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高野房太郎とその時代 (19)




3. 社会人一年生──横浜時代(5)

伊藤痴遊とその仲間たち

伊藤痴遊著『衆議院議員の解剖』明治25年刊行

 富田源太郎とならんで、横浜時代の房太郎が親しくつきあった仲間のひとりに、後年の伊藤痴遊(いとう・ちゆう)、当時の名では井上仁太郎(いのうえ・にたろう)がいました。伊藤痴遊は、今となっては高野房太郎より無名ですが、戦前は日本人なら誰でも知っている〈有名人〉でした。東京府議、浅草区議、東京市議、さらには普選第1回総選挙などで衆議院議員にも2回当選しています。しかし伊藤痴遊の名を有名にしたのは政治家としてではなく、芸能界で「政治講談」という新分野を開拓した〈講釈師〉としてでした。西郷南州伝をはじめ大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など幕末維新の「偉人伝」、乃木希典・星亨・原敬など明治大正期の政財界の大物を素材にした「同時代史的人物論」、「自由党秘録」「明治暗殺史」「政界表裏快談逸話」などの内幕物を語って人気を博しました。講釈場で有名だっただけでなく、彼が語った講談の速記本があいついで出版され、なかでも平凡社から刊行された『伊藤痴遊全集』は正続あわせて30巻にも達しています*1。また初期のラジオ放送でも〈人気タレント〉のひとりで、東京のJOAKだけでなく、JOBK大阪放送局でも放送しています。房太郎の横浜時代の友人のなかでは経済的にも恵まれ名声も得た、俗に言う〈出世頭〉でした。

JOAKでの伊藤痴遊

 井上仁太郎は、横浜区弁天通4丁目64番地の薬屋の出雲屋・井上八之助の長男として慶応3年2月15日(1867年3月20日)に生まれました。つまり房太郎より2歳年上です。富田源太郎と横浜小学校の同窓で、1880(明治13)年に卒業しています。富田同様きわめて早熟でしたが、その志向は大きく違い、根っからの〈政治少年〉でした。折から日本各地で燃え上がった自由民権運動の熱気にとらえられ、小学校を卒業した翌年の明治14年に15歳で自由党に入党したといいますから、当時としてもませた子供でした。自由党の実力者・星亨に師事し、いっぱしの「壮士」となって各地を演説してまわります。1884(明治17)年10月加波山事件の嫌疑で警視庁に拘引されたのを皮切りに、1885(明治18)年4月、名古屋で集会条例違反の罪で軽禁固4ヵ月の刑、その後も静岡国事犯事件、秘密出版事件、選挙法違反などでしばしば拘禁・投獄されています*2
 井上仁太郎が星亨の子分として活動し始めた頃、後に彼の本業となる「政治講談」「自由講談」が誕生しました。政府の言論抑圧政策で、政談演説を禁止された自由党の壮士たちが、芸人の鑑札を受けて寄席でフランス革命などの「海外種」や同時代の政治問題を、講談仕立てにして演じたのです。幼くして演説で聴衆をわかせる喜びを知り、熱心に稽古をつんでいた仁太郎はこの分野で頭角をあらわし、講釈師と政治家の二枚看板を掲げることとなります。

 房太郎が井上仁太郎と知り合ったのは、富田源太郎を介してでした。井上仁太郎、富田源太郎、乗田弥吉らが自主的につくっていた会合に、房太郎も参加したのです。後年、仁太郎は自らの名を冠した『痴遊雑誌』を出しますが、そのなかで「亡友の思ひ出」を連載し、うち2回をさいて横浜時代の友人たちを回想しています*4。若き日の房太郎と親しかった人物が、彼とその友人たちについて語った唯一の記録ですから、やや詳しく紹介しておきましょう。と言っても抜粋です。原文は旧かな旧漢字ですが、ここは読みやすさを優先させ、新かな当用漢字に直しておきます。また伊藤痴遊の文章は、段落と読点が多いのが特長ですが、それも一部は省略することにします。

「           一
 横浜は僕の育った所であるから、いろいろの思い出もあり、亡友だけを数えても少なからず在る。その割合に、生存者は甚だ少ないのが不思議だ。
 亡友のすべてを語ることにすれば、此位の雑誌を三冊や五冊埋め尽くす事になろうから、此場合には最も親しくして居た者に限り、数名の亡友を偲ぶ事にしやう。

