第1章 足尾暴動の主体的条件
──原子化された労働者」説批判──
IV 〈暴動〉
1)〈暴動〉経過とその特徴(1)
1907年2月4日,通洞
2月4日朝8時過ぎ,通洞坑口から3,000メートル近くも坑内へ入った〈第3区第4区合併見張所〉を,一団の坑夫が喚声をあげて襲撃した。石が投げられ,窓ガラスや電灯が砕けとんだ。現場員らはあわてて逃げだしたが,坑夫はこれを追おうとはせず,電話線を切り,割れ残った窓ガラスや引戸を叩き壊し,書類をけちらし,最後に無人の見張り所にダイナマイトが投げ込まれた。これが3日間におよぶ足尾暴動の始まりであった。
騒ぎを聞きつけて集まった坑夫を加え〈暴徒〉はしだいに数を増し,光盛第1竪坑(運搬見張所),第2区見張所,出逢坑見張所,検車見張所など通洞坑内の見張所や馬小屋などをつぎつぎに襲い,第3区見張所と同様,これを破壊した。
11時前後,〈暴徒〉の一部は10人,20人と群れをなして出坑し,300人ほどが坑口見張所の付近に集まった。彼らは口ぐちに〈役員〉の不正を非難し,日ごろ威張りかえっている現場員が命からがら逃げ出した際のぶざまな姿について話し合っては快哉を叫んだ。中には坑口見張所に向けて投石するものもあり,不穏な空気が続いた。
事件発生の報を受け,急いで通洞坑口にかけつけた南助松,永岡鶴蔵は,坑夫に向って「既ニ実行シタル犯罪〔この記録は警察が作成したものである──引用者〕ニ就テハ止ムヲ得ザレドモ,君等ノ目的ハ要スルニ労銀値上ゲ問題ニ外ナラサルベシ。此問題吾輩等ガ責任ヲ以テ引キ受ケタレバ鎮静セラレタシ」と「大声ニ演説」し,これを聞いた「坑夫等ハ遽カニ静止シタ」(2)。
同日午前10時,足尾鉱業所は通洞坑に限って,坑夫の入坑を差し止めた。坑内に残っていた坑夫は,その後も坑内見張所を中心に荒れまわり,日ごろの欝憤を晴らした。しかし,その多くは,午後3時半ころから三々五々出坑し,夕方5時ころには,再び坑口付近に200人余りの坑夫が集まった。なかには通洞坑場事務所や見張所に向けて投石する者もおり,窓ガラス十数枚が壊された。
この間,足尾警察分署は暴動発生を県警察部に知らせ,応援を求めるとともに,通洞の飯場頭全員を分署に呼び集め,「不穏ノ挙動ハ却テ不利ナル旨」厳諭し,配下の坑夫を鎮静させるよう申し渡した。だが騒擾の中心が地理不案内な暗黒の坑内で,しかも坑夫らがダイナマイトを所持していることを恐れ,警官は〈暴徒〉を遠まきにして説得にあたるだけで,なんら手は出せなかった。通洞坑事務所に対する投石は夜まで続いたが,これも10時過ぎにはほとんど静まった。坑夫らは飯場に帰ってからも大いに気勢をあげ,「鯨飲牛食,言行常ナラズ。頭役ノ如キモ殆ント制禦ニ手ヲ焼キ,傍観スルノ止ムナキニ至レリト云フ」(3)状況であった。
2月5日,簀子橋,本山
朝8時過ぎ,再び一団の坑夫が見張所を襲った。この日,最初に襲撃の対象となったのは簀子橋坑の坑口見張所である。坑夫等は係員を脅し,彼らが逃げ去ると,電話線を切断し,投石した。
これとは別に午前7時半ころ本山有木坑付近にも数百人の坑夫が集まり,電車の運行が不能になった。さらに正午近く,本山坑の坑内第1区見張所付近に集まった坑夫7,80人は,その場にいた現場員に殴りかかり,3人に軽傷を負わせた。前日の通洞坑の見張所襲撃の報に戦々恐々としていた現場員らは,いっせいに見張所から逃げ出した。ここでも,無人の見張所に石が投げられガラス戸などが壊された。
4日,5日は暴動とはいっても,実際に破壊されたのは仮小屋に等しい見張所や馬小屋で,それも窓ガラスなどが主であった。ダイナマイトが使われたとはいえ,無人の場所に限られ,火事にならないよう水をかけるといった注意がはらわれていた。鉱車が8輛転覆され,据え付けてあった鑿岩機が取り外されて部品が散乱させられるということはあったが,意識的な機械の破壊はなく,鉱山の操業を妨げたり,鉱業所に物的な損害を与えようとする意図はほとんど認められなかった。
〈暴徒〉の狙いは採鉱方や見張方といった下級職制に対する威嚇・報復に重点があった。それも,本山坑で2,3人の現場員が殴られて微傷を負ったほかは,1人の怪我人も出ていない。参加者は,延べ数にすると1,000人を越えたであろうが,1時には200人から300人程度で,『平民新聞』から特派された西川光次郎が5日夜発信の第1報冒頭に記したように,「騒擾案外に小なり」であった。
2月6日,本山坑内→本山坑外
この日午前9時過ぎ,事態は急変した。朝8時前,本山坑口の見張所を破壊した〈暴徒〉が二手に分かれ,一団は有木坑から,他は本山坑から坑外に押し出したのである。攻撃対象も,見張所だけでなく,有木坑口近くの本山坑場事務所や倉庫,あるいは鉱業所の管理機構の中心である庶務課や坑部課の建物に及んだ。もっとも最初は建物の周囲を取り囲み,投石や棒などで窓ガラスや戸などを壊しただけで,室内には入らなかった。
しかし,午前10時過ぎ,鉱業所長・南挺三が役宅の前で〈暴徒〉につかまり,頭を鉄棒で乱打されたあたりから状況は変化した。攻撃目標が現場員から鉱業所長に変わっただけでなく,警備に当たっていた警官が〈犯人〉を逮捕したため,怒った群衆は警官をもめった打ちにし,〈犯人〉を取り戻したのである。権力に対する公然たる敵対行為であった。
この騒ぎの間に辛うじて屋内に逃れた南所長は,床下にかくれ,3時間余り身を潜めていた。〈鉱業所長惨殺〉の報が流れたのはこの間であった。〈暴徒〉は所長の姿を探して役宅を荒らし,家具調度を打ち壊し,衣類などを蹴散らかした。その様子を南所長自身が語っているところ(4)は,暴動の性格を知る上で興味深いものがある。
