入らなかったのである。〈南京米〉は粘りけがなく日本人の嗜好に合わない上に,輸送時の保管の悪さによる特有の臭いがし,「壁土ヲカム」(6)ような代物であった。激しい労働,最悪の居住環境,乏しい娯楽といった生活のなかで,食事は彼等のささやかな楽しみの1つであった。多くの観察者は鉱夫の生活の特色として「飲食活計の裕かなること」「衣食に奢るの弊」を指摘している。何時から内地米が南京米に切り替えられたかは明らかでない。しかし,いくつかの状況証拠からすると,これも1897年の経営政策の転換により,鉱業所の各課が独立採算性に改められて後のことであると思われる(7)

 腕が良く,高給をとる坑夫は〈倉庫〉の〈並米〉を好まず,家族持ちであれば町の米穀商から割高の米を買い,独身者は料理店で日頃の憂さを晴らした。生まれた時から〈南京米〉で育っていれば,また仲間すべてが〈南京米〉であれば,それほど不満は起きないであろう。しかし,稼ぎさえよければ美味い内地米も食べられるだけに,一般労働者には〈南京米〉しか売らない鉱業所の方針は憤懣の種であった。
 そうでなくとも,一般労働者と役員の関係は微妙であった。とくに日常的に接触する機会の多い下級職制に対する坑夫の感情は欝屈したものがあった。現場員や判座と呼ばれる下級職制の多くはもともと坑夫や支柱夫の間から選ばれていた。現場員などの給料はそれほど高いものではなく,腕の良い坑夫に比べればむしろ低い水準にあった。南助松が指摘したように,賄賂の横行の原因の1つはその低賃金にあった。しかし,一般労働者は〈役員〉の前に出れば,頬被りをとり,小腰をかがめて「旦那々々ト頭ヲ下ゲ」(8)なければならなかった。彼らのご機嫌を損じては,たちまち稼ぎに響いたからである。
 だから南助松が「北海道デハ労働者ハ日本米デアル。米モ便利ニ出ル,酒モ呑メル。爾ルニ茲地デハ南京米デ,三日休メバ米ヲ出シテ呉レナイ。ダカラ病気デモ入坑スル」(9)と指摘し〈南京米ノ改良〉を目標に掲げたことは,的を射ていた。〈南京米〉に対する不満は,単にその〈壁土ヲカム〉ような味に対する不満だけでなく,鉱業所の規則づくめの鉱夫処遇や不当な差別に対する不満であり,また一般労働者を蔑視する役員に対する憤懣の象徴としての意味があったからである。

 第3の〈運動目標の達成手段〉について,南はどのように考えていたのか。ここで彼が提起したのは,事実上のストライキともいうべき一斉退山であった。彼は至誠会の会員が1000人を越えたならば「先ヅ正当ノ手続ノ下ニ嘆願シ順次改良ヲ迫ル」とした上で,「会社ハ亦吾々ヲ暴動者視シテ居ルモ,乱暴ハセナイ。同盟罷業ナドモセヌ。併シ時ト場合ニ依ツテ遣ラヌトモ限ラヌ。大体ナラ他ノ鉱山ヘ連レテ行ク。ソウスレバ必ズ会社ハ警察ノ力デ妨害スルナランモ,其時ハ吾々労働者ノ自由廃業デアルカラ夫レヲ妨害スル奴等ニ対シテハ正当防衛上大ニ戦フ積リデアル」(10)と主張したのである。
 周知のように,1900(明治33)年に制定された治安警察法は,同盟罷業を遂行するため「他人ヲ誘惑若ハ煽動」することを禁止し,その違反に対しては「一月以上六月以下ノ重禁錮」刑を科すと定めていた。これに対し,南,永岡はじめ至誠会の活動家は,内外のストライキの例を挙げて論評し,合法的に「一致団結シテ,飽ク迄モ要求ヲ仕遂ケ」ることを訴えた。彼等は,同盟罷工も,〈誘惑〉や〈煽動〉によって「他動的ニスルノデナク,自動的ニヤル」ならば,違法ではないと強調したのである。同志会以来の活動家で通洞の山中委員である林小太郎などは,よりストレートに「若シソレデモ要求ヲ聞カザルニ於テハ○○○○〔同盟罷工〕ヲ遣ルゾヨ」と発言している(11)
大日本労働至誠会は,1902(明治36)年5月に北海道で結成された際には,1)労働者の品位を高むる事 2)独立自営の精神を涵養すること 3)勤倹貯蓄を実行する事 4)会員相互に相親しみ相助くる事の4項をその〈憲法〉として掲げた(12)ことからも分かるように,同志会と同じく同時代の他の労働団体と共通する性格をもっていた。しかし,南の足尾入山を機に結成された大日本労働至誠会足尾支部は,それまでの労働組合とは,はっきり異なる性格のものであった。相互扶助や修養による社会的な地位向上よりも,事実上のストライキを背景に,賃上げ等の要求を貫徹するための団結体であった。もっとも,この段階で至誠会がストライキを具体的に計画し,準備した形跡は全くない。あくまでも〈請願〉を実効あるものとするため,労働者に〈覚悟〉を求めていただけであるが。

