終章 総括と展望──(1) 総括
本書は足尾暴動の歴史的分析を主題とするものであるが,それぞれの章は〈原子化された労働者〉説や〈出稼型論〉などを批判することを目的に,暴動は素材として論じたために,足尾暴動そのものの歴史的位置を明らかにする点では不十分であった。とりわけ暴動の影響,暴動後の事態の進展については断片的にしか触れてこなかった。実のところ,この問題をきちんと論ずるにはあと2章は必要で,今はとうていその余裕がない。それに代えて,ここでは,まず暴動の原因を総括し,ついで暴動の影響に関するいくつかの事実を検討し,最後に,本書で明らかにした論点のうち,より一般的な理論とかかわる問題について敷衍し,今後の研究課題を確認しておきたい。
1) 争議・暴動原因の総括
足尾暴動の直接原因については第1章で詳細に検討し,それに先立つ坑夫の賃上げ運動の背景となる労働条件をめぐる問題については第3章で論じた。また,坑夫の支配・統括を職務とする飯場頭が賃上げ運動を抑止出来なかったばかりか,かえって坑夫の反抗を招いた理由は第2章で明らかにした。しかし問題史的分析であったため,これら諸要因の相互関連を明らかにする点では欠けるところがある。そこでまず,暴動に先立つ賃上げ運動の原因,また2月4日以降の〈暴動〉の原因につき,あらためて総括しておこう。
坑夫の間で賃上げ運動が発展した最大の理由は,この時期,その実質賃金が同じ足尾の他職種の労働者と比べても大幅に低落していたことであった。坑夫の実質賃金低落をもたらした主要因は,1)1897年に古河の経営政策が,〈進業第一〉の積極政策から,長期にわたって安定的に利益を確保することを狙った〈守成の方針〉に転換したこと,2)日露戦争後の物価騰貴であった。
第1の点は,創業者の古河市兵衛が一貫して産銅シェアの拡大を追求する政策をとり,足尾銅山の収益をつぎ込んで次々と鉱山を買入れ,設備投資を積極的に進め,生産拡大のためには労働者にも相対的〈高賃金〉を支払っていたのに対し,1897年の鉱毒予防工事命令を機に経営の主導権を握った養嗣子の古河潤吉が〈守成の方針〉に転換したこととかかわっていた。潤吉は,新規投資を規制すると同時に,さまざまな経費節減策を講じた。その一環としてとられたのが,産銅コストに大きな比重を占める坑夫賃金の凍結であった。坑夫とは違い,製煉夫の場合には,すでに1880年代末から90年代にかけて,洋式熔鉱炉への転換にともない賃金水準は大幅に切り下げられ,1900年代では勤続にともない昇給する年功的な制度に転換していた。また不熟練労働者の場合は全国的な労働市場の動向に応じて,賃金水準は僅かながら引き上げられていた。この時期では,他職種にくらべ坑夫の賃金水準は名目的には高かったものの,その実質賃金の低下傾向は著しかったのである。
第2の物価騰貴は,20億円にのぼる日露戦争の戦費をまかなうため,政府が間接税を中心とする増税政策をとり,さらに煙草専売制度の強化,塩専売制度の導入,外債募集による日銀券の増発を行なったことによるものであった。とりわけ塩専売制の導入は塩,味噌,醤油など生活必需品の騰貴を招き,民衆の生活を圧迫した。
なお,通史的な書物で,1907年の一連の労働争議の原因を同年勃発した恐慌によるものとするものが跡を絶たないが,これは明瞭な誤りである。戦後恐慌は,たしかに1907年1月には株式市場の低落として,その兆しを示している。しかし,これが実際に事業上に影響を及ぼすのは同年秋以降で,1907年の上半期は前年後半からの〈企業熱〉が続いていた。このため,鉱山業では労働力不足が顕著で,そのことが鉱山スト高揚の背景にあったのである(1)。その要求も,賃下げ反対や解雇反対ではなく,ほとんどが賃金引き上げであった。この点は他産業の争議でも同様である。
賃上げ運動が,ほかならぬ坑夫によって推進されたもう1つの要因は,主体的なものである。すなわち,坑夫は友子同盟という徳川時代以来の伝統をもつ自律的な団体をもっており,これによって日常的に会合し,代表者を選出し,自分たちの要望を坑夫の総意としてまとめ,全員で行動することが出来たのである。友子同盟の意義はそれだけではない。足尾坑夫が賃上げ運動に立ち上がる上で重要な役割を果たしたのは,永岡鶴蔵や南助松を中心とする大日本労働至誠会の働きかけであったが,この永岡のような坑夫出身の労働運動家が生まれた背景には,友子同盟の伝統があった。永岡が全国的な労働組合の結成を構想し,組織活動を展開し得たのは,友子同盟の伝統と切り離しては理解できないのである。また,1907年に多発した鉱山争議が,金属鉱山と北海道の炭鉱中心であった(後掲,第1表参照)が,これも友子同盟の主力が存在していた地域・分野と一致している。この問題は第1章の中心的な論点であったから,あらてめて繰り返す必要はないであろう。
次の問題は2月4日に始まる暴動の直接原因である。すなわち,通洞坑内の見張所襲撃はなぜ起きたかである。そのきっかけは,〈箱取り戻し〉により飯場経営が立ち行かなくなることを恐れた飯場頭が,至誠会に対する弾圧の口実をつくるために仕組んだ挑発の疑いが濃い。〈箱〉とは友子同盟の会計で,当時は飯場頭がその管理権を握り,ピンハネの手段となっていた。これに対し,至誠会の影響を受けた友子同盟の山中委員が公然と返還を要求し,飯場頭はやむなく2月5日に〈箱〉の引渡しを行なうことになっていたのである。このように飯場頭が,配下の坑夫から公然と攻撃を受けるようになった背景には,彼等が,かつて有していた作業請負の権限を奪われたため,坑夫への支配力を弱め,同時に収入固定化による減収を補うため流通過程における収奪を強化して,坑夫との対立を激化させていたことがあった。
