高野房太郎とその時代【追補4】
再び大田英昭氏に答える
─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・三論 ─
1. 高野房太郎説は誤りであった
『国民之友』第95号の「国民之友欄」に掲載された論文「労働者の声」*1の筆者は誰か? これは、かねてからの問題でした。しかし、筆跡が残らない活字で発表された無署名論文ですから、その筆者を特定することは容易ではありません。これについて、かつて私は、本著作集に連載した『高野房太郎とその時代』の第38回「〈労働者の声〉の筆者は誰か」で、高野房太郎執筆の可能性が高いことを論じました。また、このオンライン本を改稿し、岩波書店から刊行した『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』(2008年刊)でも、第6章「アメリカからの通信 ─ 日本最初の労働組合論」に「〈労働者の声〉の筆者は誰か」の一項を設け、同様の主張を展開しています。
しかし、この私の主張=「〈労働者の声〉、高野房太郎執筆説」は誤りでした。大田英昭氏と私との間で交わされた論争で、大田氏の、「再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」によって、私が主張してきた「高野房太郎説」の重要な論拠が失われたからです。私が、部外者である高野房太郎の寄稿が『国民之友』の社説欄に掲載された可能性があると考えた根拠のひとつは、『国民之友』第86号の巻頭に掲載された、鐵面生「山縣伯に与ふるの書」の存在でした。しかしこの論稿が「白面の一書生」による投稿ではなく、実際は徳富蘇峰の筆になる文章で、『蘇峰文選』に収録されていることのご教示で、「高野房太郎説」が成り立ち得ないことは明白になりました。徳富蘇峰や『国民之友』について十分な検討を加えることなく、高野房太郎執筆説を主張したことは、軽卒だったと言うほかありません。したがって、今回の論争のなかで「高野房太郎説」を主張した「大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」は、全文を撤回します。ただし論争の過程で執筆した論稿ですから、削除はせず、本著作集への掲載は継続いたします。いずれにせよ、今回の論争によって、自説の誤りを、自らの手で訂正する機会を得たことを感謝します。
とは言え、せっかく、これまで誰も試みてこなかった「家永三郎氏による〈蘇峰証言〉」の検証を開始したのですから、自説の誤りを認めただけで、この論争を終わらせる訳にもいきません。ここで改めて「〈労働者の声〉の筆者は誰か?」について検討を加えたいと思います。
2. 酒井雄三郎執筆の蓋然性
すでに、「蘇峰証言」において執筆者である蓋然性が指摘されている竹越三叉と山路愛山については、「大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論 (1) ─ 」および「同(2)」で検討を加え、両者ともに筆者ではあり得ないことを論証しています。この2本の論稿は、今なお、その主張に大きな誤りはないと考えています。
そうなると、残された筆者捜しの道は、蘇峰の身近にいた人物の中から、「労働者の声」を書き得るだけの、見識と知識を有していた人を探すほかないと思われます。
ここですぐに思い浮かぶ候補は、『国民之友』特別寄書家の酒井雄三郎です。1889(明治22)年、フランス革命の100周年を記念してパリで開催された国際博覧会に際し、農商務省総務局博覧会課の官吏(属四等)*2としてフランスに派遣され、『国民之友』や『国民新聞』に、数多くの通信を送って来たことで知られています。パリ博は、1889年5月6日から10月31日まで開催されましたが、彼は博覧会終了後もヨーロッパに留まり、勉学のかたわら通信を送り続けました。
