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高野房太郎とその時代 【追補 1】




無署名論文「労働者の声」『国民之友』第95号所収

再論・「労働者の声」の筆者は誰か?




はじめに

 本著作集に連載した『高野房太郎とその時代』の第38回で、『國民之友』に掲載され、「日本最初の労働組合論」として知られた無署名論文「労働者の声」*1の筆者について論じ、高野房太郎執筆の可能性が高いことを主張しました。また、オンライン本を改稿し、岩波書店から刊行した『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』(2008年刊)でも、第6章「アメリカからの通信 ─ 日本最初の労働組合論」に「〈労働者の声〉の筆者は誰か」の一項を設け、同様の趣旨を論じています。

 こうした私の主張に対して、大田英昭氏は、その著書『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』で批判を加えられました*2。その批判点のひとつは、「これまでこの論文の筆者を探索した人はいません」と私が記したことに対する、誤りの指摘でした。 家永三郎氏が、すでに1952(昭和27)年に「労働者の声」の筆者について追究され、徳富蘇峰から直接証言を得ていたのです*3。また家永氏の他にも、佐々木敏二氏が「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『國民之友』を中心に」*4と題する論稿で「労働者の声」の筆者について論及しておられました。さらに大田氏は、この家永証言を根拠に、「労働者の声」の筆者は竹越三叉である蓋然性が「非常に高い」と主張されています。 この問題について、大田氏は著書で触れただけでなく、ご自身のブログ《長春便り》でも「労働者の声」の筆者についてと題する一項を設けて再論しておられることを、最近になって知りました。

  私が、家永三郎氏や佐々木敏二氏の先行研究の存在を見落としたまま、「〈労働者の声〉の筆者は誰か」を論じたことは、研究者としては、ごく初歩的な誤りをおかしたもので、大田氏の批判と教示に感謝する次第です。
  しかしながら大田英昭氏が、「竹越三叉は早くから社会問題への関心が高く、民友社の幹部でもある竹越が〈労働者の声〉を執筆した蓋然性は非常に高いと考えられよう」との結論を出していることには、疑問を抱きました。「蘇峰証言」を史料として利用するに当たって、十分な検証がなされていないと感じたからです。本稿では、この問題を検討するため、まず家永三郎氏による徳富蘇峰証言の内容を紹介し、次に「労働者の声」の筆者が三叉・竹越与三郎であり得るか否かを、仔細に吟味したいと考えます。


1. 家永三郎氏による徳富蘇峰からの聞き取り

 かつて古代・中世佛教史研究を専門としていた家永三郎氏は、第二次大戦中から近代思想史にも研究テーマを広げておられました。とりわけ、戦後間もなく『國民之友』の多くの号をまとめて入手されたのを機に、同誌の研究に手を染められたとのことです。その研究の一環として、1952(昭和27)年8月、家永氏は、徳富蘇峰を熱海の居宅に訪れ、聞き取りをされました。当時「労働者の声」に強い関心を抱いていた家永氏は、同稿が掲載された『國民之友』を持参して蘇峰に一読を乞い、その筆者について尋ね、その結果を「『労働者の声』の筆者」と題する一文にまとめ、『日本歴史』に寄稿されたのでした。短文ですし、正確を期すため、その全文を引用しておきます。

「労働者の声」の筆者

              家 永 三 郎



 國民之友」第九十五号(明治二十三年九月二十三日発兌)所載民友社の社説「労働者の声」が、日本の労働運動史上劃期的な文献であることは、周知の通りであるが、その筆者については、これまで疑問とされてゐた。赤松克麿氏は「筆者はわからない」と云ひ、(明治文化全集解題)、嘉治隆一氏は「徳富の起筆にかゝると伝へられる」(明治時代の社会問題)と記してゐる。
 私はかねてから何人の筆に成るかをつきとめたいと思つてゐたところ、たまたま〔原文は縦書き。「たまたま」の後半は繰り返し記号の「くの字点」……引用者注〕今年八月、徳富蘇峰翁と面会する機会を得たので、同誌を示して、これは誰の書いた文章であるかと尋ねたところ、翁はしばらく雑誌を目にくつつけて劈頭の部分を熟視してゐたが(翁は眼鏡なしで本を読むのである)、これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた。私はこの重要な証言を学界に報告する義務があると思ふので、敢てこの〔「たの」と記されているが、誤植と判断〕短文を本誌に寄せた次第である。
        (東京教育大学教授・文博)