「床下ヨリ動静ヲ窺テ居リマスト,器物ヤ其他総テノ造作ヲ粉砕シマシタ。其暴徒ノ中ニ稍々落着イタ声デ,飲食等ハ自由デアルガ,品物ヲ持テ行クノハ我々ノ採ラナイ処デ,名誉ニモ関スルカラ,品物ナドヲ持テ行ツテハイケナイ。而シ破砕ハ充分ニスル様ト云テ指揮シテ居リマシタ者ガアリマシタ。而シテ暴徒ハ益々暴行ヲ逞フシ,床下辺モ私等ヲ探スト云フ模様ガ見イマシタ」。
南は結局,すきを見て逃げだそうとして捕まり,ふたたび殴られる。その時のことを南はつぎのように証言している。
「大勢ノ暴徒ガ私ヲ見テ夫レ出タ〈ヤッツケロ〉ト申シマスト,電車ノ運転手ノ如キ男ガ是ヲ殺シテ仕舞テハ物ニナラヌカラ病院ヘ連レテ行ケト申シテ,人品ノ良イ男ハ他ノ暴徒ヲ取リ鎮メテ居リ,電車夫ノ如キ男ガ私ヲ抱キ今一人ノ労働者ガ手ヲ貸シテ,サー病院迄行ケート申シテ病院ノ坂ノ処迄私ヲ連テ行キマスト,大勢ノ暴徒ガ更ニ私ヲ担ギ上テ行キマシタ。 〔中略〕本山医局ニ連レ込ンデ呉レマシタ。而シテ金子学三郎ト云フ男カ前ヘ出テ坑夫等ニ対シ負傷者ヲ此赤十字ノ旗ノ下ニ保護スルカ分カラヌカト申シマスト暴徒ハ夫ニ服シテ多少退キマシタ」。
この南の証言は,この段階では〈暴動〉がまったく無秩序な騒乱というわけではなく,群衆の中で,その時どきに行動のリーダーシップをとる者がいたことを明らかにしている。この南証言でとくに注目されるのは,そのリーダーが名誉を口にし,「破壊はよい,飲食もよい,しかし盗むな」と指示していることである。これは,まさに百姓一揆の行動規範と共通するものである(5)。
さらに,リーダーだけでなく,実際に南所長を殴った者たちもかなりの自制心をもって行動していたことも確かである。なぜなら鉄棒で頭を乱打された南挺三が,「向後五週間ニシテ官能障害ヲ貼スコトナク全癒スベシ」(6)と診断され,しかも実際には,負傷後僅か2週間たらずの2月18日には「創傷治癒経過漸次良好ニシテ」足尾町を出発,上京しているのである。殴るにも,手加減をしていたとしか考えられない。
暴動化
しかし,午前11時前後,〈暴徒〉の一団が本山倉庫を襲い,山積みになっていた米,味噌,醤油や酒を持ち出した頃から,しだいに暴動の性格は変わった。〈暴徒〉が酒を痛飲して気勢をあげただけでなく,前日までは〈暴徒〉を遠まきにしていた野次馬が,いつの間にか仲間に加わり,〈暴徒〉と化したのである。この頃から,鉱夫長屋をまわって「出ロ々々何ヲ愚図々々為シ居ルヤ」と〈暴動〉に加わらずにいた鉱夫の駆り出しが行われたこともあって,〈暴徒〉の数は一気にふくれあがり,500〜600人をこえた。
この頃までは暴行を受けたのは,坑夫らと日頃接触があり,賄賂を強要するなどしていた採鉱方や見張方などの現場員が主であった。しかし,南所長宅への襲撃を機に,対象は〈役員〉全体におよびはじめた。髭をはやしたり,洋服を着ている者は片端から誰何され,〈役員〉とわかれば攻撃された。それも,最初は悪罵,威嚇ていどであったが,しだいに意趣晴らし的な肉体的制裁に転じていった。
6日の〈暴動〉もはじめの頃は,「彼等間ニモ放火ヲ戒メ書類衣類ヲ焼毀スルニモ可成家屋ニ接近セサル場所ヲ選」(7)ぶといった注意がはらわれていた。しかし,騒動が拡大し,野次馬的な参加者が増えるにつれ,酒の勢いだけで行動する者が出てくることも避け難く,役員に対する制裁より,むしろ飲み食いや物品の略奪にはげむ者が少なくなかった。
午後4時過ぎ,石油倉庫に火が放たれた。誰も消すものがないまま,火はつぎつぎと付近の建物をなめ,炎は一晩中天をこがした。〈暴徒〉の一部は〈役員〉を追い求め,間藤地区の旅館や商店にまで押しかけた。役員の住宅はつぎつぎと破壊され、その一部は焼かれた。この夜,本山の対岸からであるが〈現場〉を取材した数少ない新聞記者である西川光二郎は,つぎのように報じている(8)。
「此の火事を見るべく予は本山方面に向ひしに,本山方面には群衆中に酔漢甚だ多かりき。之れ倉庫より酒を取り出して飲みしものなるべし。一人の巡査も見受けざりき。彼等は抑も何処を警戒しつヽあるにや。又河中に米五六十俵捨てヽありたりき。之れは倉庫より取り出して捨てしものなるべし。余は川向ふに盛んに燃えつつある火と,余が立てる付近を往来する酒気を帯びたる多くの鉱夫とを身ながら,実に実に深き感慨に打たれざるを得ざりき」。
注目されるのは,こうした〈暴動〉の最終段階になって参加した〈野次馬〉的部分の性格である。一捜査報告書は,つぎのように記している(9)。
「放火及物品ヲ略奪シタルモノノ多クハ石工,土工,雑役労働者ニシテ,坑夫中ニハ比較的放火,物品略奪者ハ,凶行者ハ少ナキモノヽ如シ。現ニ放火ノ如キハ酩酊シタル掘子,石工其他雑役者中ニ多キモノト略〔思〕料シ,捜査ノ結果,清生飯場ノ掃除夫木村田次郎,代谷政次郎ノ共犯山本久吉,黒田健次ノ三名ヲ検挙スルニ至レリ」。
2)当局側の対応
警察の無力
〈暴動〉が始まった2月4日朝の段階で,足尾町の警備にあたっていたのは,約40人の鉱業所の巡視を別にすれば,日光警察署足尾分署の警官20名足らずであった(10)。騒動が起こったのが坑内の,それも奥深くはいった場所であり,ダイナマイトが使用されていたこともあって,警官は直ちに現場に赴こうとはしなかった。彼らは坑口付近の警備にあたり,口頭で投石などを止めるよう警告したに過ぎなかった。そのほか警察がしたことといえば,足尾分署に通洞の飯場頭全員を呼び集め,坑夫を鎮静させるよう言い渡しただけである。しかし,この日は,まだ騒動が通洞坑内のごく一部であり,時間的にも限られていたので,午後2時過ぎには警官2名が役員の案内で坑内にはいり,被害の実況検分に当たっている。