酒井のヨーロッパ通信は、当初の万国博覧会や世界各国の政治情勢に関するものから、次第にヨーロッパの社会問題・社会主義運動に向けられて行きました。この間の経緯は、佐々木敏二氏の諸論稿、とりわけ「酒井雄三郎の生涯と思想 ─ 西園寺公望との関係を問題にしながら ─ 」*3で明らかにされています。酒井は、『国民之友』第81〜83号に連載された「社会問題」の最終回において、ドイツ人によるイギリス調査報告を紹介するかたちで、「トレード・ユニオン」や「フラインドリー・ソサイチー」などについて述べています。「労働者の声」の筆者たりうる有力な候補と考える理由です。
また酒井雄三郎は、徳富蘇峰と個人的にも親しい関係にありました。『国民之友』の創刊前からの知己であり、酒井の渡仏に際し、蘇峰は送別の会合を主催しています。また、酒井のヨーロッパ通信を高く評価していたことも明らかです。それを裏付けるのは、酒井の懇請に応じて、民友社の一般社員の月給に数倍する50円もの大金を酒井に送っていることからも推察されます*4。
しかし、酒井雄三郎を「労働者の声」の筆者とするには、いくつか問題があります。何より、ヨーロッパ滞在中の酒井は自己の役割を「通信者」と規定していました。つまり、ヨーロッパにいるからこそ知り得る、世界各国の情勢を故国に伝えることこそ、自己の任務だと考えていたのです。その酒井が、ヨーロッパ通信ではなく、日本の労働者の組織化を呼びかける論稿を自発的に執筆したとは、考え難いのです。仮に酒井が「労働者の声」を書いたとするなら、それは蘇峰から特別の依頼があった場合としか考えられません。ただ、酒井から徳富蘇峰宛に送られた書簡で残されている33通*5の中には、この時期のものは一通もなく、こうした事実の有無は確認できません。
こうなると、「労働者の声」と酒井雄三郎の論稿の文体や語彙を比較検討するほかありません。その結果はかなり明瞭で、両者の間には顕著な違いがあります。すぐ気づくのは、「労働者の声」が句や文の区切りに読点=「、」を多用しているのに、酒井の文章は著しく読点が少ないことです。たとえば、『国民之友』第81号に掲載された酒井雄三郎稿「社会問題(三月七日発)」は、5ページ半の論稿中、読点はわずか6箇所で使われているにすぎません。
実は、この問題に決着をつける一文を、酒井雄三郎自身が書き残していました。それは『国民之友』第99号(明治23年11月3日)に掲載された「欧州の形勢」の一節です。「労働者の声」が発表された4号後、つまり約40日後に掲載されたこの論稿で、酒井は、60日余の間、筆をとらず、夏休みを過ごしたと明記しているのです。関連する箇所を、以下に引用します。なお、文中の「通信者」とは、ほかならぬ酒井雄三郎本人のことです。
実にサリスポリー侯の言の如く欧州各国の此頃の如く平穏静和なるは従来稀に見る所にして、各国人民は果して能く此平和を利用して文学技芸の事に幾多の進歩を致し、道徳社交政治の事に幾多の改良を遂げ、以て大に其享有するに至りしや否やは、後世の史家能くこれを闡明すべき者あるべきが、差し向き其外形に顕はるゝ所、某新聞紙上に記する所は、何の珍説もなく、何の異聞もなく、終に通信者をして、六十日余の間筆を執るを止めて為す事もなく暑中休暇を過こすを得せしめ、國民新聞の読者をして、我が国内地にては、議員選挙の競争、新議会開設の準備等、最も面白き記事多き時に於て、最も面白からぬ欧州通信を読むの煩を避けしめたり、
3. 誰が「労働者の声」を書いたのか?
