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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──原子化された労働者」説批判──



Ⅴ 〈暴動〉をめぐる諸問題(1)

1) 暴動の直接原因をめぐる諸説の検討

 ここで暴動の直接原因について検討しておきたい。より具体的に言えば2月4日の通洞坑内の見張所襲撃はなぜ,どのようにして起きたかということである。まったく偶発的な事件なのか,それとも誰かが計画し意図的に実行したのか。もし後者であれば,それは誰だったかといったことが問題になろう。もちろんこうした問いに明確な結論をだすことはもともと容易ではない。まして事件から80年も経ってしまった今となっては,真実の解明は不可能に近い。しかし,これまでさまざまな形で論じられてきた暴動原因について検討を加え,それぞれの蓋然性の度合いをはかることは可能であろう。



偶発説

 まず第1は偶発説である。これは暴動の原因や経過等を詳細に調べた上で下された第一審判決が取った立場である。宇都宮地方裁判所の宮本力之助裁判長は,足尾銅山の鉱夫が南挺三所長の下で苛酷な待遇をうけ「怨嗟憤懣其極ニ至ルト雖モ之ヲ洩ラスニ由ナク」年を経ていたが至誠会の活動,とりわけ南助松が「坑夫ニシテ下山処分ニ遭ハバ幾千ノ坑夫ト雖モ之ヲ北海道ニ伴ヒ行クベシト告ゲタ」ことにより「坑夫等ハ意気頗ル昂リ」と暴動の背景を述べた上で,次のような結論を下している。

 「之ヲ要スルニ此暴動タル智乏シク慮浅キ年壮気鋭ノ坑夫等ガ,多年ノ怨嗟憤懣欝結シ,沙上ノ偶語遂ニ期セズシテ相聚リ,勃発シテ此ニ出テ以テ快ヲ一時ニ取リタルニ過ギズ」(1)

 この一審判決は東京控訴院および大審院でも支持された。また『国民新聞』など新聞記者の報道は偶発説に立つものが多い。偶発説は,いずれも坑夫等が役員,とくに下級職制(採鉱方,見張方)に強い憤懣を抱いていたことを強調し,これが,たまたま通洞坑内見張所での衝突となったと主張する。衝突の直接原因としては,「役人〔役員〕と砿夫との間に賃銀のことに就き争ひあり」(2),または「役員の一人が労働者に対し軽蔑の言語を放ちたるに因る」(3),あるいは「見張所員等ハ賄賂ヲ贈リタルモノニ水ヲ与ヘ,贈ラザルモノニハ水ヲ与ヘヌヨリ」(4)などが伝えられている。このいずれか1つでも偶発的な暴動の引金たり得たことは確かである。採鉱方が賄賂によって賃金査定に手心を加えることは坑夫の最大の不満の1つであり,また役員が一般坑夫に尊大な態度で接することは日常茶飯事であった(5)

 ただ,この偶発説にはいくつか難点がある。その1つは,暴動が始まる何日も前に「坑内見張破壊ノ相談アル風説」が流れていたことである。これは他ならぬ第一審判決が述べているところである。まず関連する部分を引用しておこう(6)

「千明元三予審調書ニ,一月末ヨリ通洞坑内ニテ坑夫ノ話ニ,延ビ取ニ役員ガ不公平ナルコトヲシタラ苛メテヤロウト云フコトヲ時々聞キタリ。延ノ取極メガ悪ケレバ見張デモ何デモ打壊ハスト云フコトヲ坑内ニ於テ坑夫ガ話シ居ルヲ聞キタリ。二月三日ニハ通洞坑内ニ於テ見張破壊ノ相談アル風説ヲ聞キ,自分ト外四人ノ者ト共ニ三四区合併見張下ノ大斜ニ行キタルニ,三四人居リ,見張ヲ壊ス相談ガアルト云フカラ来タガドウシタカト聞キシニ,相談アリシモ纒ラズ皆切羽ニ行ッタ所ダカラ呼ビニ行クカラ待ッテ居レト云フタガ,其侭其処ヲ立去リタル旨ノ陳述記載」。

 「延ビノ取極メ」というのは賃金決定の一方法である〈間代〉のことである。採鉱方が賃金の査定に不公平なところがあれば「見張デモ何デモ打壊ハス」という話が坑夫の間でされていた,というのである。これが事実ならば,暴動は単なる偶発的な出来事であるより,計画的なものであった可能性が強くなる。しかも,この千明元三の話は,2月3日に彼と共に「三四区合併見張下ノ大斜」に行った坑夫3人によっても裏書されている。これも一審判決が引用するところであるが,次のように記しているのである(7)

