二村 一夫
1880年代の鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(2)
目 次
はじめに
1 1880年代の鉱業労働者数に関する通説
2 鉱業労働者数に関する新資料〔本ファイル〕
3 1881年における鉱山労働者の地方別分布
4 「会社種類別」表における職工数の吟味
2 鉱山労働者数に関する新資料
では、1880年代の鉱山労働者数を知る手がかりはまったくないのか。そうではない。これまで見逃されてきたが、充分信頼するに足る数字が残されている。本節の標題に「新資料」などと書いたが、実は他ならぬ『第二統計年鑑』および『第三統計年艦』の「鉱山」の部に収録されている「民行鉱業ノ一(金属)」「民行鉱業ノ二(非金属)」「民行鉱業ノ三(金属・非金属ヲ問ハズ僅カニ二三県ノ掘出ニ止マルモノ)」の3表のなかに含まれている「行業工数」についての統計がそれである。
何故この統計を「充分信頼するに足る」と判断するかといえば、他産業とことなり、鉱山業を営む者は必ず政府から坑区を借区しなければならず(日本坑法第三章)、開坑人は毎年1月と7月に「前六ケ月間ニ産出セシ坑物量其売出高並代価、及行業日数工数ヲ具記シテ鉱山寮ニ報知」することを義務づけられていたからである。しかも、その数量の不正や報知の「違期」には罰金五十円が課せられ、また、「若シ売出高並代価ヲ減書スル者ハ其減書セシ高ノ三倍ヲ徴収ス可シ」(以上、日本坑法第十九)と規定されていた(8)。要するに鉱業の場合は、いかに零細規模の経営であろうと、その存在は100%近く政府によって掌握されうる体制になっていたのである。問題の統計がカバーしている借区人の数は、現に操業中のもの(現行)だけで、80年は5579人、81年では4393人に達している。
しかも各借区人から工部省への「報知」には、1874年以降一貫して「借区坑業明細表」と題する統一書式の調査表が使用されたのである(9)。『統計年鑑』各年の「民行鉱業」に関する数値が、この「報知」にもとづくものであることは、統計項目と「借区坑業明細表」とを見較べれば明らかである。掘高高、製煉高、出来高、さらには掘出・製煉別の行業工数といつた独特の用語が、両者に共通して用いられている。
全国のすべての事業所に、毎年2回、時期を定め、統一書式の調査表を用いて報告を義務づけ、しかも報告内容の不正に対しては罰金をもってのぞんだ統計調査の精度は、かなり高いと見てよいのではないか。当時の産業統計は、一般的に脱漏が多く、信頼できないことが指摘されてきたが(10)、鉱業統計に関する限り、この指摘は当たらないように思われる。
では具体的な数値の検討に入ろう。まず総数から見よう。
第4表 民営鉱山採鉱、製煉延工数
| 1880(明治13)年 | 1881(明治14)年 |
掘出工数 | 製煉工数 | 計 | 掘出工数 | 製煉工数 | 計 |
金属山 | 4,857,164 | 2,461,504 | 7,318,668 | 4,274,082 | 2,654,402 | 6,928,484 |
非金属山 | 4,051,239 | 75,583 | 4,126,822 | 3,719,524 | 40,577 | 3,760,101 |
計 | 8,908,403 | 2,537,087 | 11,445,490 | 7,993,606 | 2,694,979 | 10,688,585 |
1880年では年間延1145万人、翌81年には延1069万人が北海道を除く全国の民営鉱山で働いていたのである。この人員がいかに大きなものであるかは、次の数字と比べてみればすぐにわかる。すなわち『第一次農商務統計表』によれば4年後の1884(明治17)年の全国16府県418工場の職工延人員は392万6552人に過ぎなかった。また、同年について28府県の府県統計書に記載された職工延人員の総計は919万4675人であった(11)のである。『農商務統計表』や府県統計書には多くの集計もれがあることを考慮にいれなければならないが、1880年代初頭において、鉱山労働者がこれまで考えられていたより、はるかに大きな比重を占めていたことは否定できないと思われる。しかも、ここには1881年に鉱夫3720人、職工5145人の計8865人(延数ではない)を数えた官営鉱山の労働者は含まれていないのである。かりに官営鉱山の行業日数を年330日とすると、延労働者数は292万5450人となり、1881年における鉱山労働者の年間延人員は1360万人にも達する。