暴動発生の知らせを受けた栃木県第四部(警察部)は,同日午後,水野警務課長を筆頭に警部3名,巡査約50名を急派した。また翌5日早朝には宇都宮地方裁判所の吉田検事,柿沼予審判事も書記および巡査4人をともない足尾に向け出発した。さらに同日午後1時には植松金章部長が自身で足尾に出張するなど,県警察部が本格的に動きだした。
足尾銅山は労働者1万数千人を擁する大銅山である上に,南助松,永岡鶴蔵らの社会主義者が活発な活動をつづけ,あなどり難い影響力をもちつつあることは,かねてから逐一報告されていた(11)。まして,古河鉱業会社は,県知事や警察部長の任命権をもつ内務大臣・原敬が副社長をつとめたことがあるなど,政府上層部と特別の関係をもつ企業であった。警察としても,事態を重視しない訳にはいかなかった。とはいえ,宇都宮から日光に出て,さらに,そこから細尾に行き,峠を越えて足尾に入るには8時間から9時間近くかかった。応援の要請があっても,実際に警備につくまでには半日余を要したのである。それに,足尾といっても,本山,通洞,小滝の3地区からなり,1ヵ所に配備しうる人数は,2月5日午後現在で20人余に過ぎなかった。
もっとも2月6日の朝までは,警察が警備対象と考えていたのは南,永岡ら至誠会の活動家であり,警官隊の主力は至誠会本部のある通洞に配置されていた。もともと,警察は,日本社会党員であり,中央の社会主義者とも連絡のある至誠会の中心メンバーに強い疑惑を抱いていた。2月4日,5日と南,永岡らが再三足尾警察分署を訪ね,至誠会は見張所の破壊とは関係がないことを告げる一方で,現場では坑夫らに慎重な行動をとるよう懸命に訴えていたにもかかわらず,彼らに対する疑いを捨てなかった。先入観をもって見る警察の目には,永岡らの必死の努力も,「陽ニ鎮静ヲ装ヒ,陰ニ煽動ノ態度ヲ為」(12)すものとしか映らなかったのである。2月5日午後2時,足尾出張中の吉田検事は宇都宮地方裁判所検事局の向井検事正に宛てて,つぎのような電話報告をおこなっている。
「原因ハ詳細知ル能ハサルモ,北海道夕張炭鉱ニ居リシ社会主義者南助松ナル者当所ニ来タリ,坑夫ニ演説ヲ為シタル結果今回ノ騒擾ガ起コリタルモノナリ」(13)。
2月6日朝,本山で見張所が襲われ,坑外に騒擾が広がったとの知らせを受けた植松警察部長は,県知事に警官の増援を求めるとともに,南助松,永岡鶴蔵らの逮捕を命令した。午前10時まず永岡が,同10時30分,南助松が足尾分署に〈任意同行〉の形で引致され,そのまま拘留された。容疑は4日,5日の見張所破壊等の〈教唆煽動〉である。このほか,同日の午前中,井守伸午,碓井励,武田誠之助,利根川重衛,林小太郎,山本利一の6人も引致,拘留され,午後には宇都宮に向け護送された(14)。
出兵要請
6日午前11時10分,足尾に出張中の吉田検事より宇都宮地方裁判所の向井検事正にあてて緊急の要請が発せられた。
「事迫ル 出兵要ス 四部長ヨリ知事ニ電報シタリト 早ク求ム」(15)。
もうこの段階になると,本山地区の騒擾は完全に警察の手に余るものになっていた。午前9時,坑夫らが見張所の破壊から坑外の施設に攻撃目標を移した時点では,「巡査ノ威厳未タ全ク地ニ墜チサル頃ナレバ,巡査隊ノ説諭ニ服シ引取リ,巡査ノ居ラザル方面ノミヲ選ンデ暴行シ居タルニ止」(16)まっていた。
だが,南所長を殴打した〈犯人〉を警官が逮捕し,〈暴徒〉がこれを実力で取り戻したあたりから,「巡査ノ威厳」も失われていったのである。いったん床下に隠れた南挺三が発見され,ふたたび暴行を加えられた際には,「各所ニ三々五々警戒シ居タル警官モ今ハ之ヲ制スルノ力ナク,徒ニ傍観スルニ過ギ」(17)ぬ状況であった。
600人,あるいは1,000人を越える〈暴徒〉に,サーベル以外の武器をもたず,しかも知事から「如何なる場合にも抜剣す可らずとの命」(18)によって,その使用を禁止されていた50人足らずの警官では,手の出しようもなかった。午後4時ころ,本山倉庫に火が放たれた後は,「幾多ノ警察官ハ各所ニ屯シ居ルモ傍観スル他ナク,本山間藤方面ハ全ク無警察ノ状態ニ陥」った。
本山との電話連絡を断たれ,騒擾が広範に広がるにつれ,さまざまな噂がとびかった。鉱業所長惨殺の報はその1つである。もっとも,これは頭部を乱打された南挺三が自ら死を装って難を避けたことから生まれたもので,まったく根拠がないわけではなかった。しかし,坑夫による鉱山爆破計画とか,細尾発電所破壊の企て(19),足尾町の焼討ちといった根も葉もない噂もふくまれていた。こうした中で警察を緊張させたのは,南や永岡ら逮捕者を取り戻すため暴徒が足尾分署を襲撃するとの知らせであった(20)。
この足尾警察分署襲撃の情報が伝わった午後3時過ぎ,分署内の警察首脳の間では,とるべき対策につき,意見が割れていた。「鎮圧に関して或る署長ハ敵陣に斬り込み死すまで戦ひ検挙すべしと主張し,或者は一旦退却して再挙を謀るが得策なりと云ひ,或ハ此際不幸にして我等全滅せバ今後の処置を如何にすべきなど云う者ありて議論大に沸騰したるが,結局貴重なる書類を他へ移し,警察署ハ破壊されるまで衛り,夫れより退却する事に決し」(21)た。
