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雑誌『マルクス主義』の5年間(4)

二 村  一 夫

目  次
1.はじめに 5.「コミュニストグループ」の結成
2.刑事記録の資料的価値
6.「コミュニスト・グループ」のメムバー
3.創刊事情と初期の「ビューロー」 7.「コミュニスト・グループ」と『マルクス主義』
4.上海会議とその影響 



6. 『コミュニスト・グループ」のメムバー

 8月の佐野学宅におけるビューロー会議での最も重要な決定は、いうまでもなく「平会員の獲得」による「コミュニスト・グループ」の結成であった。これが、どのように実行されたかをつぎに検討しよう。
 この点で何よりも確実な手がかりと思われるのは、3・15事件の際、事務局長の中尾勝男の家から押収したといわれる「暗号党員名簿」のうち「グループ時代ヨリ一九二八、一月迄の党員増加」の部分である(『現代史資料』16、59ページ)。

1.グループ終期(ママ)(一九二五、春)    七
2.グループ中期(一九二五、終り)      三〇
3.グループ初期(ママ)(一九二六、二月)  四〇
4.大会(一九二六、終り)          一二五
5.再組織迄(一九二七、終り)       一四五
6.現在(一九二八、一月)         四〇九

 ただし、この「暗号党員名簿」は主として1928年1月現在の党員の姓が各地方別に記入されているだけで、各人の入党年月日などはわからない。したがって、各時期の加入者名は別に検討を要する。
 まず、1.グループ初期(1925年春)の7人は、コミュニスト・グループ結成を決定した、8月のビューロー会議以前のビューローメムバーであろう。具体的には、荒畑寒村、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔、間庭末吉、花岡潔、北浦千太郎とみて間違いない。
 つぎは、「2.グループ中期(1925年末)」の30人である。1.の7人を差引いた23人が8月以降の新加入者ということになる。
 これを明らかにすることは容易ではないが、参考資料として、かなり役に立つのは、3・15事件、4.16事件などの判決および予審終結決定書である。治安維持法において、被告の「罪状」を決する最も重要な事実は、彼が党員であるか否かである。したがって、判決はもちろん予審終結決定書は原則として被告の入党年月・勧誘者を記しているからである。
 言うまでもなく、判決や予審終結決定がこの点で常に正確である筈はない。とくに勧誘者名は信頼度が低いと考えられる。多くの被告は、自分が党員であることを認めても、勧誘者、あるいは自分が勧誘して入党させた者について秘匿する傾向があるからである。また、時としては意識的に全く別人の名を入党勧誘者としてあげることもあった。前回の〔註2〕で引用した国領五一郎の供述はその一例である。
 また入党年月日についての事実認定も、判決、予審終結決定ともに必ずしも正確なものではあり得ない。はなはだしい例では、1926年7月「コミュニスト・グループ」に参加したと認定されている門屋博は、別の予審終結決定では同年6月参加の島上善五郎の勧誘者とされているのである。一般に、明白な証拠をつきつけられない限りは、できるだけ入党年月日を後にずらそうとする傾向があるように思われる。
 しかし、判決はもちろん、予審終結決定でも、「第一次共産党事件」の田代常二のように、非党員でありながら党員と誤認された例はないようである。また、入党年月日も、実際の日付より早くなったケースは少ないように思われる。その限りで、判決および予審終結決定は「コミュニスト・グループ」や共産党への参加者を明らかにする有力な手がかりであることは間違いない。
 ところで、判決と予審終結決定ではどちらに資料的価値があるかといえば、一般的には判決であろう。なぜなら、判決の場合は事実認定の根拠が「証拠」として明示されているのに対し、予審終結決定では全くこれを欠くからである。ただ、予審終結決定書は3・15、4・16事件の被告602人についてのものが『現代史資料』16に収録されており容易に利用可能であるのに対し、判決は、中央部関係181人に対するものが『現代史資料』18に収録され、あるいは司法省刑事局『思想研究資料、特輯第2号』の復刻版で利用しうるに過ぎない。したがって、ここでは主として予審終結決定書を用いざるを得ない。
 まず、1925年12月以前の加入者について見よう。次の12人がそれである。参考までに各人の入党勧誘者名もあげておこう。( )内がそれである。

