高野房太郎とその時代 (35)4. アメリカ時代(13)職工義友会の創立
サンフランシスコ商業学校時代の房太郎は、岩三郎宛の手紙からうかがい知る限りでは、時間的にも金銭的にも余裕のない、勉学と労働に追われる日々を過ごしていたように見えます。学校での勉強はもちろん、家でも予習・復習に時間をとられ、仕送りのために毎晩深夜まで働き、時には休日でもアルバイトをしなければならなかったのですから。しかし実際には、そうした超多忙な生活のなかで、彼は、その生涯の転機となる重要な出来事にかかわっていました。ほかならぬ〈職工義友会〉の創立です。 実は、職工義友会の創立年次は、長い間誤って伝えられてきました。そのため、高野房太郎は職工義友会の創立には参加しておらず、中心メンバーではなかった、と主張する研究者もあらわれたほどです*1。その根拠のひとつは、義友会の事績を関係者が直接記録した唯一の文献「労働組合期成会成立及発達の歴史」*2にありました。問題の箇所はつぎのとおり、というより以下がサンフランシスコの職工義友会に関する記述の全文です。 「明治二十三年仲夏の頃、米国桑港在留の城常太郎、沢田半之助、平野永太郎、高野房太郎及び他二、三の人相集まりて職工義友会を起す。その期する所は欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解釈に備えんとするにあり」 この記述は、同時代に執筆された日本労働運動史の古典、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』にそのまま引き継がれました。ところで、明治23年は西暦1890年、その夏なら房太郎はまだタコマにいました。当然のことながらサンフランシスコでの創立には参加しえず、義友会に加入したのはその発足後で、中心メンバーではありえなかった、との見解が生まれたのです。しかし、私はこの主張に疑問をいだきました。なにより、いま引用したばかりの文章を素直に読めば、高野房太郎が創立に参加していることは明瞭だからです。それに、当時の日本人の間で、彼ほど労働運動に早くから関心をいだき、深い知識をもっていた人物はいませんでした。その高野を抜きに職工義友会が創立され、房太郎は中心メンバーではなかったとするのは、いかにも不自然だと感じたのです。こうした場合は、むしろ史料そのものに何らかの誤りが含まれていることを疑うべきではないかと考え、いろいろ調べてみました。その結果、もし1890(明治23)年夏の創立だとすると、もう一人の参加者・沢田半之助もまだ渡米前で、創立には参加出来なかったことを発見しました。外務省外交史料館に残されていた旅券の発給記録から、沢田が渡米したのは同年の暮以降であることを突き止めたのです*3。 ところで、長い間見逃されていましたが、職工義友会の創立を伝えるもうひとつの史料があったのです。東京で発行されていた新聞『経世新報』明治24(1891)年10月16日付に「米国桑港に我労働義友会起る」と題する記事が掲載されていたのです*4。それほど長いものではありませんし、僅かながら義友会の活動内容を伝えていますので、ここで全文を引用しておきましょう。 「久しく米国桑港に在留し、目下同港に於て靴職工を営める城常太郎、平野永太郎の両氏は、我日本労働社会の この記事から分かることは、職工義友会が「成立及発達の歴史」の記述から印象づけられる研究団体的存在ではなく、故国日本の労働者仲間に労働組合の結成を働きかけるといった実践的な性格をもっていたことです。なかでも全国各地に地方本部を設けるようにと呼びかけている点は、後の『職工諸君に寄す』を思い起こさせるところがあります。また、サンフランシスコ在住の日本人労働者が互いに助け合うことを目的に、月2回集まっていたことも判明します。このような活動の延長線上に、1892年暮には加州日本人靴工同盟会が誕生していますが、それについては回をあらためて述べることにしましょう。
