高野房太郎とその時代 【追補 1】![]() 再論・「労働者の声」の筆者は誰か?はじめに本著作集に連載した『高野房太郎とその時代』の第38回で、『國民之友』に掲載され、「日本最初の労働組合論」として知られた無署名論文「労働者の声」*1の筆者について論じ、高野房太郎執筆の可能性が高いことを主張しました。また、オンライン本を改稿し、岩波書店から刊行した『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』(2008年刊)でも、第6章「アメリカからの通信 ─ 日本最初の労働組合論」に「〈労働者の声〉の筆者は誰か」の一項を設け、同様の趣旨を論じています。 こうした私の主張に対して、大田英昭氏は、その著書『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』で批判を加えられました*2。その批判点のひとつは、「これまでこの論文の筆者を探索した人はいません」と私が記したことに対する、誤りの指摘でした。 家永三郎氏が、すでに1952(昭和27)年に「労働者の声」の筆者について追究され、徳富蘇峰から直接証言を得ていたのです*3。また家永氏の他にも、佐々木敏二氏が「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『國民之友』を中心に」*4と題する論稿で「労働者の声」の筆者について論及しておられました。さらに大田氏は、この家永証言を根拠に、「労働者の声」の筆者は竹越三叉である蓋然性が「非常に高い」と主張されています。 この問題について、大田氏は著書で触れただけでなく、ご自身のブログ《長春便り》でも「労働者の声」の筆者についてと題する一項を設けて再論しておられることを、最近になって知りました。
私が、家永三郎氏や佐々木敏二氏の先行研究の存在を見落としたまま、「〈労働者の声〉の筆者は誰か」を論じたことは、研究者としては、ごく初歩的な誤りをおかしたもので、大田氏の批判と教示に感謝する次第です。 1. 家永三郎氏による徳富蘇峰からの聞き取りかつて古代・中世佛教史研究を専門としていた家永三郎氏は、第二次大戦中から近代思想史にも研究テーマを広げておられました。とりわけ、戦後間もなく『國民之友』の多くの号をまとめて入手されたのを機に、同誌の研究に手を染められたとのことです。その研究の一環として、1952(昭和27)年8月、家永氏は、徳富蘇峰を熱海の居宅に訪れ、聞き取りをされました。当時「労働者の声」に強い関心を抱いていた家永氏は、同稿が掲載された『國民之友』を持参して蘇峰に一読を乞い、その筆者について尋ね、その結果を「『労働者の声』の筆者」と題する一文にまとめ、『日本歴史』に寄稿されたのでした。短文ですし、正確を期すため、その全文を引用しておきます。 「労働者の声」の筆者 家永氏は、この聞き取りの意義をかなり重視されていたようです。それは、徳富蘇峰宅への訪問から34年余の歳月が過ぎた1986年12月に、「『國民之友』研究の思い出」と題する一文を執筆され、同研究が未完に終わった事実を告白された後で、次のように述べておられることで知りました*5。 ひとつだけ学界にのこすに足りると思っているのは、『日本歴史』第五五号(一九五二年一二月)に載せた「『労働者の声』の筆者」と題する短文である。日本の近代社会思想史上の記念碑的文章とされていた社説『労働者の声』が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものかを、蘇峰から直接教えてもらいたいと思い、熱海の蘇峰宅を訪問し、高齢の蘇峰翁が眼鏡も使わずに私の出した当該論文を見て下した回答を報告したもので、おそらくこの文章の筆者についての確認の作業として唯一のものと思う。 『國民之友』の創始者であり編集者でもあった蘇峰に、実際に「労働者の声」を読んでもらった上で得た回答ですから、その証言は重視さるべきでしょう。しかし、一歴史研究者である私としては、いかに当事者の証言であろうと、その内容を吟味することなく鵜呑みにするわけには行きません。まずは、証言内容を仔細に検討する必要があります。なにしろ、この言葉は、90歳を目前にした高齢者に、62年もの昔に編集刊行した雑誌に掲載した一論稿の筆者について質問し、得た答えなのです。 まず注目すべきは、この蘇峰の回答が、「労働者の声」の筆者を一個人に特定してはいない事実です。家永氏による蘇峰証言の核心は、次の一文です。 これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた。
