高野房太郎とその時代【追補2】
大田英昭氏に答える
─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(2) ─
はじめに
前回に続いて、「日本最初の労働組合論」として著名な無署名論文「労働者の声」*1の筆者について検討します。【追補1】では、最初に、この問題に対する徳富蘇峰の証言をとりあげました。蘇峰証言とは、この問題を追究された家永三郎氏が、1952(昭和27)年に徳富蘇峰と直接面会して、「〈労働者の声〉が蘇峰の執筆か、他の同人の筆か、後者ならば誰の筆に成るものか」と、訊ねた際の回答で、そのポイントは、以下のようなものでした。
これは自分が筆を取つて書いたのではない、竹越か山路であらう、とはつきり答へた。
つまり、蘇峰は自分が書いたものではないことを確言し、竹越三叉か山路愛山のどちらかが執筆したものであろうとの推測を述べたのです。この証言について、家永三郎氏は、「蘇峰の答がただしいかどうかは問題であるが、とにかく『国民之友』主筆その人の証言として他に代替性のない史料価値をもつことは否定できまい」*2と述べるにとどまり、筆者を特定しようとはされませんでした。
また、佐々木敏二氏は、「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『国民之友』を中心に」と題する論稿で、「労働者の声」の執筆者問題についてふれ、家永氏による蘇峰証言を簡単に紹介した上で、次のように結論されています。
当時の愛山と三叉の種々の論文を比較してみて、愛山の筆とは考えにくい。後に『新日本史』を書いた三叉ならばありそうなことである。しかしいずれにしても愛山とも三叉とも断定する決め手はない*3。
このように、佐々木氏は、竹越三叉執筆の可能性が高いと推測し、その根拠として『新日本史』の名を挙げています。しかし、最終的には、どちらが書いたと断定するだけの「決め手はない」として、それ以上の追究を避けられました。
一方、竹越三叉説を主張している大田英昭氏は、山路愛山の執筆については、まったく問題にしていません。
1. 山路愛山執筆の蓋然性
佐々木敏二氏が比較した「当時の愛山と三叉の種々の論文」は、三叉の『新日本史』の他は、論文名が明示されていませんので、「愛山の筆とは考えにくい」と判断された根拠は分かりません。おそらく、『国民之友』や『国民新聞』に掲載された「山路生」「愛山生」名の論稿が、主として近世を対象とする史論中心で、「労働者の声」は山路愛山が取り上げるテーマとして異質だ、と考えられたのでしょう。
しかし山路愛山には、1905(明治38)年2月に『独立評論』に発表し、のち『社会主義管見』の冒頭に収められた「社会主義評論」という論稿があります。そこでは、ロバート・オーエンやマルクス、エンゲルスについても触れ、彼等の主張のポイントを紹介しています。また「国家社会主義と社会主義」では「共同組合。労働組合」という一項が立てられています。さらに、1908(明治41)年5月に『独立評論』に掲載された「現時の社会問題及び社会主義者」では、高野房太郎や片山潜の名をあげ、職工義友会や労働組合期成会についても記録しています。これら諸論稿から見る限り、三叉より山路愛山の方が、「労働者の声」の筆者として相応しいのではないかと考えられます。そうした点を確認するため、上記の諸論稿から、関連しそうな箇所を抜粋してみます。
最初は「社会主義評論」*4の一節です。
英国のロバート、オーエン。此人は明和八年(1771年)に生まれて安政五年(1858年)に死んだ人でありますが、ひどく英国の下等社会の不憫の有様に心を動かして、それから世の中立直しの説を言ひ出しました。〔中略〕オーエンの説では、是は政府の世話で人民に仲間を作らせるより外に仕方は無い。仲間同志で互いに世話になり、互いに助け合ふ一の組合を作らせやう、しかし此組合を維持するには会員の中に手前勝手の考が有つてはいけないから仁人君子の精神を学ばせやう。今の工場の働は余り専門に流れて面白くないから成るべく一人で色々の仕事に関はることの出来るやうにさせ、そうして此組合では近頃の諸発明を十分利用することにさせやうと云ふのでありました。オーエンの説は少しは実際に行はれて其説を土台にして組合を立てたものもありましたが其結果はどうも思はしくありませなんだ。
ここで愛山は、「オーエンの説は少しは実際に行はれて其説を土台にして組合を立てたものもありましたが其結果はどうも思はしくありませなんだ」と述べています。これは「労働者の声」の主張とは、やや食い違いがあります。「労働者の声」は、ロッチデールにおける共同会社の成功を紹介しているのですから。
