二村 一夫
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鉱種 | 期間 | 官営鉱山 | 民営鉱山 | 合 計 | 官営鉱山 生産比率 | 前5年平均を 100とする 後5年の指数 |
金 | 10-14年平均 | 58.659 | 21.426 | 80.085 | 73.3 | 100.0 |
15-19年平均 | 39.889 | 44.682 | 84.571 | 47.2 | 105.5 | |
銀 | 前5年平均 | 1,745.146 | 1,360.115 | 3,105.26 | 56.2 | 100.0 |
後5年平均 | 2,009.055 | 4,493.986 | 6,503.04 | 30.9 | 209.5 | |
銅 | 前5年平均 | 87,466 | 1,100,258 | 1,187,72 | 7.4 | 100.0 |
後5年平均 | 64,637 | 2,153,733 | 2,218,37 | 2.9 | 186.5 | |
鉄 | 前5年平均 | 920,526 | 2,826,374 | 3,746,900 | 24.6 | 100.0 |
後5年平均 | 1,106,73 | 2,198,589 | 3,305,325 | 33.6 | 88.2 | |
石炭 | 前5年平均 | 35,344,961 | 171,393,489 | 206,738,450 | 17.1 | 100.0 |
後5年平均 | 63,867,093 | 238,737,046 | 302,604,139 | 21.1 | 146.2 |
【備考】単位は、金・銀は貫匁。つまり官営鉱山の明治10〜14年平均の金は58貫659匁となる。銅・鉄・石炭の単位は貫である。
ここで、官営鉱山が民営鉱山を上回っているのは、明治10年代前半の金と銀だけである。いま問題となっている1882(明治15)年をふくむ後半期では、すべての鉱種で民営鉱山が官営鉱山をしのいでいる。なかでも、価額で比べれば、金・銀の合計額を大きく越え、日本鉱山業の双璧である銅と石炭で、官営鉱山のシェアがきわめて低いことが注目される。労働者数で官営鉱山の3分の1に満たない民営鉱山が、これほどの生産高を占めるには、労働者1人あたりの生産量が、官営鉱山の10倍以上に達していたということになる。ここでも、古島推計には、どこかに誤りがあると考えざるを得ない。集計対象が限られ、しかも政府直轄の官営鉱山の労働者数が誤まられる可能性は小さい。また日本坑法のもとで、すべての借区人は産出高等の報知を義務づけられていたから、生産高についても大きな誤差はないと思われる。仮にあったとしても、考えられるのは民営鉱山の報知漏れで、生産高で民営鉱山の比重を高めはしても、低めるものではない。そうなると、残るのは民営鉱山の労働者数である。
(4)そこで、民営鉱山労働者数について古島集計の基礎となった『第四統計年鑑』第51表「府県工業場」をチェックしてみよう。古島氏は、区分基準を明記されていないが、集計数値を原表と照合すれば容易に判明する。次が、古島集計で採鉱・精錬業として計上されたものの内訳である。
業種 | 工場数 | 所在府県名 | 労働者数 | |
採鉱 | 銀鉱 | 2 | 福島 | 583 |
銅鉱 | 3 | 大阪・高知 | 1,525 | |
小計 | 5 | 2,108 | ||
精錬 | 金銀銅吹 | 10 | 大阪 | 183 |
精銅、黄銅他 | 1 | 大阪 | 102 | |
安質母尼 | 5 | 大阪・兵庫・高知 | 45 | |
鉄煉 | 1 | 大阪 | 3 | |
合金 | 1 | 大阪 | 3 | |
割鉄 | 25 | 鳥取 | 425 | |
真鍮延 | 1 | 大阪 | 13 | |
小計 | 44 | 774 | ||
総計 | 49 | 2,882 |
一見して明らかなことは採鉱に金鉱が含まれておらず、石炭も完全に欠落していることである。また銅山にしても大阪府と高知県所在の3事業所だけで、別子(愛媛)、草倉(福島、1886年5月より新潟)、吉岡(岡山)、荒川(秋田)、尾小屋(石川)、笹ケ谷(島根)、足尾(栃木)など、当時の主要銅山はまったくここに含まれていないのである。そもそも、この年に日本全国で操業中の民営鉱山は金属山、非金属山をあわせて2587カ所にのぼっていたのに、ここでは僅かに5カ所にすぎない。何故このようなことになったか。理由は明瞭である。『第四統計年鑑』第51表「府県工業場」は、その前書きに、次のように記しているのである。
「本表ハ府県中公立共立私立ニ拘ラズ工場ノ名アルモノニ就テ調査シタルモノニシテ工業全体ノ景況ヲ推知スルニ足ラズト雖モ其一班ヲ見ルベキモノアルヲ以テ姑ラク此ニ之ヲ掲グ」。
当然のことながら、鉱山の場合は足尾銅山、高島炭坑のように鉱山、銅山、炭坑などの名を用いるのが通例で、工場と称したものは例外的であった。この表で、福島県の銀鉱としてあげられているのは五代友厚が経営した半田銀山であろうが、同山はその経営主体である弘成館の名を附していたので集計に加えられたものと思われる。いずれにせよ、この統計によって民営鉱山労働者の数を知ることは不可能であり、また、これをもとに労働者の産業別構成を論ずることも問題があると言わねばならない。
古島推計のほかには、村串仁三郎氏が全国の炭坑労働者数を、出炭高を基礎に算出された数値がある。次がそれである。
第3表 全国炭坑労働者数推計
1874(明治 7)年 1,700人
1877(明治10)年 4,100
1882(明治15)年 7,700
1887(明治20)年 14,000
1892(明治25)年 26,000
1897(明治30)年 43,000
【備考】村串仁三郎『日本炭鉱賃労働史論』119ページ。
しかし、この数も1901(明治34)年の労働者1人当りの年間出炭高120トンをそのまま過去にさかのぼらせており、いちおうの目安にはなっても、推計誤差はかなり大きいと予想される(6)。橋本哲哉氏が三池について算出した労働者1人当りの1日出炭能率は、1877年に0.25トンであったものが87年には0.38トン、1901年には0.62トンと急速な上昇を示している(7)。村串推計は年代をさかのぼればさかのぼるほど、過少になっていると思われる。
(1)法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』273号(1981年2月)、同281号(1981年11月)、同286号(1982年5月)。なおこの一連の論稿を改訂したものが『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』の第2章の補論および第3章である。本稿は紙幅の都合もあり同書では省いた。
(2) 古島敏雄『資本制生産の発展と地主制』(御茶の水書房、1963年)
(3) 古島敏雄『産業史III』(山川出版社、体系日本史叢書12、1966年)
(4)同上書202ページ。
(5) 『研究資料月報』第273号、12〜16ページ。
(6) 村串氏は全く利用されていないが、1893年以降については鉱山労働者数、それも金属山、石炭山、その他の非金属山にわけ、府県別の労働者数、延工数に関する統計があり、推計の必要は全くない(第7表参照)。ちなみに、村串氏が4万3000人と推計された1897年12月末日現在の炭坑労働者数は8万2529人である。もっとも、延工数に比し、この労働者数は過大で、同年秋以降に急速な人員増がおこったことを推測させる。延工数から逆算した同年中の炭坑労働者数は約6万3000人である。
(7) 橋本哲哉「三池鉱山と囚人労働」(『社会経済史学』32巻4号、1966年12月)54ページ。
「原蓄期における鉱山労働者──明治前期産業統計の吟味」(上)の原題で、法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第289号(1982年9月)に掲載した論稿の前半部分。
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