高野房太郎とその時代 (88)6. 労働運動家時代鉄工組合の衰退1899(明治32)年秋以降、鉄工組合は急坂を転げ落ちるように衰退して行きました。同年9月に組合費納入人員が2,418人と過去最高を記録した直後、10月には1,544人、11月1,509人、12月には942人と急減しているのです。ただし9月の2500人近い数は、8月20日の本部委員総会で組合費納入方法の整備などを決めたことを受け、徴収に努力した結果でしょう。それまでの滞納分をかなり含んでいると推測され、これが実人員とは考え難いのですが。いずれにせよ、これ以降の動向については後でまた見ることにして、ここではまず、なぜこの時期に、こうした組織の弱体化が生じたのかを考えておきたいと思います。 この問いに対し、これまでは、同年10月に決められた共済給付金の切り下げに原因を求める説が有力でした。つまり鉄工組合発展の要因だった共済給付を切り下げたことが、組合員の失望を招き、会費納入率の低下をもたらしたとするものです*1。給付切り下げ直後に会費納入人員が減少していることからみて、切り下げに腹を立て、組合を脱退したメンバーがいた可能性は否定できません。しかし私には、これがこの時点での組合員激減の唯一の原因、あるいは主な原因であったとは、考え難いのです。この時点では、共済給付はまだストップしたわけではなく、支給開始日の繰り下げと、支給額を1日20銭から15銭に減額しただけなのです。ここで、共済給付を目的に組合に加入した人びとの立場にたって考えてみましょう。給付条件が悪化したから、それを機に組合をやめ、すでに確保している受給権を失うという選択肢を選ぶでしょうか。そうした選択をする者は、皆無ではないとしても、多数派ではなかったと思われます。 組合費納入人員激減の、主な原因は、鉄工組合が最大の組織基盤としていた東京砲兵工廠などで、鉄工組合排除の動きが広がったからではないか、と私は考えています。従来この問題が注目されて来なかったのは、『労働世界』が組合活動家の解雇についてあまり報じなかったからです。おそらくこれは、一般組合員の動揺を危惧してのことだったと思われます。この事実を報道したのは『毎日新聞』の1899(明治32)年12月11日付でした。東京砲兵工廠における活動家の解雇について次のように記しているのです*2。 「間見江金太郎、高橋定吉氏等熱心に労働組合期成会の為めに運動せしとの故を以て何等の罪過なきに職を砲兵工廠に失い」 間見江金太郎は期成会発足時から常置委員であり、鉄工組合創立委員、第10支部選出の本部委員で、本部庶務副部長などの役職を歴任した人物です。彼が属した第10支部の組合費納入人員は、1899年9月は161人〔滞納徴収分を含み、実人員より多い可能性が高い〕、10月60人、11月43人、12月22人、1月以降ゼロとなっているのです。このように、支部が急速に崩壊した原因は、間見江の解雇にあったと見てよいでしょう。
高橋定吉も期成会創立当初からの熱心な活動家で、鉄工組合の創立委員、第5支部選出の本部委員、期成会特別運動委員であったほか、各地の演説会で労働者弁士として活躍しています。彼が属した第5支部の組合費納入人員の推移を見ると、1899年9月50人、10月23人、11月21人、12月15人、1月11人、2月ゼロと、第10支部同様に激減し、壊滅状態です。ここにも高橋の解雇の影響があると考えられます。「高橋定吉氏等」とありますから、他にも解雇者がいた可能性は高いと思われます*3。
ただし、同じ東京砲兵工廠でも、第11支部のように、1900年2月現在で46人の組合費納入人員を保持していた職場もあります。同支部は砲具製造所鍛工場を組織基盤としており、ここには鉄工組合参事会員であり、組合三役のひとつである会計部長の永山栄次がいました。永山は写真で見る限りかなりの年配で、おそらく砲具製造所鍛工場内はもちろん砲兵工廠内でも重きをなしていた古参労働者だったと推測されます。そのほか東京砲兵工廠の第1支部、第7支部、第8支部、第21支部、第27支部、第32支部は1900年に入っても組織を維持していることが、役員改選の記録から判明します*4。一方、同じ城北支部聯合会のうち第5支部、第9支部、第10支部、第19支部、第30支部について、1900年以降役員改選の記録がないことは、これら支部が消滅したことの傍証となるでしょう。