「成立及発達の歴史」は無署名ですが、執筆したのが高野房太郎であることは、まず確実です。それはこの時点で、サンフランシスコ時代の職工義友会から労働組合期成会の成立とその活動を記述できたのは、彼以外に考えられないからです。同時に上掲の引用文に見られるように、関係者の氏名を列挙する際に、高野房太郎の名がいつもその最後に出てくることも、高野が筆者であることを示しています。 房太郎のほかに職工義友会の中心メンバーだったのは、靴職人の城常太郎、洋服職人の沢田半之助でした。1897年、東京で職工義友会を再建した時に参加したのもこの3人で、彼ら全員が、期成会創立の際には「仮幹事」となっています。サンフランシスコ時代の職工義友会会員は10人前後だったようですが、そのうち上記3人以外で氏名が分かっているのは、平野永太郎、武藤武全、木下玄三だけです*5。これらの人びとの詳しい経歴は分かっていません。ただ、平野永太郎は靴職人で、後に神戸で城常太郎とともに神戸製靴合資会社を開いていること、武藤武全はボストンで日本人が経営するヤマナカ・アマノ商会の園芸部門の責任者となっていること、木下玄三は1897年にはすでに日本に帰国しており東京市小石川区に住んでいたことなどが分かっている程度です*6。これだけの事実から、義友会の会員の特徴を知ることは困難ですが、城と平野の二人が靴職人であること、彼らが故国の仲間に労働組合の結成を呼びかけていたことはやはり注目に値します。先ほどもちょっとふれましたが職工義友会の会員が中心になって2年たらず後に加州日本人靴工同盟会が結成されていることを考えると、靴工の比重が高かったのではないでしょうか。その他の会員も、学生などよりは、手に職をもつ労働者が多かったのではないかと推測されます。その点で、同時期にサンフランシスコ周辺に存在した政治青年たちの組織である愛国同盟やクリスチャンの集まりである福音会などが、学生層を中心にしていた団体とは、かなり色合いを異にしていたことがうかがえます。
最後に、房太郎とともに職工義友会の中心となった城、沢田の二人について簡単に紹介しておきましょう。 「君資性沈毅にして明敏我国靴工の状態に慨あり、大に改善する所あらんとし、刻苦励精其の業に勉む。明治二十一年八月其の貯蓄する所の資を携えて米国桑港に航し、先ず旅館の労役に服し後一窖室を賃して纔かに造靴店を開く」
つまり城は、生まれつき沈着で物事に動ずることなく、また賢明で頭の働きが早く、日本の靴工がおかれていた状態を嘆いて、それを改善しようと懸命に仕事にはげみ、明治21年8月に自分の貯えを使ってサンフランシスコに赴き、まず旅館で働いたあと、地下の一室を借りて造靴店を開いたというのです。 沢田半之助は明治二十三年渡米、翌明治二十四年桑港ミッション街と第七街との角なる城靴直し店に同居して洋服屋を始めた。これが米国に於ける同胞洋服屋の元祖である。
この「城・沢田共同借家」こそミッション街1108番地、つまり職工義友会の本部が置かれた家でした。職工義友会が創立されたのとほぼ同時にサンフランシスコで発行された日本語雑誌『遠征』第4号(1891年8月15日付)には、左のような広告が掲載されています。 【注】*1 隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompers との関係を中心に」東京大学経済学会『経済学論集』第29巻第1号(1963年4月)。のち隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』(御茶の水書房、1976年)所収 *2 『労働世界』第15号(1898年7月1日付)。岩波文庫『明治日本労働通信』388ページ参照。 *3 詳しくは、拙稿「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」『黎明期日本労働運動の再検討』(労働旬報社、1979年)参照。本著作集第7巻『高野房太郎研究ノート』に再録。 *4 労働運動史料委員会編集刊行『日本労働運動史料』第2巻(1962年)、394ページ。この貴重な記事を発掘されたのは、ほかならぬ隅谷三喜男氏である。
*5 房太郎は、1897年4月15日付ゴンパーズ宛の手紙のなかで「職工義友会は数年前にサンフランシスコ在住の12人ほどの日本人によって結成されました」と述べている。 労働組合期成会の前身は職工義友会なり。故に期成会に附き云ふ所あらんとせば、先づ義友会より談らざるべからず なお、高野房太郎の日記巻末の住所録には、平野永太郎の名が記されている。『日本の労働運動』にある平野栄太郎は、永太郎の誤りとみてよいであろう。 *6 武藤武全については、彼から高野房太郎に宛てた1897年6月29日付の書簡が残されており、その封筒、用箋はヤマナカ・アマノ商会の園芸部門のものが使われている。『高野房太郎日記』1897年の巻末の住所録に木下玄三の名があり、住所は東京市小石川区上富坂町15番地と記されている。 *7 井野辺茂雄・佐藤栄孝『皮革産業の先覚者 西村勝三の生涯』(西村翁伝記編纂会、1968年)。 *8 鷲津尺魔『在米日本人史観』羅府新報社、1930年。 |
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