しかし,見張所襲撃をきっかけに,坑夫らが〈役員〉へ〈暴行〉を加え,役宅(役員住宅)の破壊に及んだのは,坑夫が職員に対して,日頃から欝積した憤懣を抱いていたためであった。この坑夫の憤懣は,直接には賃金の査定等をめぐって下級職制が賄賂を要求するなど不公正な行為が多かったためである。この賄賂横行の背後には,足尾銅山における坑夫賃金の決定方法が予測をもとにしたもので係員の裁量の余地がきわめて大きかったこと,一方,採鉱方,見張方などが低賃金で賄賂なしには坑夫より低所得になったこと,加えて鉱業所のトップから下級職制にいたるまで賄賂がなかば慣行的なものとなっていた事実があった。さらに,より一般的な問題として,職員を〈役員〉と呼んだことに端的に示されているように,労働者と職制との間の身分格差が,大きな問題であった。この点は後でまた触れることになろう。
さらにこの時,足尾銅山の最高責任者が絵に描いたような〈悪玉〉であったことは,坑夫らの行動が下級職制への制裁から〈役員〉全体への襲撃に展開して行く上で,小さからぬ条件となった。官僚出身,それも東京鉱山監督署長として,足尾を存亡の危機に追い込んだ鉱毒予防工事命令の署名人であったというその経歴,鉱業所長としての地位も〈賄賂〉として得たものであることが誰の目にも明らかな人物,しかもその所長就任の直後から足尾銅山の運営が目だって規則ずくめとなり,何かと言えば罰則で脅すようになったことなど,南挺三ほど〈悪役〉としてうってつけの人物はいなかった。また,それと真っ向から対決したのが,〈正義の味方〉・至誠会であり,それも所長と同姓の南助松を先頭に,足尾鉱業所長・南挺三への批判を活発に展開していたのである。
(2) 暴動の影響
労働者側への影響
足尾暴動の影響の第1は,1907年に数多く起きた労働争議,とりわけ鉱山や炭鉱におけるそれの起爆剤となり,連鎖反応的に鉱山・炭鉱におけるストライキや暴動を引き起こしたことである。あまり正確とはいえない調査であるが,農商務省の『同盟罷業ニ関スル調査』(2)によれば,この年の労働争議は件数で60,参加人員は54件について1万1483人(6件分は人員不明)と,第一次大戦前の最高を記録した。そのうち,鉱山・炭鉱における争議は,件数で16件と全体の26.7%,参加人員で2471人,21.5%に達している。なお,この調査では不明となっている鉱山スト4件の参加人員であるが,実は同じ農商務省が出した『明治四十年本邦鉱業の趨勢』で判明する。同書の巻末に,足尾・幌内・別子暴動の参加人員,休業日数などの基本的なデータとともに,この年中に起きた坑夫同盟罷業16件すべての鉱山名,参加人員,日数などが記録されている。それによれば,同盟罷業参加坑夫の総計は3923人で,不明の4件分の参加者は1452人,これを加えて算出すると,鉱山関係の参加人員比率は30.3%となる。鉱山以外の争議で参加人員不明のもの2件があるから,参加人員比率はこれより若干低くなる。ただ,実際には,争議規模の大きい足尾,別子,幌内などが暴動であって同盟罷業でないため,集計対象から外されており,さらに,次の第1表(3)に見るように,実際は,この調査に洩れた鉱山争議が少なくない。これらを含めると,鉱山関係の争議参加者はいくら低くみても1万人を上回ったに違いない。もっとも『同盟罷業ニ関スル調査』は,鉱山以外の争議についても多くの集計洩れがあるので,件数比率,参加人員比率は確実なことが分からない。ただ労働争議について網羅的に記録している青木虹二『日本労働運動史年表』によれば同年中の争議は238件である。一方,第1表は青木年表より10件多い鉱山争議を記録しているから,件数で20%前後,参加人員で40〜50%前後と推定して大過ないであろう。
第 1 表 1907年鉱山関係労働争議一覧(PDFファイル)
この表をよく見ると,2月の足尾暴動,5月の幌内炭鉱暴動,6月末の別子暴動を起点として,2〜3月,5〜6月,7月と鉱山争議が次第に高まりを示し,8月を最後に急速に鎮静化していることが分かる。暴動が,というより暴動についての報道が,ほかの鉱山の労働者の不満に火をつける役割を果たしていることが窺える。一連の争議における鉱山労働者の要求は,ほとんど全てが賃金の引き上げであり,ついで鉱夫の足止め策としてとられていた積立金制度の廃止か積立金の返還要求である。
いずれにせよ,このように多くの鉱山労働者が労働争議に加わった事実は,インフレにより鉱山・炭鉱労働者の実質賃金が低落するなど各山が足尾と共通する矛盾をかかえていたこと,足尾暴動が最初の衝撃となって,連鎖反応を起こし,これら諸鉱山の矛盾を表面化させていったこと,友子同盟が積極的な役割を果たしたこと,などによろう。おそらく,この一覧表に掲げた鉱山の他にも,賃上げ要求など〈不穏〉な動きはあり,鉱山主側が足尾や別子の二の舞をおそれ,外部に伝わる前に解決した事例があるのではないか?
