第1章 足尾暴動の主体的条件
──原子化された労働者」説批判──
Ⅰ 治安警察法下での労働組合組織化の企て
1) 大日本労働同志会(1)
組織者・永岡鶴蔵
暴動にいたるまでの足尾銅山鉱夫の行動で何より注目されるのは,彼らが一度ならず二度,三度と労働組合の組織化を企て,その度にさまざまな妨害を加えられながら,それに成功していた事実である。治安警察法の下で労働組合の組織化がきわめて困難であった時期に,こうした企てがあったことは,それだけで,鉱山労働者を〈非結社形成的〉と規定することへの疑問を呼び起こさずにはいない。しかし,ここで早急な結論をくだすことは避け,まずはその組織化のあとをたどることから始めたい。
1903(明治36)年もおしつまった師走の28日,1人の坑夫が足尾銅山に現れた。仁義を切っては各飯場で一宿一飯の恩恵にあずかり,働こうともせずに「労働者は団結せねばならぬ」などとぶつ中年男に,変わり者には慣れている飯場の男たちもあきれ顔をするだけだった。男の名は永岡鶴蔵(5),日本全国の鉱山労働者を打って一丸とする労働組合を組織するため,妻子を北海道に残して遊説の旅に出発し,足尾を最初の目的地に選んだのであった。
1ヵ月近く永岡は足尾4山の飯場をまわって労働組合の必要性を説いた。しかし,誰も本気で相手にせず,そのうちに友子同盟の〈浪人交際〉の期間も終わり,生活にも困ってきたので,坑夫として働きながら活動を続けることにした。16歳で手子となり,18歳で坑夫徒弟となってから20年余も鍛えたその腕はすぐに坑夫仲間に認められ,その語るところに耳を傾けさせた。飯場頭や帳付けなど人目の多い飯場とは違って,暗闇の坑内で一緒に働きながらの話は,聞くものの心を開かせ,日頃漠然と感じていた不満を口にさせた。
坑夫の不満はいろいろあったが,なかでも〈役員〉と呼ばれた職員に対する怒りは強かった。この役員と坑夫の間の関係は,足尾暴動を理解する上でもきわめて重要な意味をもっているので,いずれ項を改めて検討を加えたい(6)。ここでは,坑夫の最大の不満は,〈現場員〉など下級職制が賃金の査定をめぐり賄賂を強要する事実にあったことを指摘するにとどめよう。
こうして永岡鶴蔵の活動は次第に坑夫の間に伝わり,毎晩7,8人の者が彼の話を聞きにわざわざ訪ねてくるようになった。力を得た永岡は1904年2月11日に幻燈会を開いた。幻燈は,片山潜や西川光次郎らが労働問題演説会や社会主義演説会の余興として,1,2年前から使いはじめていたもので,娯楽に乏しい鉱山町ではかなりの客寄せになった。永岡自身も,すでに夕張炭鉱で何回か幻燈会を開いた経験をもっていた。
この夜をかわきりに2月22日には小滝で相談会,同26日には本山レ組飯場で第2回幻燈会,3月5日には本山地区に隣接する赤倉町の料理屋日向野屋に150人余の聴衆を集めての演説会,同9日には第3回幻燈会と運動の範囲を拡げていった。そして3月下旬か4月頃,かねて準備を進めていた大日本労働同志会足尾支部(7)を結成し,その旗揚げの演説会を連続して開催した。すなわち,3月16,17の両日は赤倉の劇場いろは座で,3月19,20,21日には通洞の金田座で,5月8,9日には小滝地区に仮小屋を架け演説会を開いたのである。この一連の活動は大きな反響を呼び,毎回400〜500人もの聴衆を集め,同志会への入会者があいついだ。同志会の活動に専念するため坑夫をやめた永岡は,赤倉で足尾活版所を経営する山田菊蔵方の二階を借りて事務所とし,その他小滝に仮事務所を,通洞には労働倶楽部を設けた。会員は急速に増え,10月末までには1400人余に達した。
同志会の意図
大日本労働同志会がどのような性格の組織で,どのような活動を展開していたのかを知りうる史料は乏しい。わずかに『労働世界』の後継誌『社会主義』などが若干の記録を残してくれている。なかでも、同会の規約は、最大の手がかりと言ってよいであろう。その全文は次の通りである(8)。