この蘇峰証言で、確かな事実として認めて良いのは、「自分が筆をとつて書いたのではない」という箇所です。これは本人が、その論文を読んだ上で確言しているのですから、信頼してよいと思います。これによって、嘉治隆一が「徳富の起筆にかゝると伝へられる」と記した*6伝聞が誤りであることは確定した、と言って良いでしょう。 2. 「労働者の声」は、竹越三叉が執筆した論稿か?そこで、ここではまず、大田英昭氏が「労働者の声」の筆者である蓋然性が高いと主張されている、竹越三叉説について検討しましょう。本来なら、蘇峰がもう一人あげている「山路愛山説」についても吟味する必要があり、また、大田氏が「高野房太郎説」を否定されている論拠についても検証しなければなりませんが、長くなり過ぎるので、これらは次回に回したいと思います。
はじめに私の結論を述べておけば、三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近いと考えます。 2.-1. 文体の違い
三叉の文章を「労働者の声」と比べてみた時、まず感ずるのは、両者の文体や、朗読した時のリズムが大きく違っていることです。 この主義〔平民主義……引用者注〕の一たび現わるるや、天下 次は「労働者の声」と同じ1893年5月に『国民新聞』に掲載された「近日の文学」*10です。三叉の文章論とも言えましょう。 人心漸く近日の文学に飽きたるが如し。曰く今日の文学は 第3の文例は、青少年向けに執筆された『人民読本』(明治版)の第26章「国民の経済(下)」の一節です*11。「労働者の声」とも通ずる説明的な文章の例として挙げておきましょう。 然らば如何にして国の富を蓄積せんかと云ふに、其道、多端にして一ならず。第一に人民各自勤勉にして節倹を重むじ、 一方、「労働者の声」の文体は「抑揚の妙を極めた散文詩」と言うには程遠い、理詰めの文章です。それでも冒頭の導入部は、管子を引用するなど、措辞にも気を配っています。しかし、後半になると、もっぱら知識・情報の提供に集中し、措辞には無頓着になっています。たとえば「共同会社」、つまり協同組合について論じた箇所を見てみましょう。 即ち欧米諸国にて、其日用品をば社員中には最も廉価に売渡し、以て生活上の便益を図る事あり。此事にして
ここに、「抑揚の妙をきわめた」散文詩ともいうべき口調の良さを感ずることが出来るでしょうか? 文章を作つても其通り、誠に正々堂々の陣で、旗も太鼓も多い。実質は勿論無いではないが、実質を裸で出さず、衣裳をつけ、羽毛を飾つて、立派なものにしてからでなくては満足しない。演説でも何でも皆其流儀で、総て荘重典麗。 「労働者の声」は、どう見ても実質を重視する文章で、とても「荘重典麗」とは言えないでしょう。別ファイルに「労働者の声」の全文を翻刻しておきましたので、通読されれば、三叉の文体との違いは、より鮮明になると思います。 2.-2. キイワードを比べる無署名の文章から筆者を探る上で手がかりとなり得るのは、使っている語彙です。無署名文と筆者が明らかな文章とを比較し、両者に共通する語彙の有無、頻度などから、ある程度、両者の異同を推測することが出来ます。そこで、まず「労働者の声」から、キイワードとなる語を選び出し、これと対応する語を『新日本史』から探し出して、比較してみます。
「労働者の声」で、キイワード中のキイワードともいうべきものは、「労役者」と「労働者」です。労役者は23回、労働者は少年労働者や婦人労働者といった複合語も含め、7回使われています。また、「労役者」とほぼ同じカテゴリーの言葉である「職工」も、労働者と同じく7回出現しています。また「労役者」や「労働者」を指し示す人称代名詞の「彼等」は、28回使われています。 一方、『新日本史』 の「旧社会の破壊、新社会の結合」の節*13から、上記の語に対応するカテゴリーの語彙を抜き出してみましょう。なお、当然のことながら、三叉本人の執筆ではない引用文は、採録対象から外しています。 