『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
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第1章 足尾暴動の主体的条件
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切羽名 | 予想延長 | 予想採鉱量 | 必要経費 |
A | 2寸 | 5貫目 | 15銭 |
B | 3寸5分 | 10貫目 | 20銭 |
C | 4寸 | 30貫目 | 25銭 |
切羽Aから採鉱し得ると予測された鑑定鉱は5貫目である。したがって,ここで働く坑夫は鉱石の代価としては25銭を得るだけである。しかも必要経費が15銭かかるから,標準賃金65銭を得るには55銭を〈間代〉から得なければならない。予想延長は2寸であるから,1寸あたりの代価は27銭5厘,〈間代〉としては27円50銭ということになる。
切羽Bのばあい,坑夫は鉱石の代価として50銭を得る。したがって,これと標準賃金の差15銭に必要経費20銭を加えた35銭を掘進延長に対する代価として得ればよい。予想掘進延長は3寸5分であるから,1寸あたりの単価は10銭,間代は10円ということになる。
切羽Cの場合は採掘が容易で,しかも富鉱脈であるため,坑夫は1日で鑑定鉱30貫目を採鉱し得る。その代価だけで1円50銭であるから,必要経費25銭を差し引いても1円25銭と,まだ標準賃金を60銭上回っている。したがって,この場合は掘進延長1寸につき15銭が鉱石代から差し引かれる。いわばマイナスの間代である。これを足尾では〈赤間代〉とか〈上納間代〉と呼んだ。
こうした間代の査定は,月2回,切羽ごとに採鉱方とその直接の上司である区長によって行われ,坑場長が承認した。しかし「実際ニ於テハ坑場長ノ承認ノ如キハ一片ノ形式ニ過ギズシテ其内容ノ当否ハ亳モ審査セサルヲ以テ,殆ト現場員ノ方寸ニヨリ専擅ニ決定セラルヽモノトス」(30)であった。〈間代〉はすべて予測によるものであるから,実際にその予測どおりになるとは限らなかった。その場合には5日ごとに掘進延長の実測を行う〈小鑑定〉で手直しされた。
なお,切羽の配分は原則として抽籖によることとなっていた。