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二村 一夫

1880年代の鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味(3)

目次
 はじめに
 1 1880年代の鉱業労働者数に関する通説
 2 鉱業労働者数に関する新資料
 3 1881年における鉱山労働者の地方別分布(本ファイル)
 4 「会社種類別」表における職工数の吟味



3 1881年における鉱山労働者の地方別分布

 一方、本稿が主として依拠している民営鉱山の「行業工数」に関する統計には、幸い府県別の数字が残されている。そこで、これをもとに鉱山労動者の地方別分布を明らかにしておこう。とりあげる年次は1881年に限りたい。80年については官営鉱山の数字が残されていないからである。まず2つの表を見ていただきたい。第10表は非金属鉱山労働者の府県別構成である。産額からみてその大部分は石炭で、あとは陶土、硫黄、石油、各種石材などである。

第10表 1881年非金属鉱山労働者数主要府県別表
府県名民営鉱山官営鉱山労働者数
延べ工数労働者数鉱夫数職工数小計総計
長崎2,700,26511,15811,158
福岡397,243 1,6429792,0543,0334,675
新潟185,423  766766
山口117,276  485485
静岡57,498238238
熊本 50,737  210210
その他251,659 1,040263242871,327
3,760,10115,5391,2422,0783,320 18,859

【備考】
 (1)民営鉱山延工数は『第三統計年鑑』第50表、第51表による。同労働者数は延工数より1人年242工として算出。
 (2)官営鉱山労働者数は『第二統計年鑑』第42表および第50表より、鉱夫は稼働率85%、職工は95%として算出。


 次の第11表は金属鉱山、すなわち、金、銀、銅、鉛、鉄、錫、アンチモニー、マンガンの8鉱種を採掘、製煉する労働者の府県別構成である。なお、鉱種別のデータは残されていない。これについては後で検討を試みたいが、銅が最も多く、ついで銀、鉄、金がつづき、他はほとんど問題にならない。

第11表 1881年金属鉱山労働者数主要府県別表
府県名民営鉱山官営鉱山労働者数
延べ工数労働者数鉱夫数職工数小計総計
秋田871,7273,0272,2468913,1376,164
愛媛1,407,8184,8884,888
島根786,0162,7292,729
岡山537,7121,8671,867
岐阜524,2651,8201,820
岩手109,68738191,2991,3081,689
兵庫236,744822239495 7341,556
新潟 43,7171527146541,3681,520
鹿児島418,0621,4521,452
広島116,1834032387029401,343
大阪316,4361,0991,099
福島275,455956.− 956
栃木262,278911 911
福井203,563707 707
石川156,273543 543
高知128,415446 446
その他534,1331,8551,855
6,928,48424,0583,4464,0417,48731,545

【備考】
 (1)民営鉱山延工数は『第三統計年鑑』第49表、第51表より。同労働者数は延工数より1人年288工として算出。
 (2)官営鉱山労働者数は『第二統計年鑑』第42表および第50表より、鉱夫は稼働率85%、職工は95%として算出。
 (3)広島の官営鉱山労働者数は『第四統計年鑑』第45表より算出。年次は1883年。

 まず全体的な特徴を見よう。金属鉱山では、秋田、愛媛が群を抜き、島根がこれに続いている。そのあとは1000人台に岡山、岐阜、岩手、兵庫、新潟、鹿児島、広島、大阪の8県がひしめき、福島、栃木も900人台で追っている。順位はともあれ、いわゆる鉱業県のほとんどが、すでにこの段階で顔をそろえている。これに対し、石炭などの非金属鉱山では、長崎、福岡の2県、とくに長崎県が1万人の大台を越え、他を圧している。金属鉱山は古くから探鉱が進み、ほとんどの鉱山が明治維新前にその存在を知られていたことに加え、輸出商品としての銅、貨幣材料としての金・銀に対する需要が急増し、すでに1870年代に全国各地で旧坑の再開発が試みられていた事実を反映している。これに対し炭鉱業では、主要輸出港の長崎に近い高島、三池など北九州の一部で開発が始められたばかりで、北海道や常磐は本格的な採掘にはいたっていない。北九州でも、福岡県が、三池を除けば1000人台で、筑豊炭田の比重がまだきわめて低いことが注目される。
 だが、これだけでは、あまりに概括的なことしかわからない。そこで、次に、上位5県について県統計書などと照合しながら、やや詳細な検討を加えたい。それによって、府県別の延工数だけではわからない鉱種別の労働者数や経営規模などをある程度明らかにすることが出来るからである。同時にまた、これによって第11、12表の統計数値としての信頼度を検証しうると考えるからである。

〔長崎県〕

 第1位は延工数で270万を越え、就業労働者の実数でただ1県だけ1万人の大台に達していたと推定される長崎県である。もっとも、1876年から83年までは長崎県に現在の佐賀県地区が含まれていたことを見落してはならない。しかし、さいわい同年の『長崎県統計書』があり、その鉱山関係の統計が郡単位の数値を記録しているので、これによって長崎県分と佐賀県分を区別することができる。また、その他にも鉱種別の延工数、箇所数、産額などもわかり、さまざまな事実が判明する。
 まず鉱種別では、石炭が8郡の88村300ヵ所、営業人員1067人で、延274万6390工を占めている。これに次ぐのは陶土で、9郡17村37ヵ所(うち7郡15村30カ所は現在の佐賀県分である)延工数は7526である。あとは硫黄が南高来郡に1ヵ所、工数は僅かに220である。その他、銅が東松浦郡(現佐賀県)の1村で2カ所に鉱区が設けられているが、操業されていない。要するに、石炭業の労働者が鉱山業全体の99.7%までを占めており、他はとるに足りないことがわかる。なお、延工数の総数は275万4136で、『統計年鑑』の記載より5万3871工多くなっている。おそらく『統計年鑑』に若干の集計漏れがあるのであろう。しかし、その差は2%に満たないから、むしろ双方のデータがほゞ一致していると考えるべきであろう。
 では、圧倒的部分を占める炭坑労働者がどのような地理的分布を示しているか、また、それぞれの地域別の経営規模などはどのようなものであったか、『明治十四年長崎県統計書』によって作成した第12表を見てみよう。