なお、『農商務統計表』などが、労働者数をこのように延数で示していることについて、鮫島龍行氏は「奇妙なことに職工数は、フローの形でとらえられた非現実的な延人員で、静態的にとらえられた一定時点における現在数ではない」と批判されている(12)。しかし、『第一次農商務統計表』がカバーした418工場のうち308工場と圧倒的な多数を占めた製糸工場の年間操業日数は、少ないものでは40日、多くても150日程度であったことを考えると、延数表示が「非現実的」とは言いきれない。むしろ、産業別の労働者数の比較のためには鮫島氏がやられたように延人員を1年間の就業日数で割った数よりも、年間の延数で見る方が、むしろ「現実的」な面をもっているのではなかろうか。
とはいえ、延数だけでは理解し難いこともまた事実である。そこで次に就業労働者の実数を推計して見たい。だが、それには、まず当時の鉱山労働者の年間平均労働日数を知らねばならない。残念ながら1880年代に関するこの種の統計は全く残されていない。だが手がかりになるデータが2つある。1つはすでに足尾の労働者数の算出の際に用いた『鉱夫待遇事例』の第4章「鉱夫稼働日数及労働時間」に関する調査である。そこには、調査の結果が次のように表示されている。
第5表 鉱夫1ヵ月平均稼働日数
| 金属山 | 石炭山 |
鉱夫の種別 | 1ヵ月の平均稼働日数 | 稼働百分率 | 1日平均労働時間 | 1ヵ月の平均稼働日数 | 稼働百分率 | 1日平均労働時間 |
坑夫 | 24日 | 80% | 8時間 | 21日 | 70% | 9時間 |
選鉱夫 | 26日 | 87% | 11時間 | 25日 | 83% | 11時間 |
製煉夫 | 27日 | 90% | 11時間 | − | − | − |
職工 | 27日 | 90% | 11時間 | 27日 | 90% | 11時間 |
運搬夫 | − | − | − | 25日 | 83% | 11時間 |
これによれば、金属鉱山の坑夫は1ヵ月平均24日稼働であるから、これを1年間みれば288日となる。一方、製煉夫と職工は1ヵ月平均27日であるから1年間にすれば324日になる。ただし選鉱夫は1ヵ月平均26日であるから、年間312日。したがって製錬延工数から労働者数を算出するには1年320日前後として大過ないであろう。
非金属鉱山の場合、その圧倒的多数を占めるのは石炭である。したがって掘出工数から労働者数を算出するには、坑夫1ヵ月平均21日、運搬夫同25日の間をとって1ヵ月平均23日とし、1年間276日稼働としてよいであろう。非金属山で製煉があるのは石油坑、硫黄鉱山などであるが、これは1ヵ月27日、年間324日としてよかろう。以上によって、とりあえず算出してみたのが次の表である。
第6表 1880、81年民営鉱山労働者数試算(A)
| 1880年 | 1881年 |
掘出 | 製煉 | 計 | 掘出 | 製煉 | 計 |
金属山 | 16,865 | 7,692 | 24,557 | 14,841 | 8,295 | 23,136 |
非金属山 | 14,678 | 233 | 14,911 | 13,477 | 125 | 13,602 |
計 | 31,543 | 7,925 | 39,468 | 28,318 | 8,420 | 35,738 |
しかし、『坑夫待遇事例』の数字をこのように利用するには、いささか問題がある。というのは、同調査は1906年現在で「主トシテ鉱夫五百人以上ヲ使役スル鉱山」を対象としたもので、これが全国の鉱山一般に、とりわけ1880年代初頭においてそのまま妥当したとは考えられないからである。何故なら、小鉱山、小炭坑の場合には、年間の操業日数そのものが短い場合が少なくなかったからである。たとえば、1885(明治18)年における筑豊の炭坑の操業日数は最高の大辻炭坑で336日、ついで目尾炭坑の320日、以下麻生炭坑305日、尾仲、出龍、上河原、小追の4炭坑が300日、新手、本洞、古田の3炭坑が270日、斯波炭坑、新八村炭坑にいたっては、それぞれ170日、169日という短かさであった(13)。
したがって、『鉱夫待遇事例』の稼働日数をもとに算出した就業労働者数は、実際よりかなり少なくなっているのではないかと思われる。
