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二村 一夫

1880年代の鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(1)



   目  次
 はじめに
 1 1880年代の鉱業労働者数に関する通説〔以上 本ファイル〕
 2 鉱業労働者数に関する新資料
 3 1881年における鉱山労働者の地方別分布
 4 「会社種類別」表における職工数の吟味



はじめに

 本稿は、筆者が現在、本誌に連載中の「足尾銅山における労資関係の史的分析」(1)の補論である。はじめは1880年代の足尾銅山において労働力の急激な蓄積が可能であった条件を明らかにするものとして、本論のなかで展開する予定であった。しかし検討を進めるにつれて、従来の研究が一様に依拠してきた統計資料の信憑性に疑問が生じただけでなく、これを訂正しうるデータが埋もれていることも発見した。その結果、原蓄期の日本鉱山業は今まで考えられていたように官営鉱山が主体であるとは必ずしもいえず、生産高や労働者数で民営鉱山がはるかにそれを上回る発展をしめしていたこと、それも1880年代初頭においては工場制製糸業をしのぐほどのものであったことが浮かびあがってきた。同時に、従来の研究が描いてきた原蓄期における産業別あるいは地域別の労働力構成には大きな歪みがあることが明らかとなった。
 問題の性質上、古島敏雄氏をはじめとする先学の研究を批判するという論争的なものとなり、また内容的にも『統計年鑑』や『農商務統計表』の数値を吟味することが中心となり、「足尾銅山における労資関係の分析」からあまりに離れてしまったので、別稿にまとめることにした。



1 1880年代の鉱業労働者数に関する通説

 ここで足尾をしばらく離れて、1880年代における日本全体の鉱業労働者数を明らかにしてみたい。というのも、1880年代における足尾銅山の急速な発展は、別稿で見たとおり、多数の熟練労働者を他鉱山から引き抜くことによって可能となったのであるが、この事実と、従来の日本経済史や賃労働史の研究結果とは、どうにも整合しないところがあるからである。
 もっとも、この問題に正面からとりくんだ研究は、知る限りではほとんどない。おそらく古島敏雄氏が『資本制生産の発展と地主制(2)』の第二章「明治十年代における資本制生産の展開」において、さらに『産業史III(3)』の第二編第二章第三節「鉱山業における官営と十年代における鉱業の様相」で『統計年鑑』や『農商務統計表』を主たる材料として検討されたものが、これまでの最も詳細な研究であろう。まず、後者から、その総括部分を引用してみよう。

 「すでにのべてきたところで、鉱山業についてわれわれの知る点は、次の諸点である。15(1882)年前後の資本賃労働関係のもとで営なまれる作業場についてみれば、民間作業場としては採鉱精錬関係には49作業場(総数の2.5%)があり、2,882人(総労働者数の4.7%)の労働者がそこで働いている。これに対して官営の作業場には5,210人(官営作業場労働者の24.7%)の労働者が働いている。民営作業場には10馬力の蒸気機関が用いられるのに対して官営鉱山には824馬力が用いられている。就業労働者数が1.8倍であるだけでなく、近代的装備をもった生産が行われていることを知ることができる」(4)