〇 1925年8月頃加入
 市川正一(佐野学)、佐野文夫(徳田)、杉浦啓一(渡辺)、高橋貞樹(徳田)、南喜一(渡辺)、鍋山貞親(荒畑)、岸野重春(徳田)
〇 同年9月〜10月頃
 西雅雄(佐野文夫)、志賀義雄(徳田)、村尾薩男(徳田)、是枝恭二(徳田)
〇 同年暮頃
 野坂参三(不明)

「3.グループ終期(1926年2月)」は40人、1926年に入ってからの新加入者は10人である。しかし、予審終結決定においてこの時期に加入したことになっているのは、1月に中尾勝男(不明、ただし、判決では佐野学)、2月に松尾直義(杉浦)の2人だけである。
 結局、1926年2月以前の加入者40人のうち、予審終結決定書等で氏名が明らかなものは21人にすぎない。もし、前掲の「党員増加状況」に誤りがなければ、1925年末までの加入者はあと11人、さらに26年1月から2月に、あと8人の加入者があったはずである。
 徳田、佐野らの予審調書などから、参加した可能性があると思われるのは、山本懸蔵、青柿善一郎、上田茂樹、山川均、大倉旭らである。山本、青柿については、佐野学が、1926年2月(佐野の下獄)以前の参加者として名をあげている20人のなかに含まれている(前掲書207〜208ページ)。上田は、徳田が1925年10月現在の参加者として名をあげている11人のなかに含まれている(同書、111ページ)。上田自身の予審での陳述、さらに予審終結決定では、上田の入党は1927年9月、長江甚成の勧誘によるとなっている。しかし、上田は「第一次共産党」の中央委員で『赤旗』、『階級戦』の編集人、また「ビューロー」の無産政党方針をうち出した『労働新聞』号外(1925年8月8日付)の執筆者の1人であり、『無産者新聞』の創刊当初から編集に関係していることなどを考えあわせると、コミュニスト・グループに参加していた可能性は強い。大倉旭はロスタ通信記者でコミンテル代表のヤンソンと日本共産党員らとの連絡の任にあたっていた。「党員名簿」の関東地方党員の最後に、山川の党名である星、荒畑の党名である青木らとともに別扱いになっている8人のうちの1人が大倉となっているのは、この大倉旭(本名は、大道正治)であろう。
 問題は、また山川である。彼が「党員名簿」の中に含まれていることは、いま述べたばかりである。しかし、周知のように山川はこれを「共産党がつくり出した神話」(『山川均自伝』420ぺージ)として否定している。山川均の伝記的研究『日本の非共産党マルクス主義者』における小山弘健もこの点はほぼ『山川均自伝』を肯定している。
 一方、山川が「コミュニスト・グループ」に正式に参加したとする見解も少なくない。『転向』中巻の判沢弘、ねずまさし『日本現代史』第7巻、恒川信之『日本共産党と渡辺政之輔』、『人文学報』第32号、同第35号の福本茂雄(岩村登志夫)である。
 これらの諸氏の主たる根拠となっているのは、いずれも、徳田球一の予審における供述である。さきに(本誌203号)、「上海テーゼ」に対する山川均の態度について検討した際引用したように、徳田は山川とビューローとの関係が切れたことを認める供述をしているが、それにつづいて次のようにのべているのである.

