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雑誌『マルクス主義』の5年間(2)

二 村  一 夫

目  次
1.はじめに 5.「コミュニストグループ」の結成
2.刑事記録の資料的価値
6.「コミュニスト・グループ」のメムバー
3.創刊事情と初期の「ビューロー」 7.「コミュニスト・グループ」と『マルクス主義』
4.上海会議とその影響 



3. 創刊事情と初期の「ビューロー」

 雑誌『マルクス主義』は、関東大震災によって文字通り潰れた『階級戦』(日本共産党合法機関誌)の後継誌として発刊された。このことは、第2号の「編輯後記」(覆刻版(1)155ページ)に、「本誌は『階級戦』の前金を引継いだ」とあることでもわかるが、当研究所に残されている「『階級戦』の廃刊と『マルクス主義』の創刊」を告げる読者への挨拶状によって確認できる。
 以下が、その挨拶状である。


 『階級戦』の廃刊
 昨年九月の大震災に際しては、多大の御心配と御同情とに預り、厚く御礼申上げます。赤旗杜は最初の地震には殆んど何らの損害を被らず、僅かに安堵する折柄、忽ち猛火の襲ふところとなり、九月一日午後三時には、留守居の者が二三の書類を持ち出した外には、一物を残さず、烏有に帰して了ひました。『階級戦』は震災後直ちに発行を継続する筈でありましたが、七月号の発売禁止、発送準備中の九月号焼失等による財政上の困難に加ふるに、同志の離散を以てして、容易にその運びに至らず、荏苒遂に年を越えました。
 共産党事件で収監中の同人等の出獄後、この問題に就いて協議を重ねましたが、種々の事情を考慮した結果、遂に『階級戦』を廃刊し、同時に赤旗杜を解散することに決定いたしました。解散に当り、同人らは深く同志諸君の御後援を感謝すると共に、自らの不足を恥づる次第であります。

 『マルクス主義』の創刊
 5月から新雑誌『マルクス主義』を創刊します。編輯は多くの同志及び先輩後援の下に、西雅雄が之に当ります。本誌はマルクス主義又ハ共産主義ノ根本理論及び実際運動を真摯に研究、批判、解説するものであって、飽く迄学術雑誌の性質を有するものであります。ただ材料が時事に渉っても良いやうに、保証金を収めて、発行致しますから、可なり溌剌たる、特色のあるものが出来る考であります。何卒御愛読を願ひます。
 『階級戦』に御払込の前金は『マルクス主義』に引き継ぐことに致します。貴下の旧誌代のお預りは、左記新雑誌の定価に換算して 年 月号限りとなります。最終号の不足額、 銭は、次回御送金の際御追加を願います。萬一計算に誤謬があるか、又は『マルクス主義』御不要の時は、御手数ながら御知らせ下さい。尚ほ、御転居の際は、新旧の御住所共お知らせを願います。
  大正十二〔三〕年四月十六日
                       赤旗社マルクス協会

 ところで、雑誌『マルクス主義』は、表面的には、西雅雄個人が「編輯及び経営上の一切の責任」を負ふものという形をとり、マルクス協会を発行所としていたが、実際は日本共産党が1924年2月頃解党した際に設けた「ビューロー」の機関誌であった*3。 この点は、解党を決定した「森ケ崎会議」の出席者であり、「ビューロー・メムバー」であった徳田球一によって次のように確認されている。
 「『ビューロー』ハ其意見ヲ提唱スル為メ、大正十三年五月機関誌マルクス主義ヲ発行シマシタ」(『現代史資料』20、86ぺ一ジ)。
 また、『階級戦』の編集者であり、同じくビューロー・メムバーであった青野季吉も「其后『ビューロー』ハ各地ノ運動ノ状勢ヲ相互ニ報告シ会ヒ夫レヲ材料トシ討議シタリシマシタカ、実際運動ハ、僅カニ、雑誌マルクス主義ヲ発行シタ位ノモノ……」(青野季吉証人訊問調書)とのべている。
 また、同じく「森ケ崎会議」の出席者であり、初期の「ビューロー・メムバー」であった野坂参三も、『マルクス主義』の創刊は「ビューロー」の決定によるものであったとのべている(同氏談)。
 ただ、ここで若干問題になるのは、第2号「編輯後記」の西雅雄の次のような記述である。

 「本誌五月号の『イギリス労働党史(1)』は、三月から創刊される筈だった本誌のために一月下旬大急ぎで書いたものでしたが、………」(本覆刻版(1)206ぺ一ジ、傍点引用者)。

 これによると、遅くとも1月下旬には『マルクス主義』の創刊は決定されていたことになる。一方解党を決定した「森ケ崎会議」がいつ開かれたかは、出席者の証言に若干のくいちがいがあるが、2月あるいは3月とするものが多数を占めている*4。あるいは、『マルクス主義』の創刊は、解党決議に先だって計画され、一旦は3月創刊が決定されていたが、解党問題がおこったため5月に延期となったとも考えられる。いずれにせよ、『マルクス主義』の発刊は、解党問題とほとんど同時に討議され最初から「ビューロー」の機関誌として刊行されたのである*5

