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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史



第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──〈原子化された労働者〉説批判──




III 〈暴動〉前夜

1)飯場頭・友子同盟と至誠会の関係

飯場頭の賃上げ請願

 1907年1月7日,通洞,本山,小滝の坑部課三坑場に属する飯場頭は,各坑ごとに配下鉱夫の賃上げと,飯場頭の〈入坑手数料〉の引き上げを嘆願した。通洞坑場長が,至誠会の賃上げ要求に先だって飯場頭から嘆願するよう示唆したのは,暮の25日ころであるから,この間すでに2週間近く経過している。〈入坑手数料〉の引き上げはもちろん,鉱夫の賃上げも飯場頭が望んでいたことであるのに,要望のとりまとめに何故これほど時間がかかったのであろうか。

 おそらく1つの理由は,暮から正月という時期によろう。また,100人余の飯場頭が制度上は対等の存在であり,しかも三坑場に分かれていたことも,早急な意思決定を妨げたに違いない。だが,それ以上に大きな要因は,鉱業所に対する飯場頭の立場の弱さだったと思われる。後で詳しくみるが,この頃,飯場頭の自主性はいちじるしく弱まり,鉱業所役員のご機嫌をそこねれば,いつ〈辞令の返還〉を要求されるかわからなかった。この不安感を端的に示しているのは,通洞坑の飯場頭が〈賃上げ嘆願の請願委員〉を選出した際,全員の拠金で2,500円の軍事公債を作成し,万一請願委員が飯場頭の辞令を返還させられれば,これを補償金として5人に配分することを決めていたことである(1)。もともと鉱業所側の示唆によっておこなう嘆願書の提出にさえこうした不安を抱くようでは,飯場頭が配下労働者の不平,不満を鉱業所にはっきり伝え得る条件はなかった。坑夫らが飯場頭を信頼せず,至誠会に接近した理由の1つはここにあった。

 ところで,三坑場の飯場頭のうち,いち早く嘆願書の提出を決め,他坑場の飯場頭に働きかけたのは通洞である。すでにみたように,至誠会の影響力がここでもっとも強かったことが,通洞頭役に危機感を抱かせたものであろう。嘆願書そのものも他坑場にくらべ強い調子で,また内容的にも詳細である。飯場頭の立場から,暴動前の足尾労働者の窮状を述べると同時に,賃金引き上げ理由として,鉱業所と労働者の関係を鳥の翼にたとえ,片翼だけアンバランスに大きくなっては事業の発展は望めないと論じ,さらに鉱業こそ「富国強兵」の国家目的を財源面で支えているのだと述べるなど,日露戦争直後という時点を考えると,それなりの説得力をみせている。若干長くはなるが全文を紹介しておこう(2)

 「今ヤ国運日ニ月ニ進ミ万物ノ発達ハ海ニ陸ニ其産業盛大ニシテ長足ノ進歩ニ驚カサルナシ。外ニ軍備ヲ拡張シ内ニ富国ノ基礎ヲ固フシ,各其業ヲ励ミ益々安寧ヲ保タント欲スルハ社会同胞ノ深ク望ム所ナリ。夫レ富国財源ノ一タル鉱業ニ於テオヤ,実ニ戦後経営ノ国産的唯一ノ財源ト云ハザルベカラズ。而シテ足尾鉱業所ハ実ニ世界屈指ノ大鉱山ニシテ,遠ク専門ノ各位西洋文明ノ設備ヲ参酌シ,諸般ノ機械完備シ,益々進ンデ事業ノ拡張ヲ計ラレ,一見実ニ鉱山ノ模範トシテ耻チサル有様ナリト雖モ,職工就業ノ有様ト生活ノ状態ニ至リテハ見ルニ忍ビサルノ事情有之ハ,誠ニ違憾ニ耐ザル者アリ。因テ事情ヲ訴ヘ哀願セント欲スル事久シ。荏苒今日ニ至リ,労働者己ノ非業ヲ顧ルニ先ダチ既ニ賃金ト物価トノ均衡ヲ保タザルヲ叫バントスルニ至リ,局外ノ者其機ニ乗ジ軽卒ノ挙動ヲ以テ徒ラニ労働者ヲ煽動セントシ,既ニ其渦中ニ入ラントス。吾々頭役タル者傍観スルノ時ニアラズ。此際正当ノ手続ヲ履行シ願意御許容,正当ノ賃金ヲ与ヘラレ自活ノ途ヲ与ヘラレンコトヲ希スル次第ナリ。抑モ鉱業所ト吾々及各職工トハ殆ンド鳥ノ両翼ノ如ク,片翼ヲ伸大シ片翼ヲ縮少スルガ如キハ事業発展ノ途ニアラズシテ誠ニ違憾ニ堪ザル所ナリトス。然ルニ労働者ノ賃金ハ依然トシテ増給セラルヽナク,各労働者ノ困窮一方ナラズ,益々困難ニ陥ルハ瞭然タリ。尚此侭ニテ時日経過センカ,労働者ノ困却ハ却ッテ無謀ノ手段ニ陥リ,鉱業所ノ不名誉ヲ来タシ候様ノ事ナキヲ保シ難シ。故ニ現今ノ賃金ニテハ到底生計ヲ維持スル事能ハサル為ニ,鉱業所ニ負債ヲ生ズルモ弁済ノ余裕モ無之候。依是看之畢竟各職工ノ賃金ノ少額ナルニ起因スル事ト思料被致候。希クハ賃金ヲ増額シ,両翼ヲ伸張シ,上下協同一致ノ方針ヲ取リ,事業発展ノ宿望ヲ達スル様御許容相成候ニ就而ハ左記ノ条件ニ対シ御詮議ノ上夫々御増与被成下度候。
条  件
 第一 坑夫ニ対スル請負賃金ハ平均壱円弐拾銭ニ割リ当テ相成リ度キ件
 第二 坑夫本番賃金ハ平均六割増額ノ件
 第三 手子選鉱夫其他ノ職工ニ対スル賃金ハ平均六割増額ノ件
 第四 明治三十八年七月ヨリ入坑手数料坑夫一人ニ付金壱銭五厘宛御下付相成候ヲ増額ノ件
 第五 明治四十年一月ヨリ本番手子入坑手数料一人ニ付金壱銭五厘宛御下付相成候御達ニ有之候モ同様増額御下付ノ件
以上
 右ノ次第ニ御座候ヘバ何卒他鉱山ニ比較ノ上現今ノ窮状御覧有之度特別御許容相成度,別紙仮定日表相添ヘ謹テ此段嘆願候也
   明治四十年一月七日