延工数から就業労働者の実数を算出する上でより信頼しうると思われるデータは、『第二鉱山統計便覧』から『第五鉱山統計便覧』および『農商務統計表』の第15次以降40次までに掲出されている「鉱山就業人員」と「工数」に関する統計である。掘出工数と製煉工数の区別を欠いてはいるが、金属山、石炭山、其他非金属山の3種にわけて、1893年以降1898年までは各年の12月末日現在の労働者数と年間延工数を、1899年以降は6月末現在員と年間延工数を府県別レベルまで表示している。いずれも農商務省鉱山局への報告をもとに集計されたもので(14)信頼性は高いと思われる。何よりも延工数の数値は、本稿でとりあげた1881年、82年の数値と比較可能なものである点が重要である。これまであまり知られていないのと、一表にまとめたものがないので、ここで紹介しておこう。次の第7表がそれである。 1905年に刊行され始めた『本邦鉱業一斑』、1912年以降の『本邦鉱業の趨勢』と一致しない点も多いが、その検討は別の機会にするほかはない。
第7表 鉱山労働者・延工数(1)
年次 | 金属山 | 石炭山 |
人員 | 延工数 | 1人当り工数 | 人員 | 延工数 | 1人当り工数 |
1893 | 53,474 | 17,845,684 | 333.7 | 30,345 | 8,205,995 | 270.4 |
1894 | 55,703 | 19,340,936 | 347.2 | 42,876 | 10,136,423 | 236.4 |
1895 | 60,368 | 20,042,792 | 332.0 | 54,091 | 11,759,334 | 217.4 |
1896 | 59,606 | 20,688,332 | 347.1 | 53,751 | 13,294,847 | 247.3 |
1897 | 71,988 | 20,930,165 | 290.7 | 82,529 | 15,431,842 | 187.0 |
1898 | 51,706 | 14,810,715 | 286.4 | 75,831 | 17,372,163 | 229.1 |
1899 | 51,141 | 15,102,605 | 295.3 | 60,964 | 16,539,887 | 271.3 |
1900 | 54,805 | 15,150,354 | 276.4 | 70,508 | 16,992,102 | 241.0 |
1901 | 63,980 | 16,102,664 | 251.7 | 75,230 | 19,414,676 | 258.1 |
1902 | 60,339 | 16,549,638 | 274.3 | 78,894 | 19,987,640 | 253.3 |
1903 | 64,859 | 18,599,721 | 286.8 | 84,941 | 22,258,368 | 262.0 |
1904 | 69,133 | 19,411,812 | 280.8 | 88,330 | 22,663,190 | 256.6 |
1905 | 68,861 | 19,893,671 | 288.9 | 79,505 | 19,320,736 | 243.0 |
1906 | 73,751 | 21,363,859 | 289.7 | 106,589 | 27,742,862 | 260.3 |
1907 | 76,721 | 22,376,465 | 291.7 | 128,772 | 31,714,707 | 246.3 |
1908 | 69,433 | 20,796,962 | 299.5 | 126,999 | 34,068,849 | 268.3 |
1909 | 74,105 | 20,947,750 | 282.7 | 152,515 | 32,760,506 | 214.8 |
1910 | 74,736 | 21,215,666 | 283.9 | 137,467 | 33,711,976 | 245.2 |
1911 | 72,614 | 21,902,793 | 301.6 | 145,412 | 36,106,127 | 248.3 |
1912 | 73,694 | 23,153,233 | 314.2 | 152,429 | 38,682,092 | 253.8 |
1913 | 79,479 | 24,245,352 | 305.1 | 172,446 | 40,356,959 | 234.0 |
1914 | 77,214 | 23,304,676 | 301.8 | 182,637 | 44,106,992 | 241.5 |
1915 | 86,359 | 24,849,873 | 287.8 | 193,142 | 42,386,897 | 219.5 |
