高野房太郎とその時代 (69)6. 労働運動家時代期成会の仲間たち
期成会の発足にともない、房太郎の交友範囲はいっきに広がりました。これまでは城、沢田といった職工義友会の同志、大沢、鈴木ら親しい友人、あるいは社会政策学会や横浜時代の知己など、限られた顔ぶれしか出てこなかった『日記』に、期成会関係者を主とする多数の新たな人名が記されるようになります。 7月7日(水) 鈴木、沢田、石津孫一を訪問。 1897(明治30)年8月1日、労働組合期成会は本格的に動き始めました。「第1回月次会」を開き、幹事と常置委員からなる役員を選出したのです。規約はすでに発起会で決められており、それにもとづいて房太郎らが役員候補を選考し、この日最終決定したものと思われます。このとき選ばれた「幹事」と「常置委員」は次の15人でした。なおいつからか不明ですが、房太郎は、幹事の互選によって「幹事長」あるいはただ一人の「常任幹事」に就任しました*1。期成会に会長職は存在しませんでしたから「幹事長」や「常任幹事」は労働組合期成会を代表する役職でした。ただし無給だったのですが。 【幹事】 この役員一覧と、先に掲げた「『日記』に現れた人名リスト」とを比べてみれば、房太郎が役員に選出された人びとの多くと、第1回月次会前に接触していることが分かります。役員のなかで『日記』に名が見えないのは、野村、松岡、島、松田、岩田の5人ですが、野村は秀英舎の従業員*2ですから秀英舎を訪れた折に会っている可能性があり、松田、岩田の2人は砲兵工廠の労働者*3ですから7月22日の「村松ら8人」のなかに加わっていた可能性大です。こうした事実は、役員の選考が房太郎を中心にすすめられていたことをうかがわせます。もちろん、彼が単独で決めたわけではなく、沢田半之助、鈴木純一郎らと相談しながらだったこともまた明らかですが。 ここで、これら役員の身元調べをしておこうと思います。期成会発足の時点で、房太郎が役員にふさわしい人物と判断し、いっしょに活動した人びとのことが分かりますから。
あとの幹事のうち村松民太郎は、労働組合期成会の発展にとってきわめて大きな役割を果たした人物です。期成会に参加した労働者の圧倒的多数は〈鉄工〉だったのですが、なかでも東京砲兵工廠の労働者は一大勢力でした。村松は、その東京砲兵工廠銃砲製造所の「助役」だったのです*4。 「助役」とは、現場労働者としては最高の職位で、村松は80人余の「挿弾工」を統轄する立場にあったのです。「挿弾工」とはあまり聞かない職名ですが、弾丸を薬莢に挿入する作業にあたったものでしょう。砲兵工廠に勤めて10年余というベテランですが、冒頭に掲げた写真〔原画は1901(明治34)年に刊行の『日本の労働運動』口絵〕から見ると、それほどの年配ではなく、30代後半か40代はじめの働き盛りという印象です。 もう一人の幹事・山田菊三は東京製本職工組合の役員でした。その根拠は彼の名で『労働世界』第1号欄外に転居広告が掲載されたており、そこには「神田区三河町壱丁目四番地 東京製本職工組合事務所 山田菊三」と記されています。また同じく『労働世界』第3号には山田菊三名での「年賀広告」が、「労働組合期成会員・東京製本組合員御中」との宛名で掲載されています。「東京製本職工組合」と「東京製本組合」の、どちらが正確な名称かまだ分かっていませんが、佐久間貞一が会長をつとめていた東京工業協会に参加していた組合のひとつでしょう。山田自身が製本職工であったのか、あるいは製本業の経営者であったのかも不明です。ただ、仮に業者であったとしても一般に製本業は家内工業的でしたから、労働者と肩をならべて働いていたと推測されます。
常置委員10人のうち、野村莠と小出吉之助の2人はともに秀英舎の印刷工でした。小出については第62回「『職工諸君に寄す』の影響」でふれましたが、腕の良い欧文校正工だったといいます。秀英舎の関係者が多いのは、言うまでもなく舎長の佐久間貞一が期成会の有力な支持者だったからでした。秀英舎は東京市内に2つの工場があり、総計約1000人の従業員を擁していました。印刷業に従事する労働者は全国で8000人たらず、東京市では3300人ほどでしたから、秀英舎がいかに大きな企業であったかが判ります*7。ただし、実際に労働組合期成会に加入した印刷工は、期成会役員へ比較的多くの人を送り込んでいるのにくらべ、意外に少なく、1898(明治31)年10月現在、わずか45人でした。同じ時、鉄工の期成会員は2500人を超えるていたのに比べると、信じがたい少なさです。これが何故なのか、検討を要する問題だと思います。 【注】
*1 幹事、常置委員の氏名については「労働組合期成会成立及び発達の歴史」『明治日本労働通信』389〜390ページによる。 労働組合期成会が初めて其呱声を挙ぐるや君は夙に身を挺して主唱誘掖の衝に当り進んで幹事長若くは常任幹事の激職に在りて奔走尽力日も猶足らず遂に期成会をして今日の盛運を呈せしたるに至り。 *2 野村が秀英舎の従業員であることは『労働世界』第17号、1898(明治31)年8月1日付、に掲載されている「労働組合期成会の一周年記念懇親会」記事に「秀英舎在勤野村しゅう〔くさかんむりに秀〕氏の祝辞」とあることから判明する。 *3 松田、岩田が砲兵工廠の労働者であることは、その名が、鉄工組合の砲兵工廠の支部役員一覧等に現れることから判明する。松田市太郎は『労働世界』復刻版30、81ページ、岩田助次郎については『労働世界』210、240ページ参照。 *4 『労働世界』第69号、1901(明治34)年1月1日付所収の「工業同盟団躰の前途」参照。復刻版、633〜634ページ。 *5 職工数については、佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』(八朔社、1999年)102〜103ページ、各部門の工場名などの詳細は101〜104ページによる。 *6 工業団体同盟会については、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』第4編経済的労働団体第1章「工業団体同盟会」、付録(7)「工業団体同盟会記事」のほか、『労働世界』復刻版240、608、633、634ページなど参照。 *7 秀英舎の従業員規模については、『労働世界』117ページ参照。全国的な統計は『職工事情』中の「印刷職工事情」参照。岩波文庫版、中巻所収。また、秀英舎における労働条件などについては、『職工事情』付録2「明治三十四年十月 印刷工場事務員談話」に詳しい(岩波文庫版下巻391〜406ページ)。 *8 石津孫一は鉄工組合第4支部庶務委員であった。『労働世界』復刻版30ページ。馬養長之助は旋盤工で、鉄工組合本部救済委員であった。『労働世界』30ページ。間見江金太郎も鉄工組合の本部救済委員、松田市太郎は鉄工組合第10支部本部委員補欠、『労働世界』30、81ページ。岩田助次郎は鉄工組合第19支部本部委員、砲兵工廠精密工場、『労働世界』100ページ参照。 *9 田中太郎は1897年8月に期成会が開催した講演会の弁士として出演し、「賃金を論ず」と題して演説しており、肩書きは「労働組合期成会会員」となっている。第66回「期成会の活動(1)──演説会」の冒頭に掲げた宣伝チラシ参照。 また、『労働世界』には本文で述べた論稿のほか、創刊号に「労働世界の発刊に就いて」と題して寄稿している「労働者 田中生」も田中太郎の可能性がある。
【追記】 |
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