 家永氏は、この聞き取りの意義をかなり重視されていたようです。それは、徳富蘇峰宅への訪問から34年余の歳月が過ぎた1986年12月に、「『國民之友』研究の思い出」と題する一文を執筆され、同研究が未完に終わった事実を告白された後で、次のように述べておられることで知りました*5

  ひとつだけ学界にのこすに足りると思っているのは、『日本歴史』第五五号(一九五二年一二月)に載せた「『労働者の声』の筆者」と題する短文である。日本の近代社会思想史上の記念碑的文章とされていた社説『労働者の声』が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものかを、蘇峰から直接教えてもらいたいと思い、熱海の蘇峰宅を訪問し、高齢の蘇峰翁が眼鏡も使わずに私の出した当該論文を見て下した回答を報告したもので、おそらくこの文章の筆者についての確認の作業として唯一のものと思う。

 『國民之友』の創始者であり編集者でもあった蘇峰に、実際に「労働者の声」を読んでもらった上で得た回答ですから、その証言は重視さるべきでしょう。しかし、一歴史研究者である私としては、いかに当事者の証言であろうと、その内容を吟味することなく鵜呑みにするわけには行きません。まずは、証言内容を仔細に検討する必要があります。なにしろ、この言葉は、90歳を目前にした高齢者に、62年もの昔に編集刊行した雑誌に掲載した一論稿の筆者について質問し、得た答えなのです。

  まず注目すべきは、この蘇峰の回答が、「労働者の声」の筆者を一個人に特定してはいない事実です。家永氏による蘇峰証言の核心は、次の一文です。

これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた。

 この蘇峰証言で、確かな事実として認めて良いのは、「自分が筆をとつて書いたのではない」という箇所です。これは本人が、その論文を読んだ上で確言しているのですから、信頼してよいと思います。これによって、嘉治隆一が「徳富の起筆にかゝると伝へられる」と記した*6伝聞が誤りであることは確定した、と言って良いでしょう。
  しかし、証言の後半部分、「竹越か山路であらう」という箇所は、「あらう」という言葉からも明白なように、蘇峰の推測による判断です。「労働者の声」の筆者を特定しているわけではなく、断定してもいません。竹越三叉か山路愛山が執筆した可能性を述べているに過ぎません。このとき蘇峰は、「労働者の声」の「劈頭の部分」を熟読していますが、他に日記やメモを参照した様子はありません。つまり、89歳の徳富猪一郎が、27歳の時に編集刊行した『國民之友』に掲載した一論文について、記憶だけを頼りに答えたものです。蘇峰は、『國民之友』の論説筆者のうち、こうした分野について書き得た人物は竹越三叉か山路愛山しかいなかったと考え、このように答えたものでしょう。おそらくこの時、蘇峰が、社外執筆者の存在に思い及ぶことは、なかったと思われます。なぜなら、家永三郎氏の質問は、「〈労働者の声〉が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものか」だったからです。この問いについては、前掲の「『國民之友』研究の思い出」に記されています。要するに、質問者も回答者も、最初から社外執筆者の存在を考慮していないのです。いずれにせよ、家永三郎氏の問いに対する蘇峰の回答が、さらなる検討を要するものであることは明白です。
  なお、家永三郎氏は、この「蘇峰証言」を記録にとどめただけで、そこから先は検討されていません。家永氏は、1995年に、単行書未収録の論稿を集めた論集『古代史研究から教科書裁判まで』を出版し、そこに「〈労働者の声〉の筆者」も収められました。同稿の「著者解題」では、本文に数倍する長さで「〈労働者の声〉の筆者」成立の経緯などを説明した上で、最後に「蘇峰の答がただしいかどうかは問題であるが、とにかく『国民之友』主筆その人の証言として他に代替性のない史料価値をもつことは否定できまい」と記しているのです*7


2. 「労働者の声」は、竹越三叉が執筆した論稿か?

 そこで、ここではまず、大田英昭氏が「労働者の声」の筆者である蓋然性が高いと主張されている、竹越三叉説について検討しましょう。本来なら、蘇峰がもう一人あげている「山路愛山説」についても吟味する必要があり、また、大田氏が「高野房太郎説」を否定されている論拠についても検証しなければなりませんが、長くなり過ぎるので、これらは次回に回したいと思います。