「小野田留三郎予審調書ニ,本年一月二十八九日頃,通洞坑内出会坑地並竪入ノ所ニ坑夫七八名居リ,千明元三ノ申スニハ,坑内見張破壊ノ相談ガ三区ノ斜人道ニ於テ始マルトノコト故行テ見タケレドモ何事モナカッタト申シテ居リタリ。二月三日午前八時入坑シ,出会坑地並ニテ千明元三ガ,三四区下斜人道ニ於テ,今日見張ヲ壊ハス評定アル故行テ見ヨト云フ故一緒ニ行キシニ,坑夫ガ十名余居リ,元三ガ今日ハ見張ヲ壊ハス評定ガアル筈ダノニ何ヲシタノカト云ヒ,其処ニ居リシ坑夫ハ今日入坑ノ者ガ此処ニテ見張破壊ノ評定ヲ為シ居ル内ニ切羽ニ行テ仕舞ヒ評議ガ纒マラヌト申シタル旨ノ陳述記載。長谷川兼吉,栗原梅吉各予審調書ニ前記二月三日ノ件ニ関シ前示小野田留三郎予審調書ノ記載ト同一趣旨ノ陳述記載アリ」。

 何故か一審の裁判官は,こうした証言を知りながら,足尾暴動全体の発端となった通洞坑内見張所破壊が計画的なものであったか否かを全く検討していない。そしてただ単に「或ハ坑内見張所ヲ破壊シ役員ヲ脅サント議スル者アリ,其極以下説明ノ如ク明治四十年二月四日通洞坑内ニ於テ見張所破壊ノ暴挙ヲ為シ」と,この評定の存在を,坑夫の「意気頗ル昂」ったことの例証とするに止めている。

偶発説の難点の第2は,2月4日の通洞の見張所破壊で,これを率先して指揮した者がいた事実である。それは他ならぬ通洞1号飯場の山中委員であり,「至誠会熱心ノ十四人組」の1人として活動した大西佐市である。判決はこれについて次のように述べている。

「被告大西佐市ハ通洞ニ於テ最勢力アル一号飯場所属ノ山中委員ニシテ,兼テ前顕〈箱取戻〉並ニ飯場組織改革ノ主動者タリ。通洞坑夫間ニハ已ニ屡坑内見張所破壊ノ議アリシモ機未ダ熟セザリシニ,偶々二月四日午前八時頃通洞坑内三四区見張所ノ下方斜坑道ニ於テ多数ノ坑夫集マリテ見張 所破壊ノ議成ルヤ,被告モ亦之レニ賛シ,出入ノ坑夫等ニ対シ今日ハ見張ヲ壊ハスノデアルカラ,一番方ノ者ハ上ルコトハ出来ヌ,二番方ノ者は下ルコトハ出来ヌト叫ビ,不平欝勃タル坑夫等ノ集 ル者漸ク多ク,喧騒ヲ極ムルニ方リテ,被告ハ坑内見張りハ不必要ナリ打壊ハセト大声疾呼シテ暴 行ヲ煽動シ勢ヲ助ケタルヨリ兇徒等ハ,三四区見張所ヲ初メトシ,坑内各見張所ヲ破壊シ,暴状ヲ極ムルニ至リタリ」(8)

 この行為によって大西は刑法第137条の〈兇徒聚集罪〉の「煽動シテ勢ヲ助ケタル者」にあたるとして5年の重禁固に処せられた。事前に「見張所破壊ノ評定」が行われている事といい,たまたまその場に大西佐市がいて破壊を指揮している事といい,この暴動の発端を単なる偶発事件とは見なし難いように思われる。