増援の警官を加え,60人もの警察官が立てこもっていた足尾分署内においてさえ,この有様である。足尾町の旅館にいた吉田検事,藤沼予審判事は,役員をかくまっている旅館は焼き打ちされるとの噂を聞き,「倉皇食事中の箸を抛ち弁当となし,髭を剃落し変装して逸れ去りたり」(22)。警察はまた,事件報道に集まった新聞記者連にも「此際諸君を保護することは到底不可能のことなれば各自々衛の道をとられたし,万一外出する等のことあれば危険の虞あるにより可成旅館に居た方宜からん」と言い渡している。
これより先,2月6日午前10時過ぎ,栃木県知事中山巳代蔵は県下の警官を総動員して足尾に派遣すべく手配中であった。この当時栃木県は,宇都宮,栃木,鹿沼,足利など9警察署と9警察分署に,505名余の巡査を擁していた。10年前の1896年はわずか193名であった(23)から,それに比べれば2.6倍もの多数ではあるが,実際に足尾に派遣できる数は,その3分の2程度であった。足尾からは「暴動益々猖獗ヲ極メ南鉱山事務所長ヲ殺害シタリ」(24)といった急報があいつぎ,午前11時には植松第四部長から〈出兵〉を要請する電報が届いた。現場の責任者が警察力では如何ともし難いことを認めた形であった。
〈地方官官制〉第8条に「知事ハ非常急変ノ場合ニ臨ミ,兵力ヲ要シ又ハ警備ノ為メ兵備ヲ要スルトキハ分営ノ司令官ニ移牒シテ出兵ヲ請フコトヲ得」と定められていた。知事は内務大臣らと急遽連絡をとり,午後1時前後,第一師団長あて正式に出兵を要請した。中山を栃木県知事に任命したのは,ほかならぬ原敬であり,彼が院内で寺内陸相と協議の上,出兵を決定したのであった(25)。
午後3時半,第一師団参謀長より高崎聯隊長に対し,3ヵ中隊の派遣命令が出された(26)。一企業内の紛争に軍隊を出動するという前例のないことが,このように短時間で決定され,実行に移されたのは,こうした背景があったからであった。
とはいえ,実際に吉野少佐を大隊長とする3ヵ中隊300名が編成を終え,高崎駅を発し,大宮経由で日光に向かったのは6日午後11時,足尾に到着したのは7日午後1時20分から3時にかけてであった。
出兵,鎮圧
2月7日,銅山は完全に操業を停止した。前日朝には普段通り入坑して作業に従事した小滝も,午後からは賃金を支給して2日間の休業となったからである。本山の火事は午前2時にはほとんど燃え尽きていたが,倉庫跡では山積みの米がくすぶり,余炎をあげていた。警察は〈暴徒〉が坑内に潜伏し,ふたたび襲撃のおそれがあるとして,ひたすら軍の到着を待っていた。ただ一つ,警察が単独で行動したのは,同日未明,足尾分署のすぐ近くにある旅館鶴屋に泊まっていた『平民新聞』記者西川光二郎を拘引したことであった。
前夜半,高崎駅を出発した軍隊は,午前8時半日光停車場に到着。毛布,背嚢などを背後に残し,軽装で足尾に急行した。午前11時,細尾に到着した大隊は徒歩で峠を越え,午後0時半栃木平,そこから馬車で午後1時半ようやく足尾の入口渡良瀬にたどり着いた。高崎駅を出てから13時間半の後である。ここから3ヵ中隊は本山,赤倉町,足尾町,小滝,細尾発電所等の警備についた。騒動の中心地である本山に到着した1隊は,空砲のいっせい射撃をおこない〈暴徒〉を威嚇した。
だが,実のところ,この時点ではもう〈暴徒〉はほとんどいなかった。前日は多くの鉱夫が酒の勢いも手伝い,仲間と一緒に一日中荒れまわり,日頃の憤懣をいっきに吐き出した。しかし,一夜明けて,酔いも醒め,焼け落ちた鉱業所事務所や倉庫,本山坑場などを見ると,果してこれからどうなるのかという不安が先にたった。加えて軍隊出動の報がいち早く伝わっていた。役員を追い回して気勢をあげていた最中であれば,警察分署の襲撃を叫び,実際に行動に移ろうとした者もいたであろう。しかし,7日朝には,もはやそうしたことを口にする者はいなかった。もともと計画的,組織的な焼き打ちでなかったことは,7日朝,軍隊の到着前に,何らの〈実力行使〉がなかった事実からも明かである。
「軍隊ノ到着スルマデハ乱徒ノ凶行ヲ傍観シ居タル警察官モ,所謂虎ノ威ヲ藉リテカ元気遽カニ復活シ,三十人,五十人ト隊ヲ為シテ本山方面ノ坑夫長屋ニ至リ,家宅捜索ヲ行ヒ」(27)はじめた。戒厳令と同じ効力のある「保安警察条令」第18条が執行され(28),この日,約300名が引致され,取調べを受けた。検挙,取調べは8日,9日も続けられ,最終的には628名が検挙され(29),182名が起訴された。
損害額
現場検証の結果,庶務課,坑部課,本山坑場,倉庫,役宅,選鉱所,製煉所など合計65棟の破壊,うち48棟の焼失が判明した。火事は主として倉庫から燃え広がったもので,ただ役宅だけは「発火ヲ異ニシタモノト認」(30)められた。また,間藤および赤倉の民家3棟も被害を受けた。
負傷者は南挺三所長が頭部創傷等で全治5週間の傷を負ったのをはじめ,本山現場員高島虎五郎が重傷,川地庶務課長,木部坑部課長が頭を殴られて負傷した。このほか,坑内係や坑部課の6人も負傷した。鉱夫の中にも頭部挫創などの傷を負った者が二十数名,その多くは坑夫であるが,電気夫,雑役夫,手子もふくまれている。警官側の怪我人は3人,いずれも南所長が〈暴行〉を受けた際に負傷したものである。死者は1名,通洞の雑役夫竹内武二郎で,酒に酔って火に呑まれたものと推定された(31)。
損害額は,直接の被害だけで,建物関係5万2,500円,機械器具11万8,756円,倉庫品4万5,000円,所員の私財6万6,802円,合計28万3,058円であった(32)。
3)事後処理