寺子屋師匠(1)、壮年教師(3)、人民(13)、紳士壮年(1)、村内長老(1)、老大官(2)、官人(1)、階級(13)、士人(2)、娼婦(1)、有司(1)、政府(8)、参議(1)、民選議院(1)、上下議事院(1)、議院(1)、士族(27)、民会(2)、華族(8)、華士族(4)、漢学者(1)、平民(13)、社会党(1)、公衆(3)、仏僧(1)、儒者(1)、基督教徒(1)、壮士(1)、書生(1)、講談会(1)、地主(3)、貴族(1)、学者(1)、地方官会議(2)、府県会(4)、官吏(5)、地方官(1)、府県会議員(1)、県令(2)、県知事(1)、郡官(1)、志士仁人(1)、豪農(4)、郷紳(7)、大名(1)、太政官(1)、県庁(1)、豪族(2)、紳士(2)、大聖(2)、資本(4)、土地(4)、労力(4)、国民(3)、娼妓(1)、基督教会(4)、仏教団体(2)、政社(3)、商社(1)、教育会(3)、商法会議所(1)、工談会(3)、農談会(1)、文学会(1)、青年会(1)、婦人会(1)、士農工商(1)。 「労働者の声」と『新日本史』とで共通して使われている語は、わずかに「人民」と「國民」「平民」「志士仁人」の4語だけです。なお、部分的に共通する語としては、前者の「資本家」や「資本主」が、後者では「資本」として出て来ます。しかし、具体的な人をイメージする前者と抽象的な概念である後者との違いは明瞭です。何より重要な点は、労役者、労働者、大工、職人といった「労働者の声」のキイワード中のキイワードが、『新日本史』では、まったく使われていない事実です、これは「労働者の声」の筆者を竹越三叉とする説にとって、大きな弱点ではないでしょうか。ちなみに「工談会」とは、工手学校などを出た「技手」といった現場技術者を「正員」とする全国組織です。大学出の上級技術者も「役員」「名誉員」などとして名を連ねていました*14。 2.−3. 文の内容からみた両者の相違周知のように竹越与三郎は『新日本史』、『二千五百年史』、『日本経済史』など大部の通史・史論を刊行し、また『國民之友』をはじめ『六合雑誌』『国民新聞』『世界之日本』など数多くの雑誌・新聞に、多数の論稿を執筆しています*15。しかし、これらの著書や論稿のどこを探しても、「労働者の声」の筆者であれば、当然、論ずるであろう、労働問題に関する言及がほとんどないのです。
まず、「労働者の声」とほぼ同時期に執筆された『新日本史』について見ましょう。『新日本史』は、上巻が1891(明治24)年7月3日に、中巻が翌1892(明治25)年8月4日に、ともに民友社から刊行されています。なお、下巻はなぜか未刊のままです。ちなみに、服部之総によれば、「三叉の『新日本史』は、下巻の稿成って、ついに発行を許可されなかったと伝えられている」といいます*16。『新日本史』の執筆時期は、1891(明治24)年2月27日から同年6月28日であることが、日記の記録から判明します〔岩波文庫・下巻 pp.374-375、西田毅氏解説〕。つまり『新日本史』は、1890(明治23)年9月に「労働者の声」が発表されてから、半年も経たずに執筆を開始した書物なのです。 故に概していえば、明治十年までは、平民が士族に対して優劣の争を為したる時代にして、即ち武権と富との争なりしなり。然れども富、武権に勝つや、ここに富と富との争となり、直ちに資本と土地労力の争となれり。而して資本は市府に属し この引用箇所は、竹越三叉が「資本」という言葉を使っている数少ない例です。しかしこの文章には、「資本家と労役者」「雇主と被雇者」の対立という「労働者の声」の核心ともいうべき認識が欠如しています。仮に三叉が「労働者の声」の筆者であったならば、同時代史の「社会・思想の変遷」を取り上げる章で、それも「資本」という言葉を使っている箇所で、「労役者」「被雇者」に言及することなく、論を終えるでしょうか? 上の文で、三叉は「労力」という文言を使っています。しかし、この「労力」という言葉が意味しているのは「農民」なのです。『新日本史』執筆の時点において、三叉に「労役者」「被雇者」に対する考慮はなく、労働問題に対する関心も基礎的な知識もなかった、としか考えられません。
こうした推測は、「社会問題の成行」と題する論文から、さらに明らかとなります。『六合雑誌』第81号(明治20年9月30日)に掲載されたこの論文は、大田英昭氏によって、竹越三叉が社会問題に関心をいだいていた証左として挙げられ、文明の進歩が社会問題を発生させたことに関する「先駆的な洞察」だと、高く評価している論稿です〔『日本社会民主主義の形成』 pp.175-176、p.189〕。 アヽ吾人之を知れり。彼の智者や学者や政治家が持て余したる百種の問題、幾千万の生死を以てするも其効なかりし変遷は唯だ社会問題を来さんが為なりしを知る。〔下線部分は、原文では傍点〕 何とも意味の取りにくい文章ですが、この分かり難さの主たる原因は、三叉の「社会問題」について考えが独特だからでしょう。欧米の有識者の論議が「社会問題」に集中した後、「社会問題」はさらに「労働疑問」「資本論」「賃銀論」に分かれ、ついで「土地疑問」に戻るという認識が示されています。