雑誌『マルクス主義』の5年間(3)
二 村 一 夫
1925(大正14)年7月上旬、佐野学が亡命先の上海から帰国したのを機に、共産党再建運動は新たな段階に入った。同年8月初旬、東京・下落合の佐野学の家でビューロー会議(註1)が開かれ、党の再建について協議がおこなわれたのである。会議は、「共産党の結成の為めの過渡的な段階として」(市川正一代表陳述、『現代史資料』17、308ぺ一ジ)、従来のビューローを中央部とする「コミュニスト・グループ」(註2)を組織することなどを決定した。
なお、これより先、同年5月20日すぎ、徳田球一と渡辺政之輔の2人が上海に赴き佐野学をまじえプロフィンテルン極東部長ヘラーと労働組合運動を中心に討議をおこなっていた。この会議は総同盟内の左派組合を結集した日本労働総同盟革新同盟が総同盟から分離せず、あくまで総同盟内にとどまることなどを内容とするいわゆる「ヘラーテーゼ」(『現代史資料』15所収)を採択したが、テーゼがもち帰られた時には、革新同盟はその全国大会において「総同盟ノ除名ヲムシロ光栄トスルト云フ説」を満場一致の賛成でむかえ、日本労働組合評議会を創立した後であった。
この「上海5月会議」は「組合運動ニ関スル協議デシタカラ党ノ問題ニハ勿論触レマセンデシタ」(佐野学調書、『現代史資料』20、201ぺージ)という。しかし、共産党の再建に関して重要だったのは、この時、徳田がヘラーからコミンテルンおよびプロフィンテルンの代表としてヤンソンが東京に駐在するようになったことを知らされ、信任状を交付されて帰国したことであった。徳田は「帰国早々、同志ヤンソン ト会見シ、爾来同人ト協議ノ上ビューローノ政策ヲ決定」(徳田調書、『現代史資料』20、102−103ペ一ジ)するようになった。
佐野学が帰国したのも、両者の協議の結果であり、その理由もヤンソンの駐日によって東京でコミンテルンと連絡がとれるようになり、上海に連絡役を置く必要がなくなったためであった(佐野学調書、前掲書、200ぺージ)。
また、同年6月か7月初旬には、北浦千太郎が新たにビューローに参加している(北浦千太郎調書、『現代史資料』20、441ペ一ジ)。これもおそらくヤンソンとの連絡役としてクートベ帰りでロシア語の出来る北浦を加えたものであろう。
ヤンソンの来日によって、「ビューロー」は党の再建や、労働組合運動、無産政党結成運動などについて、あいついで新方針をうちだしていった(その具体的内容は徳田調書に詳しい、前掲書103−105ぺ一ジ)。8月初旬の佐野宅におけるビューロー会議は、いわばそうした新方針を正式に確定したものであり、その後の運動の展開にとって、重要な意義をもっている。
その第1は、「コミュニスト・グループ」の結成である。これについて佐野はつぎのように供述している。
四問「ビューロー」組織ノ確立ニ関スル協議ノ内容ハ。
答 夫レハ「ビューロー」員即チ全参加者ナル当時ノ組織ヲ改メ、「ビューロー」員ヲ中央委員ト為シ、平会員ヲ獲得シテ細胞ヲ組織シ、「ビューロー」ノ拡大ヲ計リ、加入ノ条件トシテハ、
1.第一次日本共産党ノ被告ニシテ有望ナ人
2.労働運動ニ相当長キ経験アル現在運動ニ従事シテ居ル人
3.候補者ヲ設ケズ直チニ「ビューロー」員トスル事
4.各人ガ有望ノ人ヲ勧誘シ中央委員会之ヲ審査決定スル事
等ヲ決定シマシタ(前掲書、203ぺージ)。
徳田もほぼ同様の供述をしているが、彼はメムバーの獲得にあたって荒畑寒村が「所謂百パーセント主義ヲ主張シ、メンバーハ理論的ニ洗練サレテ居ル事、革命行動ニ充分ナル訓練ガアリ信頼スルニ足ル事等ヲ強調シマシタ」とのべ、「此主張ニヨリマストグループハ極メテ少数ナモノニナリ且ツグループ自身トシテノ活動ハ全ク不可能ニ陥ラザルヲ得ナイ」と批判している。だが、実際は「此主張ニ対シテ当時ノビユーロー会議ハ徹底的ニ反対スル事ヲ得ズ、大ナル譲歩ヲ以テ実際上ニ於テ此主張ヲ実行シタ様ニナッテ居」(前掲書、105−106ぺ一ジ)たのであった。
なお、この会議で決定された中央委員は、
委員長 徳田球一
組合部長 渡辺政之輔
関西ニ於ケル委員長 荒畑寒村
青年部長 北浦千太郎
無産者新聞主筆 佐野学
であった(佐野学調書、前掲書、203ぺージ)。
ただし、徳田によれば荒畑は「当時関西方面ノ仕事ヲ担当スル筈デシタガ、神経衰弱亢進ノ為メ暫ク休養スル事トナリ、間庭末吉ガ神戸ノ、花岡潔ガ大阪ノ各責任者ト云フ事ニ決定シマシタ」(前掲書、108ページ)という。
「コミュニスト・グループ」の中央委員会は月2回、定期的に浅草須賀町の徳田の家で会議を開き、病気で旅行中の荒畑を除き全員が常に出席したという(徳田調書、前掲書108−109ペ一ジ)。
この中央委員会の構成は、中心メムバーが「第一次共産党事件」で相ついで下獄したこともあって、かなりはげしく変動した。