第12表 長崎県郡別炭鉱業統計
 郡名村数箇所
営業
人員
営業
延日数
掘出高 (斤)延工数1工当り
掘出高
(斤)
1箇所
当り
営業
日数
営業
1日
当り
工数




西彼杵1
高島
1 1354395,562,4011,299,857304.3 3543,672
西彼杵635412,63923,154,830  40,433572.7  75  15
東彼杵47499  6,52112,061,600  43,413277.8  88   7
北松浦17378445  37,879201,376,532 646,821311.3 100  17
北高来1 11-
小計2948958747,393632,155,3632,030,524311.39743




東松浦2523625530,06398,984,280 470,174210.5 12716
西松浦23101116  16,84016,149,940 104,960153.9 117   6
小城65485  9,91047,019,130 111,746420.8 184  11
杵島52024   9737,462,294  28,987257.4  49  30
小計5941148057,786169,615,644715,867236.914112
総計889001,067 105,179801,771,0072,746,391291.9117 

 まず目につくのは延工数で長崎県全体の47.3%、掘出高で49.3%を占める高島炭坑である。ただ、高島についてはいくつか検討すべき問題があるので後にまわし、他から先に見ていこう。
 高島に次ぐのは北松浦郡(現長崎県分)で、延工数の64万6821は長崎県全体の23.6%、高島炭坑のほゞ2分の1である。出炭高では長崎県全体の25.1%で、これも高島の2分の1強である。ただ、高島が三菱の単独経営であるのに対し、17村にわたって378箇所の鉱区が設定され、営業人数は445人に達している。1坑当りの年平均操業日数は100日であるが、378箇所の中には全く操業していないものも含まれていると見られる(北高来郡の事例がこれを示している)ので、実際には、これをかなり上回っていたものと思われる。また、延工数を営業延日数で除した数は1坑の平均労動者数を示すものといえるが、高島の3672に対し僅かに17に過ぎない。
 北松浦郡に次ぐのは東松浦郡(現佐賀県分)で延工数で47万0174、長崎県全体の17.1%を占めている。営業1日当り工数は16で、1坑の平均規模は北松浦郡とほゞ等しい。なお、当時の東松浦郡をはじめ小城郡など現佐賀県地区の炭坑の実態は隅谷三喜男氏によって、かなり詳細に解明されている(21)。氏が主として依拠されたのは長崎県勧業課編の『鉱山沿革調』(1881年)、同『鉱山志料調』(1884年)であるが、両者とも秀村選三、田中直樹氏らによって編集された『明治前期肥前石炭鉱業史料集(22)に『高島炭坑石炭坑記』および高島炭坑事件に関する新聞記事集成とともに全文収録されたので、今後より一層の研究の進展が期待される。ここでは隅谷三喜男氏が作成された労働者数による規模別坑数表を紹介するにとどめよう。

第13表 東西松浦郡と小城郡炭坑規模別坑数
 5人
以下
6-10人11-15人16-20人21-30人31-
50人
51-
70人
71-
100人
101-
150人
151人
以上
東西松浦郡3314510123   



多久原 111 2  1 
小侍106423 22 1
多久1  122    
11754542211

【備考】
 (1) 東西松浦郡は『志料調』(表II-9)、小城郡は『沿革調』による。『沿革調』の小城郡の部分は炭坑別の資料が記載されている。なお小城郡の5人以下の炭坑の大部分は仕操中と記されている。
 (2) 隅谷三喜男『日本石炭産業分析』148ページより引用。

 さて問題の高島炭坑である。ここはすでに見たとおり、延工数で長崎県全体の47.3%出炭高で49.3%と群を抜く巨大炭坑である。年間354日と年中無休に近い形で操業し、1日平均3672人が就業している。もちろん1人の労働者が年間354日働くことはあり得ないから、在籍労働者数はこれを大きく上回ったに相違ない。1906年の調査(23)によれば、高島炭坑坑夫の1カ月平均稼働日数は20日、1年間にすれば240日、稼働率67.8%である。高島のその他の職種についての数字はないが、全国平均ではすでに見たとおり、選炭夫、運搬夫は1カ月25日、職工は27日である。年間にすれば、それぞれ300日、324日であり、これを年間操業日数354日に対する100分比でみると84.7%、91.5%になる。かりにこの3者の稼働率を単純に平均すれば81.3%である。しかし、実際には職工の比重はきわめて低く、坑夫、運搬夫が圧倒的多数を占めている。したがって、全労働者の平均稼働率はこれをかなり下回り、75%前後とみて大過ないであろう。とすれば、1日平均3672人を就業させるには4896人の労働者を必要とする計算になる。要するに、1881年の高島炭坑には、ひかえ目に見ても4500人、多ければ5500人程度の労働者が存在したのである。
 だが、この数字には問題がある。それは、高島炭坑の労資関係史に関する最も詳細な研究である村串仁三郎氏の『日本炭坑賃労働史論』の数字と著しいくいちがいを示していることである。
 村串氏は次のように述べられている(24)

