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高野房太郎とその時代 (43)




4. アメリカ時代(21)

東部への旅(2)
   ─ グレイト・バーリントン

マサチュウセッツ州グレイト・バーリントン周辺地図、音楽祭のあるTanglewoodは上端の赤い下線。左がニューヨーク州、下がコネチカット州。右上にある白抜き数字の90はボストンからシカゴを経由しシアトルに達する大陸横断自動車道の「インターステイト90」、エンカルタ百科地球儀より

 シカゴ万博の後、房太郎がどのような経路をたどって旅を続けたのか、詳しいことは不明です。ただ最終目的地がニューヨーク市だったこと、そこへ行く直前にマサチュウセッツ州グレイト・バーリントンに数ヵ月間滞在していたことが分かっています。また多分、シカゴからグレイト・バーリントンへ行く途中で〈ナイアガラの滝〉は見物していると思います。ほとんど回り道せずに行ける場所ですし、日本でもたいへん有名な観光地でした。房太郎ならきっと「アメリカに十年もいながら、ナイアガラも見ていないのか」などと言われたくはない、と考えたに相違ありません。

 グレイト・バーリントンは、マサチュウセッツ州の西端、アパラチア山脈の一角バークシャー高原にある田舎町です。大西洋岸のボストンからですと、マス・パイク(マサチュウセッツ有料道路)を使って車をとばしても3時間以上かかります。毎夏、ボストン交響楽団などが音楽祭を開いている〈タングルウッド〉から南へ約十数キロの町、と言えばおよその見当がつく方も多いことでしょう。クーセヴィツキー、バーンシュタイン、小澤征爾などの名指揮者が棒を振った、あのタングルウッドです。グレイト・バーリントンからタングルウッドのあるレノックス周辺は、ニューヨーク市に住む金持ちの有名人(the rich and famous)が夏の別荘地として愛好した地域としても知られています。

 1890年現在のグレイト・バーリントンの人口は4612人、戸数924戸でした。そのほとんどは白人で、黒人はわずか100人ほどです*1。ところが意外なことに、この僅かな数の黒人のなかから、アメリカ史に大きな足跡を残した人物が生まれています。岩波文庫にも収録されている『黒人のたましい』(The Souls of Black Folk) の著者ウイリアム E. B. デュボイスです。彼は、フィラデルフィアの黒人居住地区の社会学的調査を実施するなど黒人問題研究に先鞭をつけた人物でした。黒人として初めてハーバード大学から博士号を受けたことでも知られ、ハーバード大学アメリカ黒人研究所は彼の名を冠しています*2。また彼は、黒人の人権・平等を要求する運動を提起したナイアガラ宣言の呼びかけ人であり、全国黒人向上協会(NAACP)の創立に参加するなど、公民権運動でも大先達でした*3。こうした進歩的な黒人エリートが、このグレイト・バーリントンの町に何世代も前から定住していた自由黒人の一家から誕生したのでした。

 それはさておき、いったい何のために房太郎はこの町に来たのでしょうか? シカゴからニューヨーク市への順路にあるわけでもない高原の小さな町、それも避暑地として知られた場所で冬を過ごしているのは、なぜでしょう。あえて推測すれば、アメリカを知るには、大都会だけでなく地方の小さな町、それもカリフォルニアのような新開地だけでなく、歴史のあるニューイングランドの町の生活を体験する必要があると考えたからでしょう。いずれにせよ、それまで比較的温暖な西海岸の、それもポイント・アリーナをのぞけば都会にしか住んだことのない房太郎には、アパラチア山中の田舎町での冬は鮮烈な印象を残したに違いありません。ホワイティング・ドラッグストア、マサチュウセッツ州グレイト・バーリントン町Main Street所在、19世紀末
 房太郎が滞在したのはこの町一番の目抜き通りでドラッグストアを経営していたフレッド・ホワイティング家でした。ご承知のとおりアメリカのドラッグストアは薬局というだけでなく日用雑貨もあつかい、店の一角では飲み物や軽食をとることもできる店です。左に掲げた写真はホワイティング・ドラッグ・ストアです。一見しただけでかなりの規模の店であることが分かります。ホワイティング家は、18世紀初頭にはグレイト・バーリントンに定住したニューイングランドの旧家で、この町で10本の指に入る資産家でした*4。この家に房太郎は住み込み、家事労働のかたわら店でも働いたものでしょう。注目されるのは、房太郎が、ここでもホワイティング家の人びとと家族同様の親しい人間関係をつくりあげていた点です。その事実は、フレッドの息子パーシーから、房太郎に宛てた手紙で分かります。日付は1896年8月14日、房太郎がこの地を去って2年後のものです*5