  はじめに私の結論を述べておけば、三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近いと考えます。
 その根拠は、つぎの2点です。
 1) すぐに気づくのは文体の違いです。「労働者の声」は、名文家として知られた竹越三叉の文体とは、大きくかけ離れています。
 2) 次は、文章の内容です。竹越三叉の著作の本領は史論や政論にあり、社会問題を論ずる場合でも人類史・文明史的な視角からの立論に終始しています。一方、「労働者の声」は、何より日本の現実を問題とし、解決策を提示しているもので、これを三叉作品とみなすのは、かなりの無理があります。竹越与三郎が執筆した多数の著書、論文を精査すれば、両者の相違は明瞭です。
 以下、この2点について、具体的に見て行きましょう。


 

2.-1.  文体の違い

 三叉の文章を「労働者の声」と比べてみた時、まず感ずるのは、両者の文体や、朗読した時のリズムが大きく違っていることです。
  三叉・竹越与三郎は、早くから、その名文、麗筆で知られていました。語彙の豊富さ、その「清新玄妙な造語」は、多くの人の認めるところでした。彼は、何か論稿を書き上げると「抑揚の妙を極めた朗読をするのが例であり」その「文章は一種の散文詩とでも謂ふべきもので、如何にも口調が善く、悠揚として高風の雲を吹く様な趣があった」と評されています*8
  私が読んでも、竹越三叉の文章は、独特の形容を駆使し、多様な語彙を用いて、特有のリズム感をもっていることに気づかされます。そうした特徴を示す文例を3点ほど紹介しましょう。うち2点は、「労働者の声」とほぼ同時代の文章です。
  最初は、『新日本史』の「平民主義」に関する説明です*9

  この主義〔平民主義……引用者注〕の一たび現わるるや、天下靡然びぜん〔なびきしたがうさま〕としてこれに傾けり。何となればこれ、自由主義、民権論、人権説、個人主義、自由貿易論、最多衆民論、国家独立論、精神的発達論ら、すべての自由進歩的の文字の注入すべき江海こうかい〔川と海〕にして、以上の文字は、熔解ようかいして新たにこの平民主義となり、新奇なる色沢しきたく〔いろつや〕、新奇なる領分を有したるものなればなり。要するにこの文字たる、維新以来、単純なる、法権主義の専制に反対する、すべての分子の総管束を殿しんがりすものなり。

  次は「労働者の声」と同じ1893年5月に『国民新聞』に掲載された「近日の文学」*10です。三叉の文章論とも言えましょう。

  人心漸く近日の文学に飽きたるが如し。曰く今日の文学は繊少せんしょう〔繊はかぼそいの意味、少は小の誤りか〕なり、微細なり、浮華ふか〔外面だけ華やかで実質がない〕なり、卑汚ひお〔卑しく下賎〕なり、曰く博大雄壮はくだいゆうそう〔広く大きく雄々しく元気〕の思想なしと。甚だしきは之を以て六朝亡国りくちょうぼうこく余韻よいんとなすものあり。
  思うに是れ、最〔尤〕もの次第ならん。如何に大牢たいろう〔中国で、天子が社稷をまつるときの供物〕の料理は美味なりとて、三百六十五日朝夜旦暮たんぼ〔朝に晩に〕、大牢の美味に潰されては、如何なる贅沢家も之に懲りん、況んや大牢の美味ならざるものをや。今の文学は、其初めて発達するや、漢文ともつかず、和文ともつかず味なく趣もなき佶倔聱牙きっくつごうが〔文章が堅苦しく難解で、読み難い〕法吏の宣告文の如き文学を承けたるものなれば、その自然の結果として、絢爛華麗けんらんかれい人目を眩射げんしゃするものありき。世人の厭倦えんけん〔飽きて嫌になる〕を招くのもと已に此にありて存す。彼已に絢爛の文によつて人心の一部を満足せしむ、未だ雄大博大の韻を求むるの心を満足せしむるに足らず。此に於てか天下の非難、今日の文学に集まる。今日の新文学を難ずるの声は、実に昔日の新文学を賞嘆せる声なり。〔後略〕

 第3の文例は、青少年向けに執筆された『人民読本』(明治版)の第26章「国民の経済(下)」の一節です*11。「労働者の声」とも通ずる説明的な文章の例として挙げておきましょう。

  然らば如何にして国の富を蓄積せんかと云ふに、其道、多端にして一ならず。第一に人民各自勤勉にして節倹を重むじ、驕奢きょうしゃ〔おごり、ぜいたくをする〕弊風へいふうを避けざるべからず。然れども如何に勤勉なりとも、唯だ己の手足を用ゆるのみにては不可なり。たとへば農業を営むにも、耕作力役の外、農学の示す所に従つて、効験ある肥料を用ひ、作物循環の法を実行する等、百方、地力を利用するの道を行はざるべからず。工業にても同じことなり。我国にては労力者の賃銭、欧米に比して安しとの説あれども、我国の労働者は欧米の労働者に比して、機械を取扱ふ事に熟練せず、力役者と云ふべきも、技藝者と云ふ能はざる者多きが故に、富を生産する結果につきて云へば、我労働者の方遙かに少きが故に決して欧米に比して賃銭安しと云ふ能はず。