至誠会教唆・煽動説

 これは検察側が一貫して主張したところであり,会社側も同一見解であった。要するに南助松,永岡鶴蔵らが計画し,その内意をうけて通洞では大西佐市,本山では鶴岡丑之助が坑夫等の先頭にたって見張所の破壊を行ったというのである。そして至誠会が暴動を計画し,実行した理由は,事実上至誠会が作成したと同様な〈山中委員の請願書〉の提出に先立ち,これを鉱業所に受け入れさせるための「示威運動ノ手段」として必要であったと主張している(9)
 だが,この主張にもいくつか難点がある。まず何よりも,南,永岡等の暴動時の行動がこの主張を否定しているのである。すでに見たように2月4日,5日の両日,南,永岡をはじめ至誠会の活動家の多くが〈暴徒〉の鎮撫に奔走しているのである。これは事件を捜査した警察官も,また検察側も認めている(10)
 ただ彼等は,〈鎮撫〉は単に表面を装うものにすぎず,実際には暴動を煽動していた,と主張するのである。だが,こうした主張は,永岡等の日頃の言動からすると,疑問が残る。先に永岡の演説内容について分析した際にもふれたが,彼の運動論の基礎には〈国法利用主義〉とも言うべき考えがある。鉱業条例はもちろん治安警察法第17条でさえ自己の運動や主張の正当性の根拠としているのである。予戒令を発令され,演説会でも〈弁士中止〉を命ぜられるなど,永岡にとって国家権力は決して甘いものではなかったにも拘らず,こうした考えは変わらなかった。彼は鉱夫らの〈暴発〉を恐れていた。それを口実に組織的な運動が警察力によって潰される危険を予見していたのである。運動が急速な盛り上がりを見せていた1月11日,さらに2月1日の演説会でも彼は次のように主張している(11)

「総テ労働問題ノ運動ハ正々堂々タレ。軽挙妄動電車問題ノ如キ醒風血雨ノ殺風景ヲ演ズルヲ戒ム。戦ハ刀ニ血ヌラズシテ功ヲ収ムルヲ以テ極妙トス。〔中略〕諸君能ク慎重ノ態度ヲ持シ卑烈〔劣〕ノ手段ヲ避ケヨ」
 「今ヤ吾ガ至誠会員ハ一千余名ニ達シ,尚ホ六百余名ノ一部入会金払込ノ会員,二百余名ノ入会 金ヲ納メザル即チ申込調印ノミヲ了セル会員トヲ有スル盛大ノ勢力団ヲ得タリ。豈ニ一大快事ニアラズヤ。〔中略〕固ヨリ吾ガ会ハ正当ノ道ヲ以テ進行セバ,最終ニハ必ラズ勝利ヲ得ベキ者ト確信シテ已マズ。故ニ決シテ暴力ニ出テ軽挙妄動スルハ深ク慎マザルベカラザルナリ」。

 もっとも,永岡を単純な合法主義者と見るべきではない。そのことはストライキに関する至誠会の方針によく示されている。さらに裁判で,検察側が問題にした1月8日演説会での永岡発言がある。それは「我々にもマッチ,石油を買う権利はある。マッチには古河の2000万円の財産はおろか全世界でも灰にする力がある」というのである。検察官はこれを永岡が暴動を煽動した証拠とした。永岡はこれに対し「マッチ買ふ権利あり石油を買ふ権利ありと云ふたのは単に自分に信頼させる為め決心を表したに過ぎぬ」と釈明した。その「決心」とは,至誠会の運動によっても目的を達成出来なければ,永岡は佐倉宗五郎のような自己犠牲の行動をとるというにあった(12)

 至誠会主謀説のもう1つの難点は,動機の欠如である。暴動によって至誠会が得るところは全くなく,逆にそのマイナスは決定的である。現に暴動によって至誠会の組織は壊滅させられてしまった。しかも,その危険性を彼等は十分認識していた。演説でも永岡は,大阪砲兵工廠の争議が職制に対する暴行事件で失敗したことを述べ,足尾がその二の舞いをしないうよう警告している。
 検察側の主張によれば,至誠会が暴動を企てた動機は山中委員が作成した24箇条の請願書を会社側に認めさせるための示威運動としてであった。だが,この主張は説得的ではない。第1に,24箇条の請願書は至誠会のものではなく,友子同盟の名義で,しかも飯場頭の添え書きを得た上で提出されることになっていた。至誠会はこれとは別に,会員数が1000人に達した段階で大会を開き,独自の要求を提出する計画であった。仮に,至誠会が要求実現の武器として暴動を計画していたとしても,それは2月11日前後に予定されていた大会の後でなければ,意味がない。
 第2,仮に山中委員の請願は実質的に至誠会が作成したものであり,従って至誠会がその実現のため暴動を計画したという検察の主張が正しいとしよう。しかし,その場合でも2月4日というタイミングは,最悪の選択である。何故なら,要求の提出日は2月6日と決められており,2月10日迄に回答を求めることになっていたのである。回答が拒否された場合に暴動を起こすことは,考えられないことではない。あるいは要求提出後,回答に先立って示威としての暴動を起こすことも,賢明な手段とは思えないが,選択肢としてまったくあり得ないわけではない。しかし,要求提出に先立つ暴動はマイナスでしかない。現に一斉要求提出日の2月6日に請願書を提出できたのは,暴動の圏外にあった小滝だけであった。本山、通洞、簀子橋の三山の友子同盟は、暴動がおきたために、請願書の提出さえ不可能になったのである。