 そこでまず、初期の「ビューロー・メムバー」の顔ぶれについて検討しておこう。関係者の証言がほぼ一致し、また本人が認めているのは、青野季吉・荒畑寒村・佐野文夫・徳田球一・野坂参三の5人である。このほか徳田球一の予審調書では、堺利彦・山川均の名があげられ、また北原竜雄も「事実上」参加していたとされている(『現代史資料』20、85ぺ一ジ)。また、荒畑によれば、解党を決定した「森ヶ崎会議」の出席者全員が「其機関ノ組成員」になったと述べている(同書、3ペ一ジ)。彼が「森ケ崎会議」の出席者として名をあげているのは、荒畑、徳田、佐野文夫、野坂、市川正一の5人であるから、さきにあげた5人のうち青野に代って市川正一が参加していたことになる。
 ところで、堺、山川の2人について荒畑は「両君ハ私ノ知ッテ居ル限リデハ初メカラ観察機関又ハ〈ビューロー〉ノ〈メンバー〉デハナカッタノデアリマス」(同書、17ページ)と否定している。ただ荒畑は予審において堺、山川と共産党との関係を否定し、あるいは秘匿することに努めているので、この証言をそのまま事実としてうけとるわけにはいかない。しかし、佐野文夫、野坂、青野、市川らは、堺、山川を「ビューロー・メムバー」であったと述べてはいない。実際、この当時、山川は兵庫県垂水に居住しており、(1923年12月から1925年12月まで)ビューロー会議などに出席する条件はなかった。堺も「ビューロー」の活動に参加した様子はない。もっとも2人は「第1次共産党」の中心的な指導者であったから、「ビューロー・メムバー」が時どきは彼等の意見を求めたことは確かである。市川正一が「堺利彦、山川均ハ最初カラビューローノ顧問トデモ云フ様ナ変則ナ地位ニ居ツタト確カニ記憶シマス」(市川第五回予審調書)と述べているあたりが、一番事実に近いのではないかと思われる。
 北原については、青野も「ビューロー・メムバー」であったと証言しており、コミンテルンとの連絡係として「事実上」ビューローの一員であったとみられる。
 市川正一については、彼自身が次のように陳述している。

 「此ノ外私モ再組織委員ニ推サレタノテアリマシタカ、元来私ハ六月検挙前僅カ数カ月間ノ平党員トシテ働イタ丈ケテアルノミナラス一般ノ運動経験モ極メテ浅カツタノデ其ノ理由ヲ以テ之ヲ固辞シテ容レラレ、只三、四十名ノ人選ノ中ニ加ッテ出来ル丈ケノ活動ヲスルト云フ事ヲ約束シマシタ」

 また、荒畑以外の関係者は市川正一をビューロー・メムバーにあげていない。むしろ佐野文夫は「残務整理委員ノ中ニ市川正一ハ居ナカッタカ」との質問に対し、「居リマセヌデシタ。但し市川正一ハ森ケ崎ノ会合ノ時出席シタ事ガアル様ニ記憶シマスガ確ナ事ハ云ヘマセヌ」と答えている。
 なお、市川はさきの陳述に続けて「私ト同時ニ北原竜雄モ再組織委員ニ推サレタノテアリマシタカ矢張リ同君モ辞退シマシタ。其ノ理由ハ明言シマセンデシタ」とのべている。
 以上のことから、正規のビューロー・メムバーは、最初にあげた青野、荒畑、佐野文夫・徳田・野坂の5人でこれに北原が「事実上」参加していたとみられる。ただし、野坂は同年3月末には肺炎にかかり、転地療養のためビューローを脱退し、佐野文夫も同6月から11月まで病気のため活動から離れている。
 ところで、初期の「ビューロー」内部には、党の再建方針をめぐって意見の対立があった。徳田は、これを佐野文夫、青野、北原の提唱派と荒畑、徳田の行動派に二分し両派の主張について次のように述べている。

 「提唱派ハ党再建ノ為ノ一大調査機関ヲ設置シ、「ビューロー」ノ政策ヲ決定シ、之ヲ大衆ニ提示スル事ニヨッテ党再建ノ第一緊急ノ任務トシ、之ニ全力ヲ捧グベキデアルト主張シ、
 行動派ハ党ハ無産階級ノ実際的闘争ニヨリテ組織サルベキデアリ、其綱領政策ハ一大調査ヲ俟タズトモ「コミンターン」ノ指導ニヨリテ得ラルベキデ、緊急ノ任務ハ労働者及貧農ノ大衆団体ニ於ケル共産主義的左翼ノ実際行動ヲ如何ニ指導シ、如何ニ其中カラ党的分子ヲ組織シテ行クカト云フ主張デアリマシタ」(『現代史資料』20、88ページ)。