  一方、「労働者の声」の文体は「抑揚の妙を極めた散文詩」と言うには程遠い、理詰めの文章です。それでも冒頭の導入部は、管子を引用するなど、措辞にも気を配っています。しかし、後半になると、もっぱら知識・情報の提供に集中し、措辞には無頓着になっています。たとえば「共同会社」、つまり協同組合について論じた箇所を見てみましょう。

  即ち欧米諸国にて、其日用品をば社員中には最も廉価に売渡し、以て生活上の便益を図る事あり。此事にしてし其方法宜きを得ば、労役者をして生活の便益を得せしむるに於て、實に浅からぬ恩恵を与ふる者なり。例せばここに少数の資本金を以て、味噌、醤油、薪、米、干物、濁酒、金巾木綿、石炭油、弁当、すべて是等の物を卸売同様の減価にて、最も薄利に之を販売する時に於ては、その労役者を利する、其効すぐれて云ふ可からず。而して此資本金や、し労役者の資本よりしてかくの如き会社を成立たしめば、是最も妙の妙なる者といえど、我邦に於て斯の如き事を望む可からずとせば、他の仁人君子たる者が、自ら資本家とるも可なり。

ここに、「抑揚の妙をきわめた」散文詩ともいうべき口調の良さを感ずることが出来るでしょうか?
  また、民友社で竹越の同僚として、彼を良く知る山路愛山は、「竹越与三郎論」*12で、三叉の文章の特質を次のように論じています。

  文章を作つても其通り、誠に正々堂々の陣で、旗も太鼓も多い。実質は勿論無いではないが、実質を裸で出さず、衣裳をつけ、羽毛を飾つて、立派なものにしてからでなくては満足しない。演説でも何でも皆其流儀で、総て荘重典麗。

 「労働者の声」は、どう見ても実質を重視する文章で、とても「荘重典麗」とは言えないでしょう。別ファイルに「労働者の声」の全文を翻刻しておきましたので、通読されれば、三叉の文体との違いは、より鮮明になると思います。

 

2.-2.  キイワードを比べる

 無署名の文章から筆者を探る上で手がかりとなり得るのは、使っている語彙です。無署名文と筆者が明らかな文章とを比較し、両者に共通する語彙の有無、頻度などから、ある程度、両者の異同を推測することが出来ます。そこで、まず「労働者の声」から、キイワードとなる語を選び出し、これと対応する語を『新日本史』から探し出して、比較してみます。

 「労働者の声」で、キイワード中のキイワードともいうべきものは、「労役者」と「労働者」です。労役者は23回、労働者は少年労働者や婦人労働者といった複合語も含め、7回使われています。また、「労役者」とほぼ同じカテゴリーの言葉である「職工」も、労働者と同じく7回出現しています。また「労役者」や「労働者」を指し示す人称代名詞の「彼等」は、28回使われています。
  もう少し範囲を広げて、職業や社会階級・階層、組織などに関連する語彙を選ぶと、以下の通りです。比較に便なように、既出の語も再掲します。順序は出現順、カッコ内の数字は出現回数です。
 労働者(7)、貴族(1)、豪富(1)、僧侶(1)、中等民族(1)、人民(2)、國民(1)、労役者(23)、義人(1)、同業組合(6)、大工(3)、左官(2)、職人(2)、同業者(2)、同職者(1)、職工(7)、熟練的の労働者(2)、普通の労働者(1)、友愛協会(1)、罷工同盟(5)、雇主(3)、土方(2)、人力車夫(1)、農夫(1)、資本家(4)、平民(1)、被雇者(1)、共同会社(8)会社(7)、社員(2)、株主(1)、購客(6)、資本主(1)、小売(3)、問屋(2)。志士仁人(1)

 一方、『新日本史』 の「旧社会の破壊、新社会の結合」の節*13から、上記の語に対応するカテゴリーの語彙を抜き出してみましょう。なお、当然のことながら、三叉本人の執筆ではない引用文は、採録対象から外しています。

