高野房太郎とその時代 (42)4. アメリカ時代(20)東部への旅 ─ シカゴ万博二度目の一時帰国からアメリカに戻った房太郎は、まだしばらくは実業界進出の可能性を探っていたようで、1893年5月1日には、ニューヨークのアメリカン・タバコ会社へ手紙を出し、商品価格の問い合わせをおこなっています。しかしこれに対する同社輸出部の返事は、引き合いを受けた銘柄の大部分は、横浜の代理店を通さなければ取り扱えないと伝えて来ただけでした*1。これを最後に彼はアメリカ国内での起業計画をあきらめたらしく、かねてからの希望であったアメリカ東部諸州への旅に出発しました。タコマを離れた正確な日時は分かりませんが、この年の6月か7月頃と思われます。その折ルーシーとの間で、どのような別離の言葉が交わされたのでしょうか? 小説ならここは山場になるところですが、史実を探るこの評伝では、あらぬ想像は差し控えておきましょう。 房太郎はその後、いったんサンフランシスコに立ち寄り、たまたま黒沢診療所で出会った竹川藤太郎らと歓談のひとときを過ごし、間もなくすぐシカゴに赴いたことは、前回すでに紹介したとおりです。 シカゴは、五大湖の西南端に位置し、湖と運河によって中西部と東海岸とを結ぶ水運の要衝でした。さらに19世紀中葉、鉄道建設の進展とともに、多数の鉄路がこの街に集中し、すでに1855年には幹線10本、支線11本がここで接合する巨大ターミナル都市となっていました。こうしてシカゴは水路と陸路の双方で、アメリカ最大の国内交通の要地となったのです。その都市化の進展は劇的で、1833年にわずか350人でしかなかった小さな町は、1840年には4500人、1850年3万人、60年11万、70年30万、80年50万、90年には109万人へと急増しています*2。この間、1871年には大火に見舞われ、10万人もの人が焼け出されました。しかし、この大火を機に、市当局が中心街における木造建築を禁止したこともあって、シカゴは高層ビルの建ち並ぶ近代都市に生まれ変わりました。優れた建築家がそこここで腕を競い、skyscraper(摩天楼)も、この街で最初に生まれたのです。こんな短い期間で、その規模や景観を変えた都市は、それまであまり例がなかったと思われます。
シカゴは、サンフランシスコからアメリカ東部へ向かう旅の順路に位置していましたから、房太郎がまずここに足をとどめたのは、ごく自然な選択に見えます。しかし、房太郎がシカゴに立ち寄ったのは、なにもアメリカ第2の都市を見たいというだけではなく、はっきりした目的がありました。それはほかならぬシカゴ万博、正式にいえばThe World's Columbian Exposition of 1893(1893年世界コロンビア博覧会)の見学でした。
シカゴ万博は、ミシガン湖畔のジャクソン公園を主とする280万平方メートルの広大な敷地を会場としていました*4。直前の1889年パリ万博の3倍の面積といわれても実感はわきませんが、東京ドーム60棟が入る大きさです。会場のいたるところにミシガン湖につながる運河や池が設けられ、遊覧船が走り、ゴンドラの櫓の音がするなど、さながら水の都でした。博覧会の主要部はCourt of Honor〈栄誉の中庭〉で、中央に大きな池を設け、その周囲に高さを揃え、外壁や柱を白一色でまとめた巨大パビリオンが建ち並び、見事な統一感のある光景をつくりだしていました。誰いうとなく、シカゴ万博を〈ホワイト・シティ〉と呼ぶようになったのも、主要パビリオンがすべてアイボリー・ホワイトだったからでした。冒頭に掲げた絵は、この〈栄誉の中庭〉を描いたものです。この中庭では、夜ともなれば9万個の白熱電球が純白のパビリオンをライトアップし、幻想的な人工空間をつくりあげていました。
見所の多いシカゴ万博のなかでも、多くの人の注目の的となったのは世界最初の大観覧車でした。これは主会場とは別に、西側ゲートから会場へ向かう広大な通路をかねた遊園地的空間〈ミッドウエイ・プレザンス〉に設けられていました。この大観覧車を設計したのがGeorge Washington Gale Ferris(ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス)で、今でも大観覧車のことを英語でFerris Wheel〈フェリス・ホイール〉と呼ぶのはこのためです。クリスタルパレス(水晶宮)が1851年のロンドン万博を象徴し、エッフェル塔が1889年パリ万博のモニュメントになったように、フェリス・ホイールはシカゴ万博を飾る記念碑的な構造物でした。