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高野房太郎とその時代 (69)




6. 労働運動家時代

期成会の仲間たち

労働組合期成会幹事 村松民太郎、『日本の労働運動』口絵写真より。胸に飾られている勲章は、おそらく日清戦争の際に授与されたものであろう。

 期成会の発足にともない、房太郎の交友範囲はいっきに広がりました。これまでは城、沢田といった職工義友会の同志、大沢、鈴木ら親しい友人、あるいは社会政策学会や横浜時代の知己など、限られた顔ぶれしか出てこなかった『日記』に、期成会関係者を主とする多数の新たな人名が記されるようになります。
  たとえば、7月5日の発起会後、8月1日の第1回月次会までの3週間に、房太郎『日記』に現れる人名、団体名を列挙すれば、次のとおりです。太字が期成会関係の新顔です。

7月7日(水)  鈴木、沢田、石津孫一を訪問。
7月8日(木)  青年会館、製本職組合、中沢春行を訪問。
7月9日(金)  佐久間、鈴木、片山、沢田、石津、小出〔吉之助〕を訪問。
7月11日(日) 鈴木、沢田を訪問。
7月12日(月) 製本工事務所、島田三郎、城を訪問。
7月13日(火) 鈴木、沢田、秀英舎を訪問。
7月14日(水) 沢田、田中太郎を訪問、三禄亭における極東親睦会に出席。
7月15日(木) 沢田、秀英舎、石津、小出を訪問。
7月16日(金) 沢田、村山知之を訪問、間見江〔金太郎〕来訪。
7月17日(土) 山田菊三、片山来訪
7月18日(日) 沢田を訪問。
7月19日(月) 沢田を訪問。
7月21日(水) 沢田、鈴木を訪問。
7月22日(木) 村松〔民太郎〕ら8人来訪。
7月23日(金) 秀英舎、掛川〔元明〕、沢田、片山を訪問。
7月24日(土) 村松を訪問。
7月25日(日) 片山、沢田を訪問。
7月26日(月) 沢田を訪問、鑢組合、片山と出先で会う。
7月31日(土) 鈴木訪問、不在。沢田を訪問。

 1897(明治30)年8月1日、労働組合期成会は本格的に動き始めました。「第1回月次会」を開き、幹事と常置委員からなる役員を選出したのです。規約はすでに発起会で決められており、それにもとづいて房太郎らが役員候補を選考し、この日最終決定したものと思われます。このとき選ばれた「幹事」と「常置委員」は次の15人でした。なおいつからか不明ですが、房太郎は、幹事の互選によって「幹事長」あるいはただ一人の「常任幹事」に就任しました*1。期成会に会長職は存在しませんでしたから「幹事長」や「常任幹事」は労働組合期成会を代表する役職でした。ただし無給だったのですが。

【幹事】
高野房太郎、片山潜、沢田半之助、村松民太郎、山田菊三。
【常置委員】
田中太郎、野村莠、小出吉之助、松岡乙吉、島粛三郎、石津孫一、馬養長之助、間見江金太郎、松田市太郎、岩田助次郎。

 この役員一覧と、先に掲げた「『日記』に現れた人名リスト」とを比べてみれば、房太郎が役員に選出された人びとの多くと、第1回月次会前に接触していることが分かります。役員のなかで『日記』に名が見えないのは、野村、松岡、島、松田、岩田の5人ですが、野村は秀英舎の従業員*2ですから秀英舎を訪れた折に会っている可能性があり、松田、岩田の2人は砲兵工廠の労働者*3ですから7月22日の「村松ら8人」のなかに加わっていた可能性大です。こうした事実は、役員の選考が房太郎を中心にすすめられていたことをうかがわせます。もちろん、彼が単独で決めたわけではなく、沢田半之助、鈴木純一郎らと相談しながらだったこともまた明らかですが。

 ここで、これら役員の身元調べをしておこうと思います。期成会発足の時点で、房太郎が役員にふさわしい人物と判断し、いっしょに活動した人びとのことが分かりますから。
  幹事のうち片山と沢田の2人については改めて説明するまでもありません。片山の経歴や参加の経緯などは、すでに述べました。ただ房太郎が、労働組合期成会発足にあたって片山を大いに頼りにしていたことは確かで、彼自身と片山の2人だけが、期成会役員の任務分担である「運動委員」「演説会委員」「図書委員」のすべてに加わっています。片山がキングスレー館の館長であるため時間的な自由がきき、協力が得やすかったからに違いありません。もちろん、彼が社会問題について広く学んでおり、しかも労働運動に積極的な姿勢を見せていたからこそ、頼りにしたのでしょう。沢田は言うまでもなくサンフランシスコの職工義友会時代からの同志でした。はじめは京橋、後には銀座で裁縫店を経営し、大いに繁昌していたようです。房太郎がほとんど毎日のように沢田宅に顔を出しているのは、発足当時の期成会が沢田洋服店に事務所を置いていたからだと思われます。