 いずれにせよ,こうした至誠会の方針が,2回もの挫折を経験していた足尾の労働組合運動を再生させる上で決定的な意味をもったことは確かである。南の呼びかけは,これまで漠然たる不満に過ぎなかった労働者の中心的要求を明確にしただけでなく,その要求が正当なものであり,しかも実現可能であることを多くの労働者に意識させた。とくに南助松が,もし運動の結果解雇されても「他ノ鉱山ヘ連レテ行ク」と再就職の保障を与えたことは,鉱夫を力づけた。もちろん,運動方針の転換だけが至誠会発展の要因ではない。そのほかにも,南がかなりまとまった額の運動資金を携えていたことも小さからぬ意味をもっていたであろう。すなわち,南は夕張を去るにあたって北海道炭鉱汽船会社の重役・井上角五郎から250円,同宇野鶴太から150円を〈借り〉,さらに足尾に移ってからも宇野から50円づつ2度にわたって〈借金〉しているのである(13)。こうした資金があったからこそ,南は通洞の目抜き通りに部屋を借り,あるいは至誠会の目的を説明するために飯場頭や山中委員を蕎麦屋などに招待することが出来たのである。北炭の重役からの〈借金〉がいかなる性格のものであったか,今となっては分からない。夕張における運動から手を引かせるための〈手切れ金〉の可能性が皆無とはいえないが,それなら,100円もの金を足尾に移った南にわざわざ送ることはないであろう。むしろ南が,宇野等に,足尾から多数の労働者を〈引き抜く〉ことを約束し,その資金を送らせたと考えるのが最も自然のように思われる。南が,しばしば北海道の炭鉱における高賃金を口にし,「千人ヤ二千人ノ坑夫ハ足尾ヲ下山サレテモ毫モ差支エナキ」ことを保証していたのも,この推測を裏書している。なお,南が北海道から多額の送金を得ていたことはなんら秘密ではなく,彼の同志らもしばしばこれを口にしている。たとえば井守伸午は通洞の山中委員の会合で,「若シ至誠会ガ請願ヲ通洞坑場或ハ本山事務所等ニ為シテ採用セザルニ於テハ南助松ガ北海道ヨリ二百円ノ運動費ヲ調達シ得レバ心配ナシト大言壮語シ一同強気ヲ生シテ事ヲ願行スルノ導火線ト為レリト云フ」(14)。また永岡も至誠会発会式において「足尾ノ鉱夫ハ五百人ヤ千人ノ坑夫ハ何時下山セラルヽモ毫モ差支エナキ準備アレバ」と演説しているのである。




2)至誠会と飯場頭,友子同盟の関係

飯場頭・友子同盟への働きかけ

 賃上げなどの要求実現にむけ,至誠会がなにより重視したのは,飯場頭と友子同盟の山中委員の協力をとりつけることであった。
 序章でみたように,足尾には,坑部課所属の飯場,つまり坑内関係の坑夫,支柱夫,車夫,掘子などと,選鉱関係の男子労働者を擁する飯場が約100,製煉課所属の飯場が7,この他にも工作課や調度課に属し,土木・雑役等に従事する労働者の飯場も存在した。
 詳細は第2章を参照ねがいたいが,飯場頭は依然として配下の労働者の雇用・解雇に実質的な権限をもち,金や道具を貸し,しかも鉱夫の身近にあってその〈世話〉をしていたから,配下鉱夫への影響力は大きく,その向背は労働者全体の動向に重要な意味をもっていた。同時に,飯場頭は労働者の不満や要望を鉱業所に伝える際の正式な窓口であったから,その理解と協力が得られれば,至誠会にとって,また要求実現の上でも,有利になるのは明らかだった。
 一方,友子同盟は坑夫仲間だけの組織であり,山中委員は飯場頭のような職務上の権限をもってはいない。しかし,坑夫は基幹職種中の基幹職種であり,その比重は質量とも他職種に抜きん出ていた。また,鉱業所としても友子同盟は,無視し得ない存在であった。とくに山中委員は,坑夫の互選によるものだけに,一般坑夫に対する影響力という点では,飯場頭をしのぐものがあった。至誠会足尾支部の目標は,まずこの両者の支持を獲得することに向けられた。