親愛なるヘンリー
  君から心のこもった年賀状をもらい、すぐにも返事を出さなければと思ったのですが、それを妨げる事情があいついで起き、今日になってしまいました。
私の伯父、母の兄が病をえて、その後すぐに亡くなったのです。さらに祖母も体調を崩してしまい、手紙を書く時間がありませんでした。
両親や兄弟はみな元気ですが、ホワイティング(父方)の祖母と祖父は亡くなり、二人の伯父も世を去りました。
ハワードは学校を卒業し、いまは法律家になる勉強をしています。私はまだ学校へ行っていますが、卒業したらハーバード大学医学部で勉強して医者になりたいと思っています。ヘレンは看護婦になるためにニューハンプシャーの病院で学んでいますが、卒業したらこちらへ戻ってわれわれと一緒に住み、仕事の時だけ出かけるようにするはずです。以上が、君がここを去ってから、私の家族の間におきた出来事です。
  グレイト・バーリントンは君がいたときとはすっかり違ってしまいました。昨年の冬、火事があったのです。火はまず郵便局を焼き、同じ建物にあった店も丸焼けになりました。パパの店は類焼で焼け落ち、隣の店も半焼しました。今はどの家もみな建て直されていますが、もちろん町の姿はずいぶん変わってしまいました。
  君の返事を待っています。いま君がどうしているか、そして将来なにをしようと考えているのか知らせてください。そして、君がもう一度アメリカに来ることを、そしてその時はかならずグレイト・バーリントンに来るように願っています。ホワイティング家全員が心から君を歓迎します。
君の真の友
パーシー・ホリスター・ホワイティング
アメリカ合衆国マサチュウセッツ州グレイト・バーリントン
1896年8月14日、日曜

 この手紙は、その内容や文体からみて、旧雇い人への単なる儀礼的な返信ではなく、親しい友人から来た賀状への心のこもった礼状です。家族全員が房太郎の再来を歓迎するという言葉には外交辞令とは思えない真情がこもっており、房太郎がホワイティング家の人びとから好意をもたれていたことがよく分かります*6。この事実はまた、房太郎がアメリカ社会にとけ込み、周囲の人びとと親密な関係をつくりあげる社交性や言語能力をもっていたことも示しています。
 房太郎が、なぜ、どのようにしてホワイティング家で働くことになったのか、今となっては知る由もありませんが、おそらくシカゴ万博の会場か旅の車中で知り合い、グレイト・バーリントンへ立ち寄ることを勧められたのではないでしょうか。

 実は、このグレイト・バーリントンで、房太郎は、彼の生涯を決定したともいえる行動をおこしています。アメリカ労働総同盟会長のサミュエル・ゴンパーズに宛てて手紙を書いたのです。1894(明治27)年、つまりシカゴ万博の翌年の3月6日のことでした。その全文はつぎの通りです*7