 あとの幹事のうち村松民太郎は、労働組合期成会の発展にとってきわめて大きな役割を果たした人物です。期成会に参加した労働者の圧倒的多数は〈鉄工〉だったのですが、なかでも東京砲兵工廠の労働者は一大勢力でした。村松は、その東京砲兵工廠銃砲製造所の「助役」だったのです*4 「助役」とは、現場労働者としては最高の職位で、村松は80人余の「挿弾工」を統轄する立場にあったのです。「挿弾工」とはあまり聞かない職名ですが、弾丸を薬莢に挿入する作業にあたったものでしょう。砲兵工廠に勤めて10年余というベテランですが、冒頭に掲げた写真〔原画は1901(明治34)年に刊行の『日本の労働運動』口絵〕から見ると、それほどの年配ではなく、30代後半か40代はじめの働き盛りという印象です。
東京砲兵工廠。   東京砲兵工廠はいうまでもなく陸軍管轄下の武器製造所で、1897(明治30)年12月末現在で4000人を超える労働者が働く、東京市内最大の工場でした。大阪砲兵工廠が主として大砲などの重火器を製作したのに対し、東京砲兵工廠は小銃とその弾丸を主として製造していました。もちろん、4000人もの規模ですから、単一の工場というわけではなく、小銃製造所、銃砲製造所、砲具製造所の3部門のそれぞれについて複数の分工場から成り立つ大工場群でした。すなわち、小銃そのものを造る「小銃製造所」には、製銃場、銃身場、銃床場、仕上場、鍛工場、修理場、焼入場、着色場、機関場などがあり、弾丸を造る「銃砲製造所」は、圧延場、薬莢場、弾丸場、填薬場、雷管場、火工場の各工場に、さらに「砲具製造所」は鍛工場、木工場、旋工場、鞍工場、鋳工場、図工場、メッキ場、精密工場などから成り立っていました。
 なお「砲具製造所」とは、小銃以外の武器を製作する部門で、距離を測る計器や照準器を造る精密工場、馬の鞍を造る鞍工場のように、多様な装備品を製作する工場群でした*5
  なお、東京砲兵工廠の所在地は、江戸時代の水戸藩上屋敷跡です。と言っても分かり難いでしょうが、〈東京ドーム〉や国の特別史跡・特別名勝である小石川後楽園をふくむ一帯と言えば、すぐ分かっていただけるでしょう。水道橋から春日町、さらには中央大学理工学部あたりまで続く高い柵や煉瓦塀にかこまれた約10万坪の広大な地域を占めていたのです。ちなみに、片山潜のキングスレー館があった三崎町は、砲兵工廠に隣接する町で、工廠で働く労働者が数多く住む町としても知られていました。さらにつけ加えれば、職工義友会や期成会の演説会場となった「青年会館」も、砲兵工廠から歩いて行ける範囲にあったのです。こうしたこともあって、期成会の演説会には、砲兵工廠の労働者が数多く参集したに相違ありません。
  こうした巨大工場の上級職長が、自ら7人の仲間をひきいて房太郎の家を訪れて来たのです。これは、東京砲兵工廠の労働者が労働組合期成会にいかに大きな期待を寄せていたかをうかがわせる出来事です。なぜ、東京砲兵工廠の労働者が多数参加したのか、労働組合期成会にいかなる期待を寄せていたのかについては、改めて検討したいと思います。
  ただひとつつけ加えておきたいのは、村松民太郎は期成会の創立直前ともいうべき1897年2月に発足した「工業団体同盟会」*6の会長でもあった事実です。「工業団体同盟会」は日本全国各地の有力な鉄工を会員とし、会費をもとに基金を積み立てて、同盟会が自営する工場の建設・運営を目指す組織でした。村松がその会長であったということは、彼の影響力が東京砲兵工廠だけでなく、もっと大きな広がりをもっていたことを意味しています。 

 もう一人の幹事・山田菊三は東京製本職工組合の役員でした。その根拠は彼の名で『労働世界』第1号欄外に転居広告が掲載されたており、そこには「神田区三河町壱丁目四番地 東京製本職工組合事務所 山田菊三」と記されています。また同じく『労働世界』第3号には山田菊三名での「年賀広告」が、「労働組合期成会員・東京製本組合員御中」との宛名で掲載されています。「東京製本職工組合」と「東京製本組合」の、どちらが正確な名称かまだ分かっていませんが、佐久間貞一が会長をつとめていた東京工業協会に参加していた組合のひとつでしょう。山田自身が製本職工であったのか、あるいは製本業の経営者であったのかも不明です。ただ、仮に業者であったとしても一般に製本業は家内工業的でしたから、労働者と肩をならべて働いていたと推測されます。

