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高野房太郎とその時代 (34)




4. アメリカ時代(12)

サンフランシスコ商業学校

高野房太郎のサンフランシスコ商業学校卒業証書、1892年5月

 1890年秋、房太郎は商業学校へ入学するため、サンフランシスコに戻りました。しかし「よく調べ熟慮の上で行動しているから安心するように」といつも手紙で強調している彼らしくもないミスをおかしていました。商業学校は、学期途中の入学を認めないことを知らなかったのです。このため翌年1月はじめまでは、学校での勉強が出来ず、もっぱら学費稼ぎのために働く毎日でした。しかし、サンフランシスコ周辺には良い仕事がなく、結局、渡米直後にスクールボーイをしていたブレイトン家に頼み込んで、終日の住み込み奉公人として働いていた様子です。こんなことなら、あわててサンフランシスコに来ずに、あと2、3ヵ月はタコマで働いていた方がずっと稼げたのにと、後悔したことでしょう。

 サンフランシスコ商業学校は、授業料がいらないことからもわかるように、市立の中等教育機関のひとつでした。3年制の本科(Complete course)と1年制の別科(Limited course)があり、房太郎が入学したのは別科です。在籍者数は本科・別科を合わせて約400人、クラスは共学で、男生徒2人に女生徒1人の比率でした。先生は校長を含めて16人、うち8人が女性です。ずいぶん女の先生が多いと感じますが、実は当時のサンフランシスコの公教育、とくに初等教育はほぼ完全に女性によって担われていました。市立学校の教員総数871人中男性教員は64人、つまり100人中7人にすぎず、その半数以上が高等学校や商業学校など中等教育の担当でした。公立学校全57校中半数以上の35校には、男性教員が一人もいません*1。今でもアメリカの小学校の先生の4人に3人は女性です*2が、当時のサンフランシスコの教育界は、これをはるかに上回る高い女性比率だったのです。

 入学から1週間後、房太郎はアメリカでの学校初体験を弟に知らせています。葉書ですが、細かい字でビッシリと書き込んでいるので、かなり詳しく様子が分かります。

【1891年1月9日付葉書】
  「前略 その後、無事でおりますのでご安心下さい。今月2日で、旧主家を退去いたし、去る4日より学校に通い始めています。しかし、スクールボーイの口がいっこうになく、大いに困っています。もうこれで1週間失業しているため、旧主家から受け取った賃金のうち10ドルを貴地に仕送りし、本を買うのに11ドル使ったので、残りは6、7ドルになってしまい、それも今日か明日には遣い果たしてしまいそうな状況です。しかし、明日、明後日は学校が休みですので、旧主家や他の家に働きに行き、それで2ドルくらいは稼げるでしょう。御地への送金には、働き先が決まり次第、タコマの友人に借金を申し入れるつもりです。
  学校もなかなか難しい課目があります。簿記、商法、商業地理、公民(Civil Government)、ペン習字、湖の麗人(The Lady of the Lake)、算術、作文、商業書簡、それにスペイン語などですが、いずれも予習復習を必要とするので、毎日下校の後に3、4時間は勉強に費やしています。
  この手紙と同じ船で小生の友人の友人である松浦と申される方が帰国されますので、雑誌と小説本を託します。松浦氏から連絡がありましたら、つぎの住所に出向いてお受け取りください。
 京橋区滝山町8番地洋服店
 松浦常太郎様
  雑誌のなかには有名なエドウィン・アーノールド氏の日本ノ風俗についての記事を載せた『スクリーブナー・マガジン』があります。小説は、とりたてて興味深いわけではありませんが、多少の面白さはあると思います。とりいそぎ早々
        サンフランシスコにて
                                   房太郎
           1月9日夜
岩三郎殿」
上掲葉書原文のテキストファイル

 きちんと英語を学び、外国人と自由に意志疎通が出来るようになりたいというのが房太郎の入学目的だったわけですが、もともとアメリカの若者に商業教育をほどこすのが目的の学校でしたから、授業がそのまま会話学習の役にたったわけではありません。ただ、同級生は1人を除いて日本語が分からず*3、すべての課目が英語を使っての授業でしたから、英語力の向上にはなったでしょう。ただ、肝心の英語の授業の教材は、ウォルター・スコットの叙事詩、The Lady of the Lake(『湖上の麗人』)でした。シューベルトの歌曲やロッシーニの歌劇の台本などにも使われていることからも分かるように、19世紀には世界各国で広く読まれた本ですが、1810年に執筆された韻文ですから、英文学についての教養を身につけることが主眼の課目でした。
 葉書でも書いているように、簿記以外は、授業時間と同じ程度の時間をかけての家庭学習(home work)が義務づけられていました。もともと勉強好きな房太郎は家でも懸命に学習し、わりあい良い成績をあげたようです。学校に通い始めて2ヵ月余りたった3月10日付の手紙で、房太郎はつぎのように記しています。