「同年六月初旬、同志ヤンソン ト関係ガツイタ後、同人ノ意見ニヨリテ特ニ山川トビューロートノ間ヲ密接ニスル事ニナリマシタ 夫レデ無産者新聞ノ発刊ノ事ニ付テモ種々相談ヲシ、同年九月一七日大阪ニ於ケル無産政党綱領調査委員会ニ提出スベキビューローノ綱領規約案ニ対シテハ、特ニ渡辺政之輔ヲ神戸郊外御影ノ同人宅ニ派遣シテ其意見ヲ求メタ事ガアリマシタ。
 期カル関係カラ同人ハ同年十月頃積極的ニ「グループ」ニ加入スル事ヲ求メテ来マシタ。「グループ」デハ直チニ之ヲ承認シ、当時神戸地方ヲ担任シテ居ッタ同志
 間庭末吉
ニ其事ヲ通知シ、「グループ」員トシテ活動セシムル様ニ致シマシタ。
 私ガ大正十四年十二月下旬入露シマス前ニ、神戸郊外ノ某所デ同人ト会見シ、ビューローノコミンターンヘノ報告ノ要旨ヲ示シテ種々協議シタ結果、同人モ原案ヲ認メル事ニナリマシタ尚其前ニビューローデハ、同志
 ヤンソン
ト協議ノ結果、グループノ活動ヲー層積極的ナラシムル為メ、山川ヲ東京ニ呼寄セル事ヲ決定シ、ビューローハ同人ノ移転費用ヲ負担スル事ヲ決シ、私ノ入露前私カラ同人ニ其費用ヲ渡シマシタ同人ガ上京シタノハ私ノ入露後ト記憶シマス。
一八問 山川ハ細胞ニ所属シテ居ナカッタカ。
 答 当時山川ハ官憲ノ非常ニ厳重ナ監視ノ下ニアッタノト、病身ノ為メニ終始会合シナケレバナラズ、細胞ニ正式ニ属スル事ハ不可能デアッタノデ、神戸地方ノグループノ責任者ガ連絡ヲ取ル事ニナリ、上京後ハグループ中央委員ト直接ナ関係ヲ持ツ事ニナッテ居リマシタ(前掲書、130〜131ページ)。

 山川の「コミュニスト・グループ」加入については、このほか福本和夫がこれを裏付ける陳述をしている。

「私カ副主筆ニ任命サレタ当時ハ山川均氏カ党内面ニ於テノ名義上ノ主筆テアリマシタカ五色温泉大会後ハ代ッテ私カ任命サレタモノテアリマス
 此ノ干係カラシテ七月末水野君ト共ニ山川氏ヲ鎌倉ニ訪問シタ事カアリマス(「福本和夫第三回予審訊問調書」傍点は引用者のもの、以下同様)。

 彼は戦後の自伝、『革命運動裸像』においても、彼がグループに参加した1926年の4、5月頃から党再建前後にかけて「グループのメンバーであったことのたしかであるのは山川均…」(同書59ページ)と、山川の名を真っ先にあげている。
 また、徳田、佐野学の後をうけて「グループ」の委員長になった市川正一も、つぎのようにのべている。

 「私ガ『ビューロー』(ここでは、「コミュニスト・グループ」の中央委員会を指している−引用者)ニ這入ッタ頃ハ山川均ハ兎ニ関西カラ鎌倉ニ移転シテ居マシタ。山川ハ正式ノ『ビューロー』員テハアリマセンデシタカ以前ヨリ『ビューロー』ノ顧問格トシテ重要ノ問題ニ付テハ『ビューロー』カラ意見ヲ求メル様ニシテ居タト云フ事デアリマシテ 私ノ「セクレタリー」時代ニハ私カ山川ト連絡ニ当ッテ居タノデス 私カ山川ト会見シタノハ其間二、三回位ノモノデ ハッキリ覚ヘテ居ルノハ英国総同盟罷業ノ起ッタ時 夫レニ付テノ山川ノ意見ヲ無産者新聞ニ発表シテ貰フ為メニ会見シタノト 福本和夫ヲ『グループ』ニ入レタ当時、山川均ヲ『マルクス主義』ノ主筆トシテ 福本和夫ヲ同シク副主筆トスル問題ニ付テ山川ノ承諾ヲ得マシタ」(市川正一第六回予審訊問調書)。