大通洞頭役組請願委員
石田 喜四郎
平田 輿三郎
斎藤  金造
芝崎  寅造
松葉  鑑寿 」。



友子同盟の賃上げ運動

 坑場長の示唆により,飯場頭が友子同盟に無断で賃上げの請願を提出しようとしていることは,山中委員らにすぐ伝わった。まだ通洞の飯場頭が正式提出を決めかねていた1月3日,井守伸午,山村角次らは箱元飯場の山中委員に対し,「飯場頭ニ於テ請願ヲ為スニ付テハ,我々ニ於テ猶予スベキ時期ニ非ズ」途して,山中委員総会の開催を働きかけた。その結果,「飯場ニ於テ相談シテハ頭役ノ手前ヲ兼〔憚?〕ルニヨリ,翌四日各三十銭宛ノ会費ヲ持参シ,赤沢ノ料理店小松屋ニ会合スル事ニ決シ」(3)た。通常であれば,友子同盟の集会は箱元である〈当番頭役〉の出席のもとに開かれるのであるが,1月4日の会合は飯場頭に無断で開催された。この集会を主導したのは井守伸午である。彼はあらかじめ準備してあった16ヵ条の請願書の草案を読み上げた。この提案は若干修正され,17ヵ条の請願書として採択された。会合はまた,この請願を通洞単独でなく,本山,小滝,簀子橋の友子同盟にも参加を求め,全山一致の要請とすることを申し合わせた。
  もう1つ問題となったのは,この請願書を至誠会と協力して提出するか,あるいは飯場頭の了承を得た上で彼等を通じて提出するか,もしくは友子同盟単独で直接鉱業所に提出するかであった。井守は「至誠会ノ力ヲ籍ルベキコトヲ主張」したが,多数の支持を得られず,結局,頭役を経て提出することとなった(4)。翌5日,通洞の山中惣代は代表を本山,小滝,簀子橋の箱元に送って通洞の決定を伝え,賃上げ請願への同調を求めた。この要請に対する各山友子の対応はつぎのようであった。

〔本山〕
 「本年一月五日通洞山中箱元ヨリ(星田七郎,大嶋幸吉)二人本山箱元服部宗四郎方ニ至リ,十七ヶ条ノ請願条項ヲ持参シ,斯ノ如ク請願スル考ヘナルモ,到底通洞ノミニシテ目的ヲ達シ得スルモノニアラザレバ各山連合ノ上請願致シ度ト申込ミタルヨリ,服部宗四郎ハ山中惣代一同ニ此旨ヲ通知シ,同月七日め組飯場ニ一同集会シ,一応各飯場ニ帰リ坑夫一同ニ相談ノ上決スベシト云フコトニナリテ散会シ,再度同月九日山中一同め組飯場ニ集会シ,各飯場ニ於テ坑夫一同モ企〔希〕望シ居ルヲ以テ連合請願スル事ト為シ,此旨箱元ヨリ通洞箱元ニ通知セリ」(5)
〔小滝〕
 「通洞山中惣代ニシテ至誠会ニ熱心ナル旭藤太郎,川上鶴重ハ,一月五日請願条項十七ヶ条ヲ列記シタル書面ヲ小滝山中惣代山田新次郎方ニ持参シ連合ヲ申込ミタルニ,同人ハ賛成ヲ表シタルモ一同ニ相談セザレバ返答出来ザル旨ニテ別レタルニ。其後ノ形勢冷静ナルヨリ,越テ二十八日ニ至リ尋常ノ手段ニテハ網羅スル能ハズト,旭藤太郎,東吉次郎及ヒ山中箱元(姓名不詳ノモノ二人)山田新次郎方ニ至リ相談ノ結果,二月一日足尾町松原町鶴屋ニ於テ連合会ヲ開ク事ヲ約束したり」(6)
〔簀子橋〕
 「本年一月五日簀子橋ニ於テハ山中惣代等,即チ十一号ノ川崎政次,同山口亀之助,十二号ノ帰山長右衛門,小沢和蔵,十三号ノ浜竹次郎,同金沢栄次郎等,初会合ヲ為シ居ル処ヘ通洞ノ山中惣代箱元ヨリ十七ヶ条ヨリ成ル請願書ヲ持参シテ示シ,斯ノ如ク各山連合ノ上請願スル考ナルガ如何ト申込ミタルヨリ,出席者ノミニ於テハ即答シ能ハサルヲ以テ,一応一同ニ相談ノ上挨拶スベシト申シタリ。申込ミヲ受ケタル山中惣代ハ,各自飯場ニ属スル坑夫一同ニ其旨ヲ話シタルニ,一同宜敷頼ムトノコトヨリ,其旨一月七日簀子橋十二号箱元ニ通知セリ」(7)

 どの友子同盟にも共通しているのは,箱元はもちろん,山中委員だけでは態度を決定せず,それぞれ山中委員が各自の選出母体である飯場に持ち帰り,一般坑夫の意向を確かめた上で最終決定を下していることである。友子同盟は親分=子分の前近代的関係によって律されているという,これまで一般に強調されてきたところは,事態の一面にしか過ぎないといえるのではないか。
 各山の友子同盟の中では,簀子橋がもっとも早く1月7日に同調を表明した。ついで本山も同9日に通洞と共同歩調をとることを決めた。簀子橋の場合は僅か3飯場だけである上に,たまたま山中惣代が全員集まっているところに通洞の要請が伝えられたため,本山より2日早く態度を決めたもので,両者の対応にはほとんど違いはないといってよい。問題は小滝であった。申込を受けてから3週間以上も明確な態度を表明せず,このため友子同盟としての一致した請願はしばらく宙に浮いたままになったのである。




2)友子同盟と飯場頭の対立

至誠会と友子同盟の接近

 三坑場の飯場頭がいっせいに賃上げの嘆願書を提出した1月7日,通洞の山中委員は掛水の呑龍寺で会合を開いた。この集まりは,いわば新年の例会で,席上には〈当番頭役〉の米谷市平(通洞8号飯場頭)も出席していた(8)。ここで当然問題となったのは友子同盟としての賃上げ請願の件であった。これに対し,米谷市平は,「坑夫等ガ飯場〔頭〕役ト併立シテ請願ヲ為スハ却テ事態ヲ紛糾ナラシメ,又頭役等ガ請願シタル目的ト抵触スルモノト認メ,山中委員等ニ対シ請願ヲ一時見合スベキコトヲ説」(9)いた。この飯場頭の発言は,なぜ自分たち友子同盟としての請願書提出に反対するのかと,山中委員の多くを憤激させた。とくに至誠会会員である山中委員は,賃上げを最初に提唱し,飯場頭にも礼をつくして参加を要請してきたわれわれに無断で,頭役だけでこっそり行動したことを,激しく非難した。そして,かねてから問題になっていた友子同盟の財政の管理権──〈箱〉──を飯場頭から山中委員の手に取り戻すべしと主張し(10),米谷市平と真っ向から対立した。さらに井守らは,この機会に至誠会の南助松らを招いて意見を聞くことを提案した。この提案は即座に認められ,すぐに使いが出された。
 この折の模様を田村警部の捜査報告書はつぎのように記している。