【1891年3月10日付書簡】
  「前回は郵便船の出航日をとり違え、手紙を出しそびれてしまいました。同封の為替証書は先月分の仕送りです。たいへん遅れてしまい申し訳ありませんでした。今月分はなんとか都合をつけ、月内にお送りいたします。
  学校へは毎日通学しています。今日までにすでに2回、月ごとに出る通信簿を受け取りましたが、まあまあ良い成績でした。こちらの学校では毎月の月末にReport Card(通信簿)というものがあり、各課目の成績を生徒父兄に知らせています。生徒はこれを父母に見せ、その署名をもらった上でふたたび学校に返す仕組みです。課目のなかで特に難しいというものはありませんが『湖の麗人』の文法や解釈には閉口しています。
  このところは万事順調で、学校への通学には差し支えのない夕方7時から午後12時まで、出来たばかりの日本料理店の給仕をしています。スクールボーイとは違って、給料から御地への仕送りを差し引いても、まだいくらか余分があります。しかし、これがいつまで続くか定かではありません。
    先ごろ、1ヵ月ほど失業していた折に日本人が経営する下宿屋で、夜間に暗い灯りのもとで勉強したため視力がおち、学校で速記の勉強の時などに差し支えましたので、料理店で夜働くことにしました。その後は視力は回復しましたが、都合をつけて精キ水*4を2、3瓶買って送ってくださいませんか。またやり損なって目を悪くしたときの用心のためです。
  学校の勉強が忙しいので、あまり日本の新聞を読んでいる暇もありませんので、お時間がある時に、最近の重要な出来事をお知らせくださるようお願いいたします。
    早々」
上掲書簡原文テキスト

 紹介した2つの手紙でも分かりますが、房太郎はひたすら学校での勉強に専念するというわけには行きませんでした。自分の生活を支えるだけでなく、毎月仕送りの義務を果たさなければならなかったからです。しかも不景気でしたから、良い仕事が安定して得られず、1ヵ月も失業したり、スクールボーイのほか、日本料理店の給仕、移民局の通訳*5など、さまざまな職業を転々としています。おまけに目を悪くし、これが生活の苦しさをさらに辛いものとしました。そうした苦学生兼外国人労働者としての厳しい暮らしぶりを伝える手紙を、もう1通紹介しておきたいと思います。

【1891年7月17日付、房太郎より岩三郎宛書簡】
  「7月2日付のお便り、本日夕刻に拝受いたしました。暑中休暇が始まったとのこと、大いに結構。喉を痛めておられるよし、一日も早く全快されることを祈っております。
  12ドルの郵便為替を同封いたします。父上の法事のために、もう少しお送りしたいと思ったのですが、今のところたいへん手許が苦しく、まことに申し訳ありませんがこれでご勘弁下さい。
  移民局の通訳の仕事は先月役員が更迭され、それとともにお役ご免になってしまいました。いろいろ心当たりを探しては見ましたが、適当な働き口がなく困っています。しかしながら、今はこのコスモポリタン・ホテルに勤めています。仕事は1ヵ月に3回日本からの客船が着く時に波止場まで迎えに行き、当ホテルへ来る客を連れてくることで、いたって簡単なものです。食事と住まいは保障されていますが給料は出ません。
  ただ友人の一人に小生の代わりにここで食事をして貰い、その人から月々10ドルを受け取り、これを御地への仕送りに充てています。小生は他で食事をし、それに1ヵ月7ドル余かかります。この分は何としても稼がねばならず、今日までのところは移民局で働いた時の給料の残りで支払ってきました。しかしこれもすでに使い果たしてしまったので、ほかに適当な勤め口がないかと探していますが、なかなか適当な仕事が見つからずにおります。ところが(これは貴弟だけに申し上げるので母上にはけっしてお話しくださらないよう。かえって御心配をかけるだけですから)去る3月頃から視力の衰えを感じていましたが、13日に田舎から帰宅した後急に痛みがひどくなり、医師の診察をうけ、その後毎日病院通いをしております。あと1週間くらいは通わざるをえません。このため収支に大きな計算違いが生じています。
  いまタコマの友人に借金を申し入れており、これさえ届けば薬代などにも困らないはずですし、そのうちに全快すると思います。不幸中の幸いは、医師から夜間の読書は禁止されましたが、昼間学校に通うのはかまわないと言われ、通学しております。それにこの1、2日はかなり良くなっています。あと3、4日も経てばいつも通りになると思いますので、決して御心配くださらぬようお願い致します。
  しかし、いくらかはこの病気の治療代として医師へ支払はなければなりません。そこで、次の手紙が届くまでは浪花町の肴屋への月々の支払いを見あわせておいていただきたいと思います*6
  友人からの借金でなんとかなるとは思いますが、ことによると来月分の送金に影響が出るかもしれません。次の便で、はっきりしたことをお知らせすることが出来ると思いますので、それまで支払いを見あわせていただきたいのです。眼病の方は御心配くださるには及びません。
  学校の方は好成績で、同級生十余人とともに昇級が認められ、いよいよ12月には卒業とまりますので、ご安心ください。現在の借金を12月まで月払いで返済することとした場合、年末にどれほどの借金が残るのか、お調べの上お知らせください。今後の見通しに関係することですので、よろしくお願い致します。
同封の手紙を須藤氏にお渡し下さい。
七月十七日
               高野房太郎
岩三郎殿