 以上のように見ると、山川の言うように、荒畑から「上海テーゼ」を見せられ、これに反対の意向を表明した1925年の2月ごろ以降、「党とは全然関係が絶えた」とするのは事実に反すると思われる。
 しかし、徳田の言うように、「上海テーゼ」を全面的には支持しなかった山川が自ら「積極的ニ『グループ』ニ加入スル事ヲ求メテ来」たことが事実とすれば、当然山川のその後の発言にそうした見解が反映しそうなものであるが、そうしたものは見当らない。
 あえて、「折衷主義」的推測をたくましゅうすれば、つぎのようなことがあったのではないか。コミンテルン代表のヤンソンは一貫して山川を重視していたから、彼の意をうけて徳田らが山川に協力を求め、山川も無産政党結成運動が急速に進展していた時期だけに、徳田、市川、渡辺らとの接触を拒まずこれに協力した。ただ、その際、徳田らの働きかけが、「コミュニスト・グループ」への参加を明瞭な表現で求めたものでなく、いわば「禅問答」的なものであった。このため、徳田らは、山川がグループヘの参加を承認したものとうけとり、一方、山川の方では、運動に対する一般的な助言をおこなっただけで、「コミュニスト・グループ」への参加を認めたわけではないと考えた。
 両者の対立する証言を統一的に理解するには、こう考える他はないように思われる。
 いずれにせよ、山川が共産党の即時再建に賛成ではなく、再建運動の中心にはいなかったこと、しかし、共産党の再建運動に参加している人々と接触し、これに助言していたことは確かである。
 これと似た立場をとっていたのは田所輝明である。徳田は、田所とグループとの関係について、次のようにのべている。

「大正十四年三月頃、荒畑勝三ト私ノ二人デ田所及同人ノ随者ト認メラレタ二人ノ革命的インテリゲンチャヲグループヘ加入スベク勧誘シマシタ。処カ田所ハ言ヲ左右ニシテ其云フ処ヲ隠蔽シテ居リマシタガ、私ノ其後数回ノ会合ニヨリテ察スル処ニヨレバ、地下運動ノ危険ナル事、同人ガグループノ中央委員ナリト看做セル青野季吉ガ極メテ臆病デアルコト、及北原竜雄ノ反党的行動ガ其原因デアル様デシタニモ拘ラズ、同人及二人ノ人等ハグループノ存在ヲ知リ、且ツ之ト暗ニ共働スル事ヲ是認シテ居リマシタ」(前掲書、129〜130ページ)。

 この徳田の発言は事実であると思われる。関根悦郎が『無産者新聞』で働くようになったきっかけは、田所が徳田から『無産者新聞』への協力を求められたのに対し、関根を身代りとして送り込んだためであった(関根悦郎氏談)。また、田中(秋山)長三郎、斉藤久雄は評議会の成立前後に徳田球一の家に下宿して、徳田の指示の下に労働組合の書記等をしていた。この2人を徳田のところに送リ込んだのも、また田所であった(本誌第163号、建設者同盟特集43ページ)。
 なお、福本茂雄は鈴木茂三郎の後年の回想を主たる根拠として、猪俣津南雄も「コミュニスト・グループ」に参加していたと推定している(「日本共産党の成立と再編成」『人文学報』第33号、225ぺージ)。だが、猪俣のような有力な理論家が実際に「コミュニスト・グループ」に加入していたとすれば、予審調書などに彼の名があってもよさそうなものであるが、そうした事実がないのは何故であろうか。逆に猪俣の参加を否定する証言は、福本茂雄も指摘しているように山川均、高野実などいくつかある。福本和夫も、これも後年の回想ではあるが彼が加入した当時のグループ・メムバーとして山川をはじめ16人の名をあげた後で、「有名なところでは堺利彦、猪俣津南雄君などは加盟していなかった」(『革命運動裸像』59ぺージ)とのべている。山川、福本和夫らの証言は猪俣の不参加を明言しているのに対し、鈴木の回想はつぎのようなもので、猪俣のグループ加入を肯定する根拠としては弱いように思われる。
「第一次共産党の解党が確定して第二次の結成を見るまでの期間、いつの頃から準備委員がどうしてつくられたか私は知らないが、その期間、猪俣津南雄から私に『準備委員に君を推薦しておいたがどうか。』と話があったので私は、『全くその意志がない。』旨を答え、また市川正一から『労農党が出来て政研を解体したそれからの運動の指導については秘密組織による外ないではないか。』とそれらしい話を持ちかけられたが、私は強くそれに反対して訣れた。」(『ある社会主義者の半生』171〜172ページ)。
 思うに、この鈴木の回想の前半、猪俣にかかわる部分は、解党後のことではなく、1923年6月の第一次検挙に先だって、検挙を予知した共産党が執行委員会を開いて対策を協議し、仮執行委員を決定した時の事ではないか。この時、鈴木は仮執行委員の1人にあげられているのであるが(徳田調書、前掲書80ぺージ)、この決定を鈴木に伝える役がアメリカ以来の同志猪俣に委ねられたことは充分ありうることである。しかし、鈴木が検挙後の執行委員として活動した形跡はないから、おそらく彼はこの決定を拒否したのであろう。回想記では、この事実が解党後のことと混同されたとは考えられないであろうか。
 結局、1926年2月現在の「コミュニスト・グルーブ」のメムバー40人のうち、まだ14人分が不明である。検挙をまぬがれたか、あるいは予審でその加入年月を後にずらせることに成功したものであろう。
 次に、1926年3月から同年暮の再建大会までの加入者を、同じく予審終結決定によって月別に整理しておこう。