 「同月七日呑龍寺会合ノ際,南,永岡ハ涙ヲ振テ云フ様,我々ハ至誠会ナルモノヲ組織シ,労働者ニ対スル賃金値上ケ其他利益ヲ謀ルヲ以テ目的トシテ,之ガ為メニハ生命ヲ賭シテ尽力シツ〔ツ〕アルモノニシテ,其目的着々効ヲ奏シ鉱業所ヲシテ賃金値上ケノ止ヲ得サル場合ニ迫ラレタルニ,坑場長ハ窺カニ飯場頭ニ内意ヲ告ゲ請願書ヲ携〔提〕出セシムルモノニシテ,彼レ等間ニハ既ニ値上ゲスルノ内意相通シ居ルモノナレバ,其ノ実行ノ賎モ〔暁ハ?〕我々ノ尽力ハ水泡ニ帰スル場合トナリ実ニ残念ナリ云々ト」(11)

 この報告書で南,永岡両人の発言の趣旨はほぼ分かるものの,二人の肉声は聞こえてこない。だが,その翌日,彼らが至誠会の演説会で一般鉱夫に呼びかけた記録を見ると,その発言内容を具体的に知ることができる。
  永岡は言う。

 「頭役等ハ弐千五百円ノ軍事公債ヲ拵ヘ,若シ請願ノ件ニテ失敗スレバ五名ノ委員ニテ分配スル逃支度シテ賃金値上ノコト及ビ序ニ自分ノ手数料ヲモ三銭ニスル様ニ願ッタソウデアル。彼等頭役等ハ実ニ人間ノ正義人道ト云フコトヲ知ラヌ,昔ノ佐倉惣五郎ハ逃支度ヲシナイ。自分ノ手数料ヲ上ゲテ貰フ様ニハ願ヒハセヌ。併シ其遣リ方ヲ悪ムガ其人ハ悪マヌ。吾々モ之レカラ大ニ願フ積リデアル。正義人道ノ為メニハ生命ヲ抛チテモ飽迄ヤル」。

つづいて南は指摘する。

 「今度頭役連ハ一円二十銭ノ賃金値上ヲ請願シタソウダガ之ヲ会社ガ実行スレバ宜ヒガ,六ヶ敷モノダ。或ハ会社ト頭役トガ吾々至誠会トノ離間策ヲ施シタノデハナイカト思フ」。 「頭役連ハ請願ニ就テ吾々ニ一回ノ交渉モナク密ニ提出セシハ慥ニ人道ヲ知ラヌ処置ナリト述ベ,尚吾々至誠会ノ運動ニ障害ヲ来シツヽアルノデアル。諸君ノ内ニハ,頭役ガ願ヒ,亦山中惣代デモ願ヒ,夫レデ会社ガ聞キ入レルナラン故ニ,先つ至誠会ナドニ這入ルノ必要ハナイト思フ諸君モアランガ,頭役ノ今度ノ処置ハ吾々ノ運動ヲ挫ン為メニ遣ッタノデハナイカト思フ。勿論会社ハ頭役ノ願ヲ入ルヽカ知ラン。併シ夫レハ到底永遠ニ持続ス可キモノデハナイ」(12)

 この1月7日の通洞山中委員の例会は,至誠会と友子同盟の関係をより密接なものにした。この会合の最後に,「或ル山中委員ガ一号ヨリ順次意思ヲ陳ベテ呉レト云ッタ」(13)のに答えて,「通洞十号ノ加藤栄松,大橋忠蔵,四号ノ前田徳太郎,寺口友吉,二号ノ井守伸午,松村勇吉等ハ各所属飯場ヲ代表シ,其ノ他ノ山中惣代ハ総テ己人トシテ賛成シタ」(14)。飯場頭が山中委員に無断で請願書を提出し,しかも友子同盟としての請願書提出を抑えたことは裏目に出てしまい,通洞の山中委員を完全に至誠会側に近づける結果となったのである。
  この夜,通洞最大の1号飯場の山中委員で,坑夫間に勢力をもっていた大西佐市をはじめ多数の山中委員が至誠会に加入し,通洞山中委員36人中至誠会会員は32〜33人にも達した(15)。この日を機に,至誠会の運動は勢いを増した。その一端を示すのは,翌1月8日通洞金田座で開かれた演説会で「傍聴人千百六十余ニシテ,其時南永岡ノ演説ニハ傍聴ノ坑夫カ非常ノ感動ニテ拍手喝采シ」(16)たという。坑夫らが「非常ノ感動」を見せたのは,至誠会がはっきりと飯場頭を批判し,その会社寄りの姿勢を非難したことにあったと思われる。この1月7日の通洞山中委員の会合が重要な転機となったことは,捜査にあたった検察官も認めるところであった。  

「山中委員等モ一月七日呑龍堂ノ会合後日ヲ追ッテ至誠会ト密接シ,坑夫等ハ入会スルモノ続々其数ヲ加ヘ,頭役ニ対スル反抗ノ体〔態〕度ヲ加フルニ至リタ。」

  同志会以来の活動家で,通洞10号飯場の山中委員加藤栄松などは,「一月二十一日以来病気届ヲ為シテ坑場ヲ欠勤シ,至誠会員ノ募集及賃銀値上ゲ等ノ運動ヲ為シ,殊ニ平民新聞ヲ強制的ニ販売シ歩」くという打ち込みようであった(17)



箱取り戻し

 事態の予想外の展開に,通洞の飯場頭は1月10日,泉屋旅館の土蔵で秘密会を開き,至誠会の撲滅策を協議した。1号の飯場頭石田喜四郎,8号の米谷市平らは「蛮勇ヲ振ルヒ南,永岡等ヲ殺傷シテ迄モ退治セザル可カラズ」と主張した。しかし,こうした意見は全員の同意を得られず,激論が交わされた。そのため秘密会のはずの会合は「頭役ガ喧嘩シテ居ルトノ話ヲ聞キ,〔至誠会の活動家である〕加藤栄松ガ見ニ行ク」(18)といった結果になった。
  このため,通洞飯場頭は13日にふたたび会合し,「至誠会入会者ハ総テ下山セシムベキ事ヲ協定シ」た。しかし,この協定はほとんど実行されることなく,ただ4号,14号,15号の3飯場で「至誠会ニ入会スル者ハ解雇スル。会社ノ命令デアル」との掲示が出されただけであった。このことを聞いた南,永岡,林らはすぐ鉱業所に川地庶務課長を訪ね,掲示が実際に「会社ノ命令」によるものか否かを問いただした。川地課長は,「左様ノ命令シタコトハナイト云フ事デ直ニ其掲示ヲ取消」(19)した。さらに永岡は,至誠会撲滅の急先鋒の釜田延太郎らに,至誠会への入会を妨害するのは治安警察法17条に違反すると抗議した。こうして,通洞飯場頭が決めた〈至誠会会員の解雇方針〉は実行されることなく終った。