 だが、この結論にはいくつもの疑問がある。
 (1)ごく単純な問題からいえば、官営鉱山の労働者数を5,210人とされたのは、自身で作成された表の読み間違いであろう。古島氏は同書第18表では1883年の官営鉱山の労働者9,396人と造幣局の労働者477人を「特殊工業」として一括した上で、金属鉱山の労働者を「採鉱・精錬」5,210人、炭坑と造幣局の労働者を「その他」として4,663人に区分されている。要するに5,210人は金属鉱山だけの労働者数で、三池、油戸、幌内の三炭坑の労働者はこれに含まれていないのである。
 (2)足尾との関連でいえば、1882年の金属鉱山労働者数を官営・民営をあわせて約8,000人と見る古島推計はあまりに少ないと思われる。1884年には古河の足尾、草倉両山だけで4,891人もの労働者を雇用し、うち約3,000人は新規雇用者であった。このうち3分の1あまりは熟練職種である坑夫、製煉夫で、その多くは他鉱山からの引き抜きによって補充されたとみられる。かりに1882年の金属鉱山労働者を8,000人とすれば、うち坑夫、製煉夫は3,000人足らずである。この中から、古河が1000人から1500人を引き抜いたならば、足尾、草倉だけでなく、引き抜きの対象となった鉱山の側でも賃金の大幅上昇を結果したであろう。だが実際には、別稿で見たように、80年代前半を通じ佐渡、生野、別子、半田等の諸鉱山で、坑夫、製煉夫の賃金は低下傾向を示したのである(5)。古島推計は、どこかに問題があると考えざるを得ない。
 (3) そこで古島推計の内容を検討すると、まず気がつくのは、民営鉱山の労働者数がその生産額にくらべ、あまりに少ないことである。つぎの表は、古島氏の『産業史III』、それも今引用したばかりの一節の次頁、見開き頁に掲げられている表である。


〔第1表〕主要鉱山生産物の官民鉱山別生産量(明治10年代前後半期比較)
鉱種期間官営鉱山民営鉱山合 計官営鉱山
生産比率
前5年平均を
100とする
後5年の指数
10-14年平均58.659   21.42680.08573.3100.0
15-19年平均39.889   44.68284.57147.2105.5
前5年平均1,745.146  1,360.1153,105.2656.2100.0
 後5年平均2,009.055  4,493.9866,503.0430.9209.5
前5年平均  87,4661,100,2581,187,727.4 100.0
後5年平均64,6372,153,733  2,218,372.9186.5
前5年平均  920,5262,826,3743,746,90024.6 100.0
後5年平均1,106,732,198,589 3,305,32533.6 88.2
石炭前5年平均 35,344,961171,393,489206,738,45017.1 100.0
後5年平均 63,867,093 238,737,046302,604,13921.1 146.2

【備考】単位は、金・銀は貫匁。つまり官営鉱山の明治10〜14年平均の金は58貫659匁となる。銅・鉄・石炭の単位は貫である。

 ここで、官営鉱山が民営鉱山を上回っているのは、明治10年代前半の金と銀だけである。いま問題となっている1882(明治15)年をふくむ後半期では、すべての鉱種で民営鉱山が官営鉱山をしのいでいる。なかでも、価額で比べれば、金・銀の合計額を大きく越え、日本鉱山業の双璧である銅と石炭で、官営鉱山のシェアがきわめて低いことが注目される。労働者数で官営鉱山の3分の1に満たない民営鉱山が、これほどの生産高を占めるには、労働者1人あたりの生産量が、官営鉱山の10倍以上に達していたということになる。ここでも、古島推計には、どこかに誤りがあると考えざるを得ない。集計対象が限られ、しかも政府直轄の官営鉱山の労働者数が誤まられる可能性は小さい。また日本坑法のもとで、すべての借区人は産出高等の報知を義務づけられていたから、生産高についても大きな誤差はないと思われる。仮にあったとしても、考えられるのは民営鉱山の報知漏れで、生産高で民営鉱山の比重を高めはしても、低めるものではない。そうなると、残るのは民営鉱山の労働者数である。
 (4)そこで、民営鉱山労働者数について古島集計の基礎となった『第四統計年鑑』第51表「府県工業場」をチェックしてみよう。古島氏は、区分基準を明記されていないが、集計数値を原表と照合すれば容易に判明する。次が、古島集計で採鉱・精錬業として計上されたものの内訳である。

第2表 『第四統計年鑑』所収「府県工業場」中の採鉱・精錬業
業種工場数所在府県名労働者数
採鉱銀鉱2福島583
銅鉱3大阪・高知1,525
小計5  2,108
精錬金銀銅吹10大阪183
精銅、黄銅他1大阪102
安質母尼5大阪・兵庫・高知45
鉄煉1大阪3
合金1大阪3
割鉄25鳥取425
真鍮延1大阪13
小計44  774
総計  49  2,882