同志会には対立し,労働会には協力した経緯からも予想されるように,飯場頭の対応は微妙であった。南助松が飯場頭の〈窮状〉にも理解を示し,また有力者を歴訪し,食事に招くなど,礼をつくしてその協力を求めたことは,ある程度の成果をあげた。南らも予想していたように,飯場頭は至誠会への協力を約束はしなかったが,公然と至誠会反対にまわるのを暫くためらわせるだけの効果はあったのである(15)
これに比べ,友子同盟の至誠会に対する反応はより友好的であり,協力的であった。もっとも,足尾の友子同盟は単一組織ではなく,本山,小滝,通洞,それに鉱業所の機構上は通洞坑場の一部であるが,歴史的経緯から友子同盟の組織としては独立の単位であった簀子橋の4山からなり,至誠会への対応は各山ごとに異なっていた。至誠会にもっとも協力的であったのは通洞であり,ついで本山,簀子橋,小滝の順に距離を置いていた。しかし,小滝や簀子橋も至誠会に敵対的だったわけではない。

 通洞の場合は,至誠会の発会式に多数の山中委員が出席し,さらに演説会終了後に至誠会の面々と親睦会を開いている。これについて,南は「親睦会ヲ致ソウト云フコトデ会費二十銭ニテ小松屋ニ行キマシタ。其時行ッタ者ハ山中委員二十五人位(氏名不詳)ト自分,永岡,井守,林,山本,泉安治,加藤栄松,山崎戌平デアリマス」(16)と語っている。南が至誠会側に加えている井守,林,加藤はいずれも通洞の山中委員である。通洞の山中委員36人中28人が至誠会との親睦会に出席したわけである。演説会場が地元の金田座であり,また至誠会足尾支部も事務所を通洞に置いていたことも,この出席率の高さの一因であろう。しかし,これだけで,両者の親密な関係は説明しきれない。ここにきて注目されるのは,それ自体は不成功に終ったとはいえ,大日本鉱山労働会が通洞の友子同盟の組織と重なり合う形で存在した事実である。たとえ上からの組織にせよ,通洞坑の坑夫は友子同盟とは別の団体に一度は加盟したことがあり,そうした組織の存在を,飯場頭や友子同盟が〈公認〉した経験をもっていたのである。同志会以来の活動家で至誠会時代まで活動を続けた者は,大部分が通洞の坑夫であったのは,単なる偶然ではないであろう。なお,本山の友子同盟も,至誠会の発会式には,招待に応じて代表を出席させ,祝儀金を贈っている(17)

 12月下旬,至誠会は飯場頭に最後の働きかけを試みた。すなわち,同月12日,通洞の飯場頭全員を料理屋に招き,「差向キ飯米ノ改良,賃金ノ値上ゲ,左ノ二件ニ対シテ,労働者千人及至千五百人一致団結シ鉱業所ヘ請願スベキニヨリ賛成方ヲ求メタ」のである。これに対し,飯場頭の側は,「個人トシテハ同情ヲ表スルモ飯場頭ノ立場トシテハ賛同シ難キ旨ヲ答ヘ」(18)た。この回答は個々の飯場頭の意向ではなく,あらかじめ討議の上,通洞飯場頭一同の総意として表明されたものであった。同月18日,南は本山の飯場頭一同が会合している場を訪れ,同様の申し入れをおこなった。「頭等ハ之ニ対シ能ク協議ヲ遂ゲ挨拶スベシト申シ,南助松ガ帰リタル後一同協議ノ上,会社ノ関係上,表面賛成出来サルモ又妨害モセサルベシト挨拶スルコトト為シ」(19)この旨回答した。この会合について南は「自分カラ見レバ頭役カ至誠会ニ賛成スル筈ナイノデ,只反対スルヤ否ヤヲ見ル為メニ会見シタノデアリマス」(20)と述べている。
 実のところ,いかに南が礼をつくしたからといって,飯場頭がしばらくの間でも至誠会反対に回らなかったのは不思議である。いざとなれば1,000人や2,000人の労働者は北海道に連れて行くと南が保証していたことは,飯場頭にとってみれば,自分たちの収入源である配下坑夫の引き抜きを公言されているに等しかった筈である。おそらくは,飯場頭にとって,その数が1,000人,2,000といった容易には信じ難い大きさであり,同時に賃上げや供給米の改良といった要求の正当性を否定しきれなかったからであろう。