 また佐野文夫は「ビューロー」の任務についてさまざまな意見があったことを、次のようにのべている。

 「ビューロー」ガ為スベキ仕事トシテ「ビューロー」ヲ一ツノ政策機関ト為シ「ビューロー」ハ各運動ノ分野ニ於テ必要ナル当面ノ政策ヲ協議決定シテ其成果ヲ雑誌ニ発表シ、或ハ其他適宜ノ方法ニヨッテ之ヲ共産主義分子ニ提唱スベシト云フ主張モアリマシタ。又之ニ対シテ「ビューロー」ノ仕事ト為スベキ事柄ハ当面ノ個々ノ政策ノ提唱デナク日本ノ共産主義運動ガヨツテ以テ導カレルベキ根本方針ノ決定デナケレバナラヌト云フ主張モアリ又根本方針ガアミ出サレルベキ基礎資料ヲ調査編成スル事ガ寧ロ「ビューロー」当面ノ仕事デアルト云フ主張モアリ、更ニ他方ニ於テハ「ビューロー」ハ政策ノ提唱又ハ根本方針ノ決定等ニ止マルベキデナク進ンデ組織的仕事ニ携ハルベク現在諸分野ノ運動ニ従事シテ居ル諸分子ト何等カノ組織的連絡ヲ保ツベシト云フ主張モアリ、又之ニ対シテ或時期迄運動ニ対シ絶対不干渉ヲ主張スル意見モアリマシタ。但シ之等ノ種々ノ意見ハ何レモ「ビューロー」ヲ共産主義運動ノ発達ヲ助成スル為メノ一機関タラシメ様トスル意見ノ一致ニ基イテ居ルモノデアッテ「ビューロー」ヲ直接ニ共産党組織ノ準備機関タラシメ様ト云フ主張ハ当時ハ現ハレナカッタノデアリマス(『現代史資料』20、378ページ)。

 以上の供述は、雑誌『マルクス主義』が、主として「提唱派」のイニシアチブで発刊されたことを示唆している。
 しかし、実際には初期の『マルクス主義』は、「ビューロー」の政策や意見を「提唱」してはいない。創刊から1年あまり、号数にして第13号までは、運動の機関誌というより、「学術雑誌」、あるいは「研究雑誌」というべきものであった。
 この1年あまりの間には、政治研究会の創立など無産政党組織運動が進展する一方、労働組合運動の分野では、総同盟内の左右対立が激化し、ついに「第一次分裂」がひきおこされている。また、普通選挙法、治安維持法の二法が成立したのもこの問のことであった。このように、その後の運動の展開にとって、決定的な意味をもつ事態が進行していたのに、『マルクス主義』の誌面には、これらの問題がほとんど反映していないのである。ほぼ同じ時期に、田所輝明を中心に発行されていた建設者同盟の機関誌『青年運動』とくらべてみれば、そのちがいは明らかである。
 時事問題は、「私語」と題された社会時評欄で簡単にふれられているにすぎない。政策や意見の「提唱」といえるのは、山川均が「『方向転換』の危険性」(第2号)でさきに『前衛』に発表した「方向転換論」に対する「反対批判」に反論し、堺利彦が「無産党組織に関する意見」(第5号)をのべたほかは、高橋亀吉のいくつかの論稿があるだけである。高橋は、第2号で「復興対策としての資本主義」と題して、関東大震災後の復興対策を論じ、第4号以降4回にわたって「日本無産階級政党の経済綱領」を連載している。彼はアメリカ留学中、片山潜、田口運蔵らと接触があり、1921年春に帰国してから、片山の紹介で山川らと接触し『赤旗』『階級戦』にも毎号寄稿していた。しかし、高橋は共産党員であったことはなく、もちろん「ビューロー」の見解を代弁する立場にはなかった。(『エコノミスト』1974年1月22日号〜2月5日号)
 このように、初期の『マルクス主義』が「ビューロー」機関誌として、その本来の目的であった「政策」「意見ヲ提唱スル」ものとならず、文字通りの「研究雑誌」にとどまっていたのは何故であろうか。
 理由はいろいろあろうが、第1に考えられるのは、『マルクス主義』の前身である諸雑誌のうち機関誌的色彩のこい『階級戦』、『赤旗』、さらには『前衛』が発禁などのためいずれも財政難に苦しみ、短期間で廃刊に追い込まれたのに対し、「学術雑誌」的な『社会主義研究』は、当時としては画期的な3,000の固定読者を持ち、4年間にわたって刊行を続け得たこと(『山川均全集』第5巻、472ぺ一ジ)が考慮されたのではないか。新たに『マルクス主義』の編集実務にあたることになった西雅雄は、他ならぬ『社会主義研究』の編集主任であった。
 同時に、また、より主要な原因と思われるのは、「ビューロー」をはじめ、その周辺にいた共産主義者の間で、党の再建をめぐって、また無産政党や労働組合運動の進め方をめぐってさまざまな見解があり、一致した政策を「提唱」しうる状態になかったことがあると思われる。第4号の「編輯後記」がつぎのようにのべているのも、こうした状況を示している。

 「前号の北原氏の論文について二三の同志から注意を受けた。北原氏の見解はマルクス主義ではない、したがってかやうな論文を『マルクス主義』に掲載するのはよろしくないといふのである。之に就いて一言する。
 編輯者の見る所では、日本のマルクス主義は未だ其の形成の道程にあり、必ずしも正統マルクス主義の一派が存在する訳ではない。その上に本誌は同人組織でないから、すべての論文に同一の立場を強制する訳に行かず、したがって本誌は如何なる意味に於いても一党一派の機関ではない。そこで編輯者は、苟も階級闘争を是認する限りは、出来るだけ多方面の人々に執筆を願って、研究、批評をすすめつつ、その間に自ら真実のマルクス主義を発揮したいと考へる。」