こうした労働争議の伝播に際し,一般の新聞が果たした役割には大きなものがある。足尾暴動や別子暴動についての連日の報道は,他鉱山の労働者を鼓舞したであろう。足尾暴動を報じた各紙は,鉱夫の〈暴行〉や争議を〈煽動〉した社会主義者の行動を非難はしたが,同時に鉱夫に同情的な記事も多く掲載し,鉱業主や職員,飯場頭に対し批判的であった。もちろん暴動のニュースは,新聞だけでなく,解雇され,あるいは友子仲間を頼って自発的に鉱山を去り,他鉱山に移った労働者によって,より直接的に影響を広げたと思われる。さらに,こちらは,どれほどの影響力をもったか分からないが,足尾暴動の画報や映画まで作られている(4)。
では,こうした〈暴動〉や争議は,労働者の賃金水準にどのような影響を及ぼしたであろうか? 次は,争議の起きた鉱山や炭鉱の平均賃金の推移をまとめたものである。
第2表 労働争議発生鉱山における平均日給推移
職種 | 坑夫 | 製煉夫 |
鉱山名 | 1906 | 1907 | 対前年比 | 1908 | 対前年比 | 1906 | 1907 | 対前年比 | 1908 | 対前年比 |
鴇 | 45.0 | 88.2 | 196.0 | 83.3 | 94.4 | 40.0 | 44.7 | 111.8 | 64.9 | 145.2 |
足 尾 | 72.5 | 85.7 | 118.2 | 84.5 | 98.6 | 44.6 | 49.0 | 109.9 | 50.0 | 102.0 |
遊泉寺 | 68.4 | 69.5 | 101.6 | 79.6 | 114.5 | 37.5 | 44.0 | 117.3 | 41.3 | 93.9 |
高 根 | 80.0 | 96.0 | 120.0 | 85.0 | 88.5 | 50.0 | 51.0 | 102.0 | 51.0 | 100.0 |
槇 峯 | 59.5 | 70.0 | 117.6 | 71.1 | 101.6 | 39.4 | 44.7 | 113.5 | 46.1 | 103.1 |
阿 仁 | 83.8 | 80.6 | 96.2 | 79.8 | 99.0 | 40.0 | 39.0 | 97.5 | 44.0 | 112.8 |
別 子 | 83.8 | 80.6 | 96.2 | 79.8 | 99.0 | 66.8 | 67.5 | 101.0 | 67.2 | 99.6 |
帯 江 | 59.4 | 69.6 | 117.2 | 67.5 | 97.0 | 52.5 | 45.2 | 86.1 | 46.0 | 101.8 |
尾去沢 | 63.9 | 73.7 | 115.3 | 74.0 | 100.4 | 44.0 | 44.2 | 100.5 | 44.4 | 100.5 |
西ノ川 | 83.8 | 78.1 | 103.9 | 86.4 | 99.2 | 55.5 | 65.3 | 117.7 | 71.8 | 110.0 |
〔備考〕 1) 各年とも6月末現在。『本邦鉱業一斑』各年により作成。
2) 鴇鉱山は売鉱のため製煉夫がいないので,坑内運搬夫の数値を用いた。
3) 単位は日給は銭,前年比は%。
第3表 労働争議発生炭鉱における平均日給推移
職種 | 坑夫 | 坑内運搬夫 |
炭鉱名 | 1906 | 1907 | 対前年比 | 1908 | 対前年比 | 1906 | 1907 | 対前年比 | 1908 | 対前年比 |
幾春別 | 99.9 | 108.2 | 108.3 | 104.0 | 96.1 | 61.1 | 78.0 | 127.7 | 66.0 | 84.6 |
幌内 | 100.2 | 109.3 | 109.1 | 110.0 | 100.6 | 61.9 | 76.1 | 122.9 | 68.0 | 89.4 |
夕張第一 | 134.3 | 135.0 | 100.5 | 151.3 | 112.1 | 87.7 | 97.6 | 111.3 | 117.3 | 120.2 |
豊州 | 70.0 | 105.0 | 150.0 | 104.0 | 99.1 | 47.0 | 46.5 | 98.9 | 46.5 | 100.0 |
〔備考〕 1) 各年とも6月末現在。『本邦鉱業一斑』各年により作成。
2) 単位は日給は銭,前年比は%。
別子を例外として,全体として1907年に坑夫賃金が上昇したこと,とりわけそれまで相対的に低い賃金水準にあった鉱山で大幅にアップしたことが分かる。足尾に先だってストライキを起こした秋田県の山県鴇鉱山などは実に2倍近い賃上げである。ただ,この賃金水準の上昇がどこまで争議の成果であるのか,あるいは労働市場が売り手市場となっていたためであるのかなど,今後さらに検討を要する問題は少なくない。さしあたりは,別子銅山が暴動に対し賃上げどころか賃下げという厳しい対応を行なっていること,1907年から1908年にかけ坑夫賃金が全国的に平準化傾向を示したことを指摘するにとどめたい。
至誠会の壊滅