 いずれにせよ,12月下旬になると至誠会は飯場頭を抱き込む計画に見切りをつけ,その重点を友子同盟への工作に移した。すなわち,同月22日,いろは座の演説会の後「本山ノ山中惣代ヲ東屋ニ誘ヘタリ。其臨席者ハ川瀬周平,丸山助松,鶴岡丑之助,金子久吉,田畑亀之助其他坑夫三十名位ニシテ,其席上南助松ハ左ノ如ク依頼セリ。(1)賃金値上ケ,規則改良等総テ労働者ノ便利ヲ計ル為メニハ,至誠会員ヲ募リ,団結ノ力ニ依ルヲ必要トスルガ故,山中惣代ガ入会セバ他ノ者ハ皆賛成スルヲ以テ,此席ニ出席ナキ惣代ニ代リ是非尽力セラレ度」。南はさらに「曽テ永岡カ会費ヲ取リ立テ自己生計上ニ費消セシガ如キ事ナク,入会金ハ総テ運動費ニ充ツベキ事ヲ暗示シタ」という。同志会時代の永岡に加えられた人身攻撃の1つは,〈会費をとり,労働者を食い物にしている〉というにあったに違いない。南の挨拶を受け,会合に出席した本山の山中惣代は「一同承知シテ,鶴岡丑之助ヲシテ南助松ニ承諾ノ旨ヲ挨拶セシ(21)」めた。さらに翌23日,南は小滝の山中委員とも会合した。しかし,この会合は不成功に終わり,「小滝ヨリ至誠会ヘ加入出来ヌト云フ断リノ手紙」(22)が来た。また,同月26日には簀子橋箱元に手紙を送り,会見の申し込みをした。これに対し簀子橋は「至誠会ノコトニ付テ箱元ガ尽力スルトキハ頭役等ニ於テ〔苦〕情可有之故不悪」と断わった。しかし,1月2日,南は「至誠会の熱心者」である簀子橋の坑夫にともなわれて簀子橋を訪れ,箱元が席を外している間に同所の坑夫約10人を集めて,賃上げ請願への参加を求め,「出席者一同大ニ賛成ノ意ヲ表シ」(23)たという。




3)会社側の対応

古河鉱業会社重役の対応

 こうした至誠会の活動に対し,鉱業所側はたえず注意をはらい,至誠会の演説会にはかならず巡視が出席し,演説内容を記録し,聴衆の反応,主な出席者などをチェックしている。しかし,情報収集の努力の割には,事態の進行についての的確な判断を欠いていたように思われる。鉱業所幹部の対応がどのようなものであったかを伝える記録に乏しく(24),正確なことはわからない。しかし,この時期に決定され,実施に移されたことがらは,古河鉱業会社の重役や足尾鉱業所長らが事態の重大さについて理解していなかったことを窺わせるに充分である。
 その1つは,1906年12月6日,低賃金に対する不満が足尾鉱夫の間に急速に広がりつつあったこの時期に,古河家が「福岡工科大学,仙台理科大学,札幌農科大学の建築物全部の寄付を親族会に於て決議し,右建築費百六萬円(25)」の支出を決定したことである。106万円といえば,足尾鉱業所が1905年1年間にあげた総利益を上回り,足尾鉱夫の1906年中の賃金総額にも匹敵する金額であった。この巨額の寄付は至誠会の活動家の憤激をよび,彼らはすぐこれを演説会で取り上げている。

「古河鉱業所ガ七百萬円(ママ)ヲ投ジテ金持ノ子ヲ教育スル学校ヲ建テタトイフコトデアルガ,我々坑夫ヲ容ルヽ所ハ足シテモ呉レヌ。又〔マダ〕若イカラ,無止団結シテ会社ト戦争スル積リデアル」(岸清)。
「古河ハ八百五萬円(ママ)ト云フ大金ヲ福岡,札幌,仙台ノ三大学ニ寄付シタトイフコトデアルガ,我々ノ苦シンデ居ルニモ不拘斯ルコトヲ致スト云フノハ残念ニアリ,我等ヲ瞞着シテ居ルノデアル。我々負傷者ヲ収容スル処ヲ何故ニ百五萬円デ造ラザリシヤ」(林小太郎)。