すなわち、1925年12月、徳田がコミンテルンに出席するため、その留守中は佐野学が中央委員長代行となり、新たに杉浦啓一が中央委員となった。さらに26年2月頃市川正一・野坂参三が中央委員となった(佐野学調書、前掲書、207ページ、市川調書および野坂調書)。
1926年3月には、佐野学、荒畑、渡辺が入獄したから、前年8月のビューロー会議で決定した中央委員は北浦だけとなった。これにともない、市川正一が委員長となり、無産者新聞主筆を兼ねた。さらに5月末頃新中央委員として河田賢治、中尾勝男、佐野文夫、6月に松尾直義、中村義明が加わった(野坂調書、佐野文夫調書、『現代史資料』20、395ページ)。
一方、6月には杉浦、7月には野坂と6月に帰国したばかりの徳田が、8月には市川正一が相ついで入獄し、このため26年6月からは市川に代って佐野文夫が委員長に就任した。
第2に、8月のビューロー会議の決定で重要なことは、「コミュニスト・グループ」の合法機関紙『無産者新聞』の創刊である。「合法的及非合法的機関紙を発行すること」という「上海会議1月テーゼ」の決定は、8ヵ月後に、しかもその半分だけ、実現したのである。非合法機関紙の発行には、さらに2年半の時日を要したのである。
『無産者新聞』の発行準備は、佐野の帰国前から徳田を中心に進められていたこともあって、早くも9月15日には、20日付の創刊号が発行された。
『無新』は、はじめは月2回刊であったが、旬刊、週刊、さらには5日刊と発行回数を増し、部数も創刊号から2万5000部を発行するなど、戦前の社会運動の機関紙誌のなかでは最大の規模をもつものであった。1929年に新聞紙法違反として発行禁止の判決をうけ、8月に上告をとりさげて同月20日付で終刊するまで満4年間にわたって238号を発行し、うち半数近い111回の発禁処分を受けている。終刊後も『第二無産者新聞』が刊行され、同紙が1932年『赤旗』に併合されるまで96号が出されたのである。なお、『無産者新聞』は創刊50周年の今年内には当研究所編、法政大学出版局刊行で覆刻を開始する予定である。
第三に、1925年8月のビューロー会議は、単に共産党の再建運動にとって一段階を画したというだけでなく、無産政党の結成運動に対しても重要な影響を及ぼしたのである。
すなわち、この会議が開かれた直後の8月10日に、日本農民組合の提唱による無産政党組織準備委員会は第1回総会を開き、評議会を代表して渡辺政之輔が、官業労働総同盟から花岡潔が出席している。また総会後開かれた懇親会には徳田球一も出席、「日本共産党の徳田」と自己紹介してあいさつしたという(木村京太郎『水平社運動の思い出』、147ページ)。
これ以後、無産政党組織準備委員会では、綱領規約問題をめぐって、渡辺政之輔らが積極的に発言し、右派とはげしく対立した。その際、左派の基本方針となったのが、25年8月8日付の『労働新聞』号外(無産政党号)(註3)であった。この号外発行の準備は、佐野宅でのビューロー会議以前に徳田を中心としてはじめられていた可能性がある。しかし、その内容は、まさにこのビューロー会議で決定された「政治テーゼ」にもとづくものであったと思われる。
ところで、山辺健太郎編『現代史資料』14、46ぺージには、この会議で採択された「1月テーゼに基づく組織テーゼ、政治テーゼ、中心スローガン」と題する文書が収録されている。(註4)なぜか編者は、これについて「一月テーゼをやや具体化したものであるが、内容も簡単だから別にいうことはない」と解説している。はたしてそうであろうか。 あまり長いものでもないので、まず同書からその全文を引用しておこう。
組織テーゼ
1.工場細胞を基礎として労働者農民の大衆団体の間にフラクションを形成すること
2.現在のコミュニスト・グループは少数にして且つ分散的なるを以て工場職場及び街頭細胞を再組織する事
3.会費の納入を厳格にする事
4.中央委員会は大会と大会との間の細胞機関にして党務の一切を統轄する事
5.中央委員会は失業者同盟、婦人同盟其の他の救済を計画しそれ等の組織に党員の参加を命令する事
6.中央委員会の直接統制下に政治部、産業部、農業部、青年部、婦人部を設ける事
7.機関紙無産者新聞を発行する事
政治テーゼ
1.社会改良主義(赤松一派)日本フェビアン協会(安部磯雄)を無産政党運動よりの放逐
2.凡ゆる宣伝的組織的方法を以て大衆を動員する事
3.労働者(ママ)、教育協会、水平社(ママ)、青年同盟、無産青年同盟、左翼労働組合を結合して無産政党内に共産主義的分派を作る事
4.無産政党内に共産主義的分派を作る事
中心スローガン
1.帝国主義戦争の打破
2.朝鮮其他、植民地の解放
3.八時間労働制の確立
4.一八才以上の普通選挙
5.治安維持法の廃止
6.労働者農民の政府樹立.