 今、高島炭坑における坑夫数について確かな資料がないのであるが、おゝよそのところは、次表によって判明しよう。すなわち明治二○年頃は約二一〇〇人の炭坑労働者が働いていたことになる。明治一四年以来、出炭は二〇%増加しているので、一四年頃の坑夫数が約一五五〇人ぐらいと推計して大過ないであろう。
高島炭坑における坑夫数
年代坑夫数摘要
安政年間(300〜400人)推定、第一章本文参照
明治3年300〜400人『高島炭坑記』
5〜6年(500〜600人)推定 〃
11年1,000〜(1,200人)『東京日々新聞』、推定本稿参照
20年2,100人『九州地方工場視察復命書』
21年3,000人松岡
2,126人加藤政之助、本稿参照
3,000人犬養
40年2,500人炭坑当局の調査 次章参照

 このように、村串氏は1881(明治14)年の高島炭坑の労働者数を約1550人と推定されているのである。これは、本稿の推計値の3分の1にも満たない数である。
 まず依拠した資料の性格から検討しよう。本稿は、『明治十四年長崎県統計書』によっている。延工数からの推計であるから若干の幅はあるが、その信憑性は高い。一方、村串推計は1887年9月現在の数字をもとに、出炭高の変化によって算出されている。87年の数字は、大蔵卿松方正義の命令で2人の役人が九州各地を巡見した際、9月29日に高島炭坑を視察してまとめた報告によっている。新聞記事などより正確ではあろうが、『県統計書』に劣ることは否定できない。だが村串推計の問題点は他のところにある。その第1は坑夫と炭鉱労動者を混同していることである。すなわち、引用した表では「坑夫数」としながら、本文では「約二一〇〇人の炭坑労働者」としているのである。たしかに、『九州地方工場視察復命書』では、高島炭坑の坑夫数を「凡ソ二千百人」と記している。だが『復命書』はそれにすぐ続けて「職工ハ男五百五十二人女五十人アリト云」と明記しているのである。すなわち1887年9月現在の高島炭坑の労働者数は2100人ではなく、約2700人であったのである(25)
 第2に、村串氏は「明治一四年以来、出炭は二〇%増加しているので、一四年頃の坑夫数が約一五五〇人ぐらいと推計されよう」とされている。だが、ここには二重の計算ちがいがある。すなわち、1881(明治14)年を100とした87(明治20)年の高島出炭高は127であり、この間の出炭増は20%ではない。また、かりに出炭増を20%とし、87年の労働者数を2100とすれば、81年の労働者数は1550人ではなく1750人である。これらの算出根拠の数字をすべて訂正し、つまり1887年の労働者数は2700人、81年から87年の出炭増は27.1%として算出すると、1881年の高島の労働者数は2124人ということになる。
 しかし、これでも『明治十四年長崎県統計書』による本稿の推計数とは大きな開きがある。何故このようなことになるのか。それは村串推計が労働者1人当りの出炭高に変化がないことを前提にしているからである。村串氏は、高野江基太郎が『日本炭鉱誌』で「明治十四年三月三菱所有に帰してより専ら諸器械を増設し益々事業の改良拡張を謀」ったと述べているのを批判し、高島炭坑では1881年以降「少なくとも明治二一年までは、目立った新しい機械設備の導入、設備拡張は行われなかった(26)」と主張され、さらに「技術上、設備上の停滞にもかかわらず、左表のように、石炭の産出額は年々上昇し、高島炭坑問題の起きた二一年には、明治期のピークをなすまでにいたっている。ということは、明治二一年までは設備投資することなく、専ら労働力の大量の追加投入によって、出炭額をあげたことになる(27)」と主張されている。しかし村串氏が「技術上、設備上の停滞」の根拠としてあげているのは、(1)1888年までは新坑の開発がなかったこと、(2)通常運搬機械の導入は新坑の開発に際しておこなわれるものであること、(3)高島炭坑がすでに一定の技術上の近代化が達成されていたことなどである。はたして、これだけの根拠で「技術上、設備上の停滞」を結論しうるであろうか。村串氏はさらに、「二一年からの新坑開発が、まさに高島炭坑の後藤からの買収金額の償却されるはずになっていた翌年(ママ)にあたっている」と指摘し、「高島炭坑買上げ代金が償却されるまでは、新たな設備投資をさし控えていたように思われる」と推論されている。だが、実際には、「着手当初の経費及び償却費などを差し引いたとみられる純益は、一四年の二四万円から翌年以後は四〇万円を前後し、一八年には五〇万円を超えた。これら五年間で累計実に一九六万四五六五円に及び、はやくも買収原価の二倍以上に達しただけではなく、当時主業であった海運業に匹敵する収入をあげていたのである。(28)」この事実は、三菱に単に投資の余力があったことを示しているだけではない。後藤象次郎のもとで経営不振に陥っていた高島が、1881年以降の三菱経営下で出炭量そのものはそれほど大きく伸びることなく、厖大な利益をあげ得たのは何故か、という疑問をよびおこすのである。しかも炭価は、この間に低落傾向をたどっていたのである。もちろん岩崎弥太郎が高島炭坑引受けの際に見込んでいたように輸出に際しての自社船の利用による利益や、ジャーディン・マセソンに支払っていた口銭が不要になったことも(29)経営改善の一助になったであろう。しかし、それ以上に大きかったのは生産能率の増大であったのではなかろうか。設備投資の有無はさておき、三菱経営下の高島が、後藤時代と同じ能率水準にあったとはとても考えられない。たとえば「高島炭坑事務長日誌抜要」の冒頭に次のような記述がある。