アメリカ労働総同盟
会長 サミュエル・ゴンパーズ様


1894年3月6日
マサチュウセッツ州グレイト・バーリントンにて
高野 房太郎拝

 謹啓
  私は数年前にこの国にまいりましたが、到着以来ずっとアメリカの労働者の豊かさに強い印象をうける一方、それに比べ日本の労働者が社会的・物質的に哀れな状態にあることを思い、帰国した曉には彼らの境遇の改善に努めたいと決心するようになりました。そこで、この国にいる間に、アメリカの労働運動についてできるだけ学んでおきたいと考えております。
  つきましては、あなたが労働組合についてたいへん豊富な経験をお持ちであること、またこの国の最有力な労働団体のひとつであるアメリカ労働総同盟の指導者であられることを知り、労働問題のさまざまな側面についてご高見をうけたまわり、また日本の労働問題への具体的な対応策に関してもご助言たまわりたいと存じ、思い切ってお願いのお便りを差し上げる次第です。
  ご承知のように、日本には今のところ労働団体はまったく存在しておりませんが、その原因は働く人びとの全般的な無知にあると、私は考えています。だとすれば、労働者状態改善のためにもっとも重要なことは、彼らを教育することにあります。さらに私は、その教育は組織的な運動によって進められなければならない、つまり労働者を教育するには彼らを労働組合に組織しなければならない、と信じています。
  ここまでは、私の立場は間違っていないと確信しているのですが、ただ労働者を組織するのに、どのような組織形態をとるべきかという点になると、私にはまだはっきりした考えがありません。貴同盟のような職業別組合の路線をとるべきか、あるいは労働騎士団のような職種や専門に関係のない地域的組織を選ぶべきか、迷っております。永続的な組織形態としては、職業別組合の方が、組織の安定性を保証する点でもっとも望ましいものであることは明らかです。しかし、それを現在の日本に適用して果たして成果があがるかどうかとなると、自信がないのです。日本の労働者の間に広がっている無知を考えると、どのような組織形態を採用したとしても、数年で強力な組織をつくり上げることは不可能でしょう。そうした暗い状況のもとで職業別組織化の方針をとっても、教育効果をあげるにはあまりにも弱体な零細組合の乱立をまねくおそれがあります。それらの小組合でも連合すれば良いのかもしれませんが、それにはさらに長い歳月が必要で、その間、教育事業は無力な状態に留まらざるをえず、ほかに道があるなら、そうした事態は避けるべきであると思います。
  私は、日本の労働者を組織するための一時的な手段として、誰であろうと参加意思がある者は人数に関係なく加入できる単一組合、つまり労働騎士団のような組織形態を採用し、すぐ教育事業をはじめる方が良いのではないかと考えはじめています。その過程で、その組織内に別個の組合を組織できるだけの力をもつ職種があらわれれば、単独組合をつくらせて親組織に加盟させ、最終的に職業別労働組合主義の基盤にたつようにすれば良いのではないか、と考えるのです。あなたは、それでも現状とは無関係に、職業別組合主義をとるべきであるとお考えでしょうか。
  どの計画を選ぶのが最善かについて、私がこれほど気にするのは、最初の組織化の企てが失敗してしまえば、その後10年や15年は、同様の企ては不可能になるだろうからです。
  こうした問題について、ぜひぜひあなたのご助言をたまわりたいと存じます。また、貴組合の規約、あるいは貴組織に関し、より詳しく知ることのできる印刷物がありましたらご恵与ねがえればまことに幸いです。
                               敬具
 

 この手紙で注目されるのは、房太郎がゴンパーズに面談する前から、後年、労働組合期成会や鉄工組合を結成した際に実行した方針をはっきり打ち出していることです。それもアメリカ労働総同盟ではなく労働騎士団をモデルにすることを、明確に意識して提起しているのです。労働運動史の通史などでは、高野房太郎の労働組合論はサミュエル・ゴンパーズの影響下にあったと述べているものが少なくありませんが、そうした主張には疑問があります。この問題は、高野房太郎の労働運動思想を考ええる上で重要なポイントですから、いずれ回を改めて述べることにしたいと思います。
  この手紙を受け取ったゴンパーズは、即座に、文字どおり打てば響くように、グレイト・バーリントンの房太郎へ返事を寄こしました。この時期、ゴンパーズは総同盟会長としての職務に加えて、機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』の編集長としてその創刊作業に追われ、超多忙な生活を送っており、その仕事を助けるスタッフも多くはありませんでした。にもかかわらず、ゴンパーズが未知の日本人からの手紙を無視せず、きわめて丁重に返事を書き送って来たのです。その実務能力の高さとともに、労働運動指導者としての人柄をうかがわせるにたる事実です*8