 ここで問題になっている論文は、北原竜雄「国家社会主義の国家観」であるが、これは、校正の段階で最後の部分が5ぺ一ジ削除されている。
 (なお北原はこの削除された部分を「愛国心の自滅性」と題して、『潮流』第1巻第5号〔1924年9月〕に発表した。)
 北原はすでに見たとおり、事実上の「ビューロー・メムバー」であり、コミンテルンとの連絡にあたっていた人物である。その北原が執筆した論文が5ページにわたって削除されたことは、「ビューロー」内の理論的、政策的不一致を端的に示している。
 

4. 上海会議とその影響

 こうした「ビューロー」内部の意見の不一致を解決し、党再建の出発点となったものが、いわゆる「上海会議」である。1925年1月下旬、コミンテルン極東部長ボイチンスキー、亡命中の佐野学、「ビューロー・メムバー」の青野季吉、荒畑寒村、佐野文夫、徳田球一がその出席者であった*6
 これより先、1924年6月〜7月に開かれたコミンテルン第5回大会では、日本問題小委員会が設けられ、日本共産党の再建の必要が決定され、その実行はコミンテルン極東部に委ねられた。その結果、同年9月に、佐野学がコミンテルン極東部長ボイチンスキーから党再建の指令を受け、上海に赴いて内地との連絡に当った。連絡は主として海員の田中松次郎、小西茂国を通じて佐野と徳田球一との間でおこなわれた。また内地からは、北原竜雄が2回にわたって情勢報告のため派遣されてきた(以上、主として佐野学調書による)。同年11月末頃にはボイチンスキーも上海に来て、「党再建運動ノ方針ヲ決定スル」ため「可成多数ノ同志、特ニ山川均」(『現代史資料』20、93ページ)が上海に来ることを求めた。山川の出席は実現しなかったが、当時のビューローメムバー全員が参加することになり、上述の6人によって会議が開かれたのである。
 なお、この他に「北原竜雄モ参加ノ筈デ会議ヲ三、四日開カズ待チマシタガ、遂ニ来ナカッタ」「『現代史資料』20、198ページ)。不参加の理由は、1924年12月の連絡の際に、機関紙発行資金としてボイチンスキーから渡されていた約1万円を費消してしまった為であると推測されている。
 会議は、共同租界、昆山路のボイチンスキーの下宿で3、4日間にわたっておこなわれ、ボイチンスキー起草のテーゼを採択した。この「上海会議1月テーゼ」は、公表されなかったため、他のテーゼにくらべ余り知られていないが、数年前に、山辺健太郎『現代史資料14、社会主義運動(1)』で紹介され、ようやく一般に利用が可能になった。
 「テーゼ」は、まず、解党をきびしく非難するとともに、解党をひき起した原因を分析し、解党理由についての「日本の同志」の意見に批判を加えている。「テーゼ」はさらに「共産党の形成は専制主義の打破の後にはじめて可能となる」とする意見を日和見主義として批判し、最後に「日本の共産主義者」の任務を提起している。
 この「上海テーゼ」は、いわゆる「第1次共産党」の組織や活動の特質を解明し、また解党期の共産主義運動内における諸見解を知る上でも不可欠の資料である。ただ叙述が整理されておらず、翻訳もあまり良くないので、重点がつかみにくいうらみがある。会議の重点については、むしろ「上海テーゼ」を実践する中心となった徳田球一の陳述の方が参考になる。

 「二二問 右会議デ決定サレタ事項ハ。
 答 夫レハ、
 一、解党派理論ノ根本的語謬ワ認メ、之ニヨリテ生ジタ一切ノ弊害ヲ直チニ除去スル事
 二、党再建ニ関スル「テーゼ」ノ決定ノ作成
 三、週刊新聞ヲ直チニ発行スル事
 四、「ビューロー」ニ労働者ヲ参加セシメ之ヲ拡大シ、直チニ「グループ」建設ノ準備ヲ開始スル事
 五、労働組合運動、農民運動等ニ付テハ従来行動派ノ取ッテ居ッタ方針ト右作成ニ関スル「テーゼ」精神ニ従ッテ運動ヲ拡張スル事等デシタ。
 「二三問「テーゼ」ハ如何ナル内容ノモノガ作成セラレタカ
 答 夫レハ、
 一、日本資本主義ノ現状ハ帝国主義段階ニ這入ッテ居ル事、従ッテ帝国主義ノ齎ラス諸体様ガ現ハレテ居ル事、然ルニ国内ノ政治関係ハ尚封建的政治権力ガ強大ニ存在シ、「ブルジョアデモクラシー」ハ中途デ絞殺サレ居ル事。
 二、政治方面ニ於ケル当面ノ任務ハ封建的政治権力、即チ天皇ノ廃除ニ対スル労働者農民ノ大衆ヲ糾合シタ闘争デアル、基為メニ普選ノ要求ハ直チニ行ハルベキ合法運動デアリ、而シテ労働者農民大衆ニヨリテ合法的政党ヲ結成シ、之ヲ党ノ覇権ノ下ニ置クベキデアル。
 三、「ビューロー」ハ直チニ党ヲ再建スル目的ノ為メニ共産主義者グループヲ結成シ、之ガ党建設マデノ間共産主義ノ任務ヲ負担シナケレバナラヌ。特ニ「グループ」ニハ労働者ヲ吸収シ、「コミンターン」ノ方針ニ従ッテ細胞建設ニ努メナケレバナラヌ。
 四、労働組合運動ニ於テハ統一運動ノ方針即チ「プロフィンターン」ノ常ニ強調スル方針ニ従ヒ、右翼組合内ニ左翼ノ結成ヲ努メ左翼組合トノ共同行動ヲ為スベキデアル。
 五、従来ノ「クラシカル」ナ宣伝的煽動方法ヲ捨テテ、活発ニ具体的ナ問題ニ付テ労働者ノ前ニ勇敢ニ行動スヘキデアル、其為メニ宣伝煽動ノ機関トシテ新聞ヲ発行スル事。」(『現代史資料』20、95ページ)。