寺子屋師匠(1)、壮年教師(3)、人民(13)、紳士壮年(1)、村内長老(1)、老大官(2)、官人(1)、階級(13)、士人(2)、娼婦(1)、有司(1)、政府(8)、参議(1)、民選議院(1)、上下議事院(1)、議院(1)、士族(27)、民会(2)、華族(8)、華士族(4)、漢学者(1)、平民(13)、社会党(1)、公衆(3)、仏僧(1)、儒者(1)、基督教徒(1)、壮士(1)、書生(1)、講談会(1)、地主(3)、貴族(1)、学者(1)、地方官会議(2)、府県会(4)、官吏(5)、地方官(1)、府県会議員(1)、県令(2)、県知事(1)、郡官(1)、志士仁人(1)、豪農(4)、郷紳(7)、大名(1)、太政官(1)、県庁(1)、豪族(2)、紳士(2)、大聖(2)、資本(4)、土地(4)、労力(4)、国民(3)、娼妓(1)、基督教会(4)、仏教団体(2)、政社(3)、商社(1)、教育会(3)、商法会議所(1)、工談会(3)、農談会(1)、文学会(1)、青年会(1)、婦人会(1)、士農工商(1)。

 「労働者の声」と『新日本史』とで共通して使われている語は、わずかに「人民」と「國民」「平民」「志士仁人」の4語だけです。なお、部分的に共通する語としては、前者の「資本家」や「資本主」が、後者では「資本」として出て来ます。しかし、具体的な人をイメージする前者と抽象的な概念である後者との違いは明瞭です。何より重要な点は、労役者、労働者、大工、職人といった「労働者の声」のキイワード中のキイワードが、『新日本史』では、まったく使われていない事実です、これは「労働者の声」の筆者を竹越三叉とする説にとって、大きな弱点ではないでしょうか。ちなみに「工談会」とは、工手学校などを出た「技手」といった現場技術者を「正員」とする全国組織です。大学出の上級技術者も「役員」「名誉員」などとして名を連ねていました*14


2.−3. 文の内容からみた両者の相違

 周知のように竹越与三郎は『新日本史』、『二千五百年史』、『日本経済史』など大部の通史・史論を刊行し、また『國民之友』をはじめ『六合雑誌』『国民新聞』『世界之日本』など数多くの雑誌・新聞に、多数の論稿を執筆しています*15。しかし、これらの著書や論稿のどこを探しても、「労働者の声」の筆者であれば、当然、論ずるであろう、労働問題に関する言及がほとんどないのです。

 まず、「労働者の声」とほぼ同時期に執筆された『新日本史』について見ましょう。『新日本史』は、上巻が1891(明治24)年7月3日に、中巻が翌1892(明治25)年8月4日に、ともに民友社から刊行されています。なお、下巻はなぜか未刊のままです。ちなみに、服部之総によれば、「三叉の『新日本史』は、下巻の稿成って、ついに発行を許可されなかったと伝えられている」といいます*16。『新日本史』の執筆時期は、1891(明治24)年2月27日から同年6月28日であることが、日記の記録から判明します〔岩波文庫・下巻 pp.374-375、西田毅氏解説〕。つまり『新日本史』は、1890(明治23)年9月に「労働者の声」が発表されてから、半年も経たずに執筆を開始した書物なのです。
  『新日本史』のテーマは、幕末から明治23年までの日本の歴史、いうなれば現代史・同時代史です。その中巻「社会・思想の変遷」の中で、三叉は次のように論じています。

  故に概していえば、明治十年までは、平民が士族に対して優劣の争を為したる時代にして、即ち武権と富との争なりしなり。然れども富、武権に勝つや、ここに富と富との争となり、直ちに資本と土地労力の争となれり。而して資本は市府に属し商賈しょうこ〔商は行商する者、賈は店を構えてあきなう者〕に属し、土地労力は地方農民に属したれば、即ちここに地方村落と市府の争を起したるものなれば、いやしくも大局の眼あらん者は、一視同仁、早くも欧米の如き、資本と土地労力の激戦を生ぜざるに、予防の立法を為すべきに、明治政府の政策は比年ひねん〔年々〕、中央集権にして殊とに市府の人民に都合能き事のみ多かりしかば、市府は長大の進歩を為したり。これに引換え、農民は二十年間の保護政略の恩光に浴せざりしかば、悉くその資力を近傍都会の市民に吸収せられ、土地と労力とは連合して、資本に対して、激しき戦を挑みたるその結果遂に農民の敗北となれり。(岩波文庫、下巻p.112-113)

