高野房太郎とその時代 (22)3. 社会人一年生──横浜時代(8)伯父・弥三郎の死
キワの結婚は、彼女だけでなく高野家の人びとの日常にも大きな変化をもたらしました。なにより家業の旅館・長崎屋は、中心的な働き手でしかも評判の看板娘を失ったことで大打撃を受けました。そうでなくてもこの頃、長崎屋は不景気の影響で年々泊まり客が減り続けていたのです*1。それもあってのことでしょう、キワが嫁いでわずか3ヵ月後の1886(明治19)年1月、マスは長崎屋の廃業を決意し、翌2月6日付でこれを役所に届け出ています。浪花町の家屋と土蔵は570円でひとに譲りました*2。
ところが、なんと長崎屋の廃業から3ヵ月もたたない4月22日、晴天の霹靂ともいうべき事態がおきました。房太郎一家が杖とも柱とも頼んできた弥三郎が急死してしまったのです*5。確かなことは分かりませんが、死因はコレラだった可能性があります。この年の春から夏にかけて横浜ではコレラが流行し、講学会も一時会合をとりやめていたほどでした*6。海外からの客や帰国者も泊まる回漕業兼旅館業は、コレラ感染の危険性が高い職場でした。
その頼みの伯父がいなくなったことで、糸屋におけるマスや房太郎の立場は微妙なものとなりました。糸屋には仙太郎という跡取りがおり、その母もいました。仙太郎の年齢は分かっていませんが、弥三郎の歳から考えると房太郎よりは年上だったでしょう。どのようなやりとりがあったのか分かりませんが、マスはふたたび東京に戻り、岩三郎といっしょに生活を始めました。大きな家を借り、学生下宿を始めたものと推測されます。旅人宿時代から長崎屋は学生を泊めていましたが、こんどは学生下宿専業になったのです*7。
問題は渡航費用でした。船賃は最低の3等でも50ドルしました。1886年6月現在の為替レートは40ドルが50円前後でしたから、50ドルは日本円で62〜63円ということになります。それに「洋行」ともなれば、船賃だけでは済まず、旅支度、渡米後の当座の生活費など、かなりまとまった金が必要でした。その頃アメリカへ渡航するのに、いったいどのくらい費用がかかったのでしょうか? この問いに答えてくれる最適な本があります。房太郎が出発した時、つまり明治19年12月に刊行された『来たれ日本人──別名桑港旅案内』*8です。この本は、明治版『地球の歩き方』サンフランシスコ編ともいうべきもので、旅行に必要な品々についても具体的に列記し、その価格まで記しています。そこには洋服2着、靴1足、シャツとズボン下各3枚、帽子、カラーとカフ、ハンカチーフ各1ダース、筆記用具、カバン、毛布大判1枚などなどが挙げられており、総額84円03銭と細かい数字を記しています。このほか当然のことながら辞書は必携、さらに到着後の小遣いとして30〜40ドルは必要であると指摘し、どんなに切りつめても「渡航費用」総額は150円になると結論しています。おそらく房太郎も渡航費用として200円前後は準備したものと思われます。もちろん房太郎自身も渡米に備えて貯金はしていたでしょう。しかし住み込み店員の給料で渡米旅費をまかなうにたりる蓄えなど出来る筈もありません。おそらく多くて数十円前後、残りは浪花町の家を処分した代金570円のなかから出してもらったものに違いありません。 それからしばらくたった同年11月25日、房太郎は旅券を取得しました。冒頭にその写真を掲げましたが、その右半分には日本語で次のように記されています。左半分は右側と同じ趣旨のことが中国語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語の各国語で記されているだけです。*9
第三一〇二号 この旅券に記されているように、彼の渡米の目的は「商業研究のため」でした。研究といっても、学校で会計学や簿記等の勉強を意図していたわけではありません。その後の房太郎の行動から考えると、日本の物産をアメリカで販売するための「市場調査」的なことを考えていたようです。それと同時に、英語を身につけることも彼の大きな目標でした。 この頃アメリカを目指した若者の目的はさまざまでしたが、あえて分ければ2つのタイプがありました。ひとつは勉学を目的とするもので、ひたすら高等教育を受けることを目指す留学生です。一般的に言ってこれは経済的に余裕がある者でなければ困難な道でした。ただしアメリカはヨーロッパと違って、貧しい若者でも才能があり貧苦に耐えて努力すれば高等教育を受けるチャンスが皆無ではありませんでした。片山潜や星一のように、苦学して大学を終えた者もいたのです。*10もうひとつのタイプは文字どおりの〈外国人労働者〉で、短期間に効率よく金を稼ぐことを目標にアメリカへ出稼ぎに行った人びとです。