 上海会議における討議の内容、さらに討議内容とテーゼの関係など検討を要する問題は多いが、ここでは、テーゼが明らかに雑誌『マルクス主義』に対しておこなっている批判を紹介して、先に進もう。
 「大衆向の宣伝並にプロレタリアートの諸分子の教育に関してはビューローは外部からするものの様に考へてゐる。
 即ち大衆向の理論的宣伝の方法に移るのみであって、専制主義並に労働運動中の日和見主義に対する闘争の過程の中に於てする宣伝の方法によらない。この事はビューロー内の我が同志が抽象的な理論雑誌のみを発行し、且つ急進インテリゲンチャの発行になる各種の合法マルクス主義雑誌の上に個々に動いてゐるばかりで、戦闘的共産主義大衆の宣伝及日本に於ける政治生活の日常問題による大衆向の煽動に重きを置く彼等自身のプレスを有して居らぬ事実によって、知ることが出来る」(『現代史資料』14、43ページ)。

 上海会議の日本側出席者は、佐野学を除き、2月初旬にあいついで帰国した。しかし、会議の決定事項のうち、すぐ実行に移されたのは「ビューロー」への「労働者分子」の参加だけ、それもごく小規模なものであった。即ち、渡辺政之輔、花岡潔、間庭末吉の3人が2月末から3月はじめにかけて「ビューロー」に加入したにすぎない。その他の決定事項すなわち、合法機関紙、非合法機関紙の発行、「ビューロー」の拡大、改組、共産主義グループの結成、「上海テーゼ」の発表等は容易には実現しなかった。その理由はいくつかあった。
 第1は、解党前の「第一次共産党」の中心人物であった堺利彦が「上海テーゼ」に反対し、山川均もまた「テーゼ」の実行に消極的であったことである。
 堺は、はっきりと「上海テーゼ」に反対した。これについて、徳田は次のように供述している。

「堺ニハ右ノテーゼヲ見セタ上懇々ト上海会議ノ内容ヲ説明シ了解ヲ得様トシマシタガ、同人ハ右テーゼノ実行ハ頗ル危険デ、少シ許リ残ッテ居ル優良ノ同志ヲ態々監獄ニ送リ込ム様ナモノデ、斯様ナ自殺的行為ハ断ジテ賛成出来ヌ、自分ハ諸君ガ之ヲ実行スルト云フノナラ之ヲ諌止スルノミデ援助ヲセヌト云フ意味ノ事ヲ申シ、且ツ同氏ハビューローカラ脱退スル意ノアル事ヲ仄カシマシタ」(『現代史資料』20、97ページ)。

 事実これ以後堺は「ビューロー」との関係をほとんど断ったとみられる。
 一方、山川の「上海テーゼ」に対する態度、「ビューロー」との関係については、両者の証言にくいちがいがあり、検討を要する。
 徳田の供述によれば、彼は上海から神戸に帰り、これも、「プロフインターン」の仕事でモスクワから上海を経由して帰国したばかりの近藤栄蔵と会い、それが済むと、直ぐ神戸郊外に住んでいた山川均を訪問し、上海会議の模様を報告している。

 「私ハ山川ニ上海会議ノ結果ヲ報告シ、之ガ意見ヲ求メマシタ処、同人カラ上海テーゼニハ賛成ナルモ、其実現ニ対シテビユーロー員トシテ責任ハ持ツコトハ出来ナイ、但シ諸君ニ於テ右テーゼヲ実行スル者ヘナラ出来ル丈ノ援助ヲスル旨ノ意見ノ開陳ガアリマシタ」(『現代史資料』20、97ページ)。

 これに対し、山川は1956年9月におこなわれた座談会のなかで、共産党再建の動きを知ったのは1925年の2月ごろ、「第一次共産党事件」の公判に出るために上京した際、荒畑から上海テーゼを示された時であるとして、次のように述べている。

 「そこで荒畑君からは、こんど、上海のコミンテルンの代表者との会議でこのテーゼを決定し、これに基づいて党を再建することになったから協力してくれということでした。私はしばらく考えた末、僕は協力できないと答えました。というのは、かつての共産党は僅か一年ばかりの経験ではあるが、ああいうものは、運動全体にとって大きなマイナスになる、過去の共産党の誤りは少しばかりやり方が悪かったためといったようなものではない、わが国の現在の条件の下でああいう形態の運動をやれば、何度やり直しても必然的にああいうものとならざるを得ない、所在は秘密にするが存在は明らかにするというような簡単なことで解決される問題ではない、ロシアではそれで行けたかも知らぬが、日本ではそうゆかない、それでああいう運動をまたくりかえすことは、私が方向転換論を書いた考え方とどうしても一致しない、それで私はやはり私の道を進もう、こういうふうに考えたからです。
 すると荒畑君は堺さんに、あなたはどうですと聞くと、堺さんは、僕も山川君と同意見だと答えました。……こうして多年一緒にやってきた荒畑君と、しばらく別れることになりました。それで党とは全然関係が絶えたわけです」。(『山川均自伝」418〜419ページ)。