 「明治十六年一月
 五日 納屋頭ヲ召集シ坑夫ヲ減少スヘキヲ諭ス其概意ハ今年ノ出炭予算モ一日凡六百四五十屯ニ止メ其他ノ事業モ増加ノ見込ナキニ坑夫ハ過多ニシテ切場不相当ニ多数ノ坑夫ヲ繰込ムヨリ采炭法モ疎ニ流レ従テ粉炭ノ数ヲ増シ出入相償ハス遂ニ困難ニ陥ルヘキニ付速ニ応分ノ減員ヲナシ来ル十六日ヨリ切場ニ応シ先山后山ノ数ヲ限リ繰込ヲ命スヘキニ付違背ノ者ハ処分スヘキ旨ヲ達ス
 六日 技術方並ニ事業方ノ小頭ヲ分離シ技術方ハ一坑五人二坑六人事業者ハ一坑廿人二坑十九人トナシ八人ノ冗員ヲ解雇ス(30)

 このほか、「高島炭坑事務長日誌抜要」のなかには、三菱がコスト削減に非常な努力をはらっていたことをうかがわせる記述が少なくない。また「抜要」で目につくのは「捲上器械」などの修理がきわめて頻繁におこなわれていることである。おそらく後藤時代にも同じことは起こったであろう。しかし、その修理の点でいえば、近くに長崎造船所をもつ三菱の優位は明らかである。かりに村串氏の主張されるように新規の設備投資がなかったとしても、機械の故障を短期間で修理して円滑な操業をはかるだけでも能率に大きな差が生じたであろう。まして村串氏が基準年とした1887年は高島にとってきわめて効率的に出炭し得た年であった。「抜要」の同年12月31日の項は次のように記している。

 「本年ハ一月以来坑内外尤平穏無事ニシテ十四年当坑引受ケ以来未曽有ノ出炭額ニシテ三十一万九千三百八十四屯ヲ得タリ一日ノ平均八百七十五屯此元価平均一屯一円三十二銭一二トナル(31)

 このように見てくると、1881年に約4900人であった高島炭坑の労働者数が1887年には約2700人となり、しかも出炭量が27%の増となったことも全くあり得ないことではない。村串氏は否定されたが、1881年に高島の経営にのりだした三菱が、すぐに「専ら諸器械を増設し益々事業の改良拡張を謀」(高野江基太郎『日本炭鉱誌』)ったとすれば、この年に起業関係の労働者をふくめ多くの労働者が高島で働き、その後、急速に減少したことも考えうるのである。また、このように大幅な減員が社会問題化することなくおこない得た背景には、1884年に高島に隣接する中之島、二子島等が三菱の手に入ったことがある。中之島は短期間に産額を増し、1887年には高島の3分の1弱の出炭を記録している。中之島の労働者の多くは高島から移されたものであったに相違ない。



〔秋田県〕

 鉱山労働者数で長崎県につぎ第2位を占めているのは秋田県である。その圧倒的部分は銅、金銀を主とする金属鉱山で、総数で6000人強である。非金属も石炭、石油、硫黄、礦脂、土瀝青等を産するが、それに従事した労働者は年間の延工数で2万5989であり、かりに1人年242工とすると107人となり、金属鉱山に比べとるに足りない数である。金属鉱山労働者のほゞ半数は阿仁、小阪、院内の官営三鉱山に集中している。その内訳は次の第14表のとおりである。

第14表 1881年秋田県所在官営鉱山労働者数
種  別阿   仁院   内小坂・十輪田
役   員
鉱   夫
職工(男)
職工(女)
職工(15才以下)
労働者計
54
1,146
60


1,206
54
1,348
63


1,411
6
19
37

5
61
6
22
39

5
66
70
744
679
56
9
1,488
70
875
715
59
9
1,658
総   計1,2601,46567721,5581,728

【備考】
 (1) A欄は『第二統計年鑑』111ぺ一ジ、128ぺ一ジによる1ヵ年間の平均人員。
 (2) B欄は鉱夫は稼働率85%、職工は95%として算出した在籍労働者数の推計値。


 このうち、院内の鉱夫数は職工数に比べあまりに少ないように思われる。また、同山の鉱夫1人当り掘出高は阿仁の3倍、小阪の3.6倍という高さである。何故、このようなことになるかといえば、おそらく、この院内の鉱夫数は開坑作業などに従事した直接雇用の者だけを計上しているためと思われる。『工部省沿革報告』によれば、院内鉱山には、「金名工」と呼ばれる坑夫が1876(明治9)年現在で「八十余名」おり、彼等は採掘・製煉した灰吹銀を鉱山局院内分局に売却している。この制度は1882年まで存続していたことは確かであるから(32)、実際の院内の鉱夫数は最低でも60人、おそらくは80人前後いたものと思われる。
 一方、民営鉱山の内訳は1881年については不明だが、5年後の1886年、すでに阿仁、院内は古河に、小坂は藤田組に払下げられた後の数字が残っている。次の第15表がそれである。