ところで,足尾鉱夫の運動が〈暴動〉に終わったことは,労働者側には大きな痛手であった。それまで永岡鶴蔵,南助松らを中心に続けられてきた足尾銅山における組織化の努力は,至誠会足尾支部の壊滅によって終わりを告げ,さらに友子同盟も飯場頭の支配下に組み込まれ,その自主性を著しく弱めたからである。
しかも暴動のあと,経営者側が暴動経過を詳しく分析し,さまざまな教訓を得たのに対し,労働者側は組織的にそうした総括を行なうことはなかった。というより,至誠会の壊滅によって,その条件は失われたのである。もともと南,永岡をはじめ至誠会の活動家らは,それまで意識的に運動を総括した経験はなく,そうした訓練も受けていなかった。活動家の多くは逮捕投獄され,凶徒嘯聚罪等で裁判にかけられた。逮捕されなかった者も足尾を追われ,ばらばらになってしまった。宇都宮地方裁判所における一審の判決で,南助松,永岡鶴蔵,井守伸午,林小太郎,山本利一郎ら至誠会の活動家は,大西佐市を除き全員無罪となり,これに対し検察側が控訴・上告したが,高裁でも大審院でも棄却された(5)。出獄後,永岡は片山潜が経営する『社会新聞』社員となり,地方遊説にも参加し,鉱夫組合の結成を提唱したが成功しなかった。暴動前,永岡らは,予戒令を発動されても足尾にとどまり活動しえた。しかし暴動後は,彼らが足尾に入るだけで請願巡査がつきまとい,鉱業所は彼らと接触する者を解雇したのである。また足尾で商売をする者に対しては,店の前に巡査派出所を設け,出入りする客を1人,1人誰何して営業を妨害したのである。こうしたことは足尾だけではなかった。井守伸午は生野鉱山に行き活動しようとしたが,ブラックリストに載せられており,就職できなかった(6)。結局,足尾での運動経験を,誰もその後の活動に直接生かす機会は得られなかったのである。
しかし,至誠会の活動が後に何も残さなかったわけではない。〈暴動〉から十数年の後,日本全土で労働組合が本格的な活動を開始したとき,足尾銅山や夕張炭鉱をはじめ各地の鉱山・炭鉱には,造船所や軍工廠などと並ぶ,強力な組織が誕生した。すなわち,1919年秋には大日本鉱山労働同盟会,全国坑夫組合,友愛会鉱山部の3つの鉱山関係の労働組合が創立されたのである。このうち大日本鉱山労働同盟会は,足尾と釜石を基盤とし,最盛期には公称6000人の会員を擁し,賃上げ,飯場制度の撤廃,団体交渉権などを要求する1919(大正8)年足尾銅山争議の中心となった。全国坑夫組合は,東大新人会のメンバーによって,友子同盟を母体に,これを近代的労働組合へ転換させるべく企図されたもので,その主勢力は足尾と夕張にあり,最高時は全国に21支部(準支部)と2000人の組合員を擁していた(7)。友愛会鉱山部は常磐炭田を中心に,日立鉱山,尾小屋鉱山,田川炭鉱などに分会を組織し,坑内夫より機械工などに影響力をもっていた。翌20年10月,この3組合は合同し,第二次大戦前では数少ない産業別労働組合である全日本鉱夫総聯合会を結成し,足尾,夕張,尾小屋,別子などの大争議を指導し,金属鉱山を襲った不況のなかで厳しい闘いを展開した。鉱夫総聯合会も全国坑夫組合と同じく,その最大の組織基盤は足尾と夕張であった。
このように,第一次大戦後の鉱山労働組合が,いずれもその組織基盤を,かつて永岡鶴蔵や南助松らが組織化の種を蒔いていた足尾と夕張に有したことは,単なる偶然であろうか? おそらく,そうではあるまい。両者のつながりを論証することは容易ではないが,いくつか傍証をあげることは出来る。たとえば,大日本鉱山労働同盟会の創立者の松葉鏗寿は,通洞の雑夫飯場頭役で,1907年の飯場頭の賃上げ請願に名を連ねた人物であった。そうした男が労働組合を組織し,飯場制度撤廃の先頭に立ったことと,その〈暴動体験〉は無関係ではあるまい。また,全国坑夫組合から全日本鉱夫総聯合会を通じてて夕張聯合会の理事長を務め,後には南葛労働会にも参加した安田為太郎は,暴動当時足尾にあった自己の体験を語り「労資大抗争を開始するの原因は資本家の横暴により始まる」と演説している(8)。また,全日本鉱夫総聯合会の機関誌『鉱山労働者』には,暴動のとき〈手子〉だった活動家の回想記が掲載されている(9)。争議となると経営者は暴動を想起し,一方,組合員は,足尾を〈日本の鉱山労働運動発祥の地〉として,誇りをもって語っているのである。さらにこれは鉱山労働者ではないが,総同盟関東鉄工組合の組合長で,総同盟分裂当時の関東労働同盟会の会長であった田口亀造も,足尾鉱業所工作課の職工として暴動を直接見聞しており,「労働運動の先頭に立とうと決心したのは此時から」(10)であるという。
ところで,もし1907年の足尾銅山における賃上げ運動が,あのような形で終わらなければ,至誠会足尾支部は組織を維持できたであろうか? もし,その答えがイエスであるなら,第一次世界大戦後の鉱山労働運動はどのような展開をとげたであろうか? 実際には,仮に暴動化せず,賃上げ運動に成功したとしても,至誠会が第一次世界大戦後まで長期的に組織を保持する可能性はきわめて低かったと思われる。しかし,大日本労働至誠会と友子同盟との共同行動は,日本の伝統的な労働者の同職団体が近代的な労働組合へ発展する可能性を秘めていた数少ない事例であっただけに,検討に値する問題であろう。
日本社会党