1916 | 139,175 | 36,081,301 | 259.3 | 197,907 | 47,238,338 | 238.7 |
1917 | 165,151 | 42,323,281 | 256.3 | 250,144 | 57,679,769 | 230.6 |
1918 | 160,960 | 39,474,119 | 245.2 | 287,159 | 69,193,103 | 241.0 |
1919 | 100,800 | 29,968,133 | 297.3 | 348,240 | 83,860,075 | 240.8 |
1920 | 78,842 | 21,820,552 | 276.8 | 342,873 | 81,129,349 | 236.6 |
1921 | 45,423 | 13,650,340 | 300.5 | 267,614 | 63,751,499 | 238.2 |
1922 | 40,080 | 11,929,529 | 297.6 | 249,022 | 60,111,505 | 241.4 |
1923 | 41,971 | 12,576,698 | 299.7 | 278,771 | 60,063,425 | 215.5 |
第7表 鉱山労働者・延工数(2)
年次 | その他の非金属山 | 合計 |
人員 | 延工数 | 1人当り工数 | 人員 | 延工数 | 1人当り工数 |
1893 | 3,098 | 862,115 | 278.3 | 86,917 | 26,913,794 | 309.6 |
1894 | 2,882 | 785,206 | 272.5 | 101,461 | 30,262,565 | 298.3 |
1895 | 4,504 | 1,071,913 | 238.0 | 118,963 | 32,874,039 | 276.3 |
1896 | 5,160 | 1,435,430 | 278.2 | 118,517 | 35,418,609 | 298.8 |
1897 | 6,022 | 1,290,548 | 214.3 | 160,539 | 37,652,555 | 234.5 |
1898 | 5,194 | 1,267,988 | 244.1 | 132,731 | 33,450,866 | 252.0 |
1899 | 7,562 | 1,141,946 | 151.0 | 119,667 | 32,784,438 | 274.0 |
1900 | 5,698 | 1,319,185 | 231.0 | 131,011 | 33,461,641 | 255.4 |
1901 | 6,545 | 1,414,331 | 216.1 | 145,755 | 36,931,671 | 253.4 |
1902 | 7,706 | 1,466,381 | 190.3 | 146,939 | 38,003,659 | 258.6 |
1903 | 7,329 | 1,829,410 | 249.6 | 157,129 | 42,687,499 | 271.7 |
1904 | 7,395 | 1,947,632 | 263.4 | 164,858 | 44,022,634 | 267.0 |
1905 | 6,609 | 1,813,308 | 274.4 | 154,975 | 41,027,715 | 264.7 |
1906 | 7,582 | 2,137,375 | 281.9 | 187,922 | 51,244,096 | 272.7 |
1907 | 8,942 | 2,349,650 | 262.8 | 214,435 | 56,440,822 | 263.2 |
1908 | 6,157 | 2,200,130 | 357.3 | 202,589 | 57,065,941 | 281.7 |
1909 | 7,207 | 2,516,821 | 349.2 | 233,827 | 56,225,077 | 240.5 |
1910 | 9,992 | 2,990,491 | 299.3 | 222,195 | 57,918,133 | 260.7 |
1911 | 8,282 | 2,846,395 | 343.7 | 226,308 | 60,855,315 | 268.9 |
1912 | 8,227 | 2,566,675 | 312.0 | 234,350 | 64,402,000 | 274.8 |