第15表 1886年秋田県下鉱山一覧
社名役員職工雇人汽缶水車収入支出(−)損益
馬力馬力
白山
鉱山
151823121212,22612,897(−)671
阿仁
鉱山
1232,3421,376466540194,503329,330(−)134,827
細地
鉱山
84607,8006,6001,200
小真木
鉱山
61209539329277,254198,70378,551
不老倉
鉱山
725102,0001,800200
熊沢
鉱山
172387480569
院内
鉱山
432,089897462140198,165196,4141,751
松岡
鉱山
97649145,5736,936(−)1,363
荒川
鉱山
2434,65311,2722652,03512,30739,728
川口
鉱山
2434472,9882,910 78
白岩
鉱山
151463223,0412,580461
鉱業
会社
56395701871,40062,3009,100
藤田組64823350235288,916217,62571,291
173901721352,14666,753(−)14,607

【備考】『第三次農商務統計表』第44表「工場府県別」による。

〔愛媛県〕

 愛媛県は第3位であるが、民営の金属鉱山だけをとれば1位である。これは言うまでもなく別子銅山の存在によるものである。しかし、愛媛県(1876年から88年までは現在の香川県を含む)下には、別子のほかにもいくつかの銅山とアンチモニー鉱山、炭坑、マンガン坑があった。 1881(明治14)年の『愛媛県統計概表』には15カ所の銅山、13カ所のアンチモニー鉱山、14カ所の炭坑、2カ所のマンガン坑の名が記され、さらに試掘中のものとして、60カ所のアンチモニー鉱山、6カ所の銅山、5カ所の炭坑、銀鉛鉱山、水晶、陶石各1カ所が記録されている。このうち、炭坑の大部分は後の香川県小豆郡にあり、操業中のものは9炭坑、最大のもので年産額にして95万貫足らず、最小は800貫の零細炭坑である。一方銅鉱山はすべて現在の愛媛県側にあり15カ所中4カ所は休業、2カ所は未着手である。この操業中の9銅山で、総額81万6754貫余の掘出高を記録し、その77.6%は別子銅山足谷坑が占めている。足谷に次ぐのは周布郡千原村の千羽川山で16.5%、あとの7銅山はきわめて小規模なものばかりである。アンチモニー鉱山も現愛媛県側に集中し、10鉱山で59万6394貫の掘出高である。そのうち85.6%を新居郡の市ノ川鉱山だけで産出している。マンガン坑2坑のうち1坑は未着手、残る1坑も年産6700貫に過ぎない。
 ところで、この年の愛媛県の民営金属鉱山労働者数を4888人としたのは、延工数140万7818から算出したものであるが、この数値には疑問がある。それは、製煉工数が掘出工数に対し著しく多いことである。第16表を見れば明らかなように、愛媛以外のすべての県で、掘出工数は製煉工数を上向っているのである。全国の民営金属鉱山の総合計の比で見ると、掘出工数61.7%に対し、製煉工数38.3%である。全国統計から愛媛を除くと、掘出工数66.8%、製煉工数33.2%とほぼ2対1の比率である。ところが愛媛県だけは掘出工数41.5%、製煉工数58.5%と後者が異常に高い。

第16表 1881年民営金属鉱山延べ労働者数府県別
府県名行業工数鉱種借区人数
掘出製煉
愛 媛1,407,818583,663824,155銅、アンチモニー 32人
秋 田871,727516,295355,432金、銀、銅、鉛43
島 根786,016463,550322,466銀、銅、鉄323
岡 山537,712391,374146,338銀、鍋、鉛、鉄140
岐 阜524,265387,372136,893銀、銅、鉛、コバルト86
鹿児島418,062341,94976,113金、銀、銅、錫、鉛、アンチモニー20
大 阪316,436185,025131,411銀、銅34
福 島275,455169,095106,360金、銀、銅、鉛、鉄29
栃 木262,278183,55078,728銅、鉛、マンガン12
兵 庫236,744167,65869,086金、銀、銅、鉛、鉄62
福 井203,563154,54749,016金、銀、銅、鉛153
石 川156,273103,95352,320金、銅、鉛40
高 知128,41583,71644,699銅、アンチモニー13
広 島116,18386,16430,019銅、鉄203
岩 手109,68759,84149,846金、銅、鉄42
その他
18府県
577,850396,330181,520  726
6,928,4844,274,0822,654,402 1,958

 何故このようなことになったか。もちろん正確な理由はわからない。しかし、全く推測がつかない訳ではない。その1つの手がかりは1880年の愛媛県の行業工数が掘出工数112万7521、製煉工数81万0077、計193万7598であったことである。これであれば、掘出工数58.2%、製煉工数41.8%と他府県との差はほとんどない。ここで注目されるのは、愛媛県の製煉工数は80年の81万に対し81年は82万余とほとんど差がないのに、掘出工数だけは113万弱から58万余へと半減していることである。そこで推測されることは、何等かのミスで、81年の掘出工数は1年分でなく、半年分しか計上されなかったのではないかということである。さきに見たとおり、行業工数等の鉱山局への報知は年2回であったから、こうしたミスが起る可能性が全くなかったとはいえない。要するに81年の愛媛県の掘出工数は58万余でなく117万弱であったのではないかということである。こうなれば、掘出工数対製煉工数の比も58.6%対41.4%となり、他府県との差はなくなる。また、前年度との比較で掘出工数だけが半減するという矛盾も解決する。この推測が正しいとすれば、愛媛県の民営金属鉱山の労働者数は4888人から約2000人増えて6915人となり、若干ではあるが秋田県を上回り、全国第2位となる。なお、1881年の愛媛県の非金属(石炭)は掘出工数20345で、1人年242工で除した数は84人である。