大日本労働至誠会足尾支部が壊滅したその時,足尾暴動を高く評価し,これを社会主義運動のあるべき方針と関連させて論じた組織があった。他ならぬ永岡鶴蔵,南助松,林小太郎,岸清,武田誠之助らも一党員として加わっていた(11)日本社会党である。暴動鎮圧からわずか10日後の2月17日,東京神田錦町の錦輝館に地方支部の代表等60余人を集めて,第2回大会を開いたのである。冒頭,石川三四郎の緊急動議で,足尾暴動で入獄中の同志南助松,永岡鶴蔵,西川光二郎に大会の名で慰問の電報を打つことが提案され,満場の拍手で承認された。ついで,これまでの党則第1条「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」が「本党は社会主義の実行を目的とす」と改められた。論戦はその後,評議員会を代表して堺利彦が提案した〈決議案〉をめぐり,幸徳秋水,田添鉄二の間で行なわれた。この討議こそ,日本の社会主義運動が,公開の場で,組織的に運動方針を討議した最初の経験であった。
足尾暴動を問題にしたのは幸徳秋水である。彼は〈議会政策〉否定,〈直接行動〉支持の立場から,つぎのように主張した(12)。
「田中正造翁は最も尊敬すべき人格である。今後十数年の後と雖も,斯の如き人を議員に得るのは六ヶ敷と思ふ。然るに此田中正造翁が,廿年間議会に於て叫だ結果は,何れ丈の反響があつたか。諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつたではないか。然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやった。のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか。(拍手)暴動は悪るい。然しながら議会廿年の声よりも三日の運動に効力のあつたこと丈は認めなければならぬ。私は今日直ちにストライキを遣れとは言はぬ。併しながら労働者は団結と訓練によりて充分に力を養はなければならぬ」。
〈決議案〉のうち,幸徳,田添をふくめ大会参加者が一致して支持したのは「わが党は労働者の階級的自覚を喚起し,その団結訓練につとむ」ることであった。しかし,幸徳は,実際に労働者の階級的自覚を喚起するということが,どれほど根気のいる仕事であるか分かっていなかった。彼は,足尾暴動が支配階級を戦慄せしめたことを強調し,その〈効力〉を高く評価した。しかし,幸徳も,また彼の演説に拍手で応えた大会参加者も気づかなかったのは,貧困と迫害に耐え,一家離散の状況に陥りながら「労働者の階級的自覚の喚起とその団結訓練につとめ」ていた永岡鶴蔵ら至誠会の活動家が,まさにその〈団結〉を維持するために,労働者の暴発を阻止しようと必死の努力を続けた事実であった(13)。また〈暴動〉そのものにしても,ある意味では,永岡のような組織者が,粘り強く労働者の団結訓練につとめた〈結果〉ようやく起きたものであることを理解しなかった。
幸徳は「労働者階級の自覚と訓練によりて,全く資本を公有すると云ふ場合には,決して労働者に首領の必要はない。暴動は好まないが,電車事件の如き,媾和問題の騒擾の如き,今回の足尾の騒動の如きは,或る首領なる者が代表した運動では決してない。彼等の間には首領はない。彼等は実に直接の運動をとったのである」と運動の自然発生的側面を強調し,自然発生性を高く評価した。しかし,〈暴動〉前の足尾で,大日本労働至誠会が急速に組織を伸ばし得たのは,南助松のような〈首領〉が,労働組合期成会鉄工組合以来の相互扶助中心の労働組合政策にかわって,賃上げ,南京米改良といった鉱夫らの切実な要求を運動目標に掲げ,これを獲得する具体的な方針を打ち出したからであったことを知らなかった。幸徳だけでなく,その追随者はもちろん,批判者も,日本の労働者の実態を知らず,というより十分知ろうとせず,同じ日本社会党の党員である労働運動者の活動内容についてさえ理解せずに「労働者階級の自覚と訓練」を論じていたのである。日本社会党はその構成において知識人中心であっただけでなく,運動の実際においても知識人向けの思想運動にとどまっていたのであった。
経営者側への影響
暴動からよりよく学んだのは,金と人と組織をもっていたことを考えれば当然ではあるが,経営者側であった。そのことをはっきり示しているのは,暴動後,足尾鉱業所が所員に命じて『足尾暴動概記』と題する文書をまとめさせていることである。この文書は暴動の経緯を述べた後,暴動の影響について,「直接の影響」と「間接の影響」に分けて記している。直接の影響として挙げているのは,賃金の引き上げと傷病者に対する扶助規則の改正であった。賃上げは,坑夫や飯場頭が要求した6割アップにはほど遠かったが,平均20%近い引き上げであった。また,傷病者に対する療養費や扶助料が増額されたのは,おそらく,永岡が絶えず労働災害問題を取り上げていたことを意識したものであったろう。
ただこの総括では,暴動の直接の影響のうち最も重要な点が欠けている。それは,友子同盟と飯場制度が改組,再編されたことである。これについては第1章,第2章で詳しく述べたが,要点をくりかえせば,次の通りである。