〇 3月 なし。
〇 4月 菊田善五郎(杉浦)、今野健夫(渡辺)
〇 5月 岸本茂雄(日下部千代一)、河田賢治(佐野文夫)
〇 6月 水野成夫(野坂)、中村義明(不明)、島上善五郎(門屋博)、福本和夫(西)、田中長三郎(松尾)、新谷久三郎(松尾)
〇 7月 村山藤四郎(福本)、門屋博(市川正一)、片山峰登(中尾)、唐沢清八(渡辺)、関根悦郎(市川正一)、湊七良(渡辺)、川村恒一(関根)
〇 8月 中野尚夫(佐野文夫)、大島英夫(中尾勝男)、喜入虎太郎(中野尚夫)、国領五一郎(岸野)、木村京太郎(岸野)、斉藤久雄(渡辺)
〇 9月 丹野セツ(渡辺)、小林信吉(門屋)、二片栄司(渡辺)
〇10月 曽田英宗(門屋)、平井(豊田)直(渡辺)、三田村四郎(松尾)、栗本一男(鍋山)、千石竜一(岸野)、赤津益造(佐野文夫)、松本倉吉(唐沢)
〇11月 宮井進一(不明)
○12月 棚橋貞雄(中尾)、田中松次郎(片山潜)、徳田英次(不明)
〇月不明 河合悦三(福本)、藤井哲夫(不明)