通洞飯場頭を弱腰にしたのは,解雇について鉱業所の公然たる支持が得られなかっただけでなく,本山など他山の飯場頭の協力が得られなかったためでもあった。1月中旬,通洞の呼びかけで開かれた通洞・本山の飯場頭による秘密会では,「至誠会ハ目下破竹ノ勢ナリ。之ニ向テ予防策ヲ講ズルトキハ却テ彼等ニ動機ヲ与フル虞レアルニ付放任シオクコト」という結論になったのである。
  この通洞・本山の秘密会では,通洞坑の頭役から,1)至誠会の賃上げ請願が提出される前に,すでに提出済みの飯場頭の請願に対し承諾の回答を与えるよう会社側に迫ること,2)川地庶務課長が南助松に賃金引き上げ方針を述べたという話がある。はたして事実であれば頭役を無視したものであるから川地庶務課長に談判すること,の2点を提案し,同調を求めた。しかし,本山側はこれについても「不穏当」,「全ク大人気ナキ」こととして同意しなかった(20)。こうして飯場頭と山中委員との対立は,どちら側も,通洞坑が突出する形で激化したのである。

 一般坑夫はもちろん,山中委員をつとめるほどの有力坑夫でも,自分を直接監督している飯場頭に反抗することは容易ではない。しかし,多数の仲間と共に,いったん公然たる対決に踏み切ったあとは,これまで欝積していた憤懣がせきを切って溢れ出た。飯場頭が彼らを酷使し,また賄いなどで不当な利益をあげていることに対する不満ももちろんだが,それ以上に坑夫たちが怒っていたのは,飯場頭が鉱業所に対して極めて弱腰で,坑夫の希望・要求を伝えず,かえってその手先となって賃上げ運動を抑圧しようとする点にあった。
 とりわけ,多くの山中委員にとっては,坑夫の自主的な組織である友子同盟に頭役が介入・干渉するのは我慢がならなかった。これというのも,友子同盟の財政を飯場頭に委ねてあるからだ。〈箱〉の管理権を頭役から取り戻せば,彼らは友子同盟に介入できなくなる。これが1月7日の通洞山中委員の例会で井守伸午らが主張したことであった。もともと友子同盟の経理は山中委員の中から選ばれた大当番が担当していた。ところが,1902年ころ,大当番の1人がこの金を持逃げし,その尻ぬぐいをさせられた飯場頭の主張で,1903年に〈箱〉の管理権が大当番から,大当番が所属する飯場頭役の手に移っていたのであった(21)

 1月7日の例会では,当の〈当番頭役〉である米谷市平の頑強な反対で,この問題は未決定のままに終った。しかし1月25日,通洞山中委員が会合を開くため8号飯場の使用を申し入れたのに,米谷は拒絶し,これがきっかけとなって問題は再燃した(22)。米谷にしてみれば7日の会合後,通洞山中委員の多くが至誠会に入会していたから,山中委員に会場を貸すことは,至誠会を助けるに等しいと感じたのであろう。

 だが,山中委員側からみれば,これもまた友子同盟の活動に対する不当な介入であり,友子の権利に対する侵害であった。翌日,1月26日の至誠会の演説会で,井守伸午はこの問題を取り上げ,「山中惣代ノ席ヘ或頭役ハ出テ,諸君ノ自由ハ束縛シナイ,権利ヲ無視シナイト云ヒナガラ,山中惣代ノ臨時集会ハ此際穏カデナイノ,或ハ集会ニハ飯場ヲ貸サヌノト故障ヲシタ」(23)とこれを非難した。

 ところで,この1月26日の演説会は,始まる前から人びとの関心を集めていた。大日本労働至誠会足尾支部運動主任・南助松が元東京鉱山監督署長,古河鉱業会社足尾鉱業所長・南挺三に公開状を発し出演を要求した〈南対南の立ち会い演説会〉だったからである。この日は「前以テ運動者ガ〈金持ト貧乏人ノ大相撲〉ガアルナド面白ソウニ触レ廻リタル」こともあって,「午後六時開会,此時已ニ傍聴者無慮一千百余名場内立錐ノ余地ナキ迄ニ押掛ケル」盛り上がりをみせていた。もちろん南所長は出演しなかった。この夜の南助松は,本来予想された鉱業所に対する批判攻撃はあまり目立たず,「会社ヘノ請願ハ追テ大会ヲ開キ決議ノ上」という程度にとどまっていた。かわって,これまで控えていた飯場頭に対する公然たる批判が展開されたのであった。

「頭役諸君ノ内ニハ陰険ナ手段ヲ弄シテ居ルモノ二三名アル。南助松ノ近来ノ行動ニ就テ警察カラ予戒命令ヲ執行スルナラントカ,種々ノ流言ヲ放ッテ吾至誠会ノ行動ヲ妨ゲントシツヽアル。通洞ノ頭役デ山中委員惣代ノ集会ヲ拒ミシ点ニ付,吾々労働者ノ代表者ガ自由ノ範囲ニ於テスル集会ヲ何ノ権能アリテカ頭役ガ干渉スルカ。暴慢無礼ナリ。諸君ハドウシテモ起タネバナラヌ時期ニ遭遇シタ。諸君ガ労働賃金ヲ請取ルノ委任状モ取リ返サナケレバナラヌ」(24)

 この演説に鼓舞された通洞の山中委員は,この夜,演説会場の金田座の楽屋に集まり,南,永岡らと〈箱〉取り戻しの相談をおこなった。翌27日,通洞山中委員はあらためて小松屋に集まり,小滝の消極的な姿勢で行き詰まっている友子同盟の賃上げ請願の実現につき協議すると同時に,〈箱〉の管理を飯場頭から取り戻すことを決定し,ただちに行動を開始した。これについて,当の相手である米谷市平はつぎのように述べている。