 この引用箇所は、竹越三叉が「資本」という言葉を使っている数少ない例です。しかしこの文章には、「資本家と労役者」「雇主と被雇者」の対立という「労働者の声」の核心ともいうべき認識が欠如しています。仮に三叉が「労働者の声」の筆者であったならば、同時代史の「社会・思想の変遷」を取り上げる章で、それも「資本」という言葉を使っている箇所で、「労役者」「被雇者」に言及することなく、論を終えるでしょうか? 上の文で、三叉は「労力」という文言を使っています。しかし、この「労力」という言葉が意味しているのは「農民」なのです。『新日本史』執筆の時点において、三叉に「労役者」「被雇者」に対する考慮はなく、労働問題に対する関心も基礎的な知識もなかった、としか考えられません。

 こうした推測は、「社会問題の成行」と題する論文から、さらに明らかとなります。『六合雑誌』第81号(明治20年9月30日)に掲載されたこの論文は、大田英昭氏によって、竹越三叉が社会問題に関心をいだいていた証左として挙げられ、文明の進歩が社会問題を発生させたことに関する「先駆的な洞察」だと、高く評価している論稿です〔『日本社会民主主義の形成』 pp.175-176、p.189〕
  私がこの論文に注目するのは、「労働疑問」という語が用いられているからです。おそらく「労働疑問」とは「labour question」を直訳した言葉で、今の用語なら「労働問題」でしょう。つまり、この論文は、三叉が労働問題を論じている数少ない事例なのです。主要部分を以下に引用します。

  アヽ吾人之を知れり。彼の智者や学者や政治家が持て余したる百種の問題、幾千万の生死を以てするも其効なかりし変遷は唯だ社会問題を来さんが為なりしを知る。〔下線部分は、原文では傍点〕  
 欧米の諸洲に於て識者の眼光は相集まつて社会問題の一点に注ぎ、散じて労働疑問となり、資本論となり、賃銀論となりまた集つて土地疑問に帰入きにゅう〔もとに戻ること〕するを怪しまんや。蓋し社会問題は其実僅かに郡県論を社会的の眼孔より論じ出せるものに過ぎずして、近代文明の特質に貧窮を養成するの分子を帯ると人を駆りて害悪に陥らしむるの傾向あるとの二者は、実に人権平等論と相合して社会問題を強からしめ、仏国の革命はその暁鐘となり点火となり後に来たるべきものあるを示したりとせば、一たび米国に於て社会問題を実行し之によりて一魚躍つて万波生ずるの態を万邦に現出するの日は遠からざるべきを信ず。蓋し社会問題は上帝を畏れ人を愛するものゝ如何にしても看過し能はざるの問題なればなり。(『竹越三叉集』《民友社思想文学叢書》第4巻、1985年、三一書房、p.208)

 何とも意味の取りにくい文章ですが、この分かり難さの主たる原因は、三叉の「社会問題」について考えが独特だからでしょう。欧米の有識者の論議が「社会問題」に集中した後、「社会問題」はさらに「労働疑問」「資本論」「賃銀論」に分かれ、ついで「土地疑問」に戻るという認識が示されています。さらに、社会問題は「郡県論を社会的の眼孔より論じ出せるものに過ぎない」とも主張されています。ここで考えるべきは、三叉が、ものごとを数千年単位で考える文明史家であった点です。「社会問題」も「労働疑問」も、こうした視点から抽象的に論じられており、日本の社会問題や労働問題の現実を直視し、解決策を見出そうとする姿勢は見られません。労働問題とともに賃銀問題が挙げられているのも、三叉の労働問題に関する理解の欠如、と言って悪ければ独自性が示されています。このような議論を展開する人が、「労働者の声」に見られる具体策を構想・提唱したとは、とうてい考えられません。
  なお、この論文の前半は、「支那印度波斯日本等の東邦が今日迄演じ来れる所は唯だ是れ拙劣なる戯曲を幾回となく繰り返せしものに過ぎずとの悪口を耳にせしと雖ども世界人類の史記は概ね皆此如きに過ぎざるなり」と述べるなど、人類史の進歩の歩みは遅々として、改革・変遷が何回も繰り返されて来たことを論じており、引用文は、これを受けての結びにあたる文章です。

  もうひとつ例を挙げておきましょう。竹越与三郎が、次代を担う少年少女に向けて執筆し、権利の意味を庶民に啓蒙する目的の「読本」、つまり教科書として執筆した『人民読本』(明治版)の一節です。
  『人民読本』(明治版)の第25章、第26章「国民の経済」は、三叉が「労働者の声」の筆者であるならば、労働問題について論じてしかるべき章です。しかし、そこで労働問題に関して述べているのは、以下に引用する箇所だけです。 (慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料2 『人民読本 (竹越與三郎著)』、1988年、慶應義塾福澤研究センター発行、p.80)。