酒井雄三郎執筆説が成り立たないとなれば、他に誰が「労働者の声」を書き得たでしょうか。民友社の「社員給与日誌」*6や、関係者の書簡、追想などを読んでも、なかなか候補者になりそうな人物は見つかりません。
ここまで来てようやく、私が決定的に重要な問題を見落としたまま、本論を進めていることに気づかされました。それは他でもありません、家永三郎氏による「蘇峰証言」の前半部分、「これは自分が筆を取つて書いたのではない」との言葉を鵜呑みにし、「本人が論文を読んだ上での答えであるから、事実と認めてよい」と即断してしまったことです。
今さら言うまでもありませんが、『国民之友』主筆として、社説について全責任を負っていたのは徳富蘇峰です。本来、「国民之友欄」の論稿は、蘇峰自身が執筆した蓋然性がきわめて高いものです。「労働者の声」の筆者捜しは、誰よりも、まず最初に徳富蘇峰を対象として検討すべきでした。だいぶ回り道をしましたが、ようやく問題解決へ向けての本筋が見えてきたようです。
ここで時間をかけたのは、蘇峰執筆であることが明らかな同時期の文章を集め、読み込むことでした。具体的には『蘇峰文選』*7第一編所収の論稿、つまり明治19(1886)年から明治27(1894)年上半期までの文章、ついで蘇峰執筆の論稿を集めた《国民叢書》の初期作品、すなわち第1〜5冊の『進歩乎退歩乎』、『人物管見』、『青年と教育』、『静思余録』、『文学断片』所収*8の諸論稿を何回か読んで、彼の文体の特徴を探りました。
文の比較となれば、もちろん論旨も問題になりますが、今回は省きました。執筆者が誰であれ、この時期、『国民之友』の社説は、すべて主筆・徳富蘇峰が認めることなしに、掲載されることはなかった筈ですから。
他の筆者とくらべ、蘇峰の文体ですぐ気づくのは、読点=「、」が多用されていることです。読点を使って文章を短く区切り、こうした短文をいくつも重ねて、ひとつの文章を作り上げる手法です*9。一文の中で数多くの読点を使うことを意に介せず、僅か1、2文字の後にさえ読点を加えることを厭わない筆者は、当時では、蘇峰の他に見当たりません。なお『国民之友』第9巻から、蘇峰は文末に句点=「。」を使うようになりますが、それ以前では、文末もふくめ読点だけを使っていました。
この頃、『国民之友』の執筆者の間で、句読点の使用は一般的ではありませんでした。『国民之友』第6巻(明治23年1月〜6月)を例にとると、ペンネームも含め署名筆者約50人のうち、句読点を全く使わない筆者は23人、たまに読点を用いるものの、原則的には句読点を使用しない筆者が8人と、全体の6割に達しています。このように、当時の筆者が、句読点を用いなかった理由は、おそらく彼等が執筆にあたって毛筆を使っていたからでしょう。毛筆文は句読点を使わないことが普通だからです。こうした中で、文末をふくめ読点のみを用いた筆者は、蘇峰を含め11人です。森鴎外は「舞姫」では原則として句読点を使用していませんが、森林太郎名で執筆した論説「市区改正論」では、読点のみ使用しています。句点・読点を双方とも使っているのは、石橋友吉(忍月)、尾崎紅葉、幸田露伴ら、新たな文体の創造を意識していた作家ら7人に過ぎません。なお。今ではとても考えられませんが、文末だけでなく文節の区切りにも句点を使った筆者が2人います。蘇峰自身も『新日本の青年』では、この句点のみのスタイルを採用しています。
また、これは蘇峰に限ったことではありませんが、語彙や措辞に漢文訓読の影響が著しいことも彼の文体の特徴です。蘇峰の文が簡潔明快である理由のひとつは、読点で文節を短く区切り、それと同時に漢文訓読で鍛えられた豊富な語彙を、巧みに使っているからでしょう。一方、『国民之友』の読者も、程度の違いはあれ、漢文訓読に習熟した人びとだったに違いありません。