 乗田弥吉は本名を大和田というて、乗田というのは養家先の姓である。元来が滋賀県人であって、父は彦根藩士であった。明治十五年の頃、彼は英三番の商館に勤めていた。少しばかり英語が出来るので、英人に雇われて居たのであるが、勤務が自由で、時間だけを勤めれば自己の欲する事は、何をやっても主人から小言の出るおそれがないので、早く自由党に入り、政党運動をはじめて、演説会などにも関係していた。
 僕が父と意見の衝突があり、母の死後三十五日の夜に家出をして京都へ行った。それは明治十五年の秋であるが、十六歳の時であった。〔中略〕家出したにはいろいろ事情がある。しかしそれは言わぬ事にしよう。とにかく相手が親の事であるから、詫び言を言うて家に落ち着いた。
 家に居れば、午前の仕事は医者まわりであった。薬品の注文を聞いてきて、午後には注文された薬品を配達することになっている。その頃はもう自由党に関係して、商業演説くらいはやっていたので、いつか乗田とも親しくなった。
 彼は身長六尺に近く、十三文の足袋をはくほどに大きい男であった。座談がうまくて、僕の父も彼には心を許していた。そういう訳であるから、乗田が誘いに来て外出するときには父も見ぬ振りをしていた。長島修吉という医者がいて、毎朝はやく理化学の講義を聞きに行き、夜は上田貢太郎と三宮篤胤が共同して開いている英語の私塾へ通うことになった。その余暇には演説の稽古を始めた。これは乗田の発意で、付近の空き家を利用したのである。
 僕の家は弁天通四丁目であるが、隣は鼈甲屋であった。そこの倅が海老沢勝太郎というて、歳は二つほど上であった。この男も下手の横好きで演説熱心の青年であった。
 そのうち神奈川の鈴木金助と往来するようになり、乗田と一緒で神奈川へも遠征するようになった。こうなると乗田に対する父の気受けが悪くなって来た。僕に対してもなかなかやかましい事を言うて、外出を許さなくなった。

           二
 横浜小学校の同窓生に富田源太郎がいた。僕の父は小商人に学問は無駄であるといって、小学校を出てからは上級の学校へ入ることを許してくれなかった。富田は商業学校へ入って大いに学んだ。校長の藤沢進〔正しくは美沢進──痴遊自身も間違いに気づき、次号で訂正している〕という人がひどく可愛がって、富田は実に幸福であった。彼の伯父は富田砂筵というて、商館番頭であり、初めは東京の浅草にいて、橋場に家があった。商館へ入るようになってから、横浜へ移ってきた。〔中略〕
 乗田、富田、海老沢、僕の四人が、一と組になって演説の稽古を始める。父はカンカンになって怒り出した。
 軒並びの三軒目が丸善書店であった。学校へ行くことを許されぬ僕としては、読書欲が盛んで、何としても堪え切れぬ。支配人の松下金次郎君に打明け話をして、崩し払いの約束が成立したから、難解の書物を買い入れては、辞書と首っ引きで、夜になってから耽読したものである。僕の外出中、父は机辺の掃除をして、沢山の書物を発見した。丸善からの代金請求書も同時に見つけだされた。之がために、書物の買い入れは道を塞がれてしまった。
 乗田は英三番館を出て、増島六一郎の事務所を担当することになり、同時に時事新報の通信を引き受けた。同時に、富田は勉学の都合から相生町五丁目の製本屋へ下宿することになり、二階の一室を占領した。僕と乗田は、その室へ集まって、三人が一つになって討論もすれば演説の練習もやる。追い追いに同志の青年が集まってきて、一種の梁山泊となった。僕は家を飛び出して、同宿することになった。乗田も居留地の方は事務所として、此室へ移って来た。