  我国にては労力者の賃銭、欧米に比して安しとの説あれども、我国の労働者は欧米の労働者に比して、機械を取扱ふ事に熟練せず、力役者と云ふべきも、技芸者と云ふ能はざる者多きが故に、富を生産する結果につきて云へば、我労働者の方遙かに少きが故に決して欧米に比して賃銭安しと云ふ能はず。

 ここで思い出して欲しいのは、「労働者の声」の筆者の場合、日本においても、労働者を「活版の職工」のような「熟練的の労働者」スキールドレバールと、人力車夫のような「普通の労働者」アンスキールドレバールとに分けて論じている事実です。この一点だけでも、「労働者の声」の筆者を竹越三叉とする説が成り立ち難いことは、明らかではないでしょうか。

 また『人民読本』(大正版)の第34章「政治の主義及び政策」*17では、個人主義に対する概念として「衆団主義」をあげ、次のように論じています。

  近年欧米各国、民衆の勢力、大に発達するに至りて、衆団主義、稍々勢力を得、延きて我が国にも波及しつつあり。蓋し個人主義は従来、少数なる上級豪族が、政府の権力を握り、此の権力によりて、人民の事業に干渉するを排せんがため、中等人民が発明したる政策にして、此の政策によりて利する所は、中等人民中の強者のみにして、下級の人民より見れば、一の豪族を除きて、他の豪族を迎ふるに等しきが故に、茲に衆団主義を歓迎して、中級の専制を排し、政府の干渉に依りて、幸福の分配に與らんとするものにして、下級人民の勢力を得る処は、即ち衆団主義の勢力の生ずる所なりとす。
 

 もし三叉が「労働者の声」の筆者であったなら、「衆団主義」を論じた箇所では、「同業組合」について触れたのではないでしょうか。しかし、実際に三叉が論じているのは、政治の世界における権力や政策の問題だけなのです。

 さらに、1933(昭和8)年、同時代史的文明評論として刊行された、竹越与三郎著『旋風裡の日本』*18も注目されます。同書は、ロシア革命やファシズム台頭後の作品で、資本主義と社会主義の対立が鮮明化し、労働組合や労働争議が日常的な出来事となった時代の作品だけに、竹越三叉の作品としては珍しく、労働問題について触れた箇所があります。以下が、当該箇所のほぼ全文です。

  事業に関係して商品を生産するものは、企業家と資本家とサラリーマンと労働者であるが、このカテゴリーは、皆な生産より生ずる利益の分配によりて生活するのである。然るにこの利益の分配の方法が宜しきを得ないからと云ふので、労働争議が起るのであるが、余はそれが単一なる争議である限り、必ずしも労働者の主張が悪いと云へぬ。それは労働者の主張が我欲に過ぐる場合もあるが、企業家の主張が我欲に過ぐる場合もある。その善悪可否はその争議の原因如何にあることであつて、一概に何れを可とし、何れを否とすることは出来ぬ。併しながら近来労働者が団結して、その分配額を増加せんことを要求するがため、世人の耳目は労働者の主張にのみ注がれて、サラリーマンの報酬如何は余り問題にもなつてをらぬが、経済機構の運転より論ずれば、サラリーマンの報酬は、労働者の賃銀の昇るが如く、今日より増加せられねばならぬであらうと思ふ。併しながらその分配の方法如何は、各々その性質を異にする事業によりて、実際に案出せらるべきである。またこれと同時に会社の執務法と工場の経営法とを変更して冗費を淘汰せねばならぬ。同時にサラリーマンや労働者の気分を一変し、能率を増加せねばならぬ。併しながらこれらは会社経営論や賃銀論に於て論ずべき実際問題であつて、余の侵入すべき問題でない。

 見られる通り、ここでの竹越の主張は、「労働者の声」の筆者とは、大きくかけ離れています。もちろん「労働者の声」から40年余の歳月が経過していますから、労働運動や労働組合についての評価や主張に変化があっても、不思議ではありません。しかし、労働問題に関する事実認識、理解のレベルが低下することはあり得ないでしょう。しかし『旋風裡の日本』の著者は、労働運動や、後で出て来る消費組合に関する議論でも、「労働者の声」の水準に、遠く達していないのです。


とりあえずの結論

 以上、『國民之友』第95号に掲載された無署名論文「労働者の声」の筆者が、三叉・竹越与三郎である蓋然性はきわめて低く、限りなくゼロに近いことを、論証し得たと思います。
 次回は、蘇峰が「労働者の声」の筆者でありうる者としてあげた、山路愛山について検討します。また私の「労働者の声」の筆者が高野房太郎ではないかとの推論を否定された、大田英昭氏の主張についても触れることになりましょう。





