『大日本人名辞書』「高野房太郎」の項

『労働は神聖なり、結合は勢力なり』相補的ウェブ本



 ここではまず最初に『大日本人名辞書』の「高野房太郎」の項目の原文を、講談社学術文庫版から拡大して作成した画像で掲げておきます。ただし、内容にやや不正確な点があるので、下に全文を翻刻したうえで、明らかな誤りについては〔 〕内に注記します。なお、見られるとおり、原文では句読点がほとんど付されていませんが、読みやすさを考えて、翻刻に際しては、適宜補っておきます。




タカノ フサタラウ 高野房太郎  我国労働運動の先駆者、長崎の人。明治元年十二月〔十一月〕二十四日長崎市銀屋町高野仙吉の長男として生る。法学博士高野岩三郎の兄なり。十年父母に伴はれて東京に移る。横浜に汽船回漕業を営める叔父〔伯父〕高野彌三郎の招きに応じ、父は其の生業たりし裁縫業を抛ち、東京神田久右衛門町〔橋本町、のち久右衛門町に町名変更〕に於て回漕業兼旅宿業を経営することとなりたるにより〔よる〕。十二年父死亡の後も叔父〔伯父〕の保護の下に母の主宰に依て営業継続せられしが、十四年神田の大火災に会い家屋焼尽、依って日本橋浪花町に移り引続き営業す。その間神田〔日本橋〕千代田小学校及び本所江東小学校に学び小学の課程を全部終了、直ちに横浜に赴き叔父〔伯父〕の店に勤め、傍ら横浜市立商業学校〔横浜商法学校別科〕に学ぶ。十八年叔父〔十九年、伯父〕没するや、十九年志を立てて米国桑港に渡航し、小雑貨店を開き余暇を以て桑港市立商業学校に入学〔雑貨店の経営中に商業学校に通ったのではなく、入学は1891(明治24)年1月のこと。また余暇に通ったのではなく、昼間の全日課程に通学している〕其の課程を終る。雑貨店は幾くもなく閉鎖し、其の後は専ら諸種の労務に従事し、其の得る所を以て故国の母弟の生計及び学資に充て、傍ら主として経済学の独学自習に励む。二十九年春〔六月〕帰朝、横浜日刊英字新聞ジャパン・アドバタイザー記者〔翻訳記者〕となる。高野岩三郎〔および山崎要七郎〕共著の袖珍和英辞典(大倉書店発行)を編纂せるは此の時代にあり。同年六月〔十二月〕同社を辞し、片山潜其の他の諸氏と謀り労働組合期成会を起し、口に筆にまた東奔西走、身心を挙げて労働運動殊に労働組合の促進に努力す。同会機関紙『労働世界』に執筆したるもの多し。またこの頃アメリカ労働聯合会の機関紙〔機関誌〕アメリカン・フェデレーショニストの為めに日本の労働者状態または労働運動に関して論文を寄せたること少なからず。三十二年秋労働者的消費組合たる共営社を京橋八丁堀に起し後また之を横浜において営む〔これは順序が逆で、三十一年暮に横浜共営合資会社をおこし、三十二年に八丁堀で共営社を経営している〕。然るに期成会並に共営社の事業共に漸く衰運に向いしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪、遂に三十七年三月十二日山東省青島の独逸病院において肝臓膿腫の為めに斃る、時に年三十七。同地に於て葬儀を営み、遺骨は之を東京に送り本郷駒込吉祥寺に葬る。日清戦争当時、未だ一般に労働運動の何たるかを解せられざるの際に於いて率先之に当り、特に組合組織に尽せる如き、本邦労働運動史上没すべからざる先駆者の一人なりとす。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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