『現代史資料』の編者は、この文書をテーゼそのものと見ているようであるが、実際には、これはテーゼの簡単な骨子に過ぎないと思われる。『現代史資料』のこの部分の「資料源」は、『思想研究資料』特輯第89号「コミンテルンの戦略戦術の変遷―主として日本における共産主義運動との関係」358−360ぺージである。この『思想研究資料』特輯第89号は、テーゼ集ではなく、「コミンテルンの戦略戦術を知る資料…の重なるものに付概要を掲記」(同書570ページ)したものに過ぎないのである。
このことは、市川正一の3・15、4・16事件の統一公判における代表陳述をみればさらに明瞭となる。市川は、明らかに、より詳細なテーゼを参照しつつ陳述しているのである。たとえば、彼は、テーゼが日本の情勢を分析して次のように述べているという。
「現在の日本の深刻な長引いた不景気が今日で急速に快復さるべき徴候がどこにも見えない、経済的、財政的状態は益々不正常、不健全なものとなりつつある。それからその結果労働階級及小作人大衆の生活窮乏と急進化とは益々その度を増している」。
「さうして今日この情勢は所謂無産政党の組織運動の急速な展開の中に現れて居る」
「それに対して支配階級の総ての分派、憲政会、政友会、貴族院、枢密院といふものは有らゆる方法を以て特に無産政党を大衆から切離してこれを無意味な政治団体たらしめようと一生懸命になって居るさうして他方共産党を裏切った赤松一派の改良主義者達は無産政党をして共産主義者を排除した社会民主党たらしめる為に陰謀を逞うしっつある」
市川正一はまた、このテーゼには「吾々は無産政党が吾々の理想的政党であるという幻想の下に働いてはならない、真のプロレタリ
ア政党は共産党あるのみ」と明記されており、「無産政党が決して共産党に何等代るべきものでないということは明白にこの時に言って居る」と述べている(以上、『現代史資料』17、308−309ページ)。
なお、徳田によれば政治テーゼは佐野学の、組織テーゼは徳田自身の執筆したものであるという(前掲書、109ページ)。
〔註1〕 この会議は、しばしば「ビューロー拡大会議」あるいは「拡大ビューロー会議」と呼ばれている。だが、会議の出席者は佐野学、徳田球一、渡辺政之輔、荒畑寒村、間庭末吉、北浦千太郎の6人で、欠席の花岡潔もふくめ、いずれも「ビューローメンバー」であるから、単に「ビューロー会議」とすべきであろう。
〔註2〕 ここでは「コミュニスト・グループ」と呼んだが、人によっては「共産主義グループ」「共産主義者グループ」「コムニスト・グループ」さらには「再建ビューロー」あるいは単に「ビューロー」と称している。あるいは「コミュニスト・グループ」の中央委員会を「ビューロー」と呼ぶことも多い。
〔註3〕 当研究所編『無産政党資料、政治研究会・無産政党組織準備委員会』、とりわけ239〜319ページ、第一回綱領規約調査委員会の項参照。
〔註4〕 この文書に関する解説があまりに「簡単」であることもあって、一部では、これを「上海会議1月テーゼ」と同時に作成されたものと誤解している。たとえば、ねずまさし『日本現代史』5、79−80ぺージ、恒川信之『日本共産党と渡辺政之輔』、66−170ページなど。しかし、スローガンに1925年3月制定の治安維持法の廃止を掲げ、また政治テーゼ中に同年7月、準備会が結成された無産青年同盟の名があることを見ても、これが25年1月に作成されたものでないことは明らかである。
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