九州,東北,北海道の3帝国大学設立のためのこの寄付は,内務大臣,原敬の示唆によるものであった(27)。この時期古河家は市兵衛の養嗣子潤吉が死去したあと,市兵衛の実子虎之助が跡を継ぎ,古河鉱業会社社長に就任していた。しかし,虎之助はまだ若年で,外国留学中でもあり,古河家の実権を握っていたのは潤吉の実兄陸奥広吉であり,その依頼で一時は古河鉱業会社副社長になり,〈古河家顧問〉ともいうべき立場に立っていた原敬であった。足尾銅山の経営問題に知識もさしたる関心もない原敬に,このタイミングの悪さは分かる筈はなかった。それを知っていたのは,古河鉱業会社監事長であり,虎之助の後見人,親族会議の一員でもあった木村長七であるが,彼には内務大臣の〈示唆〉に反対することなど思いもよらなかったに違いない。
 同じ頃,この多額の寄付のほかにも,古河鉱業会社は鉱夫の不満の火に油を注ぐような差別的処遇をおこなった。1906年の暮,〈役員〉だけに臨時賞与を支給したのである。これも当然のことながら至誠会々員の怒りをかった。


「会社ハ足尾始メテ以来ノ利益アリシトテ,昨年十二月二十六日,十円以上三十円迄ノ臨時配当トカ賞与トカヲ呉レタソウダガ,誰レガ其鉑ヲ出シタト思フ。汗水ヲタラシタモノニハ何ノ音沙汰モナク,居睡シテ居ル小僧ヤ,アブラヲ盗ム盗賊ニ与ヘルトハ何事ダ」(井守伸午)。
「会社カ三万円ノ金ヲ銅ノ直〔値〕ガ能ヘカラシテ臨時ニ賞与トシテ与ヘタ。其金ハ何処カラ出タ。皆労働者ガ腕ノアラン限リ暗黒ナル坑内デ働ヘタカラデアル。居睡リヲシテ居ル役員ガ〈モウケ〉サシタノデナイ。吾々労働者ノ為デアル。其労働者ヲ会社ニテハ牛馬視スル」(山本利一)。
「昨十二月廿六日,鉱業所ノ〔ハ〕銅価騰貴未曽有ノ結果,役員等ニ各等差ノ臨時賞与ヲ下付セル。其旨本旨ヲ誤レリ。宜シク暗坑ニテ鑿鎚セル採鉱夫,暴熱ノ中ニ熔作スル熔銅夫ノ如キ一般坑夫ニ下付スベキナリ。是レ鉱業所ノ虐待ヲナスノ一事ナリ」(28)(山本利一)。

 鉱業所側が事態の深刻さを理解していなかったことをより端的に示しているのは,所長の南挺三が,賃上げ問題につき鉱業会社重役と協議するため1月17日に上京しながら,すぐ結論を出すことなく,そのままずるずると東京に滞在していた事実である。暴動後に新聞が伝えたところでは,彼は「先月十八日社用傍た糖尿病療養の為め上京し,豆州熱海に赴きて静養せんかなどと企て居たるが」(29)という呑気さで,彼が足尾に戻ったのは,暴動勃発後の2月5日であった。


足尾鉱業所幹部の対応

もちろん,鉱業所側がまったく無策であったわけではない。1906年12月下旬,通洞と小滝の坑場長は,それぞれ管轄下の飯場頭に「至誠会ヨリ請願書ヲ提出スル状況ナレバ彼レ会社関〔1字不明〕関係以外ノ者ニ請願セラルヽヨリ直接鉱業所ト坑夫等ニ関係ヲスル諸氏ニ於テ請願スル方法策ナラントノ内意ヲ伝ヘタ」(30)のである。同じ頃,本山の飯場頭一同も「本山坑場長ニ南京米ノ改良,賃金値上ゲ等ノ必要ヲ説キ,追テ正式ノ請願書ヲ提出スベキ事ヲ申出」(31)た事実がある。この本山の口頭での請願は,記録上はあたかも飯場頭の自発的意思によってなされたかの如くであるが,時期や内容からみて,これも鉱業所幹部の示唆があったからではないかと思われる。