こうした蘇峰の文体の特色を具体的に理解していただくため、2点ほど引用してみます。どちらも「嗟呼国民之友生まれたり」(『国民之友』第1号)の文章です。最初は、まさに冒頭の一節、次は末尾におかれた「結び」の一部です。
嗟呼『国民之友』生まれたり、何が故に生まれたるか、現今日本の時勢、その必要を感ずればなり、必要とは何そや、吾人乞ふ試に之を説かむ、
日本国何くに在る、日本人民何くに在る、我か愛する日本は、不幸にして三百年来、絶海の孤嶋に隠遁したるを以て、国家、人民の思想に到りては、何人の脳中と雖も殆んど之を尋る所なく、其の名義こそ日本国とも、国民とも云ひたれ、其の實は荒々漠々たる無主人の空家に類し、人は文弱に流れ、民は遊惰に耽り、滔々たる天下泰平の夢に沈酔して、復た他事を顧みざるに際し、忽然として米艦天より来り〔中略〕
来れ、来れ、改革の健児、改革の健児、改革の目的は、社会の秩序を顛覆するにあらず、之を整頓するにあるなり、過去の事は過去の人をして之を做さしめよ、現在のことは現在の人をして之を做さしめよ、新奇なる舞台は新奇の役者を要し、新奇の事物は新奇の眼孔を以て之を観察するを要す、既に然り、我が『国民之友』の今日に産出する、豈に徒然ならん哉、〔後略〕
こうした文例を読むと、蘇峰の文章の特色として、もうひとつ気づかされることがあります。それは、蘇峰が、「嗟呼」といった感嘆詞や「来れ、来れ、改革の健児、改革の健児」といった呼びかけ語を重ねるなど、読者の理性に訴えるだけでなく、感情にも訴えていることです。
4. 「労働者の声」は、蘇峰執筆であろう
こうした徳富蘇峰の文体の特色を知った上で「労働者の声」を読み返すと、蘇峰が、「これは自分が筆を取つて書いたのではない」と家永三郎氏に答えた言葉は、事実に反するのではないか、と考えるようになりました。「労働者の声」の文体は、蘇峰の他の論稿の文体と、顕著な共通性・類似性が認められます。やはり「労働者の声」は、主筆・徳富蘇峰が自ら書いた論稿ではないかと考えられます。以下、こうした結論にたどり着いた論拠を、やや詳しく説明したいと思います。
(1)読点の多用
まずは、文体全体に通ずる特徴が一致していることです。すでに述べたように、蘇峰の文章は、読点=「、」を多用して文章を短く区切り、これをいくつも重ねて、ひとつの文章を作り上げる手法にあります。これは「労働者の声」の冒頭の一文を読むだけで明らかです。
政権の変遷を按ずるに、初は少数なる貴族、豪富、僧侶の手に在り、中ごろ中等民族の手に渡り、終には一般普通人民の中に分配せらる、世界各国其運動の度を異にすると雖、早晩必ず斯の如き順序を通過せざる可からざるは、歴史の示す所、事実の證する所、吾人復た爰(ママ)〔奚〕ぞ之を疑はん、
(2) 冒頭の措辞の共通性
次は、「労働者の声」の措辞が、蘇峰執筆の諸論稿の表現と共通する事例が多いことです。まずは文頭の措辞を比較してみます。最初に「労働者の声」の中からいくつかの文例を挙げ、これと共通する言葉を用いた蘇峰の文章と対比します。なお〔蘇峰の文章〕で、ページ数を記しているものは『蘇峰文選』の当該ページです。
〔労働者の声〕
1) 果して然らば今日よりして、豫しめ彼等の地位を高尚ならしめ、彼等をして國民たる義務を盡すに於て、不足なき丈けの資格を養成せしむるは、是豈に急務に非ずとせんや、
2) 然らば則ち如何にして、労役者の生活上の道を便益ならしめん乎、
3) 嗟呼今日に於て、誰か彼等の為に此便益を與ゆる者ぞ、所謂我邦に於けるセント・シモンたる人は安くに在る、嗟呼安くに在る、
4) 然りと雖以上は、たゞ富の生産上に於ける共同会社の利益にして、