暴動の後,足尾の友子同盟は,山中委員制の廃止に追い込まれた。友子同盟は飯場制度の補完物とされ,労務管理機構の一部に取り込まれてしまったのである。ただし,それによって友子同盟がまったく自主性を失ったわけではない。そのように推測する根拠は,第一次世界大戦のあと,労働組合運動が本格的に発展しはじめた時,足尾銅山,夕張炭鉱などを基盤に組織された全国坑夫組合は,友子同盟を組織化の手がかりとし,ある程度はそれに成功した事実があるからである。
一方,飯場制度についても鉱業所側の規制は強化された。とくに大きな意味をもったのは鉱夫の自立性を強め,飯場頭の配下坑夫に対する中間搾取を規制したことであった。すなわち,入職後3ヵ月を経た鉱夫は〈独立鉱夫〉と呼ばれ,賃金を直接鉱業所から受け取ると同時に,食料や日用品なども鉱業所の〈倉庫〉から直接〈貸下げ〉を受けることが出来るように改められたのである。また法外な中間搾取の源泉となっていた飯場での供給品の価格や貸与品の料金等についても,飯場頭によって組織された坑夫飯場組合の申し合わせとして協定させ,価格の上限を定めたのである。同時に,こうした措置による飯場頭の収入減を補うため,飯場頭に対する諸手当を引き上げた。これらの改革により,鉱業所に対する飯場頭の立場はいっそう弱体化した。
ところで,この経営者側の総括でより注目されるのは,「間接の影響」の部分である(14)。
「我足尾ノ暴動ガ社会ニ及シタル影響ハ至大ニシテ,一々之ヲ列挙センハ固ヨリ不可能ノ事ニ属スト雖モ,其主要ノモノヲ叙述センカ,一鉱業所ノ為メニ五十余人ノ請願巡査ヲ特置シ,労働者ノ秩序ヲ維持スルニ至リタルハ其ノ一ナリ。足尾分署ハ一時ニ五十余人ノ巡査ヲ増加シタル結果,従来ノ分署ハ他署トノ権衡取レザル為メ之ヲ昇格シテ本署トスルニ至リタルハ其ノ二ナリ。従来労働者ヲ直接使役スルノ衝ニ当レル下級役員ハ,之ヲ己憚ナク評スレバ独リ自ラ尊大ニ居リ,労働〔者〕ヲ遇スルノ途余リニ親切ナラザリシモノ,今ヤ事変ノ刺戟ニヨリ例令口先キ丈ナリトハ雖モ,漸ク彼等ノ人格ヲ認メントスル趨勢ニ傾キツヽアルハ其ノ三ナリ。所員ガ,進ンデ労働者ノ重ナルモノトノ間ニ,意思ノ疎通ヲ謀ラントスルニ至リタルハ其ノ四ナリ。会社ガ労働者ノ意思ニ関シ深キ注意ヲ払フニ至リタルハ其ノ五ナリ。事業ヲ経営スル上ニ於テ,労働者ハ資金ト共ニ重要ノ資本タル事ヲ是認セシメ,彼等ノ斯界ニ於ケル地位ヲ一段高カラシムルニ至リタルハ其ノ六ナリ。足尾ノ事変以後,全国ノ労働者ハ輙モスレバ希望ヲ達スル為メ其轍ヲ踏ムノ威嚇運動ヲ試ミ,資本家ヲシテ寒心セシメタルハ其ノ七ナリ。頭脳単純ニシテ而モ無若気〔無邪気〕ナル労働者ト極端ナル社会主義者トヲ接近セシムルノ危険千万ナルカヲ,朝野一般ノ人士ニ自覚セシメタルハ其ノ八ナリ。要スルニ今回ノ暴動タル,其原因ガ那辺ニ存スルヲ問ハズ,家ヲ焼キ人ヲ傷ケ,一県ノ行政力ヲ悉シテ是ヲ鎮静スル能ハズ,彼等ヲシテ猛威ヲ縦ニシテ全山ヲ化シテ酸鼻ノ巷ニ陥ラシメ,国家絶対ノ威力ヲ用ヒルノ止ムナキヲ遺憾トス」。
ここで何より目を惹くのは,労働者の〈人格〉についての言及である。『概記』の筆者自身の反省というより,労働者と直接接触する〈下級役員〉への批判的評価という含みが明瞭であるが,それでも「事変ノ刺戟ニヨリ例令口先キ丈ナリトハ雖モ漸ク彼等ノ人格ヲ認メントスル趨勢ニ傾キツヽアル」ことを指摘すると同時に,「所員ガ進ンデ労働者ノ重ナルモノトノ間ニ意思ノ疎通ヲ謀ラントスルニ至リタル」こと,「会社ガ労働者ノ意思ニ関シ深キ注意ヲ払フニ至リタル」こと,「事業ヲ経営スル上ニ於テ労働者ハ資金ト共ニ重要ノ資本タル事ヲ是認セシメ」たことをあげている。労働者の〈人格〉の承認は,第一次世界大戦後の労働組合運動の主要求のひとつであり,職員と労働者との意思疎通の重視も,この労働組合運動の本格的な展開に対応し,それまでの労務管理のあり方を反省して,工場委員会や会社組合の設立として実行に移されたことである。そうした問題が,早くもこの段階で経営側に自覚されていたことは興味深い。そして,この反省にもとづく対策が,部分的にではあるが,間もなく具体化された。その1つは,1913(大正2)年5月に創刊された『足尾銅山鉱夫之友』と題する労働者向けの月刊社内報の発行である(15)。そこにはお定まりの〈講話〉などのほか,労働者の投書,投稿が掲載され,さらに〈共救義会の会計収支〉が報告されているのである。これは,暴動に先立つ友子同盟の24ヵ条要求において共救義会の決算報告の公示を求めていたことへの積極的な対応であった。この労働者向けの社内報の発行は,日本の大経営がそれまでのように労働者を単なる労働力として,飯場頭のような労働者内部の監督者を通じて間接的に支配するのでなく,労働者を企業の正規の構成員=従業員として直接掌握し,統合しようと企て始めたものとして注目される。
国家の対応
1907年には,足尾暴動を起爆剤とした鉱山争議をはじめ,労働争議が多発し,件数でも参加人員でも第一次世界大戦前の最高を記録した。しかも総理大臣の実弟が経営する住友別子銅山と,内務大臣が実権を握る古河足尾銅山で,軍隊を派遣しなければ鎮圧できない暴動となり,内相・原敬はその度に天皇に〈拝謁して〉暴動とその処理状況を逐一報告しているのである(16)。にも拘らずこの段階で,国家の労働政策に目立った変化が見られなかったのは何故であろうか? これについて,いま確たる答えを出す用意はない。ただ原敬ら政府当局者は,〈暴動〉は社会主義者の煽動によると本気で信じており,労働政策より社会主義対策を優先させたのではないか? いずれにせよ,すでに治安警察法が制定されており,直ちに,新たな法的措置を必要としてはいなかったことも確かであるが(17)。