 至誠会に先んじて飯場頭に請願させるという,この鉱業所の方針は,それまで〈中立的〉であった飯場頭を,はっきりと〈反至誠会〉の立場に踏み切らるという効果をもたらした。ただ問題は,賃金引き上げの決定権が足尾鉱業所になく,会社重役の承認を得なければならないことであった.しかも坑場長が飯場頭に請願書の提出を示唆した段階では,この承認が得られていなかったから,直ちに回答するわけにいかなかったのである。このため,1907年1月7日に飯場頭から賃上げ請願が提出されたのに,何もせぬまま1ヵ月近くを経過し,暴動に至ったのである。何故賃上げ決定がこのように延びのびになったのか,はっきりした理由は分からない。ただ,現場と直接接触のある坑場長らにくらべ鉱業所長の南挺三が必ずしも賃上げに積極的でなく,他山への影響を配慮する鉱業会社重役を説得する熱意も力もなかったことが,その1因と思われる。南は暴動の後でさえ,「賃銀値上げ問題に至っては,事態重く容易に解決し難く,各地鉱山坑夫の賃銀と均衡を保つの必要あるを以って之れらを充分取り調べの上決定する筈なるが,此際賃銀を値上げしては如何にも暴動を恐れて渠等の意を貫徹したりとも見え,将来に悪習を残す虞れあれば余程慎重の態度を採るの必要ある可し」(32)と語っているのである。



鉱夫へも内地米供給

 鉱業所が至誠会対策として実施した第2の方策は,鉱夫にも〈内地米〉を〈貸下げ〉ることで,1月上旬に発表され,2月1日から実施に移された。おそらくこの程度なら鉱業所レベルで決定できたのであろう。これも至誠会の正式要求が提出される前に,その機先を制する狙いをもっていた。だが,ここでも鉱業所の幹部らが〈南京米改良〉の要求に含まれている鉱夫の不満について正確な理解を欠いていたことが露呈された。というのは,鉱夫に売る〈内地米〉は,同じ〈内地米〉でも粗悪品で,これまでの内地米を〈特等米〉と呼び,〈特等米〉は役員に限るとしたのである。2月1日,至誠会の活動家はいっせいにこの問題をとりあげ,鉱業所を批判した(33)

「而シテ前日倉庫前ヲ過ギリシ際米貸下ノ公告ヲ見タリ(黒板掲示ノ公告ヲ朗読セリ)曰ク特等米ハ役員ニ限ル。特等米一升金拾八銭,和白米一升十六銭五厘ト。如何ニ鉱業所ノ鉱夫等ヲ遇スルノ峻酷冷情ナルヤ。役員又タ傭人ニシテ業務ヲ採ル上ニ於テノミ差コソアレ,何ノ撰フ所アルヤ。然ルニ一身ノ危嶮ヲモ顧ミス,暗黒内一芒ノ便燈ヲ相手トシ,長時間不潔ノ空気ヲ吸入シ操業セル鉱夫ラニ独リ此ノ城壁ヲ設ケ,貸下ヲ不公平ナラシムルハ,一ニ労働者ヲ蔑視スル暴戻無慈悲ノ処為ト云フベシ。特ニ其ノ和白米ノ粗タルヤ,僅々参升五合量ノ中如此〈あら〉及粉糠ノ混入シタル(約二合許リノ粗米ヲ呈示ス)米トハ,実ニ其手段ノ卑劣ナル,其ノ心事ノ憎ムベキ,憤慨ニ堪エザルナリ。宜シク一致協力,以テ稼金現金制度ヲ要求スベキナリ」(山本利一)。
「前弁士既ニ言ヒル如ク,足尾鉱業所ハ漸ク日本国民タル労働坑夫ニ対シ,日本米貸下ヲ開始セリ。諸君而シテ其米ノ品質如何ハ知ルニ由ナカルヘキモ,予ハ知己坑夫カ得タル米ニ就キ見タルニ,実ニ其ノ粗悪ナルニ驚キタタリ。其ノ〈あら〉ノ多クシテ粉米ノ相交レル,此レ固ヨリ全体ニ就キ調査セルニアラザレバ断定ヲ下スコトヲ得ズ共,必ズ其精撰ヲ欠キタル一證ト言フベシ。是レ或ハ使夫等ノ取扱粗疎ナルヤ,或ハ役員ノ慣手段ニ依レルヤ諸君ノ判断ニ委ヌ。和白米既ニ如此。而シテ従来ノ上米ヲ特等米トシ特ニ役員ニ限リ貸下ルトノ制裁ヲ設ケシハ其真意那辺ニアルヤヲ知ルヲ苦ム。日本米ヲ甲乙トシ甲ヲ役員乙ヲ職夫ト相区別シ貸下ル如キ明ラカニ労働者ヲ蔑視シ,奴隷視スルノ圧制々度ニアラスヤ。坑夫ニ限リ特等米ヲ貸下セラレサルノ理由何処ニカアル。宜シク現金支払制度ニスヘシ。坑夫自ラ得タルノ金銭ヲ以テ何種ノ米ヲ購ヒ食スル個人ノ随意ニアラスヤ」(永岡鶴蔵)。
「今回倉庫ヨリ貸下グル米ニ特等和白,二種アリ,特等ハ役員ニ限ルト。何カ故ニ一般坑夫ヲシテ其恩典ニ浴セシメサル。之レ明ラカニ奴隷制度ヲシテ益々狂暴ヲ逞フセントスルノ一證ナリ」(南助松)。