飯場頭主謀説

 最後に残るのは,通洞の飯場頭が至誠会を撲滅するために計画し,配下の坑夫をして実行させたという,いわば〈飯場頭主謀説〉である。これは実際に飯場頭からその依頼を受けた大西佐市が一審の公判廷で供述したところである。

 「大西佐市は遅蒔きながら暴動の原因を述べんと云ふ態度にて,通洞石田喜四郎の飯場より鎌田延四郎〔正しくは延太郎〕が迎へに来り,泉屋旅館に伴ひ,泉屋の番頭を走らせ坂井和吉をも呼びよせ,鎌田は飯場の惣代として来りたるが,怎うか君は男となって頼みを聞て呉れ。其報酬として三百円遣るから,今頭役が請願して居るのだから,若者を煽だてゝ呉れと云ふのであった」。
 「鎌田が自分に話しをしたのは……お前が至誠会に入会して居ることは誰れも知らん者がないから,飯場の者も能く〔言〕ふことを聞く。お前さへ承諾すれば飯場の者は怎にでもなるから,至誠会に熱くならんで呉れ。三十人位の人は使はして遣るから,男と見込んで頼むから,若者を指揮して見張を壊せといふた」(13)

 結論から先に言えば,私は,この「飯場頭主謀説」が最も蓋然性が高いと考えている。
 まずその動機である。通洞の飯場頭が1月28日,山中委員の要求に屈して「箱の監督権」返還に同意したばかりか,翌29日には通洞1号飯場が〈飯場割〉を全廃したことは前述した。また,それが飯場頭にとってどれほど大きな経済的打撃を意味したかについても詳しく説明した。実はもう1つ,飯場頭が深刻な危機感を抱いた問題があった。それは,南助松らが坑夫に対し「諸君ガ労働賃金ヲ請取ルノ委任状モ取リ返サナケレバナラヌ」と呼びかけていたことであった。
 この当時,足尾銅山の坑夫は〈一類夫〉と呼ばれ,形式的には古河鉱業所と雇用関係を結び,賃金は鉱業所から直接支払いを受ける決まりであった。しかし,坑夫の多くは飯場頭から前借しており,その担保として飯場頭に自分の賃金を〈代理受取り〉させる旨の委任状を渡していた。飯場頭はこの委任状によって配下坑夫の賃金を全額受け取り,貸金を確実に回収し得たのである。さらに,自分の賃金を手にし得ない坑夫等は,食事をはじめ日常生活の全てを飯場頭に依存せざるを得なかった。当然のことながら飯場での生活費は割高で,借金はなかなか減らない仕組みであった。いわば賃金代理受取の委任状は,坑夫を半永久的に借金奴隷の地位に繋ぎとめておく鎖の役割を果たしていたのである。
 通洞の飯場頭にすれば,至誠会こそ〈諸悪の根元〉であった。南や永岡が山中委員の多数に影響を及ぼし,〈箱〉取り戻し,〈飯場割〉制度の廃止といった考えを吹き込んだことは明らかであった。まごまごしていれば,〈賃金代理受け取りの委任状〉の取り戻しにまで発展しかねない。何とか手を打たねば自らの存続が危うくなる。彼等はそう感じていたに相違ない。

 第2はそのタイミングである。至誠会にとって2月4日は最悪の選択であったのに対し,通洞の飯場頭にすればこの日はまさに〈最後の機会〉であった。なぜなら翌2月5日こそ,〈箱〉を山中委員に引き渡す日だったからである。
 第3に,「飯場頭主謀説」を裏書しているのは,この暴動によって現実に〈利益〉を得たのが他ならぬ飯場頭であった事実である。至誠会の活動家が一掃されたばかりか,山中委員制も廃止され,友子同盟は完全に飯場頭の支配下に繰り込まれた。その詳細は後でふれることになろう。
 第4に,「飯場頭主謀説」をとることで,初めてその言動の謎が解ける人物がいる。それは,先に〈偶発説〉に対する難点を指摘した際,しばしば登場した千明元三である。彼は1月末には坑夫間で「見張所破壊」の話が出ていたことを証言している。しかも2月3日には「見張所破壊ノ相談アル風説」を聞き,その相談に加わるため,わざわざ仲間の坑夫を誘って3,4区見張所下まで出かけている。理由はともあれ見張所破壊に強い関心をもっていたことは確かである。ところが「見張所ヲ壊ス相談ガアルト云フカラ来タガドウシタカト聞キシニ,相談アリシモ纒ラズ皆切羽ニ行ッタ所ダカラ呼ビニ行クカラ待ッテ居レ」と言われながら,待とうとはせず,何故か「其侭其処ヲ立去」っている。しかも,この千明元三は暴動後,捜査の警官に,1月中の何日かに井守伸午が「坑口見張ハ必要ナルモ,坑内ニ於ケル各見張所ヲ存置スルノ必要ナシ。故ニ此際坑内見張ヲ悉ク破壊全滅セシメザルベカラズト陳述シタ」と証言している。彼の発言はすべて見張所の破壊が事前に至誠会によって計画されていたことを印象付けるものである。
 第5は,第一審判決で通洞見張所の破壊を煽動したと認定された大西佐市の行動である。暴動直後,警察官の捜査報告は次のように伝えている(14)