全員解雇,選別再雇用
2月10日,この日はかねて坑夫らが友子同盟による請願書への回答日として指定していた日であった。請願書のいっせい提出日と定めていた2月6日にこれを実行しえたのは,騒擾に巻き込まれなかった小滝だけであった。しかし,それでも会社側がどのような回答を示すか,坑夫らは大きな不安と,かすかな期待を抱いて見守っていた。
午後1時半過ぎ,本山坑場長田島猶吉,通洞坑場長小島甚太郎は,それぞれの坑場に飯場頭全員と坑夫代表2名を呼び集め,会社側の決定を,文書を読み上げる形で申し渡した。その骨子は,本山坑,通洞坑の坑夫および坑夫徒弟は,暴動に参加したと否とを問わず全員をいったん解雇する。ただし,再雇用を望む者は明11日正午までに〈採用願〉を提出せよ,というものであった(33)。
問題の賃上げについては,友子同盟からの請願にはまったくふれることなく,つぎのように述べただけであった。
「頭役ノ方々ヨリ兼テ提出セラレタル賃金増額ノコトハ,夫々研究ノ末之ヲ本店ニ持出シマシテ,本店ニ於テモ亦種々取調ノ結果,当会社ノ賃金ハ他ノ会社若クハ個人ノ山ノ賃金ヨリ一層高額デアルト云フコトヲ認メマシタニモ不拘,山ノ好況ナルニヨリ其喜ビヲ皆サンニ分与セン考ヘニ依リマシ愈賃金増額ノコトヲ決定シ,今ヤ将ニ発表セントスルノトキニ際シマシテ坑夫諸氏ハ不幸ニモ会社ノ意思ニ反シテ右ノ暴行ヲ敢テシ,其結果終ニ坑夫並ニ坑夫徒弟諸氏ト相分カルヽニ至リマシタルハ更ニ残念ニ思ヒマス。」(34)
この会社側の全員一旦解雇,再雇用希望者は〈採用願い〉を提出せよとの方針は,坑夫ばかりか,飯場頭にとっても予想外の厳しい対応であった。多数の者は〈採用願い〉を出して再役を乞わんとの意見であり,なかには「今後は役員の指示に従い,いかに労働者に有益な名を以て団結を呼びかける者があっても賛成しない」との詫び証文を出した者もあった。
問題は,〈採用願い〉を提出しさえすれば必ず再雇用が認められるか否か明かでないことであった。坑夫の間では,飯場内に1人でも再雇用が認められなければ断然全員で下山すべきであると主張するもの,このような圧制をあえてする足尾銅山は坑夫の方から見捨て,この際小坂銅山や赤沢(日立)銅山に行こうと言うものなどもおり,議論百出して意見は容易にまとまらなかった。
しかし,結局は〈採用願い〉を出し再雇用を求めるとの声が大勢を占めた。簀子橋では全員が〈採用願い〉に署名し,本山でも逮捕,拘引された者を含め,ほぼ全員に近い1,200余人が〈願い〉を提出した。しかし,鉱業所側は,全員が〈優良者〉とは認められないとして,飯場頭に対し「1)一旦警察ニ同行セラレタルモノ 2)爾後使役シ難シト認メラレルモノ」は志願者中より除くよう指示した。これに対し本山では「嘆願スレバ採用ニナルモノトシ署名セシメ差出シタルニ,取調ノ上採用ニ決定スルト云ハレタルヲ以テ,斯クテハ飯場頭ハ自己ノ信用ヲ失墜シ,彼等ノ不平ヲ招キ面目ヲ潰サルルモノ」であるとし,協議の上〈採用願い〉の提出期限を12日午前10時まで延期して欲しいと要望した。しかし,この要請も拒否され,最後は会社の指示に従った(35)。
12日午後3時半,鉱業所はふたたび飯場頭を本山坑場,および通洞坑場に集め,再役志願者の採否を発表した。ただし,その結果については,会社側の記録と警察記録との間に,かなりの違いがある。次はその違いを対照した表である。【補注】
坑場別 | 本山 | 通洞 |
鉱業所・警察別 | 鉱業所 | 警察 | 鉱業所 | 警察 |
1月末現在人員 | 1,217 | 1,217 | 1,151 | 1,151 |
再役出願人員 | 1,158 | 1,158 | 1,062 | 1,046 |
再役許可人員 | 1,157 | 1,158 | 971 | 1,046 |
再役不許可人員 | 1 | 0 | 91 | 0 |
減少数 | 60 | 59 | 180 | 87 |
拘留中の者 | | 57 | | 39 |
【備考】 1) 鉱業所は『足尾銅山暴動概記』(『日本労働運動史料』第2巻,221ページ。
2) 警察は宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』による。
要するに,警察の記録では,再役希望者は全員が再雇用されたことになっている。一方,鉱業所の記録によれば,通洞では出願人員は警察記録より20人多いが,全員が再雇用されたわけではなく,91人について再雇用を認めていない。本山の場合は出願人員は両者とも同じだが,鉱業所記録では,1人だけ再雇用を認めていない。どちらの記録が正確かは,今となっては判断しがたい。警察側の記録は発表当日の〈通報〉であり,新聞報道も通洞の再雇用者数を1,064人と伝えている(36)ので,2月12日時点では,警察記録の通りに公表されたとみてよいであろう。
これに対し,鉱業所側の記録は事件後2ヵ月経ってからまとめられたものである。そうした鉱業所の正式記録が,解雇者数といった重要かつ単純な事実について誤った数字を記すことも考え難い。こうした食い違いが生じた原因はいくつか考えられる。
その第1は,鉱業所の記録は,2月12日以降に,最初の決定が変更された事例が少なくなかった事実を反映しているのではないか。