〔福岡県〕

 長崎、秋田、愛媛につぐのは福岡県である。総数は4675人だが、その64.9%は官営三池炭鉱の労働者で占められている。その内訳は次のとおりである。

第17表 1881年三池炭坑労働者数
  役員鉱夫職工労働者計総計
A
B
35
35
783
921
1,916
2,017
35
37
1,951
2,054
2,734
2,975
2,769
3,010

【備考】
 (1) A欄は『第二統計年鑑』111ページ,128ページによる1ヵ年の平均数。
 (2) B欄は鉱夫は稼働率85%,職工は95%として算出した在籍労働者数の推計値



 だが、この数字にも疑問がある。それは、職工数が鉱夫数にくらべ、あまりにも大きいことである。製錬作業を必要としない炭坑で、職工が鉱夫の2倍を越すことは、とうていあり得ない。この疑問に対する一つの答は、この鉱夫数には、主として採炭作業に投入された囚人労働が算入されていないとみられることである。周知のように、三池炭坑では1873(明治6)年には囚人使役が始まり、81年現在では長崎県、福岡県、熊本県の囚人が、いずれも大浦坑の採炭に従事していた。その正確な数は不明だが、長崎県の囚人が1880年6月現在で300人余、福岡県の囚人が同年12月末現在で331人、熊本県の囚人200人余が1881年6月から新たに加わったことが知られている(33)。要するに81年のはじめで630人余、6月以降は850人前後である。
 しかし、かりに850人全員を鉱夫数に加えても鉱夫数はまだ職工数を下回っている。くり返しになるが、製煉工程のない炭坑では,採炭夫、手子、運搬夫、支柱夫などの鉱夫が圧倒的比重をもち、工作夫、機械夫などの職工は少数であった。たとえば、1887年現在の高島炭坑では坑夫2100人に対し、職工は600人であった。 81年より全般に機械化が進んだ1910年末現在の全国の石炭山の労働者l4万5205人のうち、坑夫(採炭夫)5万余、手子3万余に対し、工作夫は6386人、機械夫6893人、坑外運搬夫6122人、選鉱夫1万1697人となっている(34)
 このように見てくると、単に職工と鉱夫の間の比率がおかしいだけでなく、2000人余という、その絶対数にも疑問が生じてくる。わずか35馬力の蒸気機関を備えていただけの三池炭坑が、これほどの職工を必要としたであろうか。鉱山というより製鉄所であり、三池の13.5倍にあたる472馬力の蒸気機関を備えていた官営釜石鉄山(35)でさえ、職工数は約1200人であった。
 以上から、考えられるただ―つの合理的な解釈は、『第二統計年鑑』第50表の三池の「職工数」なるものは、実際は鉱夫を含む全労働者数であるのではないか、ということである。これは全くの推論ではない。『三池鉱業所沿革史稿』第一巻「前史二(官営時代)」に記されている「一ケ年の平均使役実人員」の1881年分は1992人なのである。さらに、『第三統計年鑑』第44表が、翌1882年末現在の三池炭坑の人員を、役員87人、諸職工481人、坑夫1252人、計1820人と記録しているのである。要するに、1881年現在の官営三池炭坑の労働者数は3000人余ではなく、約2000人であったと思われる。
 ただし、注意すべきは、この数字にはおそらく囚人労働はふくまれていないとみられることである。従来、三池炭坑の囚人労働にふれたほとんどすべての論稿は、『三池鉱業所沿革史稿』に記録された「一ケ年の平均使役実人員」数を囚人労働をも含むものとして論じている。しかし、「一ケ年の平均使役実人員」が記録されているのは、「第十六 囚徒を使役す」に先だつ「第十五 従業員」の項であり、ここでは、いわゆる「良民」労働者についてのみ述べられていることからみて、これには囚人労働は含まれていないものとみるべきであろう。
 こう判断するには、もう一つの根拠がある。それは三池集治監が設けられた1883年以降、「平均使役実人員」当りの出炭高が急増していることである。もし「平均使役実人員」が囚人労働をふくむものとすれば、囚人は一般坑夫をはるかに上回る出炭能率をあげたことになる。現に上妻幸英氏は次のように主張される。

 「年間一人あたり出炭高の上昇は明治六年を基準にとると、毎年三・九トンの増加で、一五年間で一人あたり年間出炭高が四九・二トンから一〇七・四トンに上昇している。そして囚人労動者の全労働者に対する比率は四パーセントから六〇パーセントに増加した。年間一人あたり出炭高と囚人労働者の相関係数は〇・八五三(相関係数一・〇〇〇は二つの関係がまったく等しいことを示す)となり、非常に相関関係が高い。八割五分までが等しいといえる。しかも囚人労働者が一パーセント増加するごとに、一人あたり年間出炭高は〇・七七トンずつ増加し、官営一五年間に、肉体的な採炭能率は約二・二倍に上昇している。以上のことから囚人労働が出炭能率に大きく関与した、言い換えれば囚人坑夫は―般坑夫以上に働かされたということができよう。(36)