 「大西佐市ガ本月4日午前8時30分頃,通洞坑内暴行ノ当時,第三・四区合併見張斜メニ於テ,十九号(入坑シタル坑夫全部ヲ指ス)ハ居ナイカ,十九号ノモノハ二タ心ダカラダメダト連呼シ,頻リニ暴行ヲ指揮シ居リタル事ハ,通洞十九号飯場ノ坑夫本近寅太郎ノ承知セル処ニシテ,又大西佐市ハ同八号飯場ノ西村富士之助外三,四十名ニ対シ,第三区二番坑下リ口ニ於テ,坑内見張ハ悉皆不必要ナルガ故破壊スベシト命令シタルニ,一同大ニ勇気ヲ鼓舞シテ暴行ヲ為シタルニ拘ハラズ,佐市ハ人ニ先ダチテ出坑シタル為メ,坑夫ノ悪感情ヲ受ケタリト云フト」。

 ここでは2点が注目される。1つは,大西が見張所の破壊を煽動しながら,さっさと出坑してしまった事実である。もう1点は,大西が指揮して見張所の破壊に当たった坑夫は,彼が山中委員をつとめる1号飯場の者ではなく,19号と8号飯場所属の坑夫だったことである。
 大西が他の坑夫より先に出坑したことについて,別の捜査報告は次のように報じてじている(15)

「一号坑夫大西佐市ハ坑口見張付近ニ入坑セザル体ヲ粉〔粧〕ヒテ羽織ヲ着シ傍観シ居リシヲ目撃シタル午前過ギナリシガ,同人ハ坑内暴行当日ハ昼夜ヲ四ツ方ニ分ケタル六時間勤務ノ二ノ方ニシテ午前六時ヨリ十二時迄就業スルノ筈ナリシモ(平日ナレバ十二時半頃坑口見張ニ着スル普通)当時同人ハ十時四十分頃坑口見張ヨリ自己ノ鑑札ヲ受取リ出坑シタル者ナリ」

 いったん見張所の破壊を煽動・指揮しながら,2時間後には単独で出坑し,しかも羽織を着て坑口見張り付近にいたというのは,かなり不自然な行動である。
  もうひとつの問題,つまり1号飯場の大西佐市が,8号,19号飯場の坑夫を指揮して見張所破壊を実行したというのも,きわめて不自然である。もともと大西は,この時間帯には切羽で働いているはずであった。それが,同じ切羽で働いていた者を指揮して見張所を破壊したのではなく,他の飯場の坑夫を指図して暴動を起こしているのである。一方,不思議なことに,彼の指揮下で見張所破壊を実行した坑夫らが所属していた通洞8号と19号の飯場頭は,米谷市平と鎌田延太郎であった。2人はともに至誠会撲滅運動の先頭に立ち,通洞1号飯場の飯場割廃止問題では直接大西佐市に働きかけた頭役である。なかでも鎌田は,単に飯場割制の復活を大西に働きかけていただけでなく,至誠会撲滅のために見張所の破壊を指揮するよう説得していたのである。
  この事実,すなわち大西佐市は鎌田ら通洞飯場頭の依頼で見張所の破壊を煽動したのではないか,という問題は一審法廷の最終段階で表面化したものであった。しかし,判決は何故かこれに全く触れることなく〈偶発説〉を採用した。ところが奇妙なことに,検察の「控訴意見書」は実に6000字を費やして「頭役主謀説」を否定する意見を展開しているのである(16)