5) 例せば大工の如き、別々にて之を為すよりも、其力を合せて之を為す時に於ては、其利甚だ多きは、更に呶々を俟たずして明かなり、
6) 今試に東京に在る活版屋の職工を一萬人と仮定せよ、
〔蘇峰の文章〕
1) 果して然らば世の中の事は、未だ必すしも世俗哲学者の注文する通り、器械的の作用にて行はれざるを知る可し。(インスピレーション、『静思余録』、p.76) 果たして然らば、小学校を目して一種の平民国なりと云ふ、(小学校及ひ小学教育,『青年と教育』)
果して然らば露国に雑誌の盛んなるが如きも、又言論不自由なるに因て来る所、無きに非ざるを得んや。(言論の不自由と文学の発達、『文学断片』)
2) 然らば則ち我邦現今の大勢は如何(保守的反動の大勢、『進歩乎退歩乎』)
然らば則ち今現に英国濠州に於ても労働者の已に王たる如く、英国にも亦労働者か王となるべき時来たらんと期するは、理なきに非さる也(平民主義第二着の勝利、p.169)
然らば則ち天下の多数は、失意の人にして、得意の人にあらざる歟(得意と失意、『静思余録』)
3) 嗟呼吾人が我将来の日本を論ぜんとするは、豈亦止むを得んや(将来之日本 p.1)
嗟呼国民之友生まれたり、(嗟呼国民之友生まれたり p.6)
嗟呼経済先生よ嘆息するなかれ(外交の憂は外に在らずして内に在り p.28)
嗟呼是れ豈に自由の天民にあらすや。(新日本之青年、p.41)
嗟呼是れ誰の罪そ(明治の青年と保守党、『青年と教育』)
4) 然りと雖如何に世運進歩の為なりとはいへ、弱者豈何時迄も強者の餌食となりて畢る可けんや、(平民的運動の新現象 p.100)
然りと雖弱者の権は、いかなる場合に於ても、如何なる、人民に依りても、之を践行し得べきものに非ず、(平民的運動の新現象 p.102)
然りと雖百年前の哲人をして九原より起し来たれ、(改革の偉業は、遠大を期せざるべからず、『進歩乎退歩乎』)
然りと雖此小冊子は、吾人に於ては、容易に看過すべからざる者あり(文字の教を読む、『人物管見』
5) 例せば伊曽普の譬喩の如く、或は獅子となり、或は狐となり、(インスピレーション p.81)
例せば 古へ、羅馬の如き、(田舎漢、『静思余録』)
例せば硫黄を掬して河流に投ずるが如し、(社会に於ける思想の三潮流、p.199)
例せば上州前橋の如きも、(二十余年間国力の発達、『進歩乎退歩乎』)
例せば彼の小児が掴合を為す時に、(小学校及ひ小学教育、『青年と教育』)
6) 今試に我国人民は、今日に於て、又た今日よりして、睡眠に就くと仮定せよ(外交の憂は外に在らずして内に在り、p.30)
今試みに彼等の描し来る愛を看よ、(愛の特質を説て我邦の小説家に望む、『文学断片』)
今試に その一二を挙げんに、(秋玉山の詩、『文学断片』)
(3) 文末の言葉の共通性
次は、文末で使われている言葉が、「労働者の声」と蘇峰の諸論稿と共通、あるいは類似している文を例示します。
〔労働者の声〕
1) 然らば則ち如何にして、労役者の生活上の道を便益ならしめん乎、即ち如何にして安全にその生活を得せしむ可き乎、如何にしてその老幼を養はしむ可き乎、如何にして平日には、一杯の肉汁を嘗め、疾病ある時には一匙の薬剤を服せしむるを得可き乎、
2) 其一は則ち労役者をして、同業組合トレードユニオンの制を設けしむる事是なり、同業組合とは何ぞや、大工は大工なり左官は左官なり、又た其他の職人は職人なり、同業者相団結して、以て緩急相互に救ふの業を為す事是なり、
3) 然れども如何なる場合に於ても、其雇主の為に労役者が圧制を受けねばならぬと云ふの理なきを信す、故に真逆の時に於ては斯かる非常手段も亦労役者の位置を進むる一の方便と看做すは、最も至当の考案なりと信ず、
4) 同業組合とは何ぞや、
