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高野房太郎とその時代 (21)




3. 社会人一年生──横浜時代(7)

姉の結婚

井山きわ、満40歳

 房太郎が、横浜で同世代の若者たちと充実した日々を送っている間にも、高野家の人びとの身の上にはさまざまな変化がおきています。1882(明治15)年から85(明治18)年にかけての主なことがらを、年月を追って見て行きましょう。

 師走も押し詰まった1882(明治15)年12月29日、高野亀右衛門が死去しました*1。高野家の長兄、この亀右衛門こそ、房太郎一家の命運を変えた人物と言ってよいでしょう。亀右衛門が、長崎を捨て横浜へ出る決断をしなければ、仙吉の上京もありえず、そうなれば房太郎の渡米や岩三郎の大学進学もありえなかったかもしれないのです。まだ働き盛りの55歳でした。もっとも30代で世を去った仙吉、40代で亡くなった弥三郎に比べれば、まだしも長生きでしたが。戒名は新師院高山巌義雄居士。「巌義雄」と並んだ三文字が、亀右衛門の人柄、その厳しさを想像させます。
 亀右衛門が経営していた旅館・高野屋は、いったんは妻シゲの名に移され、間もなく息子の伝次郎が引き継いでいます。伝次郎はその後父の名も継承し、高野亀右衛門を名乗りました。この二代目亀右衛門は父に勝るとも劣らないやり手でした。高野屋を弁天町から横浜一番の町・本町へと移転させ、毎年高額納税者番付に名をつらね、横浜の旅館のなかではトップの業績をあげています*2。ただ、この二代目亀右衛門と房太郎・岩三郎兄弟とは、従兄弟同士ながらあまり親密ではなかったようです。岩三郎の回想に弥三郎の名は出てきますが、亀右衛門の存在はまったく無視されています。また、房太郎がアメリカから帰国した後につくった住所録には、弥三郎の息子仙太郎の名や長崎の親戚の名はありますが、高野亀右衛門の名はみあたりません。この住所録がつくられた明治30年の年頭には、房太郎は横浜に住んでいましたし、その後東京へ移ってからも横浜へはたびたび行っています。亀右衛門の高野屋は横浜でもトップレベルの旅館だったのですから、房太郎がその存在を知らないはずはなく、行き来があって当然だったと思うのですが。

 明治14年、岩三郎は兄と同じ江東学校高等科に進み、日本橋浪花町から大川を渡って回向院まで通学していました。高等小学生ともなるといっぱし大人の気分で、自由民権の政談演説会の会場にもぐりこんだり、母にねだって龍渓矢野文雄の『経国美談』を手に入れて読みふけっています。明治17年4月、彼は江東学校を卒業し、同年5月から慶應義塾幼稚舎で学びはじめます。英語を学ぶには慶應義塾が良いと考えたのでしょう。そこには、母ますの希望とともに、兄房太郎の意向が働いているように思われます。しかし、なぜか慶応は1年足らずでやめてしまい、神田淡路町の共立学校へ転校しています。おそらく日本橋から三田まで毎日通うのはたいへんだったからでしょう。ただ、岩三郎は、福沢諭吉が馬に乗って塾に通ってくる姿を見てその庶民的とはいえない姿に「嫌な気がした」と大内兵衞に語っていたそうです*3。あるいは、そんなことも多少は影響して転校したのかもしれません。
 共立学校は高橋是清が創立した大学予備校的な学校で、開成中学の前身です。明治18年7月の共立学校における岩三郎の成績表が『高野岩三郎伝』に紹介されていますが、なかなか好成績です。「訳読万国史九五、同読本八五、読方七八、書取九五、平均八八点で、予科乙組の第二位」でした。
 また、慶應義塾と共立学校の両校で岩三郎が学んだ英語科目について、つぎのように記されています。  

「 ウエブストル『綴字書』、ウィルソン『第一、第二、第三読本』、バーレー『万国史』、モーレー『地理書』、グードリッチ『米国史』、スイントン『小文法書』、ピネオ『小文法書』、ユニオン『第三読本』 」