さらに、社会問題は「郡県論を社会的の眼孔より論じ出せるものに過ぎない」とも主張されています。ここで考えるべきは、三叉が、ものごとを数千年単位で考える文明史家であった点です。「社会問題」も「労働疑問」も、こうした視点から抽象的に論じられており、日本の社会問題や労働問題の現実を直視し、解決策を見出そうとする姿勢は見られません。労働問題とともに賃銀問題が挙げられているのも、三叉の労働問題に関する理解の欠如、と言って悪ければ独自性が示されています。このような議論を展開する人が、「労働者の声」に見られる具体策を構想・提唱したとは、とうてい考えられません。
もうひとつ例を挙げておきましょう。竹越与三郎が、次代を担う少年少女に向けて執筆し、権利の意味を庶民に啓蒙する目的の「読本」、つまり教科書として執筆した『人民読本』(明治版)の一節です。 我国にては労力者の賃銭、欧米に比して安しとの説あれども、我国の労働者は欧米の労働者に比して、機械を取扱ふ事に熟練せず、力役者と云ふべきも、技芸者と云ふ能はざる者多きが故に、富を生産する結果につきて云へば、我労働者の方遙かに少きが故に決して欧米に比して賃銭安しと云ふ能はず。 ここで思い出して欲しいのは、「労働者の声」の筆者の場合、日本においても、労働者を「活版の職工」のような また『人民読本』(大正版)の第34章「政治の主義及び政策」*17では、個人主義に対する概念として「衆団主義」をあげ、次のように論じています。 近年欧米各国、民衆の勢力、大に発達するに至りて、衆団主義、稍々勢力を得、延きて我が国にも波及しつつあり。蓋し個人主義は従来、少数なる上級豪族が、政府の権力を握り、此の権力によりて、人民の事業に干渉するを排せんがため、中等人民が発明したる政策にして、此の政策によりて利する所は、中等人民中の強者のみにして、下級の人民より見れば、一の豪族を除きて、他の豪族を迎ふるに等しきが故に、茲に衆団主義を歓迎して、中級の専制を排し、政府の干渉に依りて、幸福の分配に與らんとするものにして、下級人民の勢力を得る処は、即ち衆団主義の勢力の生ずる所なりとす。 もし三叉が「労働者の声」の筆者であったなら、「衆団主義」を論じた箇所では、「同業組合」について触れたのではないでしょうか。しかし、実際に三叉が論じているのは、政治の世界における権力や政策の問題だけなのです。 さらに、1933(昭和8)年、同時代史的文明評論として刊行された、竹越与三郎著『旋風裡の日本』*18も注目されます。同書は、ロシア革命やファシズム台頭後の作品で、資本主義と社会主義の対立が鮮明化し、労働組合や労働争議が日常的な出来事となった時代の作品だけに、竹越三叉の作品としては珍しく、労働問題について触れた箇所があります。以下が、当該箇所のほぼ全文です。 事業に関係して商品を生産するものは、企業家と資本家とサラリーマンと労働者であるが、このカテゴリーは、皆な生産より生ずる利益の分配によりて生活するのである。然るにこの利益の分配の方法が宜しきを得ないからと云ふので、労働争議が起るのであるが、余はそれが単一なる争議である限り、必ずしも労働者の主張が悪いと云へぬ。それは労働者の主張が我欲に過ぐる場合もあるが、企業家の主張が我欲に過ぐる場合もある。その善悪可否はその争議の原因如何にあることであつて、一概に何れを可とし、何れを否とすることは出来ぬ。併しながら近来労働者が団結して、その分配額を増加せんことを要求するがため、世人の耳目は労働者の主張にのみ注がれて、サラリーマンの報酬如何は余り問題にもなつてをらぬが、経済機構の運転より論ずれば、サラリーマンの報酬は、労働者の賃銀の昇るが如く、今日より増加せられねばならぬであらうと思ふ。併しながらその分配の方法如何は、各々その性質を異にする事業によりて、実際に案出せらるべきである。またこれと同時に会社の執務法と工場の経営法とを変更して冗費を淘汰せねばならぬ。同時にサラリーマンや労働者の気分を一変し、能率を増加せねばならぬ。併しながらこれらは会社経営論や賃銀論に於て論ずべき実際問題であつて、余の侵入すべき問題でない。 見られる通り、ここでの竹越の主張は、「労働者の声」の筆者とは、大きくかけ離れています。もちろん「労働者の声」から40年余の歳月が経過していますから、労働運動や労働組合についての評価や主張に変化があっても、不思議ではありません。しかし、労働問題に関する事実認識、理解のレベルが低下することはあり得ないでしょう。