「第一条 本会は従来の弊習を除去し,互いに交義を深厚ならしめ,職務忠実品行方正にして国民の本文〔分〕を盡し,吾等の権利を伸張するを目的とす。
第二条 本会は労働同志会と称す。
第三条 本会の本部は東京市神田三崎町三丁目一番地労働組合の内に置き各地に支部を置く。
第四条 本会は互撰の上左の役員を置く,会長一名,幹事若干名,書記若干名,協議員若干名,会員拾名毎に部長一名を置く。
第五条 本会役員の任期は一ケ年とし再撰するも妨げなし。
第六条 本会創立員及び特別の盡力したるものは永遠記録に記し置き,亦謝意を表する事あるべし。
第七条 本会員は謙遜を旨として決して疎〔粗〕暴の行為あるべからず。正義公道の為に戦ふものととす。
第八条 本会員にして体面を害する等の行為ある時は,総会の上除名するものとす。
第九条 本会員にして負傷疾病老衰等の為め労役に堪へ難きもの在る時は,会員恊〔協〕議の上金五拾円を救助するものとす。
但会員一千人以上に満たる時実行す。
第十条 本会は各支部において支部規則を設るものとす。
第十一条 本会規則改正を要する時は総会の決義〔議〕により変更するものとす」。
この規約で目を惹くのは,大日本労働同志会が,鉱山労働者だけを組織対象にせず,日本全国の労働者の組織化をめざしていたことである。何故そうした意図をもったかといえば,永岡の背後に片山潜がいたからである。そもそも永岡が労働組合の組織者として活動する決意を固めたのは,1903年11月,北海道遊説中の片山が夕張を訪ね,永岡宅に泊まって夜を徹して語りあかした際のことであった。それから僅かに1ヵ月後,永岡は夕張を離れて東京に向かい,アメリカへ出発する直前の片山と再会し,すぐ足尾に来たのであった。同志会の本部所在地となっている東京市神田三崎町3丁目1番地は,ほかならぬ片山潜の居宅であり,彼の運動の本拠であるキングスレー館や雑誌『社会主義』の編集所・社会主義社の所在地であった。
片山と再会した永岡は大日本労働同志会の設立について協議し,基本方針で合意していたに違いない。しかしこの規約の起草には,片山が加わった形跡はない。仮に片山や彼の同志・西川光二郎らが起草に参加していたとすれば,避けえたであろう誤字が目立ち、また会員に関する規定を欠くなど会則としての不備が認められるからである。
おそらくこの同志会規約は,永岡が片山・西川共著の『日本の労働運動』などを参考にしてまとめあげたものであろう。そのように推測する根拠は,規約第1条から第3条まで,労働組合期成会の規約とよく似ているからである。労働組合期成会の規約の冒頭は次のように記されている。
第一条 本会は我国労働者の権利を伸張し,其美風を養生し旧弊を除去し同業者相互に親睦する組合の成立を期するを目的とす。
第二条 本会は労働組合期成会と称す。
第三条 本会は事務所を東京市日本橋区本石町一丁目十二番地に置く。
ただ,期成会と同志会とでは大きな違いがあった。それは,同志会は労働組合であったが,期成会は「労働組合の成立を期する」会だったことである。したがって同志会規約にある救助金制度は,期成会にはなかった。
この規約によれば,とうぜん定められていたであろう〈大日本労働同志会足尾支部規則〉が残されていないので,永岡の組織構想の細部について知ることはできない。しかし,第1条の目的や第9条の共済規定などからみれば,同志会は労働組合期成会や日本鉄道矯正会,さらには活版工組合など日清戦争後に生まれた労働組合,さらには初期友愛会までの多くの日本の労働団体と基本的に共通する性格の組織であったと思われる。すなわち,何よりも労働者の〈権利の伸張〉,〈社会的地位の向上〉を目標とし,そのためには労働者自身が「旧来の弊習を除去」し,「職務に忠実」で,「品行方正」を旨として,一般社会から受け容れられるように努めなければならない,とするものである。さらに,労働者の団結を固める手段としての相互救済の重視である。
構成員