 なお、5月に参加した岸本茂雄の勧誘者である日下部千代一は、予審終結の直前に死亡したため公訴棄却となっているが、予審では、1926年9月、渡辺政之輔の勧誘により参加したと陳述している(日下部千代一第一回予審調書)。この供述が正しいか、5月以前に参加していたかは決め手を欠くが、いずれにせよ五色大会の出席者の1人であり、1926年中に参加していたことは確実である。
 以上、1926年3月から同年12月までの間に「コミュニスト・グループ」に参加した者で名前が明らかとなったのは40人である。同年2月以前に参加したことがほぼ明らかな21人とあわせると61人となる。一方、「暗号党員名簿」の党員増加状況によれば、1926年12月の再建大会(五色大会)当時の党員数は125人である。もし、この数字に誤りがなければ、あと64人程度参加していたはずである。
 しかし、裁判記録だけでは、これ以上に進むことはできない。あとは、関係者からの聞きとり等による他はないと思われる。ただ、最も「コミュニスト・グループ」に参加した可能性が強いのは、評議会はじめ労働組合運動の中心的な活動家、とりわけ「第一次共産党」に参加していた人々であろう。この2条件をみたしながらまだ名前があがっていないのは、辻井民之助、谷口善太郎、金子健太、寄田春夫、半谷玉三、相馬一郎などである。ただし、このうち相馬一郎は1924年11月から28年4年まで、クートベ留学のため日本を離れている。
 ところで、福本茂雄は1926年3月に創刊された雑誌『大衆』の執筆者のうち、次の11人の名を「たしかに共産主義グループに属したとみられる」者としてあげている*5。稲村順三、猪俣津南雄、岡田宗司、片山久、河田賢治、堺利彦、島上善五郎、中村義明、山川菊栄、山川均、山本懸蔵。
 このうち、山本、河田、島上、中村、片山久(本名は峰登)の5人は明らかに「コミュニスト・グループ」のメムバーであったと見られる。その根拠はすでに述べた。また、山川均が「コミュニスト・グループ」側からはその一員とみなされていること、ただ実際は「不即不離」の関係にあったこと、猪俣が不参加とみられること等については福本茂雄の主張も参照しつつすでに検討した。
 残るは稲村、岡田、堺、山川菊栄の4人である。稲村、岡田について、福本が推定の根拠にしているのは、両者の『マルクス主義』への寄稿である。たしかに、稲村は村上進、岡田は緒方潔(清)の筆名で『マルクス主義』1926年5月、6月、8月号に執筆している。それだけでなく、市川正一、佐野文夫らの働きかけで『マルクス主義』の編集会議にも2回ほど出席している。しかし、岡田宗司によれば彼等2人は新人会員中では比較的早くから「福本イズム」に疑問をいだき、「コミュニスト・グループ」にはついに参加しなかったという(同氏談、なお『図書新聞』1974年3月30日付掲載、「いま猪俣になにを学ぶか──聞き書き猪俣津南雄3、岡田宗司氏その1」参照)。また石堂清倫も、「村上=稲村は25年暮から26年3月まで私の室にころげこみ、原稿など書いているのを見ても、そうコミュニストではないように思いますし、党の悪口ばかりいって、私を引入れようと努力したものです。ですから4巻6号に村上進があったのに当時新人会員はいぶかったものです」とのべている(二村宛同氏書簡)。福本茂雄自身認めているように「『マルクス主義』執筆を以て共産主義グループの成員の動かす証拠とみなすことはできない」。たとえば、林房雄は岡田、稲村よりはるかに多い10本もの論文を寄稿し、『マルクス主義』の編集実務を担当して「西雅雄から月々十円か十五円の月給をもらった(「文学的回想」、『林房雄著作集』2、232ページ)のであるが、「コミュニスト・グループ」には加えられていない。あるいは、周知の福本和夫の場合も「コミュニストーグループ」の一員として『マルクス主義』に執筆した訳ではない。福本の第一論文が掲載された時、彼は全く「未知の人」であった。この点は雑誌『マルクス主義』の性格を明らかにする上で重要であるので、あらためて確認しておきたい。 堺利彦、山川菊栄について福本茂雄はまったく根拠を示さずに推定しているが、堺が「上海テーゼ」に反対し、1925年はじめに「ビューロー」と関係を断ったことは、明らかであると考える(「徳田球一予審訊問調書」、前掲書97ぺージ)。「第一次共産党」の「総務幹事長」(secretary-generalの訳であろう)であった堺が、もし「コミュニスト・グループ」に参加していたならば、関係者の調書にその名が残らないはずはないと思われる。その事実がないことは、明らかにその不参加を示すものではなかろうか。
 山川菊栄が「第一次共産党」に参加していたことは確かである(『山川均全集』5、「編者あとがき」、465ページ)。だが、「コミュニスト・グループ」の一員であったとは認めておらず、今のところそれを否定する証拠は何もない*6
 福本茂雄は、前述の推定を前提に、「共産主義グループ」を徳田球一に代表される左派と中村義明、鍋山貞親、山本懸蔵らの右派にわけ、あるいは「共産主義グループが、いわば『マルクス主義』執筆陣と『大衆』執筆陣に分化していた」と述べている*7が疑問である。


7.『コミュニスト・グループ』と『マルクス主義』

 ここで問題となるのは、雑誌『マルクス主義』と『コミュニスト・グループ」との関係である。前回見たとおリ、雑誌『マルクス主義』は、「ビューロー」機関誌として創刊されたものではあったが、当初は、実質的には旧「第一次共産党員」によって編集されるマルクス主義研究誌にすぎなかった。しかし、第14号を境に同誌は研究誌としての枠をこえはじめ、とくに第16号では徳田球一が「ビューロー」の決定にもとづいて「無産政党の綱領に就いて高橋亀吉氏の所論を駁す」を書いたこと(北浦千太郎調書、『現代史資料』20、443ぺージ)は、『マルクス主義』の性格の変化を示すものとして注目したところであった。
 では、「コミュニスト・グループ」の結成と編集者・西雅雄のこれへの参加は、『マルクス主義』にどのような影響を及ぼしたであろうか。
 結論からいえば、『マルクス主義』を「グループ」の機関誌として充実させようと企てはしたが、「グループ」の力量不足のため容易には実現せず、依然として西雅雄を中心に「グループ員」以外の人々をもまじえて編集、執筆がおこなわれるという状態がしばらく続いたように思われる。
 『マルクス主義』を「コミュニスト・グループ」の機関誌として充実させる企てがあったと推測させるのは、1925年8月のビューロー会議直後の9月に発行された第17号の「編輯後記」のつぎのような記述である。