新聞の切り抜きを1葉同封いたします。」
上掲書簡原文テキスト

 しかし、こうした困難にもめげず、房太郎は懸命に勉強しています。はじめは4、5ヵ月ほど通学するつもりだったようですが、結局1年間、通い通しました。もっとも、5月22日から7月12日まで夏休みでした*7から、実質は10ヵ月間程度ですが。もともと勉強好きだったこともあるでしょうが、学校の決まりをよく守り、目を悪くするほどの猛勉強の甲斐あって、かなりの好成績をあげたようです。1891年10月20日付の手紙には、7月から9月までの通信簿の写しが同封されています。優(Excellent)、良 (Good)、可 (Fair)、不可 (Poor)の4段階評価ですが、それによると算術、商法、商業文の英習字などは優、簿記、スペイン語などは良、英語、タイプライティングは可が目立ちます。注目されるのは操行で、立ち居振る舞い、整頓、学校規則の遵守など5つの項目のほぼすべてで優を得ています。真面目でよく勉強する生徒として認められていたことが分かります。




【注】

*1 サンフランシスコ商業学校をはじめサンフランシスコ市の公立学校に関する情報は、つぎの報告書によっている。
San Francisco Municipal Reports for the Fiscal Year 1891-92, Ending June 30, 1892. Published by order of the Board of Supervisers, San Francisco, W. H. Hinton & Co.Printers.
Course of Study of the Commercial High School, San Francisco, August, 1892, San Francisco Printing Company.

*2 現在、アメリカの小学校の先生のうち男性の比率は25.8パーセントである。NEDRA PICKLER "Male teacher ratio leads U.S.: Higher pay a factor in Michigan's trend" ,Detroit Free Press,April 8, 2002. http://www.freep.com/news/education/teach8_20020408.htm

*3 1892年5月のサンフランシスコ商業学校別科卒業生のなかに、Fusataro Takanoのほかに、Satow, Takusaburo(佐藤卓三郎)という日本人の名がある。

*4 〈精キ水〉は新聞記者、岸田吟香(1833〜1905)が販売した目薬である。その処方は、ヘボン式で有名なジェームス・カーティス・ヘップバーンによるものである。吟香は、ヘボンが完成した『和英語林集成』の編纂助手として働き、その功労によって〈精キ水〉の製造を認められたという。〈精キ水〉は大いに売れ、吟香は銀座に楽善堂を開業し、後には上海にも支店を出した。ちなみに、麗子像で知られた岸田劉生は吟香の四男。

*5 1891年5月6日付岩三郎宛書簡で「当地移住民局通弁ニ相雇ハレ」たことを報じている。「日本から船が着く度に出張して渡米日本人を検査する仕事をしているので、学校は欠席勝ちになり、半年ほど在学期間を延長しなければならなくなるかも知れない。しかしよく考えれば、良い稼ぎになる仕事をしないというのも賢明ではないので、学校か通訳のどちらかを止めるという二者択一的な考えはとらない。先月は9日間ほど通訳として働き25ドルの給料を得た。ただ給料は月ぎめではないので、日数によってはこれより少なくなることもある。」と述べている。同書簡原文テキスト

*6 この手紙にある〈浪花町肴や〉は、母の高野ますが親しくしていた家であった。原田美代の〈高野岩三郎から母ますに宛てた手紙〉についての解説メモに次のようにある。

 「浪花町とは東京の頃、横浜の店、旅宿をして居る頃から親しいずい分大きな魚店でした。私もたびたび祖母と参りました。或ハここが、昔の店で板前さんにゆづったのでせうか。料理屋か旅館の出来る位の広い大きい二階等ありました」。

*7 1891年6月1日付の房太郎書簡に「学校も去る22日より暑中休暇になりました。7月13日から授業が再開されます」と記されている。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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