 至誠会側が〈南京米〉を,鉱夫と役員との間の差別の象徴としてとりあげたのに対し,鉱業所,つまり〈役員〉の側では形式的には至誠会の要求を認めながら,実際には差別の堅持で応えたのである。この〈特等米〉設定を,先には「鉱業所側が鉱夫の不満についての正確な理解を欠いていた」と評価したのであるが,むしろ鉱夫の不満はそれなりに理解しながら,それを受け容れるには〈役員〉としての特権意識が許さなかったというのがより現実に近いのであろう。結局,鉱業所幹部も暴動によって,鉱夫も意思をもつ人間であることを文字通り〈痛感〉させられるのであるが。いずれにせよ,古河鉱業会社および足尾鉱業所,とりわけその責任者である南挺三の認識の甘さ,対応の鈍さが事態を暴動の方向に一歩も二歩も近づけたことは否めない。




【注】


(1) 「明治三十九年十二月五日通洞金田座に於ける労働演説会々況」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,184ページ)。

(2) 前掲書,185ページ。

(3) 本書第3章VI(2)「経営政策の転換」の項参照。

(4) 『万朝報』紙は,「坑夫側の云分」をつぎのように伝えている。

「入坑しないと銅山の倉庫から白米や味噌を借り受ける事が出来ませんから,止むを得ず入坑すると云ふ始末,稼ぐ張合いもありゃァしません。稼ぎ高と米,味噌を差引勘定をしてサガリ(借金のこと)が出来ますと積立金(月々の稼ぎ高の五分の一を集めたるもの)から差引かれ,夫れでも尚足りないと連借人とでも云ふべき三人一組の保証人の積立金の中から差し引き,それでも猶ほ不足額が八円になると,借金のある本人からは食料品の帳簿を引上げ,最早米も味噌も貸してハ呉れません。ですから何時となく飯場の頭から借が出来る。それも高が多ければ遁げるより外に仕方がない。病気の時にハ妻子が幾人あろうとも五日間の米は二升五合より外に貸してハ呉れませんから,果ハ飢ニ苦しむ事となります」(『栃木県史』史料編・近現代二,752ページ)。


(5) 「昔ハ倉庫ノ米ハ一斗ヲ引ケバ一斗一升,一貫目ノ味噌ハ一貫百目アッタモノダガ此頃デハ随分ヒドヒ。此間通洞ノ坑夫ガ一斗引ヘタ米ハ九升三合シカナイ。亦簀橋ノ坑夫ガ味噌五百目引ヘテ四百七十目シカナカッタトノ話デアル。夫レニ私シハ酒ヲ五合引ヘタ処ガ四合シカナカッタ。吾々ハ役員ニモ会社ニモ貰フノデハナイ。賃金ヲ三十日分モ貸シテ置ヘテ,其貸シノ代リニ受取ルノデアル」(「明治四十年一月廿六日労働問題政談演説大要」,労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,199ページ)。

(6) 夏目漱石の『坑夫』は,暴動直後の足尾銅山で短期間帳場の帳付けとして働いた青年の経験をもとに書かれたものである。その青年からの〈聞き書き〉ノートに,つぎの一節がある。「トコロヘ婆サンガ来テ飯ヲ食ヘト言ウ。箸ヲ米ヘ掛ケヨウトスルガ飯ガスベル。飯ニツヤガナイ。南京米。壁土ヲカムヨウデ,一箸デ驚ロイタ」(『漱石全集』第5巻,1961年,角川書店,376ページ)。

(7) 1892(明治25)年に内地米が供給されていたことは確かである(『朝日新聞』1907年2月15日付)。また1896年4月に『国民新聞』に連載された松原岩五郎の足尾銅山ルポも,他鉱山の飯米の粗悪についてふれながら,足尾では坑夫の「飲食活計の裕かなること」を述べるだけで,南京米については記していない。

