二村 一夫
未完の高野房太郎伝──大島清先生のこと
大島先生に初めてお目にかかったのは30年近い昔のことであり、後半の15年は大原研究所の一員として、所長あるいは常務理事であられた先生と日常的に接する機会があったので、想い出はつきない。しかし、いまバークレーにあって思うのは、未完に終わった高野房太郎伝のことである〔この小文は、1984年秋、アメリカ滞在中に執筆した〕。
7年前の歳末、私は車で東海岸からバークレーに向かっていた。いささか心はずんで先生にお便りを書いたのは、アトランタかフェニックスの宿であった。その少し前、私はワシントンの国立公文書館で、房太郎が8年の在米生活を終えて帰国する際、水兵として乗り組んだ米軍艦の乗員名簿や航海日誌を見つけた。それまで不確かだった彼の帰国時期や経路が判明し、未払い賃金32ドル余を残して横浜で脱艦した事実なども知り、とり急ぎこれを報告したのであった。先生は大変喜ばれ、折りかえしバークレーの日本研究センターあてにお便りをくださった。
先生が高野に関心を抱かれたのは、大原研究所の初代所長であり、房太郎の実弟・高野岩三郎の伝記を執筆されたからであろう。その意味では偶然に始まった研究であった。しかし先生は、この志なかばで夭折した男、日本近代史に重要な役割りを果たしながら長く忘れ去られた人物に、関心という以上の愛着をもっておられた。この20年問、先生が大原研究所の『資料室報』や『研究資料月報』に書かれた文章のほとんどは、高野房太郎に関するものである。なかでも米国の経済学者G・ガントンの理論的影響についての論考は、高野研究の水準を格段に引き上げた労作であった。僭越を承知で勝手な評価をくだす無礼を許していただければ、「ガントンと高野房太郎」などを収めた『人に志あり』は、先生の数多い著作の中の白眉といってよいのではないか。
在米中にすっかり房太郎にとりつかれた私は、帰るとすぐに「私も高野研究を始めたいのでお許しを」と恐るおそる申し上げた。前々から先生が「定年後は高野房太郎伝の仕事に専念する」と宣言されていたので、縄張りを荒すことが気にかかったのである。破顔一笑とは、その折の先生であった。「馬鹿な心配をするな」といわれ、長崎屋の『要用簿』など発掘されたばかりの資料を貸して下さった。
定年後の先生は、宣言どおり高野研究に打ちこまれた。その一つが高野房太郎論文集の編集である。すでに翻訳をすまされていたものも、あらためて原文にあたって訂正の筆を加えるなど、着々と作業を進めておられた。しかし突然の発病で、その解説はついに書かれなかった。また、あの流麗な、しかも対象への思いやりに満ちた筆で、志なかばに逝った人物の全生涯が描かれることは、かなわぬこととなった。我々としても残念であるが、先生はもっと心残りであったのではないか。
初出は『人生は旅 人は旅人──大島清追憶文集』1985年5月刊。
【付記】
大島清先生が企画され、翻訳・編集作業をすすめられながら未完に終わった仕事のひとつは、最後に記した岩波文庫の『高野房太郎論集』である。筆者は、ご遺族と文庫編集部の依頼により、その後をひきついだ。作業は遅々とて進まず、おそろしく筆の早かった大島清先生としては、「いったい何時まででぐずぐずしているのか」と呆れかつ苦笑しておられたであろう。高野房太郎が労働組合期成会を組織してから100年目にあたる1997年、ようやく『明治日本労働通信──労働組合の誕生』を刊行することが出来た。筆者としても、いくらか肩の荷がおりた思いである
〔1998.5.7記〕。
2000年1月から本サイトで『高野房太郎とその時代』を書き下ろしで連載している。これも未完に終わった先生の志をつぐもので、おそらく先生も草葉の陰で喜んでくださっているのではないかと考える。同時に、もし先生がご健在なら、最高の読者としていろいろご批判くださったり、あるいは多少は誉めていただける点もあるのではないかなどと考えると、先生の早すぎた死はまことに無念である。
〔2000年10月21日追記〕
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