一方、鉄工組合の組織対象となった企業のなかには、もっと早い時期から、組合に対して敵対的な態度をとっていたものがありました。横浜船渠が鉄工組合創立直後に職長に圧力を加え、組合役員を辞任させ、同時に脱退に追い込んでいた事例はすでに見たとおりです〔第73回〕。新橋鉄道局や甲武鉄道の支部が早期に壊滅しているのは、日鉄機関方ストを見聞した鉄道関係の経営が、組合に対し警戒心を抱き圧力を強めた結果ではないでしょうか。 大宮工場の困難 こうした企業側の政策にもかかわらず、鉄工組合は日鉄内に、第2支部(大宮)、第23支部(福島)、第26支部(盛岡)、第39支部(大宮木工)、第40支部(水戸)を設立し、現場職制らとの対立・緊張関係をはらみながら、組織を拡大していました。なかでも大宮工場は1897年現在1300人を超える労働者が働く関東地方有数の大工場で、支部員の数も鉄工組合内では大規模な、150人〜200人レベルに達していました。いずれにせよ、企業が組合抑圧方針を打ち出していた企業内で、組織を拡大維持し得ていた点は注目に価します。同じ会社の機関士がストライキを構えて待遇改善を実現し、争議後は日鉄矯正会という「交戦的労働組合の標本」とまで呼ばれた組織を認めさせていたこと、さらにいったんは解雇されたストライキ指導者の復職もかちえていたことが、こうした力の背景にあったと思われます。 しかし、この日本鉄道大宮工場においても、砲兵工廠とほぼ同時期の1899(明治32)年11月、組合員の解雇問題が発生しました。同工場内の鍛工場で、下級職制である機械技手の専横を糾弾し、かえって組合員8人が解雇される事件がおきたのでした。
【注】*1 この時期の日本労働史に関する基礎史料を渉猟して『日本労働運動史料』第1巻〜3巻を編纂され、『労働世界』の復刻・解題をてがけられ、さらに片山潜に関する伝記的著作をもつ隅谷三喜男氏は、『日本労働運動史』で以下のような見解を述べておられます。 日清戦後の組合は、鉄工組合に典型的に見られたように、共済活動に重点をおいたが、それは労働者の日常的要求に答えるところが少なくなかったから、この共済活動のゆえに入会するものが少なくなかった。鉄工組合員増加の有力な原因はここにあったのである。だが、この共済活動自体が逆にまた組合の大きな重荷となり、衰退の契機ともなった。この点は鉄工組合に典型的に見られる。鉄工組合では明治三二年(一八九九)年夏、「炎暑の候に際し疾病亡者共平時に二三倍し為めに予定の経費を以て救済を行ひ難き形勢」(『労働世界』43号)に立ち至り、臨時総会を開いて対策を講じ、支部費、本部費の節約などにつとめたにもかかわらず、組合財政の赤字は累積する一方であったので、ついにその秋「支出超過し到底善良の結果を見るを得ざるに付、経費増額を為す能わざるに於ては、止むを得ず救済金額を削減せざるべからず」(『労働世界』46号)という解決策を取らざるをえないこととなり、疾病救済金一日二〇銭を一五銭に削減するなどの規約修正を決定した。しかし組合財政は改善されず、同年末には銀行から三〇〇円を借り入れてようやく年をこさねばならなかった。 『日本労働運動史』(有信堂、1966)54〜55ページ。 *2 『毎日新聞』1899(明治32)年12月11日付(『日本労働運動史料』第1巻、456ページ)。 *3 たとえば、第9支部の彦坂要次郎、第10支部の松田市太郎、第19支部の岩田助次郎らは、間見江金太郎や高橋定吉らとならぶ、著名な活動家でした。 *4 『労働世界』第52号(1900年1月1日付、復刻版490ページ)、同第54号(1900年2月1日付、復刻版509ページ)。同第57号(1900年3月15付、復刻版536ページ)。 *5 『労働世界』第11号(1898年5月1日付、復刻版107ページ)。 *6 このほとんど脅迫状とも言うべき手書きのポスターの文句は次の通り。 新熊汝ハ犬ナリ 汝労働期成会片山、高ノ犬トナリテ主人ニ吼否噛付カントス。実ニ不埒ナル動物ナリ。依テ衆正義者ノ為メニ汝ノ頭ニ大打撃ヲ加エントス。野郎覚悟セヨ。片山高野何者ゾ。此等ハ真ニ労働者間ノ悪鼠ト云ベキ動物ナリ。今ヤ悪鼠ハペストノ為メニモ、正業者ノ為メニモ見当次第打殺ス可キトキナリ。聞ク近頃当町ニ演説会ヲ開カン抔ト悪鼠輩共、口糊ノ為メニ狂言ヲ為サントス。真ニ国家ノ為メ労働者ノ為メ打殺ス可キ好機ナリ。汝悪鼠輩覚悟セヨ。 *7 『労働世界』第54号(1900年2月1日付)、復刻版508ページ。 |
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