「〇 暑さのためという訳でもないが、今度も編輯が大分後れた。しかし早く出来た原稿がいずれも予定以上に長かったので、別に執筆される筈だった佐野学、市川正一、徳田球一等々の諸氏には来月号に書いて貰ふこととし……(中略)
 〇 来月号は殆ど全員をあげて無産政党問題にささげたいと思っている。題目其他の詳しいことは、愈々原稿が出揃はないと分らないが、将に生れんとする我が無産政党の重要問題に関して、縦横の筆を振った五、六篇の論文を主体とし、それに主要各国の無産政党の経験を附けるといふのが、大体の予定である(後略)」

 しかし、この予定は結局実現しなかった。第18号の「編輯後記」は、「こんどは全くひどく編輯が後れたのみならず、内容も予告と相違して了って、まことに申訳がない」とのべ、つぎのような申訳けをしている。

 「本来なら九月一〇日過ぎに集る筈だった十月号の原稿は、色々の事故で二〇日になってから殆ど全部出来ないことが分った。編輯者は急遽予定を変へようと考えていた矢先、二一日の早朝自宅から所轄警察署に検束され、何等の理由をも聞かされないで、二八日の夜半まで留置された。労働組合評議会で招待したロシア労働組合代表を一日も早く帰らせるために、当局はやったものらしい。東京、京都、大阪等各地で、同志数十名が同じ運命にあったのである。……この事件は雑誌の編輯のために一層大なる災厄であった。後れても二二日中には出来る筈だった二、三の人々の原稿もこれで駄目になった。十月号を出すためには、唯編輯者の手許にありあわせの原稿を印刷する外はなくなったのである」。

 この「ありあはせの原稿」こそ、他ならぬ北条一雄「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか我々はいまそれのいかなる過程を過程しつつあるか−無産者結合に関するマルクス的原理−」であり、福本和夫「マルクスの体系とレーニンの体系(一)」であった。同号75ぺージのうち46ページを福本が占め、あとは翻訳2本と書評だけである。
 第19号も、事態は変っていない。「編輯後記」の申訳けに曰く。

 「十月号が後れたことが、六号にもわざはひして、予定通りの編輯が出来なかったこと、又々おわびしなければならぬ。寄稿者諸君も特別に多忙な人が多くて、続きものも新しい論文も、大抵〆切までに出来上らなかった。」

 しかし、このすぐあとの記述は、『マルクス主義』がはっきり「コミュニスト・グループ」の機関誌を志向していることを示している。

 「無産階級運動全体から見て、本誌の使命が段々重要になって来たことを考へると、如何に編輯すべきかといふことが大なる問題となる。そして本誌としての大体の編輯方針は一定してゐるのだが、いざ文章を書くことになると、筆者そのものが問題なので、中々思ふやうに行かない。その解決の道は、勿論、もっと多くの有能な寄稿家を得ることにある。方針に一致し、必要に応じて思ふがまゝの、編輯が出来るやうに、本誌編輯部の陣容を整へることだ。」

 これを次のような第4号の「編輯後記」と比べてみれば、『マルクス主義』が研究誌から機関誌に脱皮した、あるいは少くとも脱皮しようとしていることは明らかである。

 「編輯者の見る所では、日本のマルクス主義は未だ其の形成の道程にあり、必ずしも正統マルクス主義の一派が存在する訳ではない。その上に本誌は同人組織ではないから、すべての論文に同一の立場を強制する訳に行かず、従って本誌は如何なる意味に於ても一党一派の機関ではない。」