1913 | 10,238 | 2,877,571 | 281.1 | 262,163 | 67,479,882 | 257.4 |
1914 | 10,729 | 2,958,670 | 275.8 | 270,580 | 70,370,338 | 260.1 |
1915 | 10,583 | 2,706,432 | 255.7 | 290,084 | 69,943,202 | 241.1 |
1916 | 15,430 | 4,030,517 | 261.2 | 352,512 | 87,350,156 | 247.8 |
1917 | 18,548 | 4,900,185 | 264.2 | 433,843 | 104,903,235 | 241.8 |
1918 | 16,608 | 4,372,177 | 263.3 | 464,727 | 113,039,399 | 243.2 |
1919 | 16,118 | 4,268,522 | 264.8 | 465,158 | 118,096,730 | 253.9 |
1920 | 17,444 | 3,975,849 | 227.9 | 439,159 | 106,925,750 | 243.5 |
1921 | 15,771 | 3,544,264 | 224.7 | 328,808 | 80,946,103 | 246.2 |
1922 | 11,759 | 3,335,821 | 283.7 | 300,861 | 75,376,855 | 250.5 |
1923 | 11,645 | 3,222,667 | 276.7 | 332,387 | 75,862,790 | 228.2 |
この表によって、労働者1人当りの年間工数を1893年から1923年の31年間について平均すると、金属山で293.0工、石炭山で241.5工となる。ただ、この表で検討を要するのは1893年から96年までの4年間の1人当り工数が全体的に高いことである。とくに金属山の場合は、この4年間の平均が340工と著しく高い。94年、96年の347工などは1ヵ月29日稼働という信じ難い高さである。
なぜこのような高い数字になっているのか。第一に考えられるのは1899年以降の人員は6月末現在数であるのに、98年以前は12月末日現在であることによる影響である。たとえば、出稼労働者の場合、その多くは暮から正月にかけて帰郷したに相違ない。彼等が、これを休暇でなく、退職した形をとったとすれば、12月末日現在の在籍人員はその他の時期よりはるかに少なくなるにちがいない。あるいは、他の時期であれば当然計上される日々雇用の文字通りの日雇労働者なども、大晦日に鉱山で働いた者は少ないであろうから、その分だけ労働者数は減ることになる。しかし、これだけで説明がつかないのは、1897、98の両年は、同じ12月末現在でありながら99年以降と大きな差がないことである。あえて推測すれば、鉱山局が、こうした問題点に気づき、12月末日現在数に一時的な帰郷者をふくめるよう指導するとか、文字通りの末日現在員でなく年間の平均在籍者数を報告するよう行政的な指導をおこなったものであるかも知れない。99年から6月末現在数に改めたのも、おそらく12月末現在数では事態を正確に反映しないと考えたからではなかろうか。
だが、この期の金属鉱山における労働者1人当りの年工数を押し上げた主たる原因は別のところにある。それは足尾銅山の統計事務担当者が延工数の計算方法を誤ったことによるものではないかと思われる。というのは、『第二鉱山統計便覧』から『第五鉱山統計便覧』には1893年から96年までの、「第十四農商務統計表」には97年の、「第十五農商務統計表」には99年の「鉱山就業人員及工数府県別」の表があり、これによると1897年以前の栃木県の延工数が異常に高いことがわかるのである。
第8表 栃木県及び全国鉱山労働者数・延工数
| 栃木県 | 全国(栃木県を除く) |
人員 | 延べ工数 | 1人当たり工数 | 人員 | 延べ工数 | 1人当たり工数 |
1893 | 6,123 | 4,455,066 | 727.6 | 47,351 | 13,390,618 | 282.8 |
1894 | 5,921 | 5,404,635 | 912.8 | 49,782 | 13,936,301 | 279.9 |
1895 | 7,318 | 6,072,890 | 829.9 | 53,050 | 13,969,902 | 263.3 |