 昼間の仕事をもち、商法学校の夜学や友人たちとの勉強会など不規則なかたちで勉学にいそしんでいた房太郎にくらべ、弟・岩三郎ははるかに恵まれた学習環境のもとで、充実した教育を受けていたわけです。

 1885(明治18)年は、高野家にとってことのほか多事多端な年でした。1月には父方の祖母カネが逝去しています。カネの生年など正確なことは分かっていませんが、息子の亀右衛門が文政11(1828)年生まれであることから推すと、1810(文化7)年前後の生まれ、享年75歳前後だったと思われます。
  祖母が亡くなった翌月の2月に、岩三郎は陸軍幼年学校に願書を出しています。自由民権運動の演説会にもぐりこんだり、『経国美談』に心を奪われたその少年が、同時に軍人を志望するあたりに、明治初年に生きた少年のゆれる心をみることができるように思います。ただ、この陸軍幼年学校への入学志望は、身長が規定に達せず不合格となりました。房太郎・岩三郎兄弟は、ともに150センチそこそこ、全体に今よりかなり体格の劣る当時の日本人のなかでも、かなり小柄な方だったといえましょう。

 明治18年中における高野家最大の出来事は、秋10月に姉のキワが井山憲太郎と結ばれ、九州は肥前唐津に嫁いだことでした*4。キワは慶応2年7月18日生まれですから、当時18歳でした。残念ながら彼女のその頃の写真は1枚も残っていませんが、評判の小町娘でした。冒頭の写真は彼女がちょうど40歳の時のものですが、その面影は十分のこっています。
井山憲太郎
 キワの夫となった井山憲太郎は、肥前国東松浦郡玉島村大字平原232番地(現在の佐賀県東松浦郡浜玉町平原甲1547)で、代々医師を業とするかたわら農業を営む井山家の長男として生まれました。郷里で漢学を習った後、明治8年4月から翌年10月まで佐賀医学所で独逸語を、ついで長崎医学場で1年間、理学と解剖学を学んでいます。明治10年11月上京し、1年間東京外国語学校でドイツ語の講義を受け、翌明治11年12月から15年7月までの3年半を東京大学医学部の予科課程で勉学に励みました。この医学部時代に彼は長崎屋に下宿し、そこでキワと知り合ったのです。ところが明治15年、憲太郎は重症の気管支炎に罹り、やむなく同年8月勉学を中途で断念し、帰郷して療養に専念しました。
 郷里のきれいな空気と温暖な気候のおかげもあって、病は間もなく快方に向かいました。彼は父・文陽の代診のかたわら農業に従事する日々を送っていましたが、そこへさる旧家の娘との縁談がもちあがったといいます。しかしすでに心に決めた人のあった憲太郎はこの縁談を断わり、周囲の反対を押し切って東京からキワを迎えたのでした。
 一方キワの側でも憲太郎を思っていたに違いないと推測されます。かつて住んだことのある長崎にほど近い唐津とは言いながら、家族と遠く離れた九州の農村にたったひとりで嫁いで行くのですから。「都会生まれ、都会育ちではとてもここの嫁はつとまらない」というのが周囲の人びとの反対理由だったようです。しかし新妻のキワは、自ら農具を手に作男・作女を監督して農耕に従事し、外で活躍する夫を支えました。母ゆずりの勝ち気な性格で、村人は「とても東京から嫁に来た人とは思えない」と噂したといいます。

井山翁紀功碑

 憲太郎は安政6年6月18日の生まれですから、房太郎より約10歳の年長、結婚当時満26歳でした。小学校教員として子供たちの教育にあたると同時に、医療にも従事し、さらに玉島村の村会議員や農会長、東松浦郡園芸会長などとしても地域の発展につくしています。とりわけ蜜柑の栽培と普及に大きな功績をあげました。もともと唐津は古くから蜜柑の産地でしたが、憲太郎は〈平原柑橘栽培改良会〉を設立して品種改良に力をいれ「玉島蜜柑」の名を高めました。その実績は高く評価され、大日本農会や佐賀県などから表彰され、地元民は記念碑を建立してその功績をたたえました*5