【注】

*1 無署名論文「労働者の声」、『國民之友』第95号(1890(明治23)年9月刊)。なお「労働者の声」の全文はjpeg画像で、「高野房太郎とその時代」(38)の末尾に掲載している。ただ画像では、やや鮮明を欠く箇所があるので翻刻、htmlファイル化し、〔高野房太郎とその時代 参考文献 「労働者の声」〕として本著作集に収めている。

*2 大田英昭『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』(日本評論社、2013年刊)188〜189ページ。

*3 家永三郎「〈労働者の声〉の筆者」『日本歴史』第55号、1952年12月。 なお『日本歴史』は日本歴史学会編集の月刊誌で、現在は吉川弘文館から刊行されている。ただし創刊当時の出版社は日本歴史社、のち霞ヶ関書房、実教教科書と推移し、この時点では実教出版が刊行していた。

*4 佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『國民之友』を中心に」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』(雄山閣、1977年刊)所収)。

*5 家永三郎「『國民之友』研究の思い出」(《民友社思想文学叢書》第1巻『徳富蘇峰・民友社関係資料集』1986年12月、三一書房刊に付された『月報 7』所収)

*6 嘉治隆一『明治時代の社会問題』(国史研究会編輯『岩波講座日本歴史 第9 (最近世 [2]』、岩波書店、1934年刊)、p.40。

*7  家永三郎『古代史研究から教科書裁判まで』(名著刊行会、1995年刊)pp.356-357。

*8 西田毅『竹越与三郎 ─ 世界的見地より経綸を案出す ─ 』(ミネルヴァ書房、2015年刊)p.64。

*9 竹越与三郎著・西田毅校注『新日本史』(下)(岩波文庫、2005年刊)p.145。

*10 『竹越三叉集』《民友社思想文学叢書》第4巻(三一書房、1985年刊)、p.285。

*11 慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料2 『人民読本 (竹越與三郎著)』(慶應義塾福澤研究センター、1988年刊)p.80。

*12 山路愛山「竹越与三郎論・常に第一流を以て自ら居る竹越君」(『中央公論』第25巻第11号、明治43年11月1日)。ここでは『山路愛山集(二)』(三一書房、1985年刊)に依った。

*13 竹越与三郎著・西田毅校注『新日本史』(下)(岩波文庫、2005年刊)p.82-118。

*14  竹越三叉の作品で、現在でも比較的読みやすいのは、文庫や新書に収められている、次の4点ほどであろう。@『新日本史』上下(岩波書店、2005年刊)、《岩波文庫》、西田毅氏による校注・解説が加えられ、原著の上巻は上として、中巻は下として刊行されている。 A『二千五百年史』(講談社、1990年刊行)、竹越三叉の甥にあたる中村哲元法政大学総長の「解説 ─ 回想の竹越三叉」を加え、《講談社学術文庫》として上下2冊に翻刻されている。B『人民読本』の明治版と大正版は、慶應義塾福澤研究センターによって1冊にまとめられ、1988年に復刻されている。C『旋風裡の日本』は、高坂盛彦「孤高の戦闘者竹越与三郎」と題する小伝と略年譜が付されて《中公クラシックス》の新書版として復刻されている。(中央公論新社、2014年刊)。
  また、『六合雑誌』『國民之友』『国民新聞』などに掲載された論文のかなりの部分は、『竹越三叉集』〔《民友社思想文学叢書》第4巻〕(三一書房、1985年刊)に収録されている。これには西田毅氏による「解説」、「解題」のほか「年譜・参考文献」が付されている。
  なお、『日本経済史』をはじめ、竹越与三郎が執筆した冊子体の書物は、《国立国会図書館デジタルコレクション》で読むことが出来る。URLはhttp://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E4%B8%8E%E4%B8%89%E9%83%8E&viewRestricted=0

*15 『工談会々員名簿』、明治25年11月調、工談雑誌社。《国立国会図書館デジタルコレクション》で閲覧可能。URLはhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779599/1

*16 服部之総「史家としての蘇峰・三叉・愛山」(《服部之総著作集 6》『明治の思想』理論社、1955年)p.213。

*17 慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料2 『人民読本 (竹越與三郎著)』(慶應義塾福澤研究センター、1988年刊)p.219。

*18 竹越与三郎『旋風裡の日本』(中央公論新社、2014年刊)p.96。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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