 両者の証言は全く対立している。そこで、2、3の点について検討してみよう。まず第1に、「上海テーゼ」を最初に山川に伝えたのが荒畑ではなく、徳田であることは確かであると思われる。
 この点については、「3・15事件」の証人訊問調書で山川自身が認めている。

 「三六問 同十四年二月頃、徳田カ上海カラ帰ッタトテ証人ヲ訪フタコトカアッタカ 答 月ハ覚ヘテ居リマセヌカ、大正十四年ノ寒イ頃左様ナコトカアリマシタ
 三七問 其際ノ話ノ内容ハ如何
 答 詳シク覚ヘテ居リマセヌカ、徳田ハ上海テ同志ノ人ト相談シタ結果、日本共産党ヲ再建セネハナラヌト云フ意見ニ決マリ、自分ハ、堺、山川、両氏ニモ相談スルト云フテ来タカラ協力シテ呉レト云フ様ナ話テアッタト記憶シテ居リマス
 私ハ内容ヲ詳シク覚ヘテ居リマセヌカ、兎ニ角左様ナ協力ヲスルコトヲ断リマシタ
 三八問 其際徳田カラ上海テーゼニ付テノ話カナカッタカ
 答 「テーゼ」カ何カ判リマセヌテシタカ、徳田球一君カラ、上海テハ斯フ云フ風ニ決マッタトテ其内容ニ付一応ノ話カアッタト記憶シテ居リマス」(『徳田球一外三十六名治安維持法違反被告事件、証人及鑑定人訊問調書』)。

 荒畑は『寒村自伝』では山川の座談会発言によっているが、予審では、これを認める供述をしている。

 「当時徳田君カラ又後ニ山川君カラ聞イタノデアリマスガ、上海カラ帰ッタ後徳田君ハ山川君ニ対シ斯ウ云フ方針デ遣ッテ行クコトニナッタカラ君モ仲問ニ這入ッテ呉レト勧メタガ山川君ハ自分ハサウ云フコトニハ反対デアルカラ這入ルコトハ出来ヌ、又然シ諸君ガサウ云フ風ニ遣ッテ行カウト思フナラ夫レハ御勝手ダト云ヒ断ッタサウデアリマス」(『現代史資料』20、17ページ)。

 さらに、山川は1925年の2月ごろ、「第一次共産党事件」の公判に出廷するため上京したと述べているが、同事件の第1回公判が開かれたのは同年4月7日のことである。山川が荒畑から上海テーゼの実行に協力を求められる以前に、徳田に会っていることは間違いないと思われる。
 次は、「上海テーゼ」に対する山川の態度である。これについても、両者の証言は大きくくいちがっている。まず確かなことは、山川が「テーゼ」を全面的には支持しなかったことである。徳田は別のところで次のように述べているのである。

 「上海会議ノ決定ニ対シテ山川均ハ大体ニ於テ賛成ハスルガ自分ハ責任ヲ負フ事カ出来ヌト云フノデ、ビューロートシテハ其時ニ関係ガ切レタ訳デアリマスガ………」(『現代史資料』20、130ページ)。

 しかし、一方、山川が堺ほど明確には、「テーゼ」に反対しなかったことも充分考えられる。少くとも、山川がこれ以後、「党とは全然関係が絶えた」と述べている点は疑問である。
 何故なら、その後も山川の許には徳田をはじめビューロー関係者がしばしば訪れ、重要問題について、彼の意見を求めており、山川もこれに答えている事実があるからである。たとえば、鍋山貞親は、総同盟分裂の際に、山川の意見を求めたことを次のように述べている。

 「当時私ハ前述ノ大阪ニ居タ某『ビューロー』員カラ山川氏モ亦『ビューロー』ノ一員ナル事ヲ聞知シテ居マシタ。其処デ同志徳田球一、渡辺政之輔等ガ所在不明ノ間──即チ彼等ガ上海旅行中デス──一両回神戸郊外ノ山川氏ヲ訪レ、運動方針上ノ指導ヲ受ケタノデアリマスガ、氏ハ明ラカニ『今ヤ分裂シテ自由ナ立場カラ独自ノ活動ヲ為スベキデアル』ト教ヘマシタ。私ノ外ニモ革新同盟ノ中心分子中二、三ノモノハ同氏カラ同様ノ意見ヲ聞カサレテ居タ様デス。ソシテ彼ノ評議会大会ノ宣言及評議会綱領ナルモノハ山川氏ノ直接指導ノ下ニ原案ガ作成サレタノデアリマス。」(『現代史資料』19、73ページ)。