【備考】『第四統計年鑑』177〜183ページにより作成。

 一見して明らかなことは採鉱に金鉱が含まれておらず、石炭も完全に欠落していることである。また銅山にしても大阪府と高知県所在の3事業所だけで、別子(愛媛)、草倉(福島、1886年5月より新潟)、吉岡(岡山)、荒川(秋田)、尾小屋(石川)、笹ケ谷(島根)、足尾(栃木)など、当時の主要銅山はまったくここに含まれていないのである。そもそも、この年に日本全国で操業中の民営鉱山は金属山、非金属山をあわせて2587カ所にのぼっていたのに、ここでは僅かに5カ所にすぎない。何故このようなことになったか。理由は明瞭である。『第四統計年鑑』第51表「府県工業場」は、その前書きに、次のように記しているのである。
 「本表ハ府県中公立共立私立ニ拘ラズ工場ノ名アルモノニ就テ調査シタルモノニシテ工業全体ノ景況ヲ推知スルニ足ラズト雖モ其一班ヲ見ルベキモノアルヲ以テ姑ラク此ニ之ヲ掲グ」。
 当然のことながら、鉱山の場合は足尾銅山、高島炭坑のように鉱山、銅山、炭坑などの名を用いるのが通例で、工場と称したものは例外的であった。この表で、福島県の銀鉱としてあげられているのは五代友厚が経営した半田銀山であろうが、同山はその経営主体である弘成館の名を附していたので集計に加えられたものと思われる。いずれにせよ、この統計によって民営鉱山労働者の数を知ることは不可能であり、また、これをもとに労働者の産業別構成を論ずることも問題があると言わねばならない。

 古島推計のほかには、村串仁三郎氏が全国の炭坑労働者数を、出炭高を基礎に算出された数値がある。次がそれである。

   第3表 全国炭坑労働者数推計
 1874(明治 7)年    1,700人
 1877(明治10)年    4,100
 1882(明治15)年    7,700
 1887(明治20)年    14,000
 1892(明治25)年    26,000
 1897(明治30)年    43,000

【備考】村串仁三郎『日本炭鉱賃労働史論』119ページ。

 しかし、この数も1901(明治34)年の労働者1人当りの年間出炭高120トンをそのまま過去にさかのぼらせており、いちおうの目安にはなっても、推計誤差はかなり大きいと予想される(6)。橋本哲哉氏が三池について算出した労働者1人当りの1日出炭能率は、1877年に0.25トンであったものが87年には0.38トン、1901年には0.62トンと急速な上昇を示している(7)。村串推計は年代をさかのぼればさかのぼるほど、過少になっていると思われる。





【注】


 (1)法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』273号(1981年2月)、同281号(1981年11月)、同286号(1982年5月)。なおこの一連の論稿を改訂したものが『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』の第2章の補論および第3章である。本稿は紙幅の都合もあり同書では省いた。

 (2) 古島敏雄『資本制生産の発展と地主制』(御茶の水書房、1963年)

 (3) 古島敏雄『産業史III』(山川出版社、体系日本史叢書12、1966年)

 (4)同上書202ページ。

 (5) 『研究資料月報』第273号、12〜16ページ。

 (6) 村串氏は全く利用されていないが、1893年以降については鉱山労働者数、それも金属山、石炭山、その他の非金属山にわけ、府県別の労働者数、延工数に関する統計があり、推計の必要は全くない(第7表参照)。ちなみに、村串氏が4万3000人と推計された1897年12月末日現在の炭坑労働者数は8万2529人である。もっとも、延工数に比し、この労働者数は過大で、同年秋以降に急速な人員増がおこったことを推測させる。延工数から逆算した同年中の炭坑労働者数は約6万3000人である。

 (7) 橋本哲哉「三池鉱山と囚人労働」(『社会経済史学』32巻4号、1966年12月)54ページ。



「原蓄期における鉱山労働者──明治前期産業統計の吟味」(上)の原題で、法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第289号(1982年9月)に掲載した論稿の前半部分。








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