5) 同業組合なる者ありとせよ、亦以て幾分か其望を達するの道なきに非ず
彼等は其必要を感せざるに非ず、
吾人は我邦に於て、初めより斯の如き大結合を望む者に非ず、
吾人は必ずしも、罷工同盟を奨励する者に非ず、
6) とは管子の言、吾を欺むかざるなり、
〔蘇峰の文章〕
1) 誰れか真個の敵なる乎、誰か真個の味方なる乎、(新保守党『進歩乎退歩乎』)
彼等は今日に於て何を為さんと欲する乎(国歩艱難に処する国民の自信力、『進歩乎退歩乎』)
我日本国は果たして、危急存亡の時節なる乎、又国家の自滅は遠きに在らざる乎、(偉大なる国民、『進歩乎退歩乎』)
学問とは、人を迂闊に為すもの乎、冷淡になすもの乎、無用に為すもの乎、高慢に為すもの乎、(多学の弊乎、無学の弊乎、『青年と教育』)
豈に其人なからん乎、豈其人なからん乎(社会の新原動力、『青年と教育』)
2) 曰く官尊民卑の弊風即ち是なり」(嗟呼国民之友生まれたり p.12)、
地方官の虐政是れなり〔中略〕草賊匪徒の蜂起是れなり」(支那を改革する難きに非ず pp.51-52)
何人も了解し易き、平易なる文章を作ること是れなり (中略)、読む人をして楽ましむること是なり。(基督教の文学、『文学断片』 )
何そや激成するものとは、貴族的急進派の運動是れなり(保守的反動の大勢、『進歩乎退歩乎』)
3) 之を欲するの至情に至りては、敢て天下人士の後にあらさることを信す。(将来の日本、pp.4-5)
生産社会の進歩を来すを以て、最大急務なりと信ず。(書を読む遊民、『青年と教育』)
吾人今に迨んて其の然るを信す。(維新前後兵制の社会に及はせし感化、p.210)
4) 此の始末よりして条約改正の大なる捗取りを来せりと明言したるは何そや。(中略)而して尚ほ此の如く為さゝる可らさる必要あるは何そや。(外交の憂は外に在らずして内に在り p.26)
動もすれば彼等の為に凌轢せらるゝ所以の者は何そや。(平民的運動の新現象 p.102)
然れとも尚其の故郷に恋々たりしは何そや。(故郷、p.114)
5) 却て其実際の運転は、措て問はざるが如きもの無きに非ず。(社会の新原動力、『青年と教育』)
其の旗幟鮮明なりと云ふにあらず、其の軍営精整なりと云ふにあらず、然れども亦馬嘶風粛々の趣きなきにあらず。(明治の青年と保守党 p.157)
此冊子は、肯て百世に伝えんと欲するの野心あるに非ず。(『進歩乎退歩乎』まえがき)
6) 韓非子の語、豈に我を欺かんや。(田舎漢、『静思余録』)
(4) 語彙の共通性
「労働者の声」で使われている語彙、とりわけキイワード的な語が、蘇峰の他の文章でも使われている事実も、注目されます。
1) まずは「労働者の声」での用語を挙げ、すぐ後に、蘇峰がその語を使っている文例と論稿名を示します。
労役者…… 総ての職業 ─ 僧侶も、政治家も、農工商人民も、文学者も、俳優も、労役者も ─ 皆な一切平等なるものとす(社会経済的の眼孔、p.84)
団結…… 而して我が農商工人民の今日に於て乏しきは、この団結力なり(隠密なる政治上の変遷、p.63)
罷工同盟 …… 元来罷工同盟なる者は、使役せらるゝ労役者か、使役する雇主に対する運動なり(平民的運動の新現象、p.103)
職工同盟(ツレードユニオン) …… 所謂合すれば強を成すとの訓言は、既に欧米諸国に於ける職工同盟(ツレードユニオン)に於て、実行せられたり(平民主義第二着の勝利、p.162)
中等民族 …… 夫れ中等民族とは何物そや、独立自治の平民なり(隠密なる政治上の変遷、p.61)
弱者、強者 …… 古は少数の強者、弱者を圧倒せり(平民的運動の新現象、p.99)