 鍋山の他にも、渡辺政之輔、市川正一、福本和夫らが、「ビューローノ顧問格」としての山川を再三、訪れている。この点は山川自身もある程度認めており、先の座談会でも、「それで党とは全然関係が絶えた訳です」と述べたすぐあとで、その後も「党の会議や何かで地方から出てくる人が、ちょいちょい私のところにも寄りまして、どうも話をしていると、私が党にはいっているものと思い込んだ話しぶりをする人がいくらもありました」と語っている。
 少くとも、ビューローおよびその周辺にいた人達は山川を「同志」、それも指導的な同志として遇しており、山川もそのような取扱いを拒否してはいなかったと見られる。要するに、山川自身は、「上海テーゼ」による党の再建にあまり積極的ではなかったが、「ビューロー」との関係を完全に絶つことはせず、いわば「不即不離」の状態を続けていたようである。
 ところで、上海会議の決定がすぐ実行されなかった原因は、堺、山川の協力が得られなかったことだけではなかった。第2の問題は、上海では「テーゼ」に賛成していたはずの青野季吉、佐野文夫の2人が、帰国直後に「ビューロー」から脱退してしまったことである。脱退の理由について、青野は「上海カラ帰リ同年二月カ三月初メ頃ヨリ神経衰弱ガ酷クナリマシタノト、アーシタ運動ニ対シ疑問ヲ持チマシタコト、北原君ガ新聞発行ノ資金ヲ使ヒ込ンダト云フ其不道徳ヲ成シ、サウ云フ人ト仕事ヲ共ニスルニ対シ疑問ヲ持ッタコト、夫レヤコレヤノ事情カラ私ハ『ビューロー』ヲ脱退シマシタ」と述べている(証人訊問調書)。また後年の自伝『文学五十年』で〔脱退の〕「根本の理由といえばこういう地下的な仕事に追い立てられている間の、自分の中に大きな空どうができた感じに一刻もたえ切れなくなったからである」(同書108ページ)と述懐している。
 同じく佐野文夫は、「従来『ビューロー』デハ空虚ナ議論許リ闘ハシテ居ッテ意見ノ一致スル見込ガアリマセヌ故左様ナ処ニ居ッテモ仕方ガアリマセヌカラ脱退シテ公然タル大衆運動ノ中ニ這入ッテ色々学ビ度イト云フ考ヘガアリマシタノデ『ビューロー』ヲ脱退スル事ニナッタノデアリマス」と、その理由を述べている(『現代史資料』20、382ぺ一ジ)。
 結局、「ビューロー・メムバー」は、徳田、荒畑の2人に、新たに参加した渡辺政之輔、花岡潔、間庭末吉の5人になった訳である。ただし、このうち、花岡、間庭は関西に住んでいて日常的に「ビューロー」の活動に参加する条件はなかった。また、荒畑も「神経衰弱ガ酷クナリブラブラシテ居タノミナラズ、生活ニモ追ワレテ居ッタノデ左様ナ〔ビューローの〕会合ニ加ヘラレモセズ又余リ進ンデ加ワリモセズ謂ワバ不即不離ノ関係ヲ続ケテ行ッタ(『現代史資料』20、17ぺ一ジ)という。
 こうして、上海会議以後、党再建の中心となったのは、徳田球一であった。彼は、渡辺、杉浦らと共に、その活動の重点を労働組合運動内部における左翼勢力の拡大、強化をめざして積極的な活動を展開した。
 ところで、この徳田を中心とした「ビューロー」と雑誌『マルクス主義』との関係はどのようなものであったろうか。結論からいえば両者の関係はあまり密接ではなく、『マルクス主義』誌に対する「ビューロー」の指導はほとんどなかったと思われる。
 何故そのように結論するかと云えば、第1には『マルクス主義』の誌面に見る限り、上海会議の決定、あるいは、「ビューロー」構成員の変化などがほとんど反映していないからである。依然として「抽象的理論」が主であり、執筆陣も「ビューロー」から離れた青野季吉、佐野文夫らをはじめ、高橋亀吉、林房雄、さらには1924年の12月号から新たに登場した福本和夫といった、「ビューロー」との組織的なつながりを持たない人々が目立っている。
 また、実際に編集にたずさわっていた人々も同様であった。志賀義雄によれば、1925年、評議会が創立された当時の『マルクス主義』の編集は、市川正一、青野季吉、佐野文夫、西雅雄、志賀義雄の5人によっておこなわれていた(『日本革命運動史の人々』162ページ)。また、このほかにも荒畑寒村、野坂参三が時々参加したという(志賀義雄氏談)。いずれも解党前の党員ではあるが、荒畑のほかは「ビューロー・メムバー」ではない。
 要するに、この時期、1925年前半の『マルクス主義』は、ビューロー機関誌というより、旧「第一次共産党員」によって編集されるマルクス主義研究誌であったといえる。
 もっとも、『マルクス主義』に上海会議の影響が全く見られないわけではない。第11号(1925年3月)の巻頭論文として、ボイチンスキー「日本の労農露国承認の意義」が、また第12号(同年4月)に荒畑寒村によるトロツキズム批判論文が掲載されていることなどは明らかに「上海土産」とも言うべきものであった。ボイチンスキー論文については説明を要しないであろう。荒畑「レニニズムとトロツキーズム」の内容は、上海会議のあとで荒畑がボイチンスキーから個人的に伝えられた事実に拠ったと見られる。この推定の根拠は『寒村自伝』のつぎのくだりである。