 常置委員10人のうち、野村莠と小出吉之助の2人はともに秀英舎の印刷工でした。小出については第62回「『職工諸君に寄す』の影響」でふれましたが、腕の良い欧文校正工だったといいます。秀英舎の関係者が多いのは、言うまでもなく舎長の佐久間貞一が期成会の有力な支持者だったからでした。秀英舎は東京市内に2つの工場があり、総計約1000人の従業員を擁していました。印刷業に従事する労働者は全国で8000人たらず、東京市では3300人ほどでしたから、秀英舎がいかに大きな企業であったかが判ります*7。ただし、実際に労働組合期成会に加入した印刷工は、期成会役員へ比較的多くの人を送り込んでいるのにくらべ、意外に少なく、1898(明治31)年10月現在、わずか45人でした。同じ時、鉄工の期成会員は2500人を超えるていたのに比べると、信じがたい少なさです。これが何故なのか、検討を要する問題だと思います。
  常置委員の石津孫一、馬養長之助、間見江金太郎、松田市太郎、岩田助次郎の5人はいずれも鉄工でした*8。石津と馬養は逓信省の電信灯台用品製造所の労働者であり、間見江、松田、岩田の3人は東京砲兵工廠の労働者です。彼らはいずれも1897年12月に創立された鉄工組合の役員として名を残しているので、その所属まで判るのです。
 残る3人については、職業等は不明です。田中太郎は、演説会で弁士をつとめたり『労働世界』第4に「労働者」の肩書きで「新年の所感に就いて」と題する論稿を寄せています*9。松岡乙吉、島粛三郎の2人の職業は不明ですが、鉄工組合の役員にはその名が出て来ません。あるいは印刷製本関係の労働者であったかもしれません。


【注】

*1 幹事、常置委員の氏名については「労働組合期成会成立及び発達の歴史」『明治日本労働通信』389〜390ページによる。
  なお、岩波文庫の片山潜『日本の労働運動』28〜29ページの役員氏名一覧は、本来同一ページにくるべき段組みが2ページに分かれたため、小出吉之助、松岡乙吉も幹事であるかのごとき表記になっている。これはおそらく、岩波文庫版の底本が原本ではなく『明治文化全集 第6巻 社会篇』を使ったことにより生じた誤りと推測される。共著者の西川光二郎の名を落としていることといい、岩波文庫版『日本の労働運動』は、問題の多い本である。
 房太郎が幹事長、および常任幹事となったことについては、『労働世界』第28号(復刻版289ページ)に掲載された「感謝状」の文面による。

 労働組合期成会が初めて其呱声を挙ぐるや君は夙に身を挺して主唱誘掖の衝に当り進んで幹事長若くは常任幹事の激職に在りて奔走尽力日も猶足らず遂に期成会をして今日の盛運を呈せしたるに至り。

*2  野村が秀英舎の従業員であることは『労働世界』第17号、1898(明治31)年8月1日付、に掲載されている「労働組合期成会の一周年記念懇親会」記事に「秀英舎在勤野村しゅう〔くさかんむりに秀〕氏の祝辞」とあることから判明する。

*3 松田、岩田が砲兵工廠の労働者であることは、その名が、鉄工組合の砲兵工廠の支部役員一覧等に現れることから判明する。松田市太郎は『労働世界』復刻版30、81ページ、岩田助次郎については『労働世界』210、240ページ参照。

*4 『労働世界』第69号、1901(明治34)年1月1日付所収の「工業同盟団躰の前途」参照。復刻版、633〜634ページ。

*5 職工数については、佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』(八朔社、1999年)102〜103ページ、各部門の工場名などの詳細は101〜104ページによる。

*6  工業団体同盟会については、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』第4編経済的労働団体第1章「工業団体同盟会」、付録(7)「工業団体同盟会記事」のほか、『労働世界』復刻版240、608、633、634ページなど参照。 

*7 秀英舎の従業員規模については、『労働世界』117ページ参照。全国的な統計は『職工事情』中の「印刷職工事情」参照。岩波文庫版、中巻所収。また、秀英舎における労働条件などについては、『職工事情』付録2「明治三十四年十月 印刷工場事務員談話」に詳しい(岩波文庫版下巻391〜406ページ)。

*8 石津孫一は鉄工組合第4支部庶務委員であった。『労働世界』復刻版30ページ。馬養長之助は旋盤工で、鉄工組合本部救済委員であった。『労働世界』30ページ。間見江金太郎も鉄工組合の本部救済委員、松田市太郎は鉄工組合第10支部本部委員補欠、『労働世界』30、81ページ。岩田助次郎は鉄工組合第19支部本部委員、砲兵工廠精密工場、『労働世界』100ページ参照。

*9 田中太郎は1897年8月に期成会が開催した講演会の弁士として出演し、「賃金を論ず」と題して演説しており、肩書きは「労働組合期成会会員」となっている。第66回「期成会の活動(1)──演説会」の冒頭に掲げた宣伝チラシ参照。 また、『労働世界』には本文で述べた論稿のほか、創刊号に「労働世界の発刊に就いて」と題して寄稿している「労働者 田中生」も田中太郎の可能性がある。

【追記】
  その後、城常太郎のひ孫である牧民雄氏の調査によって、島粛三郎の職業が靴工であることが判明した。牧民雄『城常太郎と「労働義友会」──労働運動の扉を開いた靴職人たち』(2004年、私家版)参照。
〔2005.1.19記〕






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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