60人乗りのゴンドラが36台、10分間で一回転し、最高地点では76メートル余の高さからシカゴ市を一望のもとに見下ろし、晴れた日にはミシガン湖の対岸まで見とおすことが出来ました。60人乗りのゴンドラ36台といえば、一時に2160人が乗れる大きさです。いま収容人員世界一を誇っている横浜みなとみらい21地区の〈コスモクロック21〉でも480人ですから、この世界初の観覧車の巨大さが分かります。博覧会の入場料とは別に、1回2周20分間乗る料金が50セントでした。回転木馬の10倍の料金にもかかわらず大人気で、72万ドルを稼ぎ、建設コストを差し引いても30万ドルの利益をあげたといいます。過去の万博の多くが赤字だったなかで、シカゴ万博は経営的にも成功しましたが、それにはフェリス・ホイールも大いに貢献したのでした。
日本政府は、1872年のウイーン以降歴代の万博を重視し、毎回独自のパビリオンを建て、日本の美術工芸品を積極的に出展してきました。シカゴ万博では開会の1年半も前から宮大工を送り込み、会場の池に浮かぶ島に宇治平等院の鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、これをシカゴ市に寄贈しました。鳳鳳殿は、文部省技師で東京美術学校講師として建築学を教えたこともある久留正道の設計によるもので、平安、室町、江戸の各時代を代表する様式の3棟を連結する形で建てられていました。すなわち正面から見て左側には平安時代を代表する寝殿造り、右側は室町時代の書院と茶室を併せた建物が、正面には江戸時代の大名の邸宅を模した建物が配置され、一目で日本の伝統建築と装飾の変遷を一覧できるようにしていたのです。ちなみにその建築費は65万ドルと大観覧車の2倍近い金額でした。
房太郎は、シカゴに3ヵ月余滞在しています。彼はただ博覧会を見学しただけでなく、日本物産即売所(Japanese Bazzar)のセールスマンとして働いていたからです。博覧会閉会の日である1893年10月31日付で、Japanese BazzarのManager のE. Jinushiが書いた英文の推薦状によって、その事実が分かります*5。英語に堪能で、日本物産店を経営した経験のある房太郎は、この仕事には正にうってつけでした。そのおかげでという訳でもないでしょうが、シカゴ万博の国別売り上げのなかでも日本はトップレベルでした。イタリアの250万ドル、ドイツの150万ドルについで、日本は陶磁器や漆製品などを中心に100万ドルを超す売り上げ高だったようです。 【注】
*1 1893年5月9日付のThe American Tabacco Companyから、タコマの高野房太郎宛ての返信参照。
*2 シカゴの人口の推移については、CensusRecords.net の Chicago Census Records を参照した。 *3 片山潜は、その自伝『わが回想』(上)のなかで、つぎのように回想している(徳間書店、1967年、221ページ)。 オールド・オーチャードの仕事〔メイン州、ウイスリホテルのクック〕を二ヶ月で切り上げ、シカゴの万国博覧会に行った。万国博覧会はコロンブスのアメリカ発見四百年を記念する為であって、米国としても殆んど初めての大計画であり、又昨年来広告されてあったので予も行って見る気になったのである。今詳しく博覧会の記憶を記している余裕はないが、此時に於て最も発達進歩を示していたものは電気であった。また美術館で最も予が好んで見たのはロシア出品の油絵であった。それは農夫や樵夫が橇に乗っている絵である。皆自然に近いもので、予の如き百姓には最も気に入った。丁度前年大学で美術史を研究していたから、各建築の装飾や彫刻を非常の趣味を以て研究した。 *4 シカゴ万博については、イリノイ工科大学図書館制作のサイトThe World's Columbian Exposition of 1893で、The Book of the Fair など4冊の万博関係図書を通じて詳しく知ることができる。画像も豊富で、さまざまなサイズで見ることが可能なので、楽しめる。まずは The Book of the Fair の会場の全景の画面から、赤丸の箇所にあるリンクを辿って見るのがわかりやすい。 *5 房太郎が日本物産の販売員をしていたことは、次のような推薦状が残っていることから判明する。 Japanese Bazzar Jackson Park |
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