 「私が彼から、昨年一月のレーニン歿後、ロシア共産党に起った内争を聞かされたのはこの際であった。彼の説明によれば、トロツキーは青年層を動員して党の官僚主義化を攻撃し、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフが連合してボリシェビキの権威のためにトロツキーと争っている、というのである」(同書、筑摩書房版、下146ページ)。

 さらに、第13号の編集後記が、つぎのように記していることも、上海会議の影響と見られなくはない。
 「修正主義、日和見主義、改良主義といったやうな傾向が、思想界にも労働運動の方面にも漸く抬頭しはじめたやうである。マルクス主義を標傍する本誌は、決してこれらの現象を看過するものではない」。
 この「宣言」は、早くも次号(25年6月)の「日本労働総同盟内紛問題批判特集」としてあらわれた。とりわけ、この号の主論文の一つである志賀義雄「『科学的日本主義』の理論」は、上海テーゼが提起していた「労働運動中の日和見主義に対する闘争」をテーマとしたものであった。この特集号にいたって、『マルクス主義』はそれまでの「研究雑誌」の枠をこえはじめたのである。ただし、志賀論文は「当時解党主義ニ対シテ漸ク不満ヲ感シ初メテ居夕日本共産党ノ『行動派』ノ傾向ヲ多分ニ受ケタモノ」(志賀第六回予審訊問調書)、ではあったが「上海テーゼ」にもとづいて書かれた訳ではない。彼が「上海テーゼ」について知ったのは1925年9月、徳田から共産主義者グループヘの参加を求められた時のことであった(志賀第五回調書)。
 いずれにせよ、第14号を境に『マルクス主義』は次第に実践的な問題をとりあげはじめる。とくに第16号の徳田球一「無産政党の綱領に就いて高橋亀吉氏の所論を駁す」は、単なる個人論文でなく、ビューローの決定にもとづいて書かれたものであり、『マルクス主義』の性格の変化を示すものとして注目に値する。

*3 解党の際設けられた機関は、一般に「ビューロー」と呼ばれており、ここでもそれに従った。しかし、市川正一は「其会〔森ヶ崎会議〕ノ席上デハ確カ『オルガニゼーション・コミティー』と呼んでいた様ニ記憶シマス」とのべ、これを「再組織委員会」と呼んでいる。また荒畑の予審調書では「観察機関」、佐野文夫調書では「残務整理委員会」などの名称が使われている。ただし、これらは荒畑、佐野らが、その機関の性格を説明した言葉を用いて、予審判事が名づけたもののようである。おそらく、最初は統一的な呼称をもたなかったものが、コミンテルンとの連絡の過程で「ビューロー」と呼ばれるようになったものと考えられる。

*4 解党を最終的に決定した「森ヶ崎会議」の出席者として、関係者の証言が一致しているのは、荒畑勝三、市川正一、佐野文夫、徳田球一、野坂参三の5人である。しかし「森ケ崎会議」が開かれた日時について、この5人の供述は一致していない。すなわち、荒畑(第1回調書)。野坂(第2回調書)はこれを2月頃のこととし、市川(第4回調書)は1月か2月頃、佐野(第13回調書)は2月か3月頃、徳田(第11回調書)は3月頃とのべている。これは、解党問題を討議する会合がこの他にも何回か開かれ、このうち1、2回は大森・森ケ崎の別の旅館で開かれている(佐野文夫第13回、野坂参三第6回調書)ためであろう。

*5 解党問題については、信夫清三郎『大正デモクラシー史』III(1959年、日本評論社)が比較的詳しい。ただし、氏が「森ヶ崎会議」の出席者5人を2つのグループにわけて対立させて論じていること、とりわけ、徳田球一、市川正一の二人が「解党の根本原因を認めようとせず」「解党の決定にみずから参加したことを語らず、解党の責任をただひたすらに党内の『小ブルジョア分子』と『インテリゲンツィアの指導者たち』に帰そうとした」としている点は疑問である。
 市川正一は第4回予審調書で、「私ハ右ノ如ク不活動分子ヤ冒険分子ヲ一掃スルト云フ意味ニ於テ解党論ヲ主張シタ事ガアリマシタ、当時ハ其ノ積リテアリマシタカ後ニ至ッテ夫レモ実ハ完全ナ解党主義ニ外ナラヌコトヲ知ッタノデス」と述べ、つづいて、「森ヶ崎会議」に出席したことも認めている。また、徳田の場合も解党原因をほりさげた「上海テーゼ」の決定に参加し、その実践の先頭に立った事実も見る必要があろう。

*6 『寒村自伝』では、プロフィンテルン代表ヘラーも出席したことになっているが疑問である。おそらく同年5月に開かれた上海会議と混同しているものと思われる(筑摩書房版、下巻146ページ)。同様の記述は、Beckmann & Okubo“The Japanese Communist Party 1922-1945”にも見られる。なお、『寒村自伝』では、上海に渡る前に荒畑が北原に会って資金拐帯問題を追求したことになっているが、これは帰国後の誤りであろう。小さなことではあるが、『寒村自伝』の記述が正しいとすると、上海会議は2月に開かれたことになってしまう。












Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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