もう1つ関連して問題になるのは,願書を出そうとしたが,その受理を拒否された者がいたことである。つまり,鉱業所は,願書提出後に採否を決定すると言いながら,実際には願書受理の際にもふるい分けをしたのである。たとえば,簀子橋の飯場頭に対して「全員が優良者と認められない」とし,一部の者についてその受理を拒否している。また本山や通洞でも,拘留中の者も含めほぼ全員が採用願いを提出しようとしたのに,鉱業所側は警察に同行された者や,「爾後使役シ難シト認メラレルモノ」を除くことを命じている。鉱業所記録において,通洞坑の再役出願者数が多いのは,願書そのものの受理を拒否した者も含んだ数であるからかもしれない。
それと関連して,いったんは願書を提出して再雇用を認められた坑夫のなかに,願書の受理を拒否された仲間が出たことを怒り,自発的退山に踏み切った者が90人ほどいた可能性もある。そうした自発的退山者を,鉱業所側は〈再役不許可者〉として処理したのではなかろうか。
あるいは鉱業所側が,2月12日に,再役出願者全員を再雇用したとする,不正確な事実を公表した可能性も皆無ではない。それは,別の警察報告が,かなりの数の再役不許可者が出た事実を記しているからである。すなわち,2月13日に通洞坑の飯場頭数人が「協議ノ末,坑場長ニ対シ再役不明ノ坑夫百二十名ヲ一応採用シ漸次ニ解雇スルニ願ヒタシト申シ出タルモ,坑場長ハ只聞キ置キタリ」といった情報がある。また,「通洞飯場頭役ノ二三ハ今回ノ事件ニ不満ノ念ヲ抱キ辞表ヲ呈出セントシ或ハ銅山ノ処置ノ不当ヲ鳴シ大ニ激昂セリ」(37)とも伝えられている。また,再雇用者の氏名が発表された2月12日,通洞10号飯場の坑夫,大掛甚蔵他2名,簀子橋12号飯場坑夫,関山藤蔵他1名が,飯場頭や通洞坑事務所に「不採用ノ理由ヲ質問シテ強迫ヲ加ヘ」たとして,行政執行法の「公安ヲ害スル虞ノアルモノ」として検束されている事実もある(38)。
ともあれ,重要なことは〈暴動〉の主要な舞台となった本山よりも,通洞に解雇者が多かった事実である。本山の解雇者の圧倒的多数は拘留中の者であるのに,通洞では〈暴動〉に参加していないのに解雇された者が多い。これは明らかに,至誠会が通洞の坑夫の間で大きな勢力を有していたことを反映しているのであろう。こうして,〈暴動〉の事後処理の第1段階は,警察の行政執行法の適用にも守られ,活動家の排除,賃上げは当面延期という鉱業所側の強硬策がまかり通った。
ところで,再役志願者の採否を発表した2月12日,足尾銅山の友子同盟のっその後に大きな意味をもつ問題が,本山の一飯場頭から提起された。警察の〈通報〉は,これをつぎのように記している。
「本山飯場頭山本某ハ,本日午前十時ヨリへ組飯場家屋ヲ借リ集合スル筈ナリ。其集会ノ内容ハ,コレ迄坑夫ノ風儀ヲ乱シタルハ南,永岡ノ教唆ニ依ルベキモ,其ノ間ニ於テ主動トナリタルモノハ山中委員ノアルモノナルガ故ニ,山中委員ヲ廃止スベシト云フニアリ」(39)。
さらに同日夜,本山の一部飯場の坑夫らは飯場ごとに集まり,つぎのような〈誓約書〉を飯場頭に提出することを決定した(40)。
「今回飯場一同協議ノ上,左ノ条件ヲ設ケ示〔爾〕後固ク相守ルベキコト。
一,団体ヲ以テ悪事ヲセサルコト
二,事務所ヨリノ命令ニ背カサルコト
三,頭役ヨリ悪事ト認メ停止セシムル時ハ其停止ニ背カサルコト
四,飯場集会ノ場合ニハ頭役ニ上申シ,立会ヲ受クヘキコト
右之条件ニ違背セン時ハ下山申付候也
二月十二日 飯場一同
頭役殿 」。
「頭役ヨリ悪事ト認メ停止セシムル時ハ」と言い,また「下山申付候也」といった表現は,この〈誓約書〉の文案が頭役によって書かれたことを示している。 翌2月13日,本山,通洞,簀子橋各山の山神社に役員,頭役,坑夫等が参詣し,お神酒を供え,「暴動ノ為メ汚シタル山ヲ清メタ後」,いっせいに操業を再開した。ただし,本山の「現場員,数三十名,本日入坑スベキ筈ノ処,何レモ病気ト称シ欠勤セリ」と伝えられた。その理由は「蓋シ曩日暴行ノ為メ尚危険ヲ案シ居ルモノナラン」というのである。まずこの推定のとおりであろう。同日朝,軍隊も足尾を引き上げ,日光に向かった。
賃上げ実施
こうして,ほぼ10日ぶりに操業は再開され,事態はいちおう平常に復した。だが,これで問題が解決したわけではなかった。坑夫らの不満はおさまらず,とくに暴動に参加しなかった小滝坑の空気は日増しに不穏になっていった。会社側の記録は,これを次のように伝えている。
「2月中旬ヨリ小滝坑夫ノ動静平穏ヲ欠クモノアリ。出業モ割合ニ少ク,入坑スルモ人員ノ割合ニ出鉱量著シク減退シタルノミナラズ,稍モスレバ警官及係員ノ制禦ニ服セザルノ色アリ。出張ノ警官ヲ始メ,坑場長以下大ニ慰撫ニ努メタルモ容易ニ耳ヲ傾ケザリキ」(41)。
その原因について『足尾銅山暴動概記』は,つぎのように説明している。
「蓋シ今回ノ変タル,全山坑夫ノ同一歩調ニ出ス可キ義務アルニ拘ラズ,坑場長以下ノ慰撫宜シキヲ得タルト,爆発ノ機会ヲ失シタル為メ,遂ニ全山坑夫ノ内約ニ反キタルナリ。故ニ其侭平穏ニ打過ギンカ,他坑場ノ坑夫ニ対シテモ余リニ意気地ナキヲ告白スル次第ニシテ,将来坑夫トシテ顔向ケノナラザルニ至ルベキヲ慮リ,暴動ヲセザル代リニ,最初ノ嘆願条件ハ是非小滝坑夫ノ力ニヨリ承認セシメ,以テ前ノ違約ノ罪ヲ補ハント期待シタレバナリ」と説明している。