  1894年3月9日
ニューヨーク
  今月6日付の貴簡を拝受し、内容を注意深く拝読いたしました。ご返事として次のように申し上げることをお許しください。お便りを拝読して、言葉に言い表せないほどの喜びを感じました。アメリカであろうと日本であろうと、あるいはどこの国であっても、労働者の成長をはかり、永久の幸せを得るためには、組織こそが必要不可欠な要因であると、私は考えております。貴方がこの国に数年間滞在しただけで私と同一の結論に達し、日本に帰国されたら、同胞の間にこうした考えを教え広めようとなさっていることは、貴方がこの国での滞在を有効に使われたことの証拠であり、同胞に対してだけでなく人類家族のための恩人となりうる証であると思います。
  おっしゃる通り、こうした問題については、手紙だけで充分に論じ、貴方のご質問にお答えすることは出来ようはずはありません。ただ、まず第一段階としては、団結する権利を獲得することが不可欠で、私の知る限りでは、こうした権利は日本帝国臣民にはまだ認められていないと思います。
  労働者はなるべく早い時期に、それぞれの職種や職業ごとの組合に組織されるべきです。それが団結心をもたらし、それによって相互依存、安定、進歩についての感情、知識を労働者の心のうちに教え込むことができます。職種や職業の違いを問題にせず、無計画に受け入れるような労働者組織は、その安定性と成果とにおいて、職業別の組織とは比べものになりません。
  お求めに応じて、いくつか参考文献をお送りしますので、注意深くご研究くださるようお願いします。この問題について貴方と論議する時間を喜んでとりますので、いつかニューヨークにおいでになりませんか。単なる手紙のやりとりよりも、よりよく理解できることは間違いありませんから。
  あらためて、日本の働く人々の組織化をはかるという貴方のお考えに敬意を表するとともに、貴方の努力が成功するに違いないことを信じております。
                            敬具
サミュエル・ゴンパーズ
アメリカ労働総同盟 会長

  思いがけない好意にみちた返事と参考資料の送付に、房太郎は躍り上がって喜んだに違いありません。さっそく3月13日付で礼状*9を書き、つぎのように謝意を表しています。

日本の労働者への親切なご配慮と、ご面談の機会を与えて下さることに対する深い感謝の気持ちを表すには、私の英語力は限られており、充分意をつくせないのがまことに残念です。実際、貴殿のような経験豊かな方から学べるのは、私にとってはもちろん日本の労働者にとっても、たいへんな幸せです。あなたのような立場にある方の助言は、私のような単なる観察者が何年も学んだところより、はるかに有益です。あなたにお目にかかり、労働問題について話し合う日を楽しみにしております。残念ながら、今すぐそうすることは出来ないのですが。

 ゴンパーズはこの手紙にも、受け取るとすぐ返事をよこしています*10。そしてあらためてニューヨークに来て個人的に面談することを再度勧めています。また、創刊したばかりの『アメリカン・フェデレイショニスト』の見本誌を送ってくると同時に、日本の労働者の現状を紹介する論稿を寄稿するよう、依頼してきました。また、房太郎が礼状とともに、大阪の紡績工場でおきたストライキに関する情報を送ったことも、この返書から分かります。この手紙の交換から半年後に房太郎はようやくゴンパーズと面談することになるのですが、それについてはいずれ詳しくお話ししましょう。