とはいえ,政府が足尾,幌内,別子とつづいた鉱山暴動にまったく無策であったわけではない。行政レベルではいくつかの対策がとられている。その1つが,鉱業警察励行方針である。これについて『大阪朝日新聞』の1907年6月13日付は次のように報じている。
「当局の坑夫取締 鉱山騒擾以来当局にては種々考究する所あり,鉱業法,同施行細則,鉱業警察規則等を励行し,また一方鉱山所在地の警察官を平素坑内に派し,其の実況を視察せしめ,鉱業権者と坑夫その他傭夫との関係,役員と坑夫其の他傭夫との関係を熟知せしめ,其の騒擾をして大ならしめざる事に着々取締を実行する筈なりと」。
鉱業警察の励行といっても,内務省(18)が問題にしたのは,永岡などが強く主張し続けた鉱山保安の確保などではなく,暴動などの際,警察官が暗黒で地理不案内の坑内に立ち入ることが出来ず,坑内を一種の治外法権地帯としたことへの反省であった。日頃から,警察官に坑内へ入坑できるだけの訓練を積んでおこうというのである。
これと同時に,警察がとりあげたのは〈渡り鉱夫〉の取締りであった。つまり鉱山暴動の背後に友子同盟が介在したことを認識し,これを規制する方針を打ち出したのである。別子暴動直後の1907年7月4日付の『大阪朝日新聞』は,これを次のように伝えている。
「渡坑夫取締 其の筋にては過般来,足尾銅山,幌内炭山及び別子銅山に於ける暴動続発以来,其の取締方に苦心する所少からず,夫の鉱業警察励行説の如きは其の一方法たるに相違なきが,其の実行にはまづ警察官に鉱業上の智識を与へざる可からず。且愈々実行の場合には,非常の手加減を要するを以て一般の訓令にては其の趣旨を徹底し難き事情あり。親しく鉱山所在地の警務長と協議して決定する外なき由。差当り最も必要なるは,所謂渡坑夫の取締にして,各鉱業主の間には,甲の鉱山にて不正の行為ありて追放せられしものが,乙の鉱山には使用せざる誓約あれど,実際上容易に行なはれず。而して足尾銅山以来の暴動を見るに,何れも渡坑夫の煽動に基因したるらしき形跡あり。又足尾の暴動は,先年一旦爆発せんとした夕張炭山の暴動に関聯するを以て,此際厳密なる取締を加へ,渡坑夫の傭入を絶たしむる筈なりと」。
実際に〈渡り鉱夫〉の取締りが,どのように実行されたか明かではない。各鉱山が必要な採鉱夫・開坑夫の養成・訓練を友子同盟に依存せず,経営側独自で実施するようにならない限り,〈渡り坑夫〉の雇い入れを禁止するわけにはいかなかったに違いない。だが,足尾でさえ,経営側が坑夫養成計画を立てたのは暴動後のことであった。ただこの時から,警察が職を求めて入山した者を調べ始めたことは事実で,これは労働運動の取締り策として一定の意味をもったのである。その結果,至誠会員など労働運動経歴をもつ者は,経営者のブラックリストにより雇い入れを拒まれただけでなく,警察が先頭に立って,何等の違法行為も犯していないのに,鉱山地域から追い立てたのである。
足尾暴動に対するより個別的な行政措置としてとられたのは,古河側の請願をうけた形で行なわれた警察力の増強である。先の鉱業所の総括の最初にあげられていたように,〈暴動〉からわずか1ヵ月足らず後の3月5日には,従来5人であった〈請願巡査〉(19)がいっきょに45人も増員されたのである。足尾の山内には6個所の派出所が設置され,うち本山,通洞,小滝の3個所は巡査部長派出所として,それぞれ18人,9人,11人が配備された。この結果,足尾警察分署の定員は62人となり,日光警察署の分署から警察署に昇格し,初代の署長には暴動鎮圧の先頭にたった田所種実が就任した。なお,暴動時の足尾分署長・藤山才之助は暴動の責任を問われ解雇されたが,すぐ古河に就職している。
【 注 】
(1) 1907年の鉱山労働者数は21万4435人,1905年とくらべ5万9460人の増,前年の1906年との対比では2万6513人の増加である。(拙稿「原蓄期における鉱山労働者数」(上)『研究資料月報』289号,1982年9月)。なお,1907年における争議の高揚と恐慌が無関係であることは,30年近い昔に発表した第2章の初稿で指摘したことである。こうした誤った理解がいつまでも続くのは何故であろうか? おそらく,争議や暴動は悲惨な労働条件による窮乏によって起きるものとする考えが根強いため,争議の激化と恐慌が同年におきていることだけで,事実を確かめることなく,両者を結びつけるからであろう。
(2) 隅谷三喜男『職工及び鉱夫調査』(光生館,1970年刊行)所収。
(3) この一覧表は,さまざまな資料から寄せ集めたもので,信憑性に問題があるものも若干含まれている。たとえば,2月6日の三池炭鉱の争議は実際には起きていないと思われる。このケースは,近代史研究でも史料批判が必要なことを痛感させる典型的な事例であるので,いささかわき道に逸れるが,なぜこうした誤りが生じたか,その経緯を紹介しておこう。