 だが、囚人労働が低能率であったことは『三池鉱山五十年史稿』が指摘するところである(37)。おそらく、この方が事実であったと思われる。何故なら、囚人労働の場合、賃金はそのまま本人の収入にはならず、すべて監獄署に納められ、本人にはその1割か2割が渡されたにすぎない。このため一般坑夫のように出来高給によって能率を刺激することが出来なかったからである。
 上妻氏のような事実と矛盾する主張がなぜ生まれたかといえば、「平均使役実人員」を囚人労働をふくむものと誤解されたからである。「平均使役実人員」が一般坑夫だけの数であることがわかってみれば、囚人労働の増加が出炭高の増加と高い相関を示すことは当然である。
 以上から、官営三池炭坑における囚人労働の比率は、これまで考えられていたほど高いものではないことがわかった。たとえば1888(明治21)年は、総労働者3103人中、囚人は2144人、実に69.1%を占めるとされてきた。だが実際は労働者総数は5247人、囚人労働の比率は40.9%であった。さらに言えば、「平均使役実人員」が一般坑夫の在籍数を示すものかどうかも疑問である。おそらく、これは年間延工数を行業日数で除した数ではないかと思われる。一方、囚人は在監者数であろう。とすれば、囚人労働の比率はさらに低くなる。
 ここで三池以外の福岡県下の民営鉱山の状況について見よう。つぎの第18表は『明治十四年福岡県統計表』による鉱種別、郡別の数字である。

第18表 1881年福岡県民営鉱業鉱種別・郡別統計
鉱種 郡名 営業
人員
営業
延日数
掘採高 延工数 1工当り
採掘高
営業1日
当り工数



鞍手
嘉麻
田川
遠賀
穂波
粕屋
上座
早良
宗像

191
170
172
111
99
25
4
1
3

17,343
9,171
6,394
4,943
7,087
2,091
611
230
270

98,859,440
84,367,300
51,945,000
51,535,400
40,294,779
23,032,010
653,000
468,000
298,000

124,548
127,012
28,717
45,445
38,658
26,632
918
2,070
540

793.7
664.2
1,808.90
1,134.00
1,042.30
864.8
711.3
226.1
551.9

7.2
13.8
4.5
9.2
5.5
12.7
1.5
9.0
2.0
小計 783 48,140 351,452,929 394,540 890.8 8.2
粕屋
企救
15
10
257
762
57,700貫
109,401貫
1,257
19,041
45.9
5.7
4.9
25.0
小計 31 I,019 167,101 20,298 8,3 19.9

企救
田川
5
5
941
336
25,950
27,945
1,943
495
13.4
56.5
2.1
1.5
小計 11 1,277 53,895 2,438 22.1 1.9
総計 829 50,436 417,276 8,3

【備考】
 (1) 『明治十四年橿岡県統計表』第十七「鉱山借区」による。
 (2) 借区は存在するが採掘高等の記載のない郡、同じく借区はあるが採掘高等のない鉛坑、緑礬坑は省略した。ただし、営業人員の小計、統計にはこれら休業中とみられる ものも加えた。

 まず鉱種別の延工数を見ると石炭が39万4540、陶土が2438で、非金属鉱業の小計では39万6978である。これは『第三統計年鑑』の「民行鉱業」の石炭、陶土、煽石の掘出工数39万7243とほゞ一致する数である。なお、煽石は県統計表にはないが、これは石炭のなかに含まれているのであろう。また金属では銅が2万298の延工数を記録している。『第三統計年鑑』では、福岡県の民行鉱業の金属は、掘出工数1万6457、製煉工数4837の計2万1294、鉱種は銅のみで、これも県統計表とほゞ一致している。すでに長崎県についても確かめたところであるが、このように『統計年鑑』と県統計書の間で延工数がほゞ一致することは、前者の全国統計としての高い信頼度を示すものといえよう。かりに両者の数値が完全に一致したとすれば、それは両者の依拠した資料の同一性を示すものではあっても、必ずしも統計としての信頼度を高めるものとは限らない。しかし、概数としての一致は、全く別個の集計が、ほゞ同一の結果を示したものと考えることが出来るからである。

 ところで、県統計表では区分を欠いているが、統計年鑑で明記されているのは、借区人のうち、現行のものと休業中のものの別である。すなわち、石炭と陶土では現行の借区人が444人、休業中が300人、煽石は現行が35人、休業中が29人、金属(銅、鉛)では現行が21人、休業中が10人となっている。合計では現行500人、休業中339人、総計839人である。要するに借区人のうち実際に操業しているのは60%弱に過ぎない。
 ところで、前出(第12表)の長崎県の統計とくらべて注目されるのは石炭の1工当り掘出高が著しく多いことで、高島まで含む長崎県の平均が291.9斤であるのに対し、890.8斤と3倍強である。田川郡にいたっては1808.9斤、実に6.2倍を記録している。統計に誤りがないとすれば、その後の筑豊炭田の急速な興隆、唐津炭田の停滞が、この数字の差に示されているように思われる。しかし平均操業規模は長崎県よりさらに零細で、営業1日当り工数は8.2人でしかない。ちなみに、長崎県は高島を含めれば26.1人、高島を除いても13.8人であった。なお、この営業1日当り工数はあくまでも県全体の平均値であることを見落とすべきではない。前出の第12、第13表で唐津炭田について見たところからも明らかなように、平均の1日当り工数は10人前後でも、中には50人、100人、さらには150人を越す経営が存在した。かって正田誠一氏は、明治10年の筑豊の炭坑に関するポッターの報告が、坑数341、1坑あたり従業員9人、年間稼業日数48日と伝えていることから、「九人の協同作業で二カ月にみたない稼行ではこれを資本制生産といい難い(38)」とされたという。木下悦二氏はこの正田氏の研究を根拠に、「明治一〇年代には生産者の手による資本蓄積は停滞的で、資本制生産への推転はほとんど見られなかった(39)」と主張されている。だが、平均数でなく、個々の事例をチェックしてみれば、50人以上の従業員を有し、年間300日以上も操業する炭坑も少なからず存在したことは明らかであり、正田、木下両氏の主張は再検討を要すると思われる。