大日本労働同志会が,その本来の構想では労働組合全国組織を企図していたとはいえ,実際は足尾銅山労働者の一部を組織したに過ぎないこともまた明らかであった。もっとも,北海道の夕張炭鉱には,永岡もその創立に加わった大日本労働至誠会夕張支部が存在し,その中心メンバーである南助松,早坂朝治,鈴木富衛,高橋俊六らが,夕張だけでなく周辺の幌内炭鉱,幾春別炭鉱,歌志内炭鉱等で演説会を開くなどしていたから,まったく孤立した努力というわけではない。しかし,大日本労働同志会としては,足尾支部が唯一の組織であった。その組織の実態を伝える資料は断片的であり,その信憑性にも問題がある。ただ,1)その会員数が1904(明治37)年10月には1000人を超えたこと,2)その大部分は坑夫であったこと,この2点はほぼ確実である。
まず,会員数が1000人を超えていたことについては,『労働世界』の後継誌である『社会主義』第8卷第14号に永岡支部主幹談話として,「会員の数は一千四百余名に達し」とあるほか,『週刊平民新聞』第57号の西川光二郎の「足尾銅山遊説」報告に,「遂に一千名以上の会員あることとなりました」と記されている。また暴動事件の裁判の予審でも永岡は「盛ンノ時ニハ会員モ千四百名許リアリマシタ」(9)と述べている。ともすれば当事者による公称人員は誇大になりがちであるが,全体として永岡の証言は一般にかなり正確な事実を伝えているように思われる。
つぎに,会員の大多数が坑夫であったと推測する理由は以下の通りである。第1に,すでに一部を引用した『社会主義』での永岡談話は「同志会の有力者」として13人の姓名と4人の姓をあげている。姓名の明らかな13人中6人についてはその他の資料から職業がわかるが,5人は坑夫,1人は支柱夫徒弟である。
第2に松崎源吉「足尾銅山遊説記」(10))には「足尾中最も会員の多数を有する小滝村の十号飯場」との記述がある。小滝十号は坑夫飯場であり,その山中委員・岸清は至誠会の演説会にしばしば出演している活動家であった。
第3に,同志会の会員であることを理由に「大野元〔音〕次郎の飯場で六十人程坑夫が解雇され」(11)た事実がある。この大野音次郎は坑夫飯場・通洞14号の飯場頭である。このように同志会会員のうち職業が明らかなものの多くが坑夫であることは,会員の職業構成を反映しているとみて大過ないであろう。
さらに,これは直接証拠ではなく,いわば傍証であるが,ある意味でこれまでの断片的な情報より確かなのは,同志会の後身である至誠会の会員のほとんどが坑夫であった事実である。これについて南助松は予審廷でつぎのように述べている(12)。
「問 坑夫ノ外ハ入会セシメヌ方針ナリシカ
答 左様デハアリマセヌ。労働者ハ何人デモ入会ヲ許ス積リデアリマシタガ実際入会シタノハ坑夫ノミデ坑夫以外ノ者ハ幾ラモナイト思イマス」。
なお,会員の圧倒的多数が足尾銅山の労働者であったことに疑問の余地はないが,町民のなかにも同志会の会員となった者が何人かいた。その1人は同志会本部事務所の家主である山田菊蔵で,彼自身の証言によれば〈相談役〉(13)であった。もう1人は理髪業の泉安次で,会員には理髪料金を割り引きすることで同志会の会員拡大の便宜をはかっただけでなく,会の活動にも参加している(14)。
相互救済
同志会は相互救済を組織化の絆にしていた。しかしその共済活動の具体的な内容は必ずしも明らかでない。すでに見た規約第9条は「本会員にして負傷疾病老衰等の為め労役に堪へ難きもの在る時は,会員協議の上金五拾円を救助するものとす」と定めていた。問題は,この規定がはたして足尾支部で実施されていたか,あるいは支部独自の共済規定を設けていたかである。足尾暴動事件公判廷での永岡の陳述は後者の可能性を示唆している。
「同志会では坑夫の救済と云ふて病気になって困るものを救ふ為め一日六銭はかかる。然るに一面の収入はと云ふと坑夫一名の会費は月五銭である。私の食費が一日二銭夫れに病者の救済をやるから到底収支償はぬ」(15)。