1896 | 7,640 | 7,021,829 | 919.0 | 51,966 | 13,666,503 | 263.0 |
1897 | 10,875 | 6,977,588 | 641.6 | 61,113 | 13,952,577 | 228.3 |
1899 | 5,753 | 1,887,920 | 328.2 | 45,388 | 13,214,985 | 291.2 |
93年から97年までの栃木県の金属山(足尾銅山)の1人当り年工数は、単に12月末日現在人員が平常より減少するといったことでは説明がつかない高さである。ここにはなにかの誤りがあると思われる。おそらく延工数の算出にあたって人員×営業日数×3(交替)としたのではないかと椎測される。
以上で、金属鉱山の労働者1人当りの年間稼働日数の算出には1898年以前は除外した方がより実態に近い数値が得られることが明らかになった。そこで1899年以降の25年間の平均をとると285.8工となる。あるいはその他の年次にも何等かの誤りがおこりうることを考慮すれば、上下各4年を除いた23年間についての平均値をとるべきかも知れない。これによれば、金属山は291.7工、石炭山は242.9工となる。石炭山の場合は『鉱夫待遇事例』によって算出した数値を大幅に下回っている。
いずれにせよある程度の誤差が出ることは避けられないので、ここでは掘出、製煉をあわせた金属鉱山労働者の年平均工数を288工、非金属鉱山労働者の年平均工数を242工として1880年代初頭における民営鉱山労働者数を算出しておこう。
第9表 1880、81年民営鉱山労働者数試算(B)
| 1880年 | 1881年 |
延べ工数 | 人員 | 延べ工数 | 人員 |
金属山 | 7,318,668 | 25,412 | 6,928,484 | 24,057 |
非金属山 | 4,126,822 | 17,053 | 3,760,101 | 15,538 |
計 | 11,445,490 | 42,465 | 10,688,585 | 39,595 |
1880年をとれば、民営金属鉱山の労働者数は約2万5000人、民営非金属鉱山の労働者数は1万7000人、合計4万2000人である。81年はこれより若干少なく、それぞれ2万4000人、1万5500人計3万9500人である。『鉱夫待遇事例』のデータによる試算より両年度とも約3000人多くなる。これは民営鉱山だけの労働者数であるから、これに官営鉱山の労働者数を加えたものが全国の鉱山労働者数となる。官営鉱山の労働者数は1880年については不明、81年は8865人である。ただし、この数は在籍人員ではなく年間延工数を行業日数で除した1日平均就労者数であるので(15)、実際の労働者数はこれをかなり上回る。かりに鉱夫の出勤率を85%職工の出勤率を95%とすれば、在籍労働者数は1万0807人となる。このほか1886年末で2369人を数えたところの鉱業に従事した囚人をふくめて考えると、1880年代初頭における日本の鉱山労働者の総数は、確実に5万人を越えていたのである。
従来、1880年代の産業別労働者構成を論じた研究は、1882(明治15)年については『第四統計年鑑』の第51表「府県工業場」に依拠し、1886(明治19)年については『第三次農商務統計表』の第44表「工場府県別」を用いてきた。しかし、これらのデータが、鉱業労働者の数を正しく示していないことは、今や明らかである。すなわち、前者によれば民営鉱業の労働者数は、2444人(16)、あるいは2882人(17)、あるいは「特殊工業」として2941人(18)と算出され、構成比では4.0%から4.8%を占めるにすぎない。一方、3万7677人を数える製糸労働者が、構成比では61.7%を占め、紡績、織物等を含む繊維工業全体で4万5601人、74.7%と実に全労働者の4分の3を占めることになっている。だが、実際には民営鉱業労働者は延工数で他を大きく引き離していただけでなく、実数でも製糸業をしのぐ4万人台を数えていたのである。
