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高野房太郎とその時代 (1)




 

1. 生い立ち──長崎時代

誕生の地・長崎銀屋町

明治初年の長崎港と外国人居留地、上野彦馬撮影

 高野房太郎は、「明治」が誕生したまさにその年、つまり明治元年、長崎は銀屋町18番地に、父高野仙吉、母マスの長男として生まれました。残念ながら、いま長崎を訪ねてもこの銀屋町(ぎんやまち)という、銀細工職人が多く住んでいたことに由来するいかにも職人町らしい趣のある町名は残っていません。眼鏡橋長崎くんちの鯱太鼓の山車と「銀屋町教会」にその名をとどめているだけです。由緒ある地名を惜しげもなく投げ捨ててしまった東京ほどひどくはありませんが、長崎も町名を変えています。かつては街路に沿ってその両側をひとつの町名で呼んでいたのに、1966(昭和41)年にブロック単位に改められ、銀屋町の大部分は古川町に吸収合併されてしまったからです。
 しかし、彼の生まれた場所はすぐ分かります。かの有名な眼鏡橋──長崎市の中心を流れる中島川(なかしまがわ)にかかる石橋群のなかで最も古く、姿も美しい──その眼鏡橋のすぐ川下に袋橋(ふくろばし)という橋があります。袋町から銀屋町にかかる橋だからその名があるのですが、眼鏡橋を眺める特等席です。 明治初年の長崎の町筋、『F.ベアト幕末日本写真集』より その袋橋の左岸から山側の寺町通りに至る小路に沿った両側の家並みが、かつての銀屋町です。18番地は、袋橋から皓台寺に向かって歩いて行く道の中ほどの左側、いまの古川町8番地31号〔2007年1月以降、銀屋町3番15号となった〕に当たります*1。今はもうありませんが、彼が生まれた数年後の明治4年には、まだ袋橋の銀屋町側のたもとには木戸が残っており、道路は敷石でできていたことが、町方史料に記録されています*2
 右の写真は、銀屋町ではありませんが、明治初年の長崎の町筋です。これを撮影したベアトは、この町を「寺町(Temple Street)」と記していますが、寺町は風頭山の麓をめぐる形で続いている道なので、こうした位置に山は見えないはずです。後ろにみえる寺は興福寺、背後の山は風頭山(かざがしらやま)と推定されているので、たぶん銀屋町と並行する町筋のひとつ、麩屋町でしょう。おそらく銀屋町も、これとほとんど変わらぬ姿だったと思われます。

 ここで、インターネット上の地図で場所を確かめてみましょう。つぎの MapFan Webのアイコン  を押すと、銀屋町の位置を確かめることができます。是真会病院の向かい側の十字のマークがあるあたりが高野兄弟の生家だったところです。

 ところで銀屋町は戸数わずかに百数十前後の小さな町でしたが、高野家だけでなく、もうひとり日本の労働研究の歴史に重要な足跡を残した人物の祖先の町としても記憶されるべきところです。それは他ならぬ上野家です。上野家でもっとも有名な人物は、日本写真史の巻頭を飾る上野彦馬(うえのひこま)(1838〜1904)でしょう。日本のプロ写真家第1号で、長崎で〈上野撮影局〉を開業しました。彦馬の名を知らない人でも、彼が撮った坂本龍馬の写真は目にされていると思います。 上野彦馬が撮影した坂本龍馬の写真高い台に右肘をつき、その手をふところに入れ、袴に靴を履いた例の写真です。彦馬のおかげで数多くの幕末・明治の人物や風景、あるいは西南戦争なども、画像データとして残ったのです。
 彦馬の父が上野俊之丞(うえのとしのじょう)(1791-1851)です。蘭学者であり、硝石の製造を試みた化学者であり、また長崎奉行所の御用時計師であり、先祖代々肖像画の絵師でもあったというマルチ・タレントの異才でした。6月1日は〈写真の日〉ですが、これは俊之丞が天保12(1841)年のこの日、日本人としてはじめて写真を撮ったことに由来するそうです。ちなみに、その被写体は島津斉彬でした。彦馬の弟・幸馬(さちま)も写真家で、神戸に写真館を開き、多くの弟子を育てました。のち東京に移って皇室御用時計師にもなっています。
 実は、この幸馬の長男がほかならぬ〈日本のテーラー〉上野陽一(1883-1957)です。東大の心理学科を卒業し、日本で最初に産業能率の問題に着目し、1922年には協調会内に設けられた産業能率研究所の所長となるなど、日本の労務管理研究の草分けです。つまり、この小さな町は高野房太郎・岩三郎兄弟と上野陽一という、日本における労働問題研究のパイオニアたちのルーツとも言うべき土地なのです。



【注】

*1 高野の生家の現住所については、長崎県労働組合評議会発行『長崎県労働組合運動史』につぎのように記されている。

「生誕地の銀屋町一八番地とは、今日の長崎市古川町三番二四号、銀屋町教会の前高田酒店付近とされているが、町の古老の話によると、本当の一八番地は古川町八番三三号付近がそこだと証言されていることもある。」

 はじめ本稿では、この本にしたがって高野家の所在地を「古川町3番24号」として記述していた。しかしその後、ご実家の住所が「古川町3番24号」であった高田祐治氏から、同地の旧住所は「銀屋町33番」であったとのご連絡をいただきました。インターネットが思いがけない読者を得ることをあらためて知ると同時に、わざわざご指摘くださった高田祐治氏にお礼を申し述べたいと存じます。いずれきちんと史料にあたって確認する作業をおこなうつもりですが、とりあえずここでは房太郎の生家の現住所は「古川町8番33号」の可能性が高いとしておきたい。〔2000年10月26日追記〕
【補訂】
 2007年2月、長崎へ赴いて調査した結果、高野房太郎の生家があった旧「銀屋町18番」は、「古川町8番31号」であったことを確認しました。また、2007年1月に「銀屋町」という旧町名が復活した結果、高野家の所在地の現住所は「長崎市銀屋町3番15号」となりました。高野家の現住所調査に関する詳細は《編集雑記》16の「高野房太郎の旧跡探訪(その10)──長崎編(1) 生家の所在地」をご参照ください。
〔2007年5月5日付記〕

*2  福岡大学総合研究所『長崎町方史料』(三)340〜342ページ。








法政大学大原研究所      社会政策学会


編集雑記           著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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