 「一月二十七日,通洞ノ山中委員ガ小松屋ニ会合シタル結果自分ヲ呼ビニ寄越シタルモ出席セズニ居ルト,同日午後三時頃山中委員一同自分飯場ニ来リ,ナゼ来ヌカ,ナゼ当飯場ニ山中委員ガ集会スルヲ拒ミシカ云フテ自分ヲ攻撃シタリ。山中委員一同ガ自分飯場ニ来リタル実際ノ目的ハ,頭役カ箱ノ監督即チ金銭ノ出納ニ付頭役カ銭ヲ預リ置キ,正当ト認メネバ支出セザリシ慣例ナルニ,其監督ノ権利ヲ頭役ヨリ奪ヒタイト云フカ目的ニテ,其請求アリシ故,頭役一同相談ノ上,翌二十八日ニ至リ,二月五日交代ノ時ニ箱ノ監督権ヲ解クト云フコトニ承諾シタリ。箱取戻シニ付最モ主張シタルハ大西佐市,井守伸午外四名ナリシ」(25)

 この〈箱ノ監督権〉は,飯場頭にとって,単に友子同盟に対する発言権を確保するか否かというだけでなく,経済的利害が大きくからんだ問題であった。というのも,通洞の友子同盟の財政は〈飯場頭の請負制〉だったからである。坑夫らは毎月1人当り1円50銭の〈飯場割〉と称する負担金を飯場頭に支払っていた(26)。飯場頭はこの〈飯場割〉の中から共同風呂の費用と友子同盟の費用,いわゆる〈交際費〉を支出した。共同風呂の費用は1人当り12銭から15銭に過ぎず,〈飯場割〉の大部分は〈交際費〉であった。この〈交際費〉は,定額ではなく,毎月,実際に支出された総額を,配下坑夫の人数に応じて各飯場頭に分担させたのである。これを〈請負制〉というのは,その支出額が〈飯場割〉による収入総額を越えても,飯場頭はこれを負担する義務を負う一方で,もし支出額が収入を下回れば,余剰は友子同盟のものではなく,飯場頭の収入となったのである。そして,容易に想像しうるように,現実には〈飯場割〉の25〜35%,実額にして坑夫1人当り40銭から50銭が,毎月飯場頭の収入となっていた。これは飯場頭の表向きの収入である〈入坑手数料〉,坑夫1人1日当り1銭5厘を上回る額であった。

 ところで,飯場頭が〈飯場割〉から利益をあげるには,〈箱ノ監督権〉を握っていることが必要,不可欠であった。「箱ノ監督即チ金銭ノ出納ニ付,頭役ガ銭ヲ預リ置キ,正当ト認メネバ支出セザリシ慣例」であったからこそ,友子費用の請負いは飯場頭に利益をもたらしたのである。もしこれが,山中委員,それも飯場頭に敵対的な至誠会員が圧倒的多数を占める山中委員の手に移れば,〈飯場割〉による収入を上回る交際費を請求され,飯場頭の〈持ち出し〉になるおそれがあった。仮に〈交際費〉が〈飯場割〉を下回ったとしても,〈箱〉を握り,その事実を知り得るようになった山中委員は,当然〈飯場割〉の減額を要求するであろう。

 これほど重要な意味をもつ〈箱〉の管理権を,飯場頭はなぜ手放したのであろうか。何より,もともと〈飯場割〉は友子同盟のためのもので,その管理権が本来,山中委員側にあることを否定しえなかったからであろう。また,この交渉にあたった飯場頭,8号飯場の米谷市平,1号飯場の石田喜四郎らは,配下坑夫が100人を越える大飯場の頭役で,かなりの資産もあり,〈飯場割〉による収入を失っても経営が成り立つ条件をもっていたからであろう。あるいは,頭役の多くは〈箱〉の引渡しのもつ意味を,即座には理解しえなかったのかも知れない。

 だが,翌1月29日,通洞の飯場頭の間を衝撃的な知らせが走った。通洞1号飯場で,大西佐市ら配下坑夫に〈飯場割〉の引き下げを要求された石田喜四郎は,1号飯場だけではあるが,飯場割制度を全廃してしまったというのである(27)。頭役らにとって,〈箱〉の引渡し=友子同盟の財政の管理権の喪失は,それ自体ただちに彼らの利得の減少をもたらすとは限らず,さしあたりはその危険性の問題であった。しかし,〈飯場割の廃止〉は確実に安定した収入源を失うことを意味した。とくに,配下坑夫が40人〜50人といった中小飯場の場合は,経営が成り立たなくなるおそれさえあった。大恐慌を来した飯場頭らは,なんとか1号飯場の〈飯場割〉制をもとに戻すべく,大西佐市に必死の工作をおこなった。その日の夜,通洞19号の頭役釜田延太郎(28)は,大西とともに通洞1号の山中委員である酒井和吉とともに,泉屋旅館で大西に会い,「通洞1号ノ飯場割ニ付,従来ノ飯場頭ノ請負ヲ解キ,坑夫ニ於テ飯場持チトナシタルヲ従前ノ通リ飯場請負ニ復スルコトニ依頼」(29)したのである。釜田は,大西に「十数年愛撫セラレタル一号飯場頭」石田喜四郎との「恩誼上ノ関係ヲ説テ飯場割ヲ従前ニ復スルコトニ付尽力スヘキ旨懇諭」した。大西は「熟考ノ末,若シ我レ独リ頭役ノ依頼ニヨリ之レヲ承諾セバ,他ノ坑夫ヲ売リ,小児ニ熱湯ヲ飲マスムルニ均シキヲ以テ之ニ応ズル能ハズ。若シ強テ承諾セシメントセバ先ツ我ヲ刺セト云ヒ,其ノ決心確トシテ動カスベカラサルモノアルヲ以テ」その夜の話合いは物別れに終った。しかし釜田はあきらめず,翌30日,31日にも重ねて大西の説得に努めた。

「翌三十日更ニ自分飯場ニ十三号ノ頭役斎藤金蔵,一号坑夫酒井和吉等ト倶ニ同人ニ対シ前夜申入レタル飯場割ノコトニ付重ネテ説キタルモ要領ヲ得サルニ付,更ニ他人ヲ介シテ一号飯場ニ於テ坑夫一同ニ交渉スルコトトナリ,翌三十一日一号飯場坑夫集会ノ席ニテ交渉シタルモ決着ヲ見ルニ至ラズ」。これは検察の控訴意見書が伝える,「証人釜田延太郎法廷ニ於ケル陳述」である。〈飯場割〉の廃止が,どれほど重要な意味をもっていたか,これをくつがえすために頭役らがいかに必死の努力を傾けたかが,この短い陳述の中からうかがえる。この釜田と大西の話合いでは,もう1つ重要な問題が議論されているが,これについては,また後でふれることになろう。