明らかに『概記』の筆者は,暴動が足尾友子同盟4山の〈内約〉によって引き起こされた,との見方にたっている。しかし,これは事実に反する。足尾四山の友子同盟代表が,「我々間ニ起リタル行動ニ付テハ,協議決定ノ上進退ヲ共ニスルコト」との〈連合規約〉に調印したのは,請願書を「従来ノ慣例ニヨリ頭役付添,二月六日午前九時ヲ期シ山中惣代箱元ヨリ提出シ,採否ヲ二月十日迄ニ確答アリタキ旨口頭ヲ以テ陳述スル事ヲ約シ」ていたからであった。小滝坑夫の不満は,会社が暴動を理由に賃上げ請願を事実上握りつぶしていることにあった。彼らにすれば,暴動に加わらず平穏に請願した我々が,何でまきぞえを食わねばならないのか,というにあった。すでに賃金の引き上げが決定されているならば,何故すぐ実行しないのか。現に江差坑場長は,「暴動などに加わらず,正々堂々と請願せよ,そうすれば悪いようにはしないから」と説いたではないか。休業中は〈本番賃金〉が与えられただけで,事実上減収になったのをどうしてくれるのか。こうした不満は単なる強圧策では解決しようがなかった。
1月25日,南挺三に代わって鉱業所長に復帰した近藤陸三郎が着任した。近藤は,翌26日,小滝におもむき飯場頭全員を招き,新任の挨拶と同時に「今回ノ事件ニ付,独小滝ノミ静穏ナリシハ諸氏ノ力少カラザル旨ヲ述ベ,同時ニ賞与金ヲ交付スルコトヲ達セリ」(42)。
賞与金は飯場頭30人に対して酒肴料5円,日当10日分30円,手当10円の計45円,山中委員にはそれぞれ5円,20円,5円の計30円であった。このほか,一般労働者に対しても坑夫5円,坑夫徒弟3円,本番夫3円,請負夫1円50銭,選鉱本番夫1円50銭,女工30銭を支給した。この賞与金等の総額は9,475円20銭で,給料日の28日,賃金とともに支給された。近藤所長は,27日には本山に,28日には通洞に行き,着任の挨拶と同時に,「今回ノ暴動事件ハ甚ダ遺憾トスル所ナリ。尚本坑〔鉱〕夫ノ賃銭値上ゲハ近日中ニ実行スベシト述ベ」さらに,暴動の際,鉱業所側について行動した一部の者に,5円から50銭まで5等級の賞与金を支給した。その対象となった人員は本山・通洞をあわせた465人,給与総額は1,086円85銭であった(43)。
この賞与の支給については,本山や通洞の坑夫らの中には,「小滝坑区ニノミ賞与ヲ為スハ偏頗ノ処置ナリ。賃銭値上ヲ速カニ断行セザルハ不可ナリ杯ト唱ヒテ各坑夫間ヲ煽動スルモノ」があった。警察は直ちに,「斯カル不平者ニ対シテ司法上,又ハ行政上夫々処分」をおこなった。
近藤所長が予告した賃金の引き上げは,2月27日に確定し,3月1日発表された。その内容はつぎのとおりである。
「一,坑夫一日一工ノ標準賃金ハ自今金八十銭ト定メ,本日十六日ヨリコレヲ実施ス。坑夫本番賃金ノ名称ハ本月十六日限リ之ヲ廃止ス。
二,坑夫以外ノ他ノ鉱夫ノ賃金ハ従前ニ比シ相当ノ増額ヲ為シ,本月十六日ヨリコレヲ実施ス。
三,鉱夫職業上ノ負傷等ニ依リ休業スル場合ノ療養料及賞与率等ハ追テ改正ス」(44)。
坑夫賃金は,従来の実収平均67銭に対し19.4%の増であった。また坑夫以外の賃金についてはここでは実額が示されていないが,警察の報告では最高額を従来の1円5銭から1円20銭に改め,以下職業別に各等級が定められた(45)。
【注】
(1) 暴動の経過,結果などについては,主として「第一審判決」「控訴意見書」および足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』によった。最後のものは,いわば〈被害者〉の立場から見た暴動の記録で,興味深い内容を含んでいる。暴動についての,同時点での新聞の報道はそのままでは利用に耐えないものが多い。とくに2月7日午後2時以前の記事は,記者が直接現場で取材したものでなく,ほとんどが伝聞,推測によるものである。また,他紙の記事をリライトしたものも少なくない。
(2) 警部・川島兵三郎より栃木県第四部長・植松金章宛 「第四回報告書」(『栃木県史』史料編・近現代二,575ページ)。
(3) 『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,211ページ)。
(4) 「証人南挺三調書」(『栃木県史』史料編・近現代二,551〜552ページ)。
(5) 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木書店,1974年)238〜248ページ。
(6) 「鑑定人篠崎幸次郎調書」 (『栃木県史』史料編・近現代二,555ページ)。
(7) 『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,217ページ)。『国民新聞』1907年2月6日付(『栃木県史』史料編・近現代二,707ページ)。
(8) 西川生「足尾騒動詳報 其六」(『日刊平民新聞』1907年2月9日)。
(9) 警部・川島兵三郎より栃木県第四部長・植松金章宛「足尾銅山凶徒嘯聚被告事件捜査顛末第一回報告」(『栃木県史』史料編・近現代二,569ページ)。
(10) 〔栃木県第四部長・植松金章談〕『国民新聞』1907年2月10日付(『栃木県史』史料編・近現代二,718ページ)。
(11) 宇都宮地方検察庁所蔵の『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』中には,暴動直前の2月2日付で栃木県第四部長・植松金章より宇都宮地方裁判所検事局の向井巌検事正に宛てた「足尾銅山労働者ノ行動」と題する通報が含まれている。「秘第一二七ノ一」と記したこの文書は,冒頭で「既報ノ如ク至誠会支部設立者南助松ハ……」と書き,通報が恒常的に行われていたことを示している。
(12) 足尾警察分署長藤山才之助より宇都宮地方裁判所検事吉田敬一宛「報告書」『栃木県史』史料編・近現代二,542ページ.