この検察側の主張は2つのポイントから成っている。
 その1つは,〈飯場割〉の廃止がいかに飯場頭にとって重大な意味をもっていたかの論証である。検察が何故この点を強調したかと言えば,大西佐市が1月29日の泉屋での会合で,鎌田延太郎に「強テ其依頼ニ応ゼシメントセバ我ヲ殺セ」と発言した理由に関わるからである。大西は公判廷で,〈飯場割〉の廃止は,頭役の石田喜四郎が自分から言いだしたことで「飯場割ノ問題ノ如キハ敢テ重大ナル問題ト看做スベカラズ。是レ〔ガ〕為メニ生命ヲ云為〔々〕スルニ至ル筈ナシ」と主張し,「其依頼」の主な内容は,至誠会の指導者を逮捕させるため若い者を煽動して見張所を破壊せよ,というにあったと陳述していた。大西が「我ガ止メヲ刺セ」等と発言したことは,同席した酒井和吉の証言もあり,問題はその発言の背景であった。
 〈飯場割〉の廃止が飯場頭に深刻な経済的打撃を与えたことは検察の主張する通りである。ただ,そのことから,直ちに1月29日以降31日に至る鎌田・大西の再三の話合いが〈飯場割〉の復活問題に限られていたと考えることは出来ない。もともと〈箱〉取り戻し,〈飯場割〉の廃止は,通洞の山中委員が至誠会に入会し,飯場頭と対立したことから始まったものであった。鎌田の当面の目的が1号飯場における〈飯場割〉の復活にあったとしても,その実現のためには大西を至誠会から切り離し,飯場頭に協力的な態度をとるよう説得しなければならない。ただ〈飯場割〉だけを問題にした筈はないのである。もちろん今となっては見張所破壊の話が出たか否か確認のしようはない。しかし大西が見張所破壊の煽動者であった事はほぼ確実であり,彼の行動が至誠会の指示によるものでなかった事も明らかである以上,この計画が飯場頭の側から出た可能性は高い。煽動者が至誠会熱心な山中委員の大西であり,その指揮下で見張所の破壊を実行したのが米谷市平と鎌田延太郎の飯場の坑夫であった〈不思議〉は,見張所破壊計画が彼らの間で立案されたとすれば解消する。

 検察官が「頭役主謀説」を否定する第2のポイントは,大西佐市は「至誠会熱心ノ十四人組」の1人であり,もし飯場頭から「至誠会撲滅ノ依頼ヲ受ケ」たのが事実であれば,当然これを南,永岡らに告げる筈である。一方,鎌田延太郎の側からすれば,このような依頼を大西にするのは「殆ド敵ニ軍略ヲ謀ルニ均シク,常識ヨリ見ルモ如是事実アルベカラズ」と言うのである。
 大西が至誠会員として,〈箱〉取り戻しや〈飯場割〉の廃止運動の先頭に立って活動していたこと,これは事実である。だが,彼が至誠会に入会したのは1907年1月7日のことであり(17),会員としての活動期間は暴動時で僅か4週間にすぎない。鎌田が〈飯場割〉の復活を説得した時点では,会員歴はわずかに3週間である。一方,1号飯場の石田喜四郎には「十数年愛撫セラレ」(18)「数回助ケラレタル」(19)関係にあった。
また,大西佐市の説得に当たった鎌田延太郎は元1号飯場の坑夫であり,大西とは「同じ釜の飯を喰った仲」であった。会合が3日にわたって続いていることは,大西が鎌田の説得を容易には承知しなかった事を示している。だが,結局,大西は十数年の恩義の重さに抵抗し得なかったのではないか。



2)小滝坑暴動不参加の理由

坑場長の対応の違い

 つぎに問題にしたいのは,通洞,簀子橋,本山の3地区で程度の差はあれ〈暴動〉が起きているのに,なぜ小滝坑では暴動が起こらなかったのかである。答えはいくつか考えられる。その1つは,もともと小滝の友子同盟は通洞や本山にくらべ至誠会との提携に消極的であったことである。要するに,通洞や本山に対する批判的態度が〈暴動〉への不参加につながったのではないか,というのである。しかし,この答えは,何故小滝は至誠会に批判的であったのか,という別の問いを生む。この問いに対する1つの解答は,通洞は同志会,労働会以来,永岡が活動の根拠地にしてきた所であるのに,小滝は本山にくらべても交通の便が悪く,演説会の会場に向いた劇場等もなかったため,至誠会の影響が及び難かったことにある。しかし,これだけで小滝の〈暴動〉への不参加を説明するのは無理である。
 第2の,そして,より説得的な答えは,小滝坑場長・江刺重樹の坑夫に対する対応が通洞や本山に比し,巧妙であった点に求められる。これを指摘している資料はいくつかあるが,その1つ,警部田村勘之進の2月19日付の捜査報告書は,次のように記している(20)