友子同盟4山,請願で合意

 1月27日,通洞の山中委員が臨時集会を開いた当初の目的は,小滝の消極姿勢のため延びのびになっている賃上げ請願を実現する方策を協議することであった。実際には,この日の会合は主として〈箱〉取り戻し問題が中心となったが,同時に足尾4山の山中委員代表による〈連合会〉を開き,請願につき協定すること,会合は2月1日を予定し,その旨他山に申し入れることが決まった。翌28日,通洞代表は各山を訪れ,前日の決定を伝えて協力を要請した。本山,簀子橋は直ちに承諾したが,小滝は「頭役カ請願シ置ク故我々同志ヨリ請願スルハ見合スベシ」と答えた。そこで通洞代表は,本山代表にも同道を求め,あらためて小滝の箱元のもとに行き,「兎ニ角請願スルモセザルモ連合会ヲ開キテ決スベシ」と説得した。その結果,小滝も再考を約束し,ようやく〈連合会〉の開催にこぎつけたのである。

 2月1日午前9時,通洞の鶴屋旅館で始まった〈連合会〉には,通洞,小滝,本山の3山から各4人,簀子橋から2人の計14人の代表が参加した(30)。まず問題となったのは,請願に至誠会の協力を得るか,それとも飯場頭を通じて提出するかであった。通洞の旭藤太郎(8号,箱元)が「至誠会ノ力ヲ藉リテ請願」することを提唱したのに,小滝の山田新次郎らは,至誠会と結ぶのであれば,小滝は連合には参加できないと反対した。かねてこの問題について討議していた本山の代表は「総テ会社ニ提出スル書類ハ飯場頭ヲ経由セザレバ会社ニ於テ受理セザルガ故ヘ,山中ノ名義ヲ以テ,飯場頭ヲ附キ添ヘ提出スベシ」「採用セラレサル場合ニ至誠会ノ力ヲ藉リテ願フコトニシテモ遅クハアルマイ」と発言し,小滝,簀子橋もこれに賛成した。これに対し,通洞が,通洞の頭役は山中委員の請願には付き添うことをしないであろう,その時は道するか,と質したのには,「各山応援シテ談判スルコト」となった。
 ここで,通洞箱元から

 「何ヲ以テ願フモ夫レハ手続キニ過ギザルモノナレバ,請願ニ対スル連合規約ヲ先ニ結ビ,以テ打解ケ協議スベシト申シ,東吉次郎ハ自ラ筆ヲ採リ,左ノ如ク連合規約ヲ起草セリ。
 我々間ニ起リタル行動ニ付テハ共ニ進退ヲ決スルコト
茲ニ於テ小滝ノ箱元ハ,夫レハ(協議決定ノ上)と加ヘラレタシト提議シ,一同之レヲ是トシテ終ニ左ノ如ク定決〔締結〕調印セリ。
我々間ニ起リタル行動ニ付テハ,協議決定ノ上,進退ヲ共ニスルコト。
右成立の後,請願事項ヲ闘〔討〕議シ,本山ヨリ三ヶ条,小滝ヨリ二ヶ条,通洞より一ヶ条夫れに昨年一月四日,小松屋ニ於テ起草シタル通洞提出ノ十七ヶ条ヲ加ヘ都合二十二ヶ条ノ請願文成立シタリ」。

これと同時に,請願書は2月6日午前9時に一斉に提出し,2月10日までに回答ありたきむね,口頭で申し入れることも決定された。
 こうして,やっと4山全部が一致して賃上げ請願をおこなうことでまとまり,つぎに請願書を,各山1通づつ4通作成することになったのであるが,そこでちょっとした問題が起こった。出席者のうち誰一人として請願書を執筆できる者がいないことがわかったのである。そこへたまたま会議の成行きを心配した井守伸午が鶴屋を訪ねてきたので,「好都合ナリ」と招き入れられ,請願書の作成をまかされた。このため「該請願条項ハ一同ノ協定シタルモノナルモ,其ノ前文ト結文トハ井守伸午ガ書キ加ヘタルモノナリ」という。会議の終了時刻は午後10時,延々13時間におよぶ〈マラソン会議〉であった。
 翌2月2日,今回は各山1名づつの代表がふたたび小松屋に集まり,〈連合規約書〉に正式に調印した(31)。翌々3日,通洞と本山で,さらに4日には小滝で,山中委員に対し,〈連合会〉での討議経過,結果が報告された。難航した友子同盟としての請願が,ようやく実現の運びとなったのであった。



坑夫の要求

 友子同盟請願書の請願条項は,暴動時に坑夫らが鉱業所に対し抱いていた不満を集成したものであり,坑夫と鉱業所の対立点を明確にしている。いま残っている請願書は宇都宮地方検察庁所蔵の『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』と題するファイルに綴られているものと,『日本労働運動史料』第2巻に収録されている足尾鉱業所『足尾暴動概記』所収のものである。前者は本山坑場に提出される筈であったものの写し,後者は暴動の最中の2月6日に小滝の友子同盟山中箱元から小滝坑場あてに提出されたものの写しである。前者は項目数が23,後者は24であるほか,細部に多少の違いがある。まず,より詳しい『足尾暴動概記』の記録を主として全文を紹介し,検察庁資料にあって『足尾暴動概記』にないものは〔 〕でかこみ,『足尾暴動概記』にあって検察資料にないものは〈 〉でかこみ,その異同を示すことにしよう。なお,検察資料は一部に変体仮名を混ぜたひら仮名を用いており,鉱業所の記録は片仮名を使っているが,その違いは無視した。また後の検討の便宜のため各項目の末尾に番号を附した。