これに対し、『第三次農商務統計表』を用いた古島敏雄氏の集計による1886年の民営鉱山労働者数は3万6258人とはるかに実際に近いように見える。しかし、これも充分信頼するに足るものでないことは足尾、別子、草倉といった主要銅山の名がなく、長崎県に高島をはじめとする炭坑が全く含まれていないことだけでも明らかである。それなのに、見かけ上実際に近いのは何故かといえば秋田県の荒川銅山が1山だけで1万5925人と全国の鉱山労働者の44%という驚くべき高い数字を示しているからである。しかし『荒川鉱山誌』所収の資料によれば、前年1885年7月現在の労働者数は897人、前々年84年では793人である(19)。1万5925人という数は1ヵ月の延数と見てほぼ間違いないと思われる。すなわち、15925÷25=637人というところであろう。ちなみに、荒川鉱山の労働者数は『秋田県統計書』でも、1890(明治23)年は8万5325人、91年は5万6666人、92年5万6666人、93年3万3155人といった桁はずれに大きい数が記録されている。この事実は1890年代の産業別労働者構成について、これまでよく用いられてきた『日本帝国統計年鑑』各年の「会社種類別」のデータにも影響を及ぼしていると思われる。この点は後にあらためて検討を加えたい。
いずれにせよ、『第三次農商務統計表』の「工場府県別」表によって描かれた労働者の産業別構成像にはかなりの歪みがあること、まして古島氏のようにこれだけに頼って労働者の地方別分布を論ずる(20)ことにはいささか無理があると思われる。
注
(8) 農商務省鉱山局『鉱山法例』(1892年刊、覆刻版は『明治前期産業発達史資料』別冊71(1)、明治文献資料刊行会、1970年)70〜75ページ。
(9) 工部省達第十七号(明治六年十二月二四日)は、つぎのような「借区坑業明細表」の書式及び詳細な記入上の注意を示している(同上書82〜88ページ)。
なお「借区坑業明細表」の記入例として『栃木県史』史料編・近代九の183ページ以下(足尾銅山)『五代友厚伝記資料』第3巻194〜5ページ(鹿籠金山)など参照。
(10) 鮫島龍行「産業資本の形成と統計」(相原茂・鮫島龍行編『統計日本経済』筑摩書房、1971年)所収。
(11) 同上書76ページ
(12) 同上書75〜76ページ。ちなみに、山口和雄氏は「明治十年代の『工場』生産」(同『明治前期経済の分析』東大出版会、1956年所収)において、職工数の検討に際し延人員を用いておられる。ただ、その際、原統計が実数の場合は、これを延数に揃えるために「職工一ヵ年平均の労働日を三〇〇日と仮定」して換算されている。しかし、これは、はなはだ乱暴な仮定で、『第二次農商務統計表』の第41表、第45表、第47表に1885(明治18)年における1年間の「就業日数」が記録されている659工場中、300日以上のものは僅かに87工場であるのに対し150日以下441工場に達している。しかもその半数以上の249工場は99日以下、2桁の年間操業日数である。
(13) 『第二次農商務統計表』322ページ。
(14) 『第十五次農商務統計表』の凡例は次のように記している。「第十五農商務統計表中〔中略〕鉱山ノ部ハ鉱山局及鉱山監督署備付ノ原簿及鉱業条例第三十九条及砂鉱採取法施行細則所定ノ届書及明治二十年本省訓令第五号石炭消費高報告書等ニ拠リ之ヲ調整シ」。なお、「鉱業条例」第39条は「鉱業人ハ毎年一月前年ニ採取シタル鉱物ノ量数、製産物、其ノ販売高、販売代価、行業日数及工数ヲ所轄鉱山監督署ニ届出ツヘシ」というもので、「日本坑法第十九」の規定を引きついだものである。
(15) 『日本帝国第五統計年鑑』の第54表「官行鉱山官吏及稼人現員」は次のように注記している。「本表官吏ハ明治十七年十二月三十一日現在、稼人ハ一週年間ノ延人員ヲ其営業日数ニ割合表出ス〔後略〕」。
(16) 隅谷三喜男『日本賃労働史論』(東京大学出版会、1955年)114ページ、第12表。なお、同表の鉱業及製錬業の一工場当り労働者数10.6人は106.3人が正しい。
(17) 古島敏雄『産業史III』202ページ。
(18) 菊浦重雄『日本近代産業形成期の研究』(東洋経済新報社1977年)120ページ、表3−9
(19) 「荒川銅山概記」(明治十六年)他、進藤孝一編『荒川鉱山誌』(秋田県仙北郡協和町公民館、1974年)142ページ、145ページ。
(20) 古島敏雄『資本制生産の発展と地主制』第2章第5節2「賃労働者の地域的分布とその性格」および「明治十年代における賃労働の存在形態とその性格」(『一橋論叢』42巻2号、1963年2月)。
「原蓄期における鉱山労働者──明治前期産業統計の吟味」(上)の原題で、法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第289号(1982年9月)に掲載した論稿の後半部分。
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