          三
 乗田と僕は政治と政党について専ら研究することになり、富田は経済と英語の研修に余念がなかった。
 この時にもう一人、有為の青年が仲間へ入ってきた。それが高野房太郎である。境町の高野屋という回漕兼旅館の倅であった。これはまた飛び離れたことを研究していた。その時代には労働問題なぞということは未だ考えているものがなく、そうした方面の研究は学者としても専門に教えるものがなかった。僕らも高野は変な奴だ位に考えていたが、十年の後にはその先見に敬服したのである。
 高野は、読売新聞へ投書して頻りに労働問題を論じ始めた。恐らく彼はこの問題の先駆者というてよかろう。片山潜らは高野に学ぶところが多く、その外にも多くの同志を得るにいたり、高野は一躍して労働問題の大先輩になってしまった。今の高野岩三郎博士は彼の実弟である。惜しいかな彼は早世してしまったが、令弟がその後をついで斯道の大家になっているから、地下に瞑する事が出来よう。〔中略〕
 僕等は研磨会なるものを興して、知識の開発に努めた。天野為之、高田早苗、山田喜之助、木村清四郎等の先輩に出講を請うて、その説を聴いた。別に討論会を開き、課題を設けて論争した。あるいは内地雑居の可否とか、あるいは自由貿易と保護貿易の是非とかいうような問題を討議したのであるから、どうしても予備知識をもつ必要上先哲の書物を読む必要があり、正則の学科は踏まずとも、之によって得た我々の知識は相当に深いものがあった。」(氏名の強調は引用者)

 この「亡友の思ひ出」は、1935(昭和10)年、69歳の痴遊が半世紀の昔を回顧した文章ですから、細部の正確さについては疑問があります。たとえば、房太郎が「境町の高野屋という回漕兼旅館のであった」との記述には明らかな間違いが含まれています。正しくは「境町の糸屋という回漕兼旅館のであった」です。また、房太郎がこの当時から労働問題に関心を抱いていたかのように述べている点も記憶違いだと思います。房太郎が「読売新聞へ投書して頻りに労働問題を論じ始めた」のは、これからさらに5年ほど先の渡米後のことです*5
 しかしこの回想で重要な点は、房太郎が富田、井上、乗田らとともに横浜の若者たちを集めて「研磨会」を組織し、その中心メンバーの一人となっていたことを証言しているところです。しかも研磨会には、井上仁太郎や乗田弥吉のような自由党で積極的に活動していた若者たちが参加していた事実も注目されます。房太郎自身が自由党に加わった形跡はありませんが、こうした人びとと密接なつながりがあったことは、その後の彼の生涯を理解する上でも重要なポイントとなるでしょう。

 もうひとつ、富田源太郎・井上仁太郎・高野房太郎の「三太郎」に共通しているのは、その知識欲の旺盛さです。井上仁太郎は小学校だけで上級学校へ行くことを親から差し止められていたのに、内緒で丸善で洋書を買い、辞書と首っ引きで勉強しているのです。房太郎も丁稚小僧同様に働かざるをえない日々を送りながら、夜学校に通い、英会話の勉強や経済学の学習に励んでいました。
 彼らはみな一般社会のあり方に満足せず、これに批判的な態度をとっていた点で、また自らが学んだところを自分だけのものにせず、その知識を多くの人に伝えて教え導こうとした点でも共通しています。明治初年という文明開化の時代に、海外の文物に直接ふれる機会が多かった横浜で育ったことが、このような共通性をもたらしたのではないかと思われます。横浜の若者についてはまたふれますので、今回はここまで。



【注】

*1 『伊藤痴遊全集』正編は1929年3月から30年9月にかけて18巻が、続編12巻が1930年10月から31年10月にかけて平凡社から出版されている。いずれも700ページ前後の大冊である。この全集のほかにも『実録明治維新十傑』3巻が同じく平凡社から刊行されている。彼の著書は平凡社版以前にすでに30冊余を出していたから、生涯では優に60冊を超えている。そのほか、政論雑誌『横浜』(1891年、攪迷社出版部)、『痴遊雑誌』(1935〜38年)なども編集刊行している。『横浜』を出した攪迷社は革命のもじりであろう。

*2 「伊藤仁太郎年譜」(『痴遊雑誌』4巻11号、1938年11月)参照。なお、『痴遊雑誌』には「獄中生活」と題する回想記が連載されている。

*3  伊藤痴遊「獄中生活〔一二〕」『痴遊雑誌』2巻6号(1936年6月)参照。

*4 「亡友の思ひ出〔四〕」『痴遊雑誌』1巻7号(1935年10月)および「亡友の思ひ出〔五〕」『痴遊雑誌』1巻8号(1935年12月)。なお、上の引用は〔四〕からである。なお痴遊は、この回想記を残した3年後の1938(昭和13)年9月25日に死去している。享年72歳。

*5 高野房太郎「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」が『読売新聞』の「米国通信」欄に掲載されたのは、1890(明治23)年5月31日〜6月27日のこと、前書きに「ワシントン州タコマにて」「四月三十日発」と記されている。房太郎が日本にいたのは1886(明治19)年12月までである。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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