「今回三坑場〔ノ〕坑夫一同〈ノ〉惣代等集会ノ上吾々〈ハ〉〔其〕同業者間ノ困難ト不便利等ヲ感察シ協議ノ結果請願仕候條件左ニ開陳仕候
      条件
一賃金ハ本番夫ハ従来ヨリ六割ノ値上〈ケ〉セラレタシ(1)
一請負賃金ハ最低者壱円弐拾銭ニ相当スル様ニセラレタシ(2)
一正当ノ勉強ヲナシ萬一ニモ八拾銭以下ノ〈日当ナル時ハ〉〔番当りになりたる時は〕八拾銭以上ノ番当リニ訂正セラレタシ(3)
一開坑採鉱ノ間代ハ全部変更ヲ時々セラレタシ(4)
一弐週間以上ノ病傷〈者〉〔人〕ニハ五等施療以上ニ相当スル様救助金ヲ与ヘラレタシ(5)
〈一使役中病傷ニ罹リ全治ノ見込ナキモノニハ十分ノ救助方法ヲ設ケラレタシ〉(6)
一病傷人ニ対シ〔て〕救助規則ヲ実行シテ救助金制限ノ〈許ス限リ〉〔件に限り〕物品ヲ渡サレタシ(7)
一労働シタル賃金ハ往々違算等アルニヨリ現場員ヨリ其現場ニテ間代ヲ記入シタル延尺受取ノ証明書ヲ渡サレタシ(8)
一倉庫品ハ本番賃金ニ相当スル日用必需物品ヲ渡サレタシ
  但シ右ニ対シテ往々同価ニテ吾々ニ粗悪品ニテ渡サレ役員其他ニ〈善キ〉〔美き〕品物ヲ渡サレル事ハ不公平ナル処置ナレバ禁止セラレタシ(9)
一山中委員ヲシテ請負賃金ニ不公平アリ亦現場請負ニ不公平アリ亦〈ハク=一字漢字・金偏に白〉〔銅〕ノ歩合ニ不相当ノ点アリ〈タルトキハ〉総テ立会及ビ調査ノ権限ヲ与ヘラレタシ(10)
一空気及ビ衛生危害ノ予防ニ充分注意セラレタシ(11)
一欠番ハ一ヶ月ニ五日間ダケハ〈無届〉〔無理〕ナルモ処罰ハ免除セラレタシ(12)
一坑内ニ飲料水ノ配置ヲ壱坑道毎ニ配置セラレタシ(13)
一三坑場内ノ大廊下ハ総テ電灯ヲ点火セラレタシ(14)
一借区内ノ水場ニハ屋根并ニ流シヲ設ケラレタシ(15)
一三坑場使役人ニ対シ〔対する〕家屋〔建築し〕〈ヲ与フルハ〉〔与へられるは〕当然ニシテ若シ萬一〔にも〕家屋不足ノ為メニ〈ハ〉〔て〕他ノ所有ノ長屋ニ住居スルモノニ対シテ家賃ヲ補助〔輔〕セラレタシ(16)
一三坑場〔坑〕内ニハ安全ナル人道ヲ設ケラレタシ(17)
一就業〈時間〉〔現場〕ニ対シテハ坑夫其者ヲシテ遺憾ナク就業スルノ設備ニ注意ノ励行セラレタシ(18)
一坑口ニハ火薬類渡シ場札渡シ場等ニ雨覆ヲ設ケラレタシ(19)
一三百尺以上昇降シテ就業スルモノニ対シテハ六時間交代ニセラレタシ
 〈但シ坑口ニテ実行ノ事〉(20)
一賃金ノ払出シ期日ヲ毎月二回トシ拾五日〔間〕毎ニ支払セラレタシ(21)
一本番坑夫ト雖モ採鉱々夫ト同様ニ賞与金ヲ下賜セラレタシ(22)
一共済義会〔共救義会〕ハ相互ヨリ委員ヲ撰出セシメ事務ヲ監督シ月末ニハ決算報告ヲ公示セラレタシ(23)
一今後吾々ニ対スル施行規則発布セラレル前ニ通達〈マテ〉〔ありて〕承諾ノ〈有無〉〔可否〕ニ依テ実行セラレタシ(24)
右ノ通リ決議仕候テ茲ニ山中坑夫一同ヲ代表シ請願致候間御採用アラレン事ヲ奉懇願候尤モ御採用ノ如何ニヨリテハ三坑場坑夫一同ノ集会可致候都合モ有之候ニ付何分ノ御処置ヲ仰キ奉請願候也  恐惶謹言
   明治四十年二月六日
                     小滝坑夫一同
                     本山坑夫一同
                     通洞坑夫一同
                     簀子橋坑夫一同       小滝坑場御中
        〈追加案
一鏨焼賃ハ無賃ニセラレタシ
一共同風呂ハ無賃ニセラレタシ     
 
明治四十年二月六日          小滝山中箱元
     請願添書
今回山中箱元ヨリ請願セシ件々御審査ノ上何卒御採用ノ程偏ニ奉懇願候也
 明治四十年二月六日             小滝両頭役
小滝坑場御中〉 」。

 本山の請願書には小滝の請願書にある第6項が欠けており,最後の連名の部分は「本山坑夫一同」が最初に来て,宛先は本山坑場となっている。〈追加案〉以降は『足尾暴動概記』だけにあるものである。両者の表現の細部にはかなりの違いがあるが,もともと小滝の請願書と本山の請願書に違いがあったのか,筆写の際の誤りか,はっきりしない。どちらかといえば小滝の請願書の方が明瞭で,第7,10,12項などは小滝の方が正しいであろう。本山のものは筆写した検察関係者に鉱山の術語などの知識がないため,誤った点が多いように思われる。ただし,第18項は本山の方が正しいであろう。いずれにせよ,文意にそれほど大きな違いがあるわけではない。 請願条項は大きく分けて1)賃金,2)安全衛生,3)傷病扶助,4)物品供給,5)友子同盟の労働者代表権,6)その他,からなっている。

 第1の,賃金に関する要求条項は,賃金額の引き上げ,賃金決定方法の問題などである。賃金額は本番夫(出来高でなく固定日給の坑夫)は60%の引き上げ(1),請負賃金(出来高給)は最低者を1円20銭とすること(2),請負で80銭を下回った時は80銭以上とすること(3)の3項である。問題は第2項と第3項で,両者が矛盾していることである。これは,おそらく,要求を作成した坑夫の文章表現力の問題である。すなわち,第2項の「最低者壱円弐拾銭」という言葉の意味は,〈間代〉決定にあたって基準となる標準賃金額を,現在の65銭から〈少なくとも1円20銭〉にしてほしいということであろう。すなわち一般的な表現に改めれば,「最低者1円20銭」でなく「平均1円20銭以上」への引き上げ要求であったと見るべきであろう。

 賃金に関連した項目で注目されるのは,(8)(10),ついで(4)である。坑夫の賃金は圧倒的に出来高給で,その基準は切羽毎に現場員によって決定されるものであったが,その査定が不公平であることが,強く意識されている。とくに(10)は,現場員の査定に不公平があり,あるいは採掘した鉑(鉱石)の品位の鑑定が不相当な場合に,友子同盟の山中委員の立会及び調査の権限を要求しているのである。これは欧米の炭鉱労働組合などが,採掘した石炭の計量で不正がおこるのを防ぐため設置を要求した〈検量係〉(checkweigh-man)と同じ性質のものである。関連して,規則制定にはあらかじめ友子同盟の承諾を必要とする制度改革を要求した(24),坑夫も掛金を拠出している共済組合の会計にも労働者代表の参加を求める(23)も重要であろう。ここでは「団体交渉権」という言葉こそ使われていないが,ほとんどそれに近い考えが示されている。もし仮に,(10)(24)などの要求条項が貫徹していたなら,足尾の友子同盟は,まさに労働組合として機能することになったであろう。5)に「友子同盟の労働者代表権」という分類項目を置いたのは,これら3項があるからである。なお,(21)は賃金支給が,現在月1回払いであるものを2回に改めよというにある。