次は同じく『社会主義管見』に収録された「国家社会主義と社会主義」*5の一節です。
(一〇) 共同組合。労働組合
〔前略〕 資本家制度は大工業の勃興を促がし大工業の勃興は人口を都会に集中せしめ、労働者を用ふるにも軍隊組織の如き大仕掛となりたり。然るにその結果は労働者をして一致、結合、組織、訓練の勢力の如何に有効なるかを学ばしめ、敵の用ひたる武器を倒持して却て敵と戦ふの器とならしめたること造化真に配剤の妙ありと云ふべし。即ち共同組合、労働組合の如きは其一現象にして一方に資本家の圧制あれば他方には之に対抗するの労働者の団体あり。善く勢力の均衡を維持したらんには貧富の隔絶より生ずる社会の害悪は依つて以て少く之を和ぐるを得べき歟。かの総罷業など云ふことも或人々は其弊害の半面をのみ見て気の毒にのみ思ふものあれども労働者が総罷業をする迄に進みたるは則ち一には労働者も其小さき資本を合すれば随分大資本家と対戦し得べき実力あることを示すものなり。〔後略〕
この文章は、「労働者の声」が強調した同業組合=労働組合について論じています。ただ「労働者の声」の筆者が「労働者の友」としての立場から発言しているのに対し、第三者的な議論の進め方で、思想的にはやや異質の感を否めません。
最後は「現時の社会問題及び社会主義者」*6の一節からの引用です。
職工義友会は高野房太郎氏の経営したる所、労働者期成同盟会は高野氏と片山潜氏の経営したる所にして而して始めより此二会の成立に尽力し多大の援助を与へたるものは即ち佐久間貞一氏なりき。高野氏は高等工業学校の前身たりし職業学校の役員にして、労働者の状態を改良することにつき多大の興味を有し、片山潜氏と共に佐久間貞一氏等の同情に依りて労働者組合期成同盟会を組織し、造幣局と鉄道局との労働者を以て組織したる鉄工組合の如きは氏の尽力に依りて成りたる最も有力なる組合なりき。片山氏が労働者に接近し、其或るものゝ友人たるを得しは實に此に始まれるものにして主として高野氏の尽力に依れりと云ふ。高野氏は又労働者の為めに共同販売店を設けんことを欲し、労働者救済の為めに共同の基金を作らんことを欲し、之が為めに職工義友会を組織し奔走尽力頗る勤めたりき。
ここでは、労働組合期成会を「労働者期成同盟会」とか「労働者組合期成同盟会」などと誤記し、また高野房太郎が、「高等工業学校の前身たりし職業学校の役員にして」といった事実誤認もあります。東京工業学校講師を勤めたことがあるのは、房太郎ではなく。彼の弟で帝国大学大学院生だった高野岩三郎です。
とはいえ、これらの誤りも、山路愛山が日本の労働運動に関心をいだき、自身で取材をしていたからだと思われます。いずれにせよ、竹越三叉と比べ、山路愛山の方が、日本の労働問題や労働運動・社会主義運動に注目しており、その理解においても優っていたことは確かです。
2. 文体の問題
しかし、上記の文を読むと、愛山を「労働者の声」の筆者とするのにも、違和感があります。「労働者の声」と愛山の文章との間には、文体の面で、かなりの相違があるからです。山路愛山の文章は100年以上前に書かれたものですから、今読むとやや古風なところはありますが、平明です。特に最初の「社会主義評論」は口語体で、そのまま愛山の言いたいことが伝わって来ます。他の2点も、簡明直截に論旨を述べています。一方、「労働者の声」は論旨こそ明瞭ですが、文章はかなり晦渋です。比較のために、「労働者の声」の冒頭部分を引用してみます。
「労働者の声」
政権の変遷を按ずるに、初は少数なる貴族、豪富、僧侶の手に在り、中ごろ中等民族の手に渡り、終には一般普通人民の中に分配せらる。世界各国其運動の度を異にすると雖、早晩必ず斯の如き順序を通過せざる可からざるは、歴史の示す所、事実の證する所、吾人復た爰ぞ之を疑はん。〔中略〕
労役者の地位を高尚ならしむるには、種々の手段も有るべし。然れども其重もなる者は、實に其生活上の道を便益ならしむるに在り。所謂倉廩實ちて礼節を知り衣食足りて栄辱を知る、とは管子の言、吾を欺むかざるなり。
「労働者の声」は、論稿の内容からすると、いささか大仰で異質な「政権の変遷を按ずるに」といった言葉から始まり、節の結びも、管子の言葉の引用、それも普通なら「衣食足りて礼節を知る」で済むのに、「倉廩實ちて礼節を知り」を加え、さらに陶淵明の詩に由来するであろう「吾を欺むかざるなり」といった表現を使うなど、やや背伸びして文章を飾っている印象があります。これに対し、愛山の文は直截です。
3. 「労働者の声」は、愛山筆ではない
実は、山路愛山が「労働者の声」の筆者ではあり得ない、より決定的な理由があります。それは、山路愛山の『国民之友』初寄稿は、1892(明治25)年1月13日発行の第142号掲載「自ら寛ふす(歳晩所感)」であると、研究者間で一致している事実があるからです。