しかし『旋風裡の日本』の著者は、労働運動や、後で出て来る消費組合に関する議論でも、「労働者の声」の水準に、遠く達していないのです。 とりあえずの結論 以上、『國民之友』第95号に掲載された無署名論文「労働者の声」の筆者が、三叉・竹越与三郎である蓋然性はきわめて低く、限りなくゼロに近いことを、論証し得たと思います。 【注】*1 無署名論文「労働者の声」、『國民之友』第95号(1890(明治23)年9月刊)。なお「労働者の声」の全文はjpeg画像で、「高野房太郎とその時代」(38)の末尾に掲載している。ただ画像では、やや鮮明を欠く箇所があるので翻刻、htmlファイル化し、〔高野房太郎とその時代 参考文献 「労働者の声」〕として本著作集に収めている。 *2 大田英昭『日本社会民主主義の形成 ─ 片山潜とその時代』(日本評論社、2013年刊)188〜189ページ。 *3 家永三郎「〈労働者の声〉の筆者」『日本歴史』第55号、1952年12月。 なお『日本歴史』は日本歴史学会編集の月刊誌で、現在は吉川弘文館から刊行されている。ただし創刊当時の出版社は日本歴史社、のち霞ヶ関書房、実教教科書と推移し、この時点では実教出版が刊行していた。 *4 佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『國民之友』を中心に」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』(雄山閣、1977年刊)所収)。 *5 家永三郎「『國民之友』研究の思い出」(《民友社思想文学叢書》第1巻『徳富蘇峰・民友社関係資料集』1986年12月、三一書房刊に付された『月報 7』所収) *6 嘉治隆一『明治時代の社会問題』(国史研究会編輯『岩波講座日本歴史 第9 (最近世 [2]』、岩波書店、1934年刊)、p.40。 *7 家永三郎『古代史研究から教科書裁判まで』(名著刊行会、1995年刊)pp.356-357。 *8 西田毅『竹越与三郎 ─ 世界的見地より経綸を案出す ─ 』(ミネルヴァ書房、2015年刊)p.64。 *9 竹越与三郎著・西田毅校注『新日本史』(下)(岩波文庫、2005年刊)p.145。 *10 『竹越三叉集』《民友社思想文学叢書》第4巻(三一書房、1985年刊)、p.285。 *11 慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料2 『人民読本 (竹越與三郎著)』(慶應義塾福澤研究センター、1988年刊)p.80。 *12 山路愛山「竹越与三郎論・常に第一流を以て自ら居る竹越君」(『中央公論』第25巻第11号、明治43年11月1日)。ここでは『山路愛山集(二)』(三一書房、1985年刊)に依った。 *13 竹越与三郎著・西田毅校注『新日本史』(下)(岩波文庫、2005年刊)p.82-118。
*14
竹越三叉の作品で、現在でも比較的読みやすいのは、文庫や新書に収められている、次の4点ほどであろう。@『新日本史』上下(岩波書店、2005年刊)、《岩波文庫》、西田毅氏による校注・解説が加えられ、原著の上巻は上として、中巻は下として刊行されている。 A『二千五百年史』(講談社、1990年刊行)、竹越三叉の甥にあたる中村哲元法政大学総長の「解説 ─ 回想の竹越三叉」を加え、《講談社学術文庫》として上下2冊に翻刻されている。B『人民読本』の明治版と大正版は、慶應義塾福澤研究センターによって1冊にまとめられ、1988年に復刻されている。C『旋風裡の日本』は、高坂盛彦「孤高の戦闘者竹越与三郎」と題する小伝と略年譜が付されて《中公クラシックス》の新書版として復刻されている。(中央公論新社、2014年刊)。 *15 『工談会々員名簿』、明治25年11月調、工談雑誌社。《国立国会図書館デジタルコレクション》で閲覧可能。URLはhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779599/1 *16 服部之総「史家としての蘇峰・三叉・愛山」(《服部之総著作集 6》『明治の思想』理論社、1955年)p.213。 *17 慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究資料2 『人民読本 (竹越與三郎著)』(慶應義塾福澤研究センター、1988年刊)p.219。 *18 竹越与三郎『旋風裡の日本』(中央公論新社、2014年刊)p.96。 |
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