 この時期「コミュニスト・グループ」のメムバーが、まさに多忙をきわめていたことは確かである。その第1は、9月20日付で創刊された『無産者新聞』の発行である。佐野学、徳田ら「コミュニスト・グループ」中央部の活動の重点がここに置かれていたことは当然であった。
 また、無産政党結成運動も重要な局面にさしかかっていた。創立したばかりの評議会も彼らの指導を要求していた。
 こうした状況では、「コミュニスト・グループ」中央部が、『マルクス主義』の編輯に直接関与することは困難であったとみられる。わずかに、第20号(25年12月)に掲載された佐野学「左翼労働運動について」、第22号(26年2月)の北浦千太郎「左翼陣営内における日和見主義的危険」などが「コミュニスト・グループ」中央部の見解を明らかにするものであった。佐野と同号には、同じく中央委員の荒畑寒村「無産政党と協同戦線」が掲載されているが、彼は神経衰弱のため組織的な活動からは離れており、これを「グループ」の方針とみることはできないように思われる。
 むしろ、この間に『マルクス主義』の指導的な論客として頭角をあらわしつつあったのは福本和夫であった。これについては改めて論じることにしたい。
 ところで、さきの第18号では、雑誌の発行実務の上で大きな変化があった。それまでは「本誌の事務は編輯から発送にいたるまで」西雅雄「一個人の仕事で、どうにも知慧と手がまはり兼ねる場合が多」(第8号編輯後記)かったものが、「編輯と販売を分業化し」「販売事務を希望閣書店に委託した」のである。
 希望閣は市川正一の弟、市川義雄の経営する出版社で、前年、創業したばかりであった。 また、これを機に『マルクス主義』の発行所は、希望閣に近い府下代々幡町笹塚1169に移転した。それ以前は、創刊から第8号までが、かつて「社会主義研究杜」や「前衛社」のあった同一町内の東京府下大森入新井町新井宿1029、以後が、神田区西紅梅町6番地であった。西紅梅町は大原社会問題研究所の出版部的存在であり、『マルクス主義』にも毎号広告をのせていた同人社のあった場所である。一方、希望閣は25年11月には代々幡町幡谷34から、早稲田大学に近い牛込区早稲田鶴巻町471に移転した。
 発行所・マルクス協会、発売所・希望閣の体制は第37号(27年5月)まで続き、第38・39合併号(同年7月)からは発行所も希望閣となった。住所は変っていない。
 この編集と販売の分離はすぐに効果をあげている。「経営組織を変更するや忽ち十月号は売行が増加して、従来の印刷部数では大部不足を出したらしい」(第19号編輯後記)。
「雑誌『マルクス主義』は益々盛況です」(第20号希望閣便り)。
「一月号は十二月号より増すつもりでしたが、まあまあと同じほど刷りました。ところが発送2日で品切、書店から無理にとりかへしたのも数日で品切、そして今は一冊もなく未発送帳簿に数十の記入があるばかりです」(第22号、希望閣便り)。
 「『マルクス主義』は更に又数を増しました。二月号は勿論一月号より余分に刷ったのでしたが、驚いたことには再び一月号と同じ有様に直ぐに足りなくなりました」(第23号・同)。
 これが実部数でどれほどのものであったか、正確にはわからないが、福本和夫によれば「当時西雅雄君がちょくせつ私にもらしたところによると、雑誌『マルクス主義』の発行部数は一千足らずで停滞していたのであったが、私が熱心に毎月かかさず連続的に論文を寄稿し出してから、急速なテンポで増加して、一九二五、六年には三千部をこえるにいたったということで、大いに私は感謝された」(『革命運動裸像』56ぺージ)。



*5  福本茂雄「共産主義者と左翼社会民主主義者の統一戦線」(『人文学報』第35号、127ページ)。

*6 なお、堺利彦、山川菊栄はともに『無産者新聞』に寄稿している。堺は「弁証法的唯物論」と題する講話を第30号(1926年5月29日付)〜第34号(同年6月26日付)に連載しており、山川菊栄は「婦人労働者の問題」を第18号(1926年3月6日付)〜第22号(同年4月3日)に、「支那最近の婦人運動」を第53号(同年10月23日付)に掲載している。しかし、これも両者の「コミュニスト・グループ」参加の証拠とはなりえないであろう。
*7 福本 前掲稿、131ぺージ。













Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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