 賃金とならんで多いのは安全・衛生に関する項目である。(11),(13),(14),(15),(17),(18),(19)がそれにあたる。これは,永岡鶴蔵が安全問題を重視し,つねに労働者に呼びかけていたことの影響というか,成果であろう。傷病扶助についての(5),(6),(7)も同様のことがいえよう。

物品供給についての不満を反映した(9),(7)は,鉱業所の〈倉庫〉か飯場からでないと,現金なしで食料品や日用品を入手できない足尾の労働者一般にとって切実な問題であった。これについては至誠会の〈供給米の改良〉要求について述べた際にも若干ふれたが,とくに鉱夫等が強い不満を抱いていたのは,欠勤が続くと,米や味噌といった食料まで供給量を制限することであった。これは,無届け欠勤に対し罰金を課する規定と同様,鉱夫の出役率を高めるための手段であった。(12)は後者に関連した要求である。

その他には,到達するのに時間がかかる切羽での労働時間の短縮要求,住宅費の補助要求がある。また,小滝坑場独自の要求として,〈鏨焼賃〉と〈共同風呂〉の利用の無料化が掲げられている。これは2月2日の四山の協議会で請願条項を決定した後で,小滝の友子同盟の協議によって加えられたものであろう。 




【注】


(1) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,196ページ。なお,米谷市平(通洞8号飯場頭)も予審で「本年一月三日頭役一同集会シ賃金値上ノ相談ヲ為シ,六日ニ該請願書ヲ提出シタリ。其運動ニ付若シ下山処分ニナリシ物ンハ五百円宛与ヘルト云フ相談ヲ致シタリ」と陳述したことが,宇都宮地方裁判所の〈判決〉に記されている(『栃木県史』史料編・近現代二,655ページ)。

(2) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,208〜209ページ。なお,文末に「別紙仮定日表相添ヘ」と記されているように,この嘆願書には,妻をもつ坑夫1日当りの生活費70銭8厘の内訳表が附されていた。これについては後掲第3章「むすび」参照。

(4) 友子同盟としての賃上げ請願を決めた会合が1月3日に開かれ,南,永岡も出席したとの警察の捜査報告書がある(『栃木県史』史料編・近現代二,557ページ)。しかし,1月3日の会合は,4日の会合を開くための一部山中委員だけの〈準備会〉であり,両日とも南,永岡が出席しなかったことは確かである。1月4日の会合については,『栃木県史』史料編・近現代二,560,577〜578,690,695ページなど参照。

(5) 「探偵報告書」(『栃木県史』史料編・近現代二,587ページ)。

(6) 「捜査報告書」(前掲書,583ページ)。

(7) 「探偵報告書」(前掲書,594ページ)。

(8) 「被告人永岡鶴蔵第二回調書」(前掲書,643ページ)。

(9) 「控訴意見書」(前掲書,688ページ)。

(10) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告 其二」ほか(前掲書,560〜562ページ)。

(11) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告 其六」(前掲書,578ページ)。

(12) 「明治四十年一月八日労働政談演説大要」(『日本労働運動史料』第2巻,194〜197ページ)。

(13) 「被告南助松第四回調書」 (『栃木県史』史料編・近現代二,616ページ)。

(14) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告 其六」(前掲書,578ページ)。

(15) 「足尾事件公判傍聴記」(『下野新聞』1907年8月2日)。

(16) 「足尾暴動事件宇都宮裁判所判決」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』233ページ)。

(17) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告」(『栃木県史』史料編・近現代二,565ページ)。

(18) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其一」および「被告人南助松第五回調書」(前掲書,558,618ページ)。

(19) 「被告人南助松第五回調書」(前掲書,618ページ)。

(20) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其二十二」 (前掲書,591〜592ページ)。

(21) 石田喜四郎公判廷陳述(『下野新聞』1907年8月22日)。

(22) 「控訴意見書」(『栃木県史』史料編・近現代二,688ページ)。

(23) 「明治四十年一月廿六日労働問題政談演説会大要」(『日本労働運動史料』第2巻,200ページ)。

(24) 「明治四十年一月廿六日労働問題政談演説会大要」 (前掲書,202ページ)。

(25) 「足尾暴動事件宇都宮裁判所判決」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』233ページ)。

(26) 〈飯場割〉については「控訴意見書」に詳しい。(『栃木県史』史料編・近現代二,682〜684ページ)。

(27) 第一審判決は,石田喜四郎の公判廷における陳述として,つぎのように記している。「一月二十八日ニ山中委員ニ箱ヲ取戻サレ,飯場ノ山中費用ハ矢張飯場割ノ内ヨリ支出スルヨリ,山中委員等ガ自由ナ運動ヲ為シテ費用ノ支出方ヲ請求サルヽコトニナレバ一円五十銭ノ飯場割ヨリ山中費十八銭風呂銭十二銭ヲ控除シ一円二十銭ニテ請負フコトニ為サント云ヒ出シタル処,飯場ニテハ一月二十九日集会シ,其集会ノ席ヘ自分ヲ招キ八十銭ニテ請負ヘト申ス故,自分ハ到底引合ハヌカラ寧ロ飯場持ニセヨト云フテ投出シ,其日ノ昼頃自分飯場丈ハ飯場割ノ制規ヲ全廃シタリ。大西佐市カ坑夫ノ総代トナリテ八十銭ニテ請負ヘト自分ニ迫リタリ」。この陳述,とくに前半はその文意が必ずしも明瞭でないが,坑夫側が〈飯場割〉の引き下げを要求し,石田がその制度そのものを廃止したことは明かである。

(28) 釜田延太郎はもと通洞1号飯場の坑夫であり,大西佐市と「関係浅カラザル」間柄であった(「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其二十四」『栃木県史』史料編・近現代二,595ページ)。

(29) 「控訴意見書」(前掲書,681〜682ページ)。

(30) この2月1日の会合については,主として「探偵報告書」による(前掲書,588〜589ページ)。

(31) 警部・田村勘之進より検事・柿原琢郎宛「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告書 其一」(前掲書,559ページ)。





[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月12日。掲載に当たって若干の加筆をおこなった。]


【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

本書 詳細目次            本書 内容紹介          本書 書評



法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

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