房太郎の場合はそのどちらでもありませんでした。生活の実態からみれば〈外国人労働者〉的な生活を送ったといえますが、同時に英語や経済学の学習にも力を入れています。大学をめざしての学校教育には目もくれませんでしたが、使える英語を習得するために個人教授を受けたり、サンフランシスコ商業学校の別科に学んだりしています。
同時に見逃せないのは、同攻会横浜支会の講演会で聴いた高田早苗の「洋行論」の影響です。高田の主張のポイントは「洋行を企つる者は、すべからく観察を主とすべし、研磨を主とすべし、講学を主とすべからず」というものでした。「講学」というのは聞き慣れない言葉ですが、正規の学校教育を指しています。つまり、欧米の学校は神学やラテン語など「吾人東洋未開の民、実益実利に汲々とする者にとっては、左まで効能なきもの」が必修となっている。そうした学問に時間と金を費やすのはムダで、それより「先輩の講義と自家の独習によりて以て学問を研ぐべし」と説いているのです。高田はまた「学位の如きは、之を得ざるももとより可なり」と主張しています。この主張は高田早苗の「見識」を示したものというべきですが、世俗的な出世という点で考えると、このアドバイスは裏目に出た面がなくはありません。 出航を2日後にひかえた1886(明治19)年11月30日、友人たち数十人が野毛山の〈西洋亭〉に集まり、房太郎の渡米を祝い励ます送別会を開いてくれました。この席には同攻会横浜支会の会員だけでなく、振商会の富田源太郎も出席して挨拶しています*11。 【注】*1 明治15年の宿泊客数は延べ2623人であったが、明治17年には1173人、明治18年は1051人となっている(『要用簿』)。また「明治十八年十二月御備誂控」はつぎのように記している。「〔前略〕本年モ昨年ニ続イテノ不景気 昨年ハ〔お供え餅は〕三斗ナレ共亦々倹約サシ二斗五升ツクコト」(『要用簿』) *2 『要用簿』に明治19年1月20日付けの「建物売渡証」の控えがある。これによれば日本橋浪花町8番地・9番地所在の家屋1棟、土蔵1棟総体を570円で清水たきに売り渡している。土地は借地であった。 *3 「送籍御届」(『要用簿』)。 *4 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(『明日』)。 *5 『東京横浜毎日新聞』4月24日、同25日の四面に、以下のような会葬御礼の6行広告が出ている。 亡父彌三郎葬送ノ節御会葬被下難有奉存候 なお、死去した日が4月22日であることは、井山憲太郎の書簡下書きに「本月廿二日叔父も死去」とあることによる。高野家の過去帳には高善院泰安慈性居士行年四九歳とある〔大島清氏宛、原田美代氏書簡〕。 *6 『中央学術雑誌』第38号(明治19年10月10日)につぎのような記事がある。 「 横浜支会 *7 マスがおそらく学生下宿で生計をたてていたであろうことは、過去の経歴と、その後の住所が東京大学や一高に近い本郷区東片町、あるいは本郷区駒込千駄木林町などであったこと、さらに大内兵衞の回想「社会政策学会と高野先生」(鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』27ページ)のつぎの一節から推測したものである。 「T君は、私より一年前の卒業生で、私は顔見知りではありましたが友人ではありませんでした。T君は長崎市の相当の商家の出身でありました関係からでしょうか、高野先生の家に寄寓しておるということでありました。高野先生のご両親は長崎出身であって、特にお母様が、たいへんな女丈夫で学生の世話をお好きであったからと存じます。」 *8 米国桑港寓周遊散人原著・東京石田隈治郎編輯『来たれ日本人──別名桑港旅案内』(東京開新堂、明治19年12月刊)。船賃は41ページ、為替レートは56〜57ページ。なお、ここでは『日系移民資料集』北米編、第5巻〈渡米案内〉(1)(日本図書センター、1991年12月刊)によった。 *9 旅券は本来返還しなければならないものであったが、房太郎は紛失届を出して、これを手元にとどめていた。その現物は、高野岩三郎が大事に保管していたが、現在は法政大学大原社会問題研究所が所蔵している。 *10 片山潜については数多くの研究が自伝も各種出ているが、さしあたり隅谷三喜男『片山潜』(東京大学出版会、1960年)を参照されたい。また星一については大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』(1949年、共和書房刊、同復刻版1997年、大空社刊)、または星新一『明治・父・アメリカ』(1984年、筑摩書房刊)参照。 *11 『中央学術雑誌』第42号(明治19年12月10日)は「洋行」と題する記事で房太郎をふくむ3人の会員のアメリカ行きを次のように報じている。 本会々員にして嘗て本紙にも尽力せられたる東京専門学校政治部及英学部得業生園田猛熊氏は今度研学の為め北米合衆国に洋行せらるる由にて、同氏同窓の知友は近々氏の為に送別会を開く由なり。 |