この記録で,同志会の会費が1ヵ月5銭であったことが判明する。一方,救済についての陳述は明瞭を欠くが,病気等で収入のない者に対し1日6銭を支給したととるのが最も自然であろう。
もし,以上のような解釈が正しいとすれば,同志会足尾支部の共済事業には多くの問題があったと言わざるを得ない。うなわち,(1)1日の給付金6銭では,米4合買うのがようやくで(16),とうてい一家の生活を支えるには足りない。なお,永岡が彼自身の食費を1日2銭としているのは20銭の誤りであろう。いずれにせよ,1日6銭の共済給付では,会員を組織に繋ぎ止めておく力はなかったであろう。当時,足尾には会社側が設けた〈共救義会〉と呼ばれる共済組合があり,鉱夫は毎月10銭の会費を払い,負傷のため5日以上働けない時,病気で10日以上働けない時には,勤続年限に応じて1日10銭から15銭の〈療養日当〉を受けた。同志会の給付金はこの〈共救義会〉の給付の上乗せとして,はじめて意味をもつ程度の金額であった。
第2に,共済活動を行うには,会費があまりに低かったことである。1日6銭の給付に1ヵ月5銭の会費というのは,おそらく共救義会の会費や給付金との対抗上設定されたものであろう。しかし,共救義会は会費だけでなく古河家からの寄付金や鉱業所の補助金,さらには職員の年俸1000分の3に加え,足尾銅山に来る行商人や見学者から半強制的にとりたてる寄付金によって賄われていた(17)。しかも共救義会の場合,一類夫は加入義務を負っており,会費は賃金から差し引かれたのに,同志会は任意加入であり,会費も個別に徴収するほかなかった。その破綻は目に見えていたというほかない。
【 注 】
(5) 永岡鶴蔵については,中富兵衛『永岡鶴蔵伝──犠牲と献身の生涯』(お茶の水書房,1977年)を参照。なお,足尾での永岡の活動については,主として同時代の社会主義運動の機関誌紙,『社会主義』『週刊平民新聞』『直言』『光』によった。その多くは労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第2巻,175ページ以降に収録されている。
(6) 本章 「V 暴動をめぐる諸問題」、終章など参照。
(7) 会の名称については資料によって〈労働者同志会〉〈日本労働同志会〉など,いくつか異なった名が使われている。 しかし,『社会主義』第8巻第14号(1904年12月3日)に「会員章の雛形」が記載されており,それには〈大日本労働者同志会〉と記されている。
(8) 「労働者同志会」(『社会主義』第8年第7号,1904年5月3日)。原文は句読点を全く欠いているが,ここでは適宜加えた。
(9) 「被告人永岡鶴蔵調書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』234ページ)。
(10) 『直言』第2巻第2号(1905年2月12日付)。
(11) 『下野新聞』1907年8月3日付。
(12) 『栃木県史』史料編・近現代二,602ページ。
(13) 「山田菊蔵聴取書」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』291ページ)。
(14) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其四」(『栃木県史』史料編・近現代二,575〜576ページ)。
(15) 『下野新聞』1907年8月3日付。
(16) 1906年上半期の足尾銅山における,並白米1升の価格は13銭5厘であった(「大河原三郎実習報告書」9ページ)。
(17) 『鉱夫待遇事例』(九州産業史料研究会復刻本)175〜176ページ。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月9日。掲載に当たって画像を加え、加筆した。]
【最終更新:
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