「小滝坑場長ハ元本山ニ現場員ヲ勤メ累進シタル人ニシテ,能ク下情ニ通ズルヲ以テ,同所ニ於ケル現場員ハ本山,通洞,簀子橋等ノ現場員ニ比シ坑夫等ニ対スル不正行為認ナク,従テ坑夫等の之ニ対スル不平少トシテ,又坑場長ノ常ニ坑夫ヲ遇スル其宜敷ヲ得タルガ故ニ一般ニ嘱望セラル」。

 これと同趣旨のことを新聞記者も「検挙された坑夫の談話」として伝えている。

「通洞,本山が彼の騒をしたのハ工〔坑〕場長が学者議論で坑内の事情を知らないから起きたのですが,小滝の場長江差繁寿〔江刺重樹〕さんハ木村前々所長の時代からの方針を採て自分自ら坑内に入り,坑夫の模様をよく知て居るので係員等も収賄することが出来ず,又予め此事あるを知ったので責任を負ふて請合い賃金〔請負賃金〕を一人平均一円に引き上げたから,今度でも暴動ハ起こりませんでした」(21)

小滝坑場長の江刺重樹が至誠会の主導による賃上げ運動の発展を憂慮し,自己の権限内で可能なことに関しては,その要求の一部をいち早く承認するといった他の坑場とは異なった対策をとった事については,至誠会の活動家も認めていた。たとえば,井守伸午は1月11日の小滝における演説会で,「江刺場長小滝ニ転勤,能ク設備ノ欠ヲ補ヒ,其ノ弊ヲ矯メ,坑夫ノ感情ヲ買ハンタメ坑口ニ常燈ヲ設ケ,又タ坑内風力ノ烈シキ場所ニ電燈ヲ照ラシ,出入ノ便ヲ謀レリ」(22)
 このほか,永岡鶴蔵や林小太郎らも,江刺坑場長が「小滝転任以来稍ヤ改善セシ処アル」ことなどを認め,「甘言ニ欺カレルコト勿レ」と警告していた(23)
 ただ,この江刺坑場長の坑夫に対する日常の対応だけが,小滝坑夫の暴動不参加に影響したのではない。むしろ,より決定的であったのは,暴動勃発後に江刺重樹がとった対策であったと思われる。
 2月5日夜,通洞での衝突の翌日,小滝では飯場頭,山中委員ら90余人による集会が開かれた。これは江刺坑場長の要請によるもので,席上彼は「小滝の坑夫ハ蛮的行動に出づるか,ただしは文明的態度を以て正々堂々の行動を執るか」を評議決定してほしいと要望した。「此二案孰れを取るべきかに就て,九十余名の代表者ハ六日の午前一時頃までも議論を闘はしたる結果,通洞,本山の騒擾は無意味の暴動なり,我等ハ正々堂々と願意を貫徹するの方法を取り,決して蛮的行為にハ出でざるべしと決議した」(24)
 注目すべきは,江刺坑場長が飯場頭だけに頼らず山中委員に直接働きかけ,しかもその〈自主的〉な討議によって〈暴動〉への不参加を決めるように仕向けたことである。飯場頭だけの力では,四山の盟約で行動をともにすることを誓っている友子同盟は抑えられない,と考えたからであろう。この判断は正確であった。それは何も小滝坑の坑夫が〈暴動〉に加わらなかったという結果だけでなく,翌6日朝の一事件がこれを裏書している。この日,平常どおり入坑した小滝坑の坑夫は,普段は坑内には入らない飯場頭が切羽まで来ているのに怒り,作業を開始せず,集会を開いた。そして曰く,

「吾々は昨夜山中当番の決議に原き,正々堂々願意貫徹の方法を執り,通洞や本山の如き馬鹿々々しき挙動に出でざりるを誓ひしに,今朝坑内に来て見れバ平素とは異なりて,頭役等が入り込み来りて我等を監視せる訝しさよ。固より何を命ぜられてもハイハイと受くる飯場頭の事なれバ,思ふに我等を監視する事も全く江差〔江刺〕坑場長の命令によりて入坑したるものなるべし。若し果して然りとせバ頗る我等を侮辱したるものにして,不都合千万なれバ,之より頭役一同に向って談判すべし」(25)

 この集会を本山の〈暴動〉に加わるためのものと誤解した現場員は直ちに坑場長に通報し,驚いた坑場長は友子同盟の箱元に連絡した。そこで急遽,山中箱元3人が現場に駆けつけ,坑夫等を鎮め無事に終わった,という。このエピソ―ドは,この時点における飯場頭の統轄力の弱さを示すとともに,友子同盟の自立性をも明示している。坑夫出身の江刺重樹は,こうした状況を認識していただけでなく,友子同盟を通じ,直接,坑夫に働きかけ得る人間関係を保っていた。これが,小滝坑が暴動の圏外となった最大の理由であろう。