 この井山憲太郎が書き残した日記や手紙の下書きなどの文書がいくつか残っています*6。達筆で読みこなすのに一苦労しますが、そこから浮かび上がってくる憲太郎像は、義弟たちのことを親身になって配慮する長兄といった印象です。とりわけ、伯父弥三郎が亡くなった後は、ほとんど房太郎・岩三郎兄弟の男親代わりの立場にたち、高野一家全員から頼られる存在となったようです。
 ただ、長崎、東京神田・日本橋、横浜と文明開化の最先端をゆく都会だけで過ごした房太郎と、農村の旧家の長男として質実に育てられた憲太郎との間には、その生活感覚にかなりの違いがありました。房太郎は井山夫妻を頼りとする一方で、常に、彼らの眼差しのうちに、自分の生き方に対する批判を感ぜずにはおられませんでした。憲太郎の側でも、帝国大学に進んだ岩三郎の場合は、その前途の多望といい、かつては自分も学んだ学校の同窓というだけでも理解し合える面がありました。しかし房太郎の言動は彼らの理解をこえていました。アメリカでなら商売で大もうけが出来るかの如く言って親から出してもらった金をすぐ無くしてしまったこと、さらに実業における成功という本来の目的を達成しえぬのに、労働組合の組織者といった訳のわからぬ仕事に手をだすことなど、房太郎の生き方は、井山夫妻の目には何とも「危うい」ものとしか映らず、その懸念は隠しようもなかったのでした。




【注】

*1 原田美代氏から大島清氏宛の書簡(1966年10月26日消印)に「高野家の過去帳」の内容が記されている。そのなかに、新師院高山巌義雄居士、明治十五年十二月廿九日 高野亀右衛門(五五才)とある。

*2 横浜の各種商工人名録には、高野屋に関してつぎのような記載がある。
  ★明治25年刊行の太田久好『横浜沿革誌』「爾来興廃アリテ現業者ハ左ノ如シ 本町四丁目 高野屋 高野シゲ」。
  ★明治26年10月刊行の日比野重郎編纂『横浜内外貿易商便覧』の「旅店」の部「本町四 六七 高野屋 高野傳次郎」、同年11月刊行の『横浜貿易捷径』「汽船問屋及旅人宿之部」には「本町四丁目六七番地 電話百七十一番、 汽船荷客取扱所并旅人宿 高野屋 高野傳次郎」。
  ★明治31年12月発行、日本全国商工人名録発行所編纂『日本全国商工人名録』横浜市の「運送業」の部に「高野屋 高野亀右衛門 本町四丁目 営業税二八、二二四」、「旅人宿」の部に「高野屋 高野亀右衛門 本町四丁目 電話一七一 所得税一九、〇二〇 営業税六八、二〇〇」
  ★明治39年刊行 『日本全国商工人名録』上巻では、汽船乗客取扱旅人宿業に高野屋の記載はなく旅人宿の部にのみ「高野屋 高野亀右衛門 本町四ノ六七 営業税八五、二五〇 所得税三六、三九〇」
  ★明治四三年 『第十五版 日本紳士録』横浜の部た之部「高野亀右衛門 高野屋 旅館 本町四ノ六七 所得税一一三、営業税四二八 電話特長一七一」

*3 大島清『高野岩三郎伝』(1968、岩波書店) 19ページ。

*4 高野家の『要用簿』に明治18年10月15日付けで日本橋区長伊藤正信宛に提出された高野貴和の「縁組送籍願」がある。

*5 井山憲太郎夫妻のことについては、大島清「現代に生きる農人の足あと 井山憲太郎小伝」『地上』1979年1月号、2月号参照。

*6 明治21年1月から22年3月30日までの日記、履歴書2種、房太郎宛書簡下書きなど。いずれも房太郎の長女美代の夫・原田昌平氏を介して大島清氏が集められたもの。現在は大島氏の遺族より贈られて筆者の手許にある。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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