山路愛山の年譜や著作一覧は、さまざまな書物に付されていますが、代表的なものは、大久保利謙氏が《明治文学全集》の『山路愛山集』(筑摩書房、1965年刊)のために作られた「解題」と「年譜」*7でしょう。その他、岡利郎氏が編集に当たった《民友社思想文学叢書》第3巻『山路愛山集(二)』(三一書房、1985年)巻末の岡利郎編「年譜・参考文献」*8は、他の研究は、他の年譜や著作一覧を参照したもので、相対的には新しい研究成果といえましょう。さらに文献目録としては、昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 (16)』(昭和女子大学光葉会、1961年)の山路愛山の項に付された「著作年表」*9が詳細です。この3点の研究のすべてが、「自ら寛ふす(歳晩所感)」を、『国民之友』での初出であると明記しているのです。つまり、愛山の『国民之友』への寄稿は、1982(明治25)年1月が初出で、「労働者の声」より1年以上後のこととされているのです。ちなみに、山路愛山は、蘇峰や三叉ら民友社の同僚らに比べると若くして亡くなっており、1917(大正6)年に民友社から徳富蘇峰の監修・内山省三編で大冊の『愛山文集』が刊行されました。これにも簡単な「著作目録」が付されています。いずれにせよ、愛山を知る人が多い時期に、彼の著作目録の作成は始まっており、もしも愛山が「労働者の声」の筆者であったなら、当然、著作目録に加えられていた筈です。
もう一つ、愛山が「労働者の声」の筆者ではありえない、と断定しうる物的証拠があります。それは、山路家に残されていた手記「愛山生が身を終るまでに研究すべき事項」*10(明治24年頃の執筆と推定)です。そこには、次のように記されています。
愛山生が身を終るまでに研究すべき事項
第一 聖書
第二 基督教の歴史(教会、教理及び社会、個人に於る感化の)
第三 各国の聖書(佛教、婆羅門教の類)
第四 文明史
第五 商業地理
第六 生物学
第七 物理学及数学
第八 東西詩文
「労働者の声」の筆者なら挙げるであろう事項が、ひとつも記されていません。1891年当時の愛山はキリスト教研究への関心がもっとも強く、後は、他の宗教や文明史、地理、ついで自然科学、文学を学ぼうと考えているのです。
以上、愛山・山路彌吉が「労働者の声」の筆者ではあり得ないことも確実となりました。こうなると、家永三郎氏が得た「蘇峰証言」の後半部分は、完全に徳富蘇峰の記憶違いだったと見るほかないでしょう。「労働者の声」の筆者探しは、より範囲を広げて考えざるを得ず、私の高野房太郎説も十分に生き残る余地がありそうです。
【注】
*1 無署名論文「労働者の声」、『国民之友』第95号(1890(明治23)年9月刊)。なお「労働者の声」の全文はjpeg画像で、「高野房太郎とその時代」(38)の末尾に掲載している。ただ画像では、やや鮮明を欠く箇所があるので翻刻、htmlファイル化し、〔高野房太郎とその時代 参考文献 「労働者の声」〕として本著作集に収めている。
*2 家永三郎『古代史研究から教科書裁判まで』(名著刊行会、1995年刊)の「著者解題」、pp.356-357。
*3 佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論 ─ 『国民之友』を中心として ─ 」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』雄山閣、1977年刊)。p.154。
*4 岡利郎編『山路愛山集(二)』〔《民友社思想文学叢書》第3巻〕(三一書房、1985年刊、p.152)
*5 岡利郎編『山路愛山集(二)』〔《民友社思想文学叢書》第3巻〕(三一書房、1985年刊、p.208-209)
*6 大久保利謙編『山路愛山集』《明治文学全集 35》(筑摩書房、1965年刊、p.372)
*7 大久保利謙稿「解題」pp.433-444、大久保利謙編「年譜」pp.445-454、大久保利謙稿「参考文献」〔大久保利謙編『山路愛山集』《明治文学全集 35》(筑摩書房、1965年刊)〕
p.455-458。
*8 岡利郎編「年譜・参考文献」(岡利郎編『山路愛山集(二)』三一書房、1985年刊)pp.463-477。
*9 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第16巻(昭和女子大学光葉会、1961年刊、pp.406〜445)
*10 前掲、大久保利謙編『山路愛山集』p.410。
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