(8) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,200ページ。

(9) 前掲書,185〜186ページ。

(10) 前掲書,197ページ。

(11) 前掲書,185ページ。なお,林は後に公判廷で,「其○○○○とは同盟罷工を指したるなり」と明言している(『下野新聞』1907年8月4日付)。

(12) 『社会主義者沿革』第一

(13) 「被告南助松第二回調書」および「証人宇野鶴太調書」(『栃木県史』史料編・近現代二,599ページ,608ページ)。

(14) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告 其二」(『栃木県史』史料編・近現代二,560ページ)。

(15) 「日不詳十一月中,小松屋ニ通洞ノ飯場頭二十七八名(氏名不詳)ヲ集メ,自分,山崎,井守,林,山本立会ノ上支部設立ノ話ヲナシ,其目的ハ前申立テタ四ヶ条ナリト話シタルニ,飯場頭ハ銅山ヨリ辞令ヲ貰ヒ居ルカラ表面賛成ハ出来ヌガ,裏面反対ハセヌト云フコトデアリマシタ」 (「被告南助松第2回調書」,『栃木県史』史料編・近現代二,599ページ)。

(16) 「被告南助松第2回調書」(『栃木県史』史料編・近現代二,600ページ)。

(17) 「探偵報告書」(『栃木県史』史料編・近現代二,585ページ)。

(18) 通洞巡視・富山誠一「報告書」 (『日本労働運動史料』第2巻,189ページ)。

(19) 「探偵報告書」(『栃木県史』史料編・近現代二,585ページ)。

(20) 「被告南助松第四回調書」(前掲書614ページ)。

(21)(21)「探偵報告書」(前掲書586ページ)。

(22) 「被告南助松第六回調書」(前掲書633ページ)。

(23) 「探偵報告書」(前掲書593〜594ページ)。

(24) この問題にふれた記録は,南助松が「会社ノ某小使カラ林〔小太郎〕カ聞イテ来テ」の話として,「一月十五六日頃,会社ニ重役ノ秘密会アリ。其際南所長,木部課長,小島,田崎〔田島〕,江刺坑場長,製煉課長(川地課長ヲ除ク)ガ会合シ,南所長ハ盛ニ会員募集ヲ為シ居ルカラ今ノ内ニ撲滅セネバ会社ノ不利益ナリト云ヒ,木部課長は至誠会ノ運動ハ根拠ガアッテ遣ッテイルカラ今日迄ノ撲滅策トハ異ニシテ,其撲滅方法ハ労働者ヲ優遇スル方法ヲ採ラネバナラヌと云フ趣旨の相談ヲ為シタル趣ニテ,小島場長,製煉課長ハ南所長の節に賛成した」ことを,予審廷でのべている(『栃木県史』史料編・近現代二,619ページ)。 おそらくニュース・ソースはこれと同じであろうが,2月1日の演説会で,南は1月29日に開かれた「至誠会ニ対スル秘密会議」について述べている。そこでも南所長,川地課長,製煉課長,小島場長は強硬派,木部課長,江刺場長は妥協派,田島本山坑場長は「至誠会ノ手段ヨシ。漸次制度ヲ改良スベシ」と主張したとされている(『日本労働運動史料』第2巻,206ページ)。1月29日には南所長は上京中で留守であるから,この発言の信憑性には疑問がある。ただ,鉱業所首脳の間に,至誠会対策で必ずしも一致していなかったことは,充分あり得ると思われる。

(25) 『木村長七自伝』313ページ。なお金額は正確には105万6,876円で,これを5ヵ年間で寄付する計画であった(『東京朝日新聞』1906年12月7日付)。

(26) 「足尾銅山足尾町労働至誠会政談演説会報告書」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,192ページ)。

(27) 『原敬日記』明治39年11月17日,同30日,12月1日,同4日,同6日など参照(福村出版版,第3巻所収)。

(28) 「明治四十年一月八日労働問題政談演説大要」,「労働至誠会演説会報告書」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,195,197ページ)。

(29) 『万朝報』1907年2月7日付(『栃木県史』史料編・近現代二,741ページ)。

(30) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告 其六」(『栃木県史』史料編・近現代二,577ページ)および「捜査報告書 十六」(『栃木県史』史料編・近現代二,582ページ)。

(31) 「探偵報告書」(『栃木県史』史料編・近現代二,586ページ)。

(32) 『国民新聞』1907年2月10日 (『栃木県史』史料編・近現代二,723ページ)。

(33) 「明治四十年一月八日労働問題政談演説大要」「至誠会労働問題政談演説会報告書」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,196,203〜206ページ)。




[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月11日。掲載に当たって若干の加筆をおこなった。]


【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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