こうしたキイワードの共通性と同時に、一般にあまり用例の多くない語彙が、「労働者の声」と蘇峰の他の文章で共通に見られることも重要だと考えます。たとえば「やかましく言うさま、くどくどしく言うさま」を意味する呶々は、「漫に普通の理を呶々するなかれ」(明治の青年と保守党、p.151)に出て来ます。考えを巡らすという按ずる、も蘇峰愛用の語彙のひとつです。
さらに文字遣いの癖も重要なポイントです。たとえば「我国」という別表記もあるのに、蘇峰はもっぱら「我邦」を使っています。また、「ああ」という感動詞の表記には、「嗟呼」だけを用い、「嗚呼」や「噫」「嗟乎」「於乎」などは、ほとんど使っていません。
もうひとつ、「労働者の声」に、「我邦に於けるセント・シモンたる人は安くに在る」という表現があります。これとほとんど同じ言い回しが。「国歩艱難に処する国民の自信力」(『進歩乎退歩乎』)で、「顧みて我邦を見よ、クリスピー安くに在る」として出てきます。以上のような、蘇峰特有の用字や言い回しが「労働者の声」で使われている事実は、同稿が蘇峰執筆であることを裏付ける有力な証拠と考えられます。
ところで、なぜ徳富蘇峰は、家永三郎氏に「これは自分が筆を取つて書いたのではない」などと答えたのでしょうか。意図的に偽りの証言をしたとは、とうてい考えられません。やはり、89歳の老人にとって62年も昔のことを思い出すのは容易ではなかったと考える他ないでしょう。蘇峰は,十代半ばから筆をとり,70年余の間,文字通り数え切れないほどの文章を綴ってきました。
作家の国木田独歩は、一時期、民友社の社員・『国民新聞』記者として蘇峰の傍らにおり、彼を良く知る立場にありましたが、その独歩が「民友記者徳富猪一郎氏」と題する論稿で次のように述べています。蘇峰が、政論、史論、文学評、随想など、さまざまな分野に関する夥しい数の文を書いた秘密を説き明かすものです。
蓋し氏は知りて言ハず、感じて論ぜざるを以て、一つの罪悪と看做すの説を抱く人なり。而て之を『実行』せる人也
また徳富蘇峰の研究者である植手通有氏は、蘇峰のことを「何事にたいしても広く関心をもち、かつそれをすばやく理解し、わかり易く表現する能力に恵まれていた」と評価し、彼が生涯に出した著書の数は「恐らく三百冊を超える」と述べています(《明治文学全集 34》『徳富蘇峰集』「解題」、筑摩書房、1974年刊、)。蘇峰は、雑誌記者であり新聞記者でしたから、無署名記事や評論も数多く、著書に採録されなかった論稿も、膨大な数にのぼります。
蘇峰自身は、『蘇峰文選』「序文」の冒頭で、「予の文章は、其時、其場合限りの目的を以て、概ね出て来るもの也。故に旧稿を複読するは、予に於ては最も苦痛の義務也」と述べています。おそらく、「労働者の声」も、蘇峰にとっては「その場限りの目的」で書かれたものであり、彼にとっては、それほど重要な意義を有する論稿ではなかったのでしょう。『国民叢書』に収録されなかったことも、そうした評価の現れだと思われます。家永氏に乞われて「労働者の声」の劈頭の部分を熟視した蘇峰が、「これは自分が筆を取つて書いたのではない」と即答したのも、いくらかは、こうした気持ちが反映していたのかもしれません。
結 び
以上で、「〈労働者の声〉の筆者は誰か」に関する検討を終えます。最初に述べたように、活字で発表された無署名論文ですから、筆者の確定は容易ではありません。以上は、あくまでも、「労働者の声」の文体や、文中で用いられた語彙、用字などをもとに、推論によって得た結論です。 とはいえ、これまで誰ひとり検証してこなかった家永三郎氏による「蘇峰証言」について、そこで名を挙げられた3人それぞれの論稿や関連資料を仔細に検討し、「労働者の声」の原文とを比較して得た結果です。名前があがった竹越三叉、山路愛山、徳富蘇峰の3人のなかでは、蘇峰執筆の蓋然性が飛び抜けて高いことだけは明らかにし得たと考えます。