【注】


(1) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,228ペ―ジ。

(2) 西川〔光二郎〕生「足尾騒動詳報」(前掲書,212ペ―ジ)。

(3) 「足尾銅山の暴動 第十報」(『国民新聞』1907年2月7日付,『栃木県史』史料編・近現代二,709ページ)。

(4) 「証人馬谷進吉第一回調書」(「控訴意見書」に引用されたものによる。 前掲書 679ペ―ジ)。

(5) 至誠会の一会員は現場員が坑夫に対し尊大な態度をとったことを,次のように述べている。

「嘗ツテ坑夫タリシトキ或ル受付係予ニ向ヒ主人ト思ヒト言ハラ〔レ〕シコトアリ。……又タ坑夫各々其ノ日ノ業ヲ終ヒ坑口見張ニ来リ札受ケヲナスヤ一時ニ多数坑夫ノ集合スルコトトテアタカモ停車場ニテ切符ヲ購フ有様ニテ其混雑一方ナラズ。殊ニ疲レタル身体ト待タセラルゝ寒サノタメ手足凍ヒテ自分ノ札ヲ早ク早クト督促スルナリ。若シ其ノ事ノ判座員ノ知ル所トナルヤ叱咤一番汝ノ頬冠リヲ外セヨ,汝ハ如何ニ無礼ナル者ヨ人ニ対シ物言ヒスル礼ヲ知ラザルカト。是レ固ヨリ本分ナルベケレドモ些細ノ事ニマデ官吏気取ヲナシ坑夫ヲ冷遇視スル一班ノ状ヲ察知スルコトヲ得ベシ」(「至誠会労働問題政談演説会報告書」,労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 203ペ―ジ)。


(6) 「足尾暴動事件宇都宮裁判所判決」,労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 234ペ―ジ。

(7) 同上。

(8) 前掲書,228ペ―ジ。

(9) 「控訴意見書」は『栃木県史』史料編・近現代2,668ー704ペ―ジ。会社側の見解は『足尾銅山暴動概記』(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 211ペ―ジ)参照。

(10) 菅吉郎「四日坑内暴行ノ際坑場附近状況報告」,「控訴意見書」(『栃木県史』史料編・近現代二,564ペ―ジ,702ペ―ジ)。 

(11) 「労働至誠会演説会報告書」および「至誠会労働問題政談演説会報告書」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 198,204ペ―ジ)。

(12) 「足尾事件公判傍聴記」『下野新聞』1907年8月4日付。

(13) 「足尾公判傍聴記」『下野新聞』1907年8月13日付。

(14) 警部・田村勘之進「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告」(『栃木県史』史料編・近現代二,565〜566ペ―ジ)。

(15) 菅吉郎「四日坑内暴行ノ際坑場附近状況報告」(前掲書,564ペ―ジ)。

(16) 「控訴意見書」(『栃木県史』史料編・近現代二,681〜686ペ―ジ)。

(17) 「第3回足尾公判」(『下野新聞』1907年8月4日付)。

(18) 「控訴意見書」(『栃木県史』史料編・近現代二,685ペ―ジ)。

(19) 第一審判決(『栃木県史』史料編・近現代二,657ペ―ジ)。なお大西が石田に「数回助ケラレタ」ことの詳細は不明であるが,大西は1900年2月に 「殴打創傷の欠席裁判を受け,昨年〔1906年〕捕縛されて服役」(『下野新聞』1907年8月5日付)している。約6年逃亡生活を送っていたわけであり,おそらくこれと関わるものであろう。

(20) 「足尾凶徒嘯聚事件捜査報告」(『栃木県史』史料編・近現代二,565ペ―ジ)。

(21) 『万朝報』1907年2月9日付(『栃木県史』史料編・近現代二,750〜751ペ―ジ)。 

(22) 「労働至誠会演説会報告書」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 197ペ―ジ)。

(23) 「至誠会労働問題政談演説会報告書」(前掲書,204〜205ペ―ジ)。 

(24) 「足尾銅山の代議制度(下)」(『万朝報』1907年2月18日付 ,『栃木県史』史料編・近現代2,764ペ―ジ)

(25) 前掲記事(前掲書,765ページ)。



[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月15日。掲載に当たり若干の加筆訂正をおこなった。]


【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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