【注】

*1 Bernard A. Drew Great Barrington:Great Town, Great History 1999, Great Barrington Historical Society, 230〜232ページ。

*2  ハーバード大学の「W.E.B.デュボイス・アフロ・アメリカン研究所」は1975年に創立された。The W.E.B. Du Bois Institute for Afro-American Research, Harvard UniversityのウエッブサイトのURLは次の通り。http://www.fas.harvard.edu/~du_bois/
 またデュボイスの生誕地に近く、彼の文書類(W.E.B. Du Bois Papers)を所蔵しているマサチュウセッツ大学アムハースト校(UMass・ユーマス)の中央図書館も彼の名を冠して、W.E.B. Du Bois Libraryと称している。

*3 W. E. B. デュボイス(Williams Edward Burghardt Du Bois)は、房太郎とほぼ同年、より正確に言えば1868年2月23日にグレイト・バーリントンで生まれ、高校まを卒業するまでここで育った。その後、テネシー州ナッシュビルにある黒人大学のフィスク(Fisk College)で学び、同校を卒業後、奨学金を得てハーバード大学で学び、1890年に学士号を91年に修士号を、1895年には黒人として初の博士号を同大学から得た。この間、1892年から94年にはベルリン大学に留学し、1894-1896年にはオハイオ州のウイルバートフォース大学の教授としてギリシャ語、ラテン語を教えている。さらに1896年からはペンシルバニア大学助講師として社会学を教えると同時に、フィラデルフィアの黒人コミュニティについて研究する機会を与えられた。1903年には、その研究成果を『フィラデルフィアの黒人』として同大学から刊行した。1897年以降、アトランタ大学教授として経済学、歴史学を教え、1910年から1934年までNAACPの機関誌『ザ・クライシス』の編集長をつとめた。1934年にNAACP指導部と対立して編集長を辞し、アトランタ大学教授にもどった。晩年、アメリカの市民権を放棄し、ガーナで客死した。
 彼に対するグレイト・バーリントンの人びとの評価は、彼が1958年にレーニン平和賞を受賞し、1961年にはアメリカ共産党に入党していることもあって一様ではない。Bernard A. Drew Great Barrington:Great Town, Great History 1999, Great Barrington Historical Society, 375〜379ページや、マサチュウセッツ大学アムハースト校(UMass)図書館のオンラインの伝記年譜など参照。

*4 Bernard A. Drew Great Barrington:Great Town, Great History 1999, Great Barrington Historical Society, 229ページ参照。

*5 この手紙の原文、A Letter from Percy Hollister Whiting to Fusataro Takano 参照。

*6 この手紙はまた、ニューイングランドの人びとが、南部や西部の白人とは違って、人種差別的な感情が強くなかったことも示しています。こうしたグレイト・バーリントンの雰囲気は、シングルマザーに育てられていたW.E.B.デュボイスが高校まで進学できたばかりか、その才能を愛した町の高校の校長の援助によって、大学進学まで可能になった事実からも推測されます。Bernard A. Drew Great Barrington:Great Town, Great History 1999, Great Barrington Historical Society, 375〜379ページ参照。

*7 高野房太郎著、大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、1997年)17〜20ページ参照。なお同書簡の原文A Letter from Fusataro Takano to Samuel Gompers, March 6, 1894も参照。

*8 本書簡の原文A Letter from Samuel Gompers to Fusataro Takano, March 9, 1894参照。なお、『アメリカン・フェデレイショニスト』の創刊号が刊行されたのは、まさにこの手紙が書かれた1894年3月のことであった。

*9 高野房太郎著、大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、1997年)20〜22ページ参照。なお同書簡の原文A Letter from Fusataro Takano to Samuel Gompers, March 13, 1894も参照。

*10 本書簡の原文A Letter from Samuel Gompers to Fusataro Takano, March 16, 1894参照。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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