おそらく,この〈争議〉について最初に報道し,スト勃発説の火種となったのは『平民新聞』2月15日付の次の記事である。
「九州炭坑のストライキ
三井所有の三池炭坑万田,宮の浦,七浦,勝立四坑の大工,鍛冶,坑夫は聯合して同盟罷工すべしとの風説あり。去六日夜の如きは『足尾銅山位で済ましはせぬ。何うせやるなら天地も転覆るやうな大仕掛でなくては駄目だ』と五六人の坑夫らしき連中が相談しながら集治監の切通しを通過せり。畢竟彼等は何をか企てんとするものヽ如し」。
この記事で,三池にストが起きたとは誰も言えないであろう。ただ,足尾暴動が,遠い九州の炭坑でも話題になったことを知るだけである。
ところで,この出来事は『平民新聞』終刊号に掲載された山川均「労働者階級の自覚−−百日間のストライキ 自覚のバロメートア」の中で,次のように記録される。
「九州炭砿の示威 三井所有の三池炭山に於ける万田,宮の浦,七浦,勝立四坑の大工,鍛冶,坑夫は聯合し二月六日より賃銀値上げの為め示威運動を行ふ」。
あるいは,山川は別のデータでこれを書いたのではないかと疑問をもたれる方もあるかも知れない。しかし,彼ははっきり「今過去一百日の間に平民新聞に顕はれたストライキの記事を総括して,日刊平民新聞に於ける予のストライキの筆を収める紀念としたい」として,これを書いているのである。
さらに,この山川均の論稿を材料に執筆されたことが明瞭な『大阪毎日新聞』9月6日付の「同盟罷業の種類と原因」と題する小文になると,「本年一月以来全国各地に於て賃銀値上げ及び待遇改良を要求し,同盟罷業叉は暴動を企てたる重なるもの」として「〔2月〕六日三池三池大工鍛冶坑夫全部」と三池炭鉱の大ストライキに化けている。この2つの記事が,『日本労働運動史料』第2巻に収録されたこともあって,青木虹二『日本労働運動史年表』,『筑豊石炭砿業史年表』などの専門年表までが,三池ストを採録しているのである。
ともあれ,誤った報道がある一方では,まだ未発見の資料もあるであろうし,また新聞などに報道されないまま埋もれてしまった争議もあるに違いない。たとえば,『明治四十年本邦鉱業の趨勢』に記録されながら,新聞報道など他の資料が未発見の鉱山ストライキは5件もある。また,農商務省調査には洩れているのに,その発生が確実なストも少なくないことは,この表に見られる通りである。
(4) 『風俗画報』が1907年3月に『足尾鉱夫暴挙図 』を刊行している。また,関西活動写真協会が,「足尾暴動事件初発より暴徒検挙までを取仕組」んだ活動写真を,同年4月20日から大阪・弁天座で上映している。当然のことながら「番組は文字の活動」ばかりであったが(『大阪朝日新聞』1907年4月22日付)。
(5) 裁判の概要については,小田中聡樹「足尾暴動事件」(我妻栄,林茂,辻清明,団藤重光編『日本政治裁判史録 明治・後』 第一法規出版株式会社,1969年)参照。
(6) 至誠会の活動家の出獄後の動静は,『社会新聞』などの社会主義運動機関紙誌による。永岡は明瞭に片山潜と行動をともにし,南助松はどちらかといえば,直接行動派に近かった。
(7) 全国坑夫組合については,拙稿 「全国坑夫組合の組織と活動」(1)〜(3)を参照ねがいたい。初出は,法政大学大原社会問題研究所 『資料室報』 159号,168号,185号 (1970年2月,71年1月,72年8月)。
(8) 『労働新報』第47号,1920年8月20日。
(9) カスミ生「テロと化した明治四十年の足尾銅山回顧録」(1)〜(3)(『鉱山労働者』第3巻第11号,第4巻第1号,第2号,1922年12月から23年2月。なお筆者のカスミ生は,友愛会足尾支部幹事長の経歴をもつ石田行正と推定される。
(10) 『労働』第163号,1925年2月5日付。
(11) 「日本社会党公報」『光』第22号,1906年9月25日。
(12) 『平民新聞』第28号,1907年2月19日。なお,幸徳秋水が足尾暴動の知らせにいかに強い衝撃を受けたかを,吉川守圀は次のように記している。
「事件起ると聞くや幸徳は興奮の余り自らを制止することが出来ず,社の入口を出たり入つたりして,如何にも感に堪へざる面持ちであるのを見受けた」(吉川守圀『荊逆星霜史』青木文庫版 125ページ)。
(13) 永岡らが暴動の鎮撫に努めた事実そのものは,『平民新聞』に特派員・西川光二郎の通信によって報じられていた(同紙第19号,1907年2月8日)。にも拘らず,幸徳は暴動を高く評価するに終わっているのである。
(14) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,222〜223ページ。
(15) 『足尾銅山鉱夫之友』は,完全揃いではないが,創刊号から107号(1926年1月)までが東京大学法学部明治新聞雑誌文庫に所蔵されている。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2004年9月7日]
【最終更新:
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