〔島根県〕

 第5位の島根は同じ鉱業県とはいっても、他県とは若干性格を異にする。それは、いうまでもなく砂鉄鉱中心であることによる。金属鉱山と炭坑との間にも製煉工程の有無、鉱体の性質の差による作業用具、作業方法の差などさまざまなちがいがあり、それは労働者の性格にも影響を及ぼし、労働市場も同一ではない。しかし、両者とも主たる工程が地下労働であることは重要な共通性である。北海道の炭鉱開発の基幹となった労働者の多くが、秋田県をはじめとする東日本の金属鉱山の坑夫であった事実(40)が示すように、その労働市場は重なり合う部分が小さくない。
 これに対し、砂鉱採取は水流を用いた露天作業であり、鉱山労働とは性格を異にする。鉱山にくらべ、砂鉄採取に従事する労働者の賃金水準が著しく低い(41)ことは、労働市場としても両者が全く無関係に存在していたことを示唆している。
 島根県には、大森銀山、笹ケ谷銅山、銅ケ丸銅山、宝満山銅山など比較的名の知れた鉱山があり、それらも決して無視し得ない大きさをもっていた。『島根県統計表』によれば、これらの鉱山の延工数は1880年は27万4613、81年は23万7516であった。1人年288工として、それぞれ954人、824人にあたる。これに対し、砂鉄鉱の延工数は80年が85万9803、81年は急減して31万4736である。砂鉄採取は季節的な労働であり、1人当りの年工数は100工前後であった(42)から、就業労働者数は80年は約8000人、81年は約3000人ということになる。
 砂鉄採取が他の金属鉱山と異なる重要な点は、その経営規模の零細性である。それを端的に示すのは借区人の数で、1880年に全国で操業中(いわゆる現行)の金属鉱山の借区人の総数は、2894人であったが、その58.7%、1699人は島根1県に集中していた。第2位の広島県220人(7.6%)、第4位の岡山県161人(5.6%)も砂鉄の産出県であるから、これらの借区人の大半が砂鉄鉱の採取にあたっていたとみて大過ないであろう。

 

(21) 隅谷三喜男『日本石炭産業分析』(岩波書店、1968年)。
(22) 秀村選三、田中直樹、武野要子、細川章校註『明治前期肥前石炭礦業史料集』(文献出版、1977年)。
(23) 『鉱夫待遇事例』31ページ。
(24) 村串仁三郎『日本炭鉱賃労働史論』(時潮社、1976年)76〜77ページ。
(25) 村串氏は、高島炭坑事件を論じた松岡好一、犬養毅らが1888(明治21)年現在で高島炭坑の坑夫の数を約3000人と記しているのは誇張であると主張されている。たしかに、坑夫数をより詳細に報じている「九州地方工場視察復命書」(『日本労働運動史料』第1巻12ページ)や加藤政之助「高島炭坑視察録」(『郵便報知新聞』1888年10月10日)はともに2100人台であり、両者は一見矛盾する。しかし、後者が「坑夫」と呼んでいるのは採炭夫、掘進夫などの坑内夫であるのに対し、前者は機械工等の職工まで含む全労働者を「坑夫」と呼んでいるものであろう。
(26) 『日本炭坑賃労動史論』74ページ。
(27) 同上書76ページ。
(28) 旗手勲『日本の財閥と三菱』(楽游書房、1978年)46ページ。
(29) 『三菱鉱業社史』(三菱鉱業セメント株式会社、1976年)42ページ。
(30) 『日本労働運動史料』第1巻、53ページ。
(31) 同上書64ページ。
(32) 『明治前期財政経済史料集成』第17巻、131ページ参照。
(33) 『三池鉱業所沿革史』第1巻前史2、第3章第3節第16。
(34) 農商務省鉱山局『鉱夫調査概要』(1913年刊)2ページ。
(35) 三池炭坑、釜石鉱山の蒸気機関の馬力数はともに『第二統計年鑑』128ページ。
(36) 上妻幸英『三池炭鉱史』(教育社、1980年)83ページ。
(37) 『三池鉱山五十年史稿』第十篇労務には、1930年の数字ではあるが「囚人」と「良民」の1人当り出炭比較がある。「囚人」は「良民」の50%〜60%に過ぎない。また、「囚徒使役の不利な点」として、「賃銭は廉い様に見えるが能率が低いのと云々」とのべている。
(38) 正田誠一「筑豊炭鉱業における産業資本の形成」(『九州経済調査報告』18号)ただし、筆者は未見。次注の木下氏の著書より重引。
(39) 木下悦二『日本の石炭鉱業』(日本評論新社、1957年)5ページ、10ページ。
(40) 山田健他『北海道における炭鉱の発展と労働者』(北海道開拓記念館研究報告、第4号、1978年)64ぺージ以降。
(41) 向井義郎「官営広島鉄山とその経営」(たたら研究会編『日本製鉄史論』、1970年。
(42) 『第三鉱山統計便覧』102ページによれば、1894(明治27)年12月末現在の砂鉄採取人員は2081人、延工数は22万1043人、1人当り年106工である。



「原蓄期における鉱山労働者──明治前期産業統計の吟味」(下)の原題で、法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第290号(1982年10月)に掲載した論稿の前半部分。







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