(13) 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』。
(14) 西川生「南永岡等の拘引」(『平民新聞』1907年2月9日付),および向井検事正より司法大臣・検事総長・検事長宛電報案(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)
(15) 前掲『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』綴。
(16) 足尾鉱業所『足尾暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,215ページ)。
(17) 前掲書,215ページ。
(18) 栃木県知事は,2月6日,足尾出張中の植松第四部長に対し,「如何なる場合たりとも抜剣す可らず」と命じていた(『国民新聞』1907年2月10日付, 『栃木県史』史料編・近現代二,719ページ)。
(19) 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』。
(20) 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』。なお,南,永岡らは,すでに6日午後1時過ぎに足尾を発ち,日光経由,宇都宮へ向け,護送中で,同日午後9時過ぎには収監されている(前掲『機密書類』)。
(21) 「植松第四部長の談話」(『国民新聞』1907年2月9日付,『栃木県史』史料編・近現代二,749ページ)。
(22) 「司法官の遁走」(『国民新聞』1907年2月8日付,前掲書,711ページ)。
(23) 「記者の行衛不明」 (『国民新聞』1907年2月9日付,前掲書,715ページ)。
(24) 『明治二十九年栃木県警察統計』(前掲書,455〜456ページ)。
(25) 峯村警部より向井検事正宛て電話(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』綴)。
(26) 『原敬日記』1907年2月7日(福村出版,第3巻,225ページ)。
(27) 『万朝報』1907年2月8日付( 『栃木県史』史料編・近現代二,742ページ)。
(28) 足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,218ページ)。
(29) 「植松第四部長の談話」(『国民新聞』1907年2月9日付,『栃木県史』史料編・近現代二,749ページ)。
(30) 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』。 1907年2月27日現在の数字である。
(31) 「検証調書」(『栃木県史』史料編・近現代二,544〜551ページ)。
(32) 足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運
動史料』第2巻,216ページ)。
(33) 「足尾銅山の損害高」(『万朝報』1907年2月12日付,『栃木県史』史料編・近現代二,761ページ)。なお,同紙では損害額の合計は28万3,062円となっている。
(34) 全員をいったん解雇し,希望者の中から選考のうえ再雇用するという方策は,1905年5月の赤沢銅山(日立銅山)の争議のあとで打ち出されている(『日本労務管理年誌』第1編(下)35ページ)。おそらく,足尾もこれに做ったものであろう。
(35) 足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,220ページ)。
(36) 宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』中の「足尾銅山暴動報告」「足尾銅山暴動状況」「足尾銅山騒擾状況」等による。
(37) 「坑夫の淘汰」(『万朝報』1907年2月14日付,『栃木県史』史料編・近現代二,762ページ)。
(38) 「明治四十年二月十三日,秘第一八〇号 足尾銅山暴動状況」および同日付「秘第一八六号 足尾銅山暴動状況」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
(39)「秘第一八六号 足尾銅山暴動状況」(前掲『機密書類』)。
(40)「明治四十年二月十二日 秘第一七七号 足尾銅山暴動状況」 (前掲『機密書類』)。
(41) 「明治四十年二月十三日 秘第一七九号 足尾銅山暴動状況」 (前掲『機密書類』)。
(42) 足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,221ページ)。
(43) 「秘第二六九号 足尾銅山情報」および「秘第二七三号 足尾銅山情報」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
(44) 足尾鉱業所『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,222ページ)。
(45) 「秘第二七三号 足尾銅山情報」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
【補注】
警察記録と鉱業所記録との数値の食い違いについて論じた部分は,本著作集掲載にあたって大幅に加筆訂正した。論旨に関わる変更を含んでいるので,以下に活字本の原文を掲げておく。なお,最終節に変更はない。
要するに,鉱業所の記録によれば通洞では出願の段階で89人が〈採用願い〉を出さなかった上に,鉱業所はその中から91人をふるい落とし,さらに本山でも再役希望者1人を不許可にしたことになる。ところが,警察の記録では本山も通洞も再役希望者は全員が再雇用されたことになっている。どちらが正確かを判定する決め手はない。警察側の記録は発表当日の〈通報〉であり,新聞報道も通洞の再雇用者数を1,064人と伝えている。これに対し,鉱業所側の記録は事件後2ヵ月経って一調度課員がまとめたものである。どちらかと言えば警察記録の方が信頼し得るのではないか。とくに鉱業所側は願書提出後に採否を決定するという形をとりながら,実際には願書を受理する際に,簀子橋の飯場頭に「全員が優良者と認められない」として,その受理を拒否している。また本山でも通洞でも,拘留中の者まで含め,ほぼ全員の願書を提出しようとしたのに,鉱業所は警察に同行された者や,「爾後使役シ難シト認メラレルモノ」を除くことを命じている。至誠会にもっとも敵対的であった通洞坑場の飯場頭が,こうした指示を無視して願書を提出し,拒否されたとは考え難い。いずれにせよ,再役を志願しなかった者すべてが,自発的に退山を決意したものではなく,願書を提出しても受理されないと,いわば門前払いの形で解雇されたものを少なからず含んでいることは確かである。
とはいえ,鉱業所の正式記録が,解雇者数といった重要かつ単純な事実について誤った数字を記しているというのも,不可解である。仮に鉱業所の記録が正しいとすれば,考え得るのはつぎの2つのケースである。その1つは,通洞坑夫のうちいったんは願書を提出して再雇用を認められながら,仲間で願書の受理を拒否された者が出たことを怒り自発的退山に踏み切った者が90人ほどいたのではないか,そして鉱業所は,彼らを〈再役不許可者〉として処理したのではないか,ということである。あるいは,警察や新聞に誤った事実が伝えられたのかも知れない.そうした可能性が皆無と言えないのは,別の警察報告に,かなりの数の再役不許可者が出たことが記されているからである。すなわち,2月13日に通洞坑の飯場頭数人が「協議ノ末,坑場長ニ対シ再役不明ノ坑夫百二十名ヲ一応採用シ漸次ニ解雇スルニ願ヒタシト申シ出タルモ,坑場長ハ只聞キ置キタリ」といった情報がある。また,「通洞飯場頭役ノ二三ハ今回ノ事件ニ不満ノ念ヲ抱キ辞表ヲ呈出セントシ或ハ銅山ノ処置ノ不当ヲ鳴シ大ニ激昂セリ」とも伝えられている。また,再雇用者の氏名が発表された2月12日,通洞10号飯場の坑夫,大掛甚蔵他名,簀子橋12号飯場坑夫,関山藤蔵他1名が,飯場頭や通洞坑事務所に「不採用ノ理由ヲ質問シテ強迫ヲ加ヘ」たとして,行政執行法の「公安ヲ害スル虞ノアルモノ」として検束されている事実もある。
ともあれ,重要なことは〈暴動〉の主要な舞台となった本山よりも,通洞に解雇者が多かった事実である。本山の解雇者の圧倒的多数は拘留中の者であるのに,通洞では〈暴動〉に参加していないのに解雇された者が多い。これは明らかに,至誠会が通洞の坑夫の間で大きな勢力を有していたことを反映しているのであろう。こうして,〈暴動〉の事後処理の第1段階は,警察の行政執行法の適用にも守られ,活動家の排除,賃上げは当面延期という鉱業所側の強硬策がまかり通った。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月14日。掲載に当たりかなりの加筆訂正をおこなった。]
【最終更新:
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