なお、竹越三叉と山路愛山執筆の蓋然性が低いことについては、すでに「大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1)および、「大田英昭氏に答える ─ 〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(2)で論じています。そちらも、ご参照いただければ幸いです。
【注】
*1 無署名論文「労働者の声」、『国民之友』第95号(1890(明治23)年9月刊)。なお「労働者の声」の全文はjpeg画像で、「高野房太郎とその時代」(38)の末尾に掲載している。ただ画像では、やや鮮明を欠く箇所があるので翻刻、htmlファイル化し、〔高野房太郎とその時代 参考文献 「労働者の声」〕として本著作集に収めている。
*2 酒井雄三郎が農商務省総務局博覧会課の判任官として「属四等」に任官されたのは、博覧会が開かれる2年前の1887(明治20)年6月で、『改正官員録甲明治二十年六月』に、その名が初めて記載されています。またその名が最期に記されているのは『改正官員録明治二十三年甲四月』までです。同年5月の官員録から彼の名は消え、同年7月には、博覧会課そのものがなくなり、博覧会課に所属した官吏は、すべて総務局第四課に移動しています。(以上、国会図書館デジタルコレクションに拠る)
*3 佐々木敏二「酒井雄三郎の生涯と思想 ─ 西園寺公望との関係を問題にしながら」(『立命館大学人文科学研究所紀要』第27号、1979年3月)。
*4 高野静子『蘇峰とその時代 ─ 寄せられた書簡から』(中央公論社、1988年)「十五 酒井雄三郎」pp.225-263。
*5 酒田正敏・坂野潤治 他編『徳富蘇峰関係文書』(山川出版社、1987年)pp.314-335。
*6 徳富蘇峰記念塩崎財団編『徳富蘇峰記念館所蔵 民友社関係資料集』(三一書房、1985年)pp.74-107、和田守・有山輝雄編『徳富蘇峰関係資料集』(三一書房、1985年)
*7 草野茂松・並木仙太郎編『蘇峰文選』(民友社、1915年)
*8並木仙太郎編『明治二十年創立 民友社三十年史』に収録されている「民友社創立三十年」(蘇峰学人述)に、以下のよう記述があり、『国民叢書』はすべて、蘇峰論集であることを確認しうる。
「『国民叢書』は主として、記者〔蘇峰〕の著作を出版するものにて、その第一冊は、明治二十四年六月『進歩乎退歩乎』と題して発行し、その三十七冊は、大正二年八月『第十二日曜講壇』として発行している。」
なお、『国民叢書』の多くは国会図書館のデジタルコレクションで読むことが出来る。
*9この文体は、おそらく、蘇峰が親炙していた福地桜痴の論説に学んだものと推測さる。日本近代思想体系16『文体』(岩波書店、1989年)に収められている福地桜痴の「文論」も、読点の多い文章である。
蘇峰が一時期、福地桜痴に傾倒していたことはよく知られている。なお『蘇峰自伝』の「同志社在学中の記憶(二)」の冒頭に、以下のような記述があるが、「文論」はまさに『東京日日新聞』明治八年八月二十九日に掲載されていた。
「余は毎日の新聞を耽読するばかりでなく、是非古き新聞を読んでみたいという志を起し、当時京都に博物館と称する図書館類似のものがあり、その楼上には古き新聞が積んであったから、余は一人自らここに赴き、明治八年頃の『東京日日新聞』等を引張り出し、その中から面白き論説等を見出せば、これを写し取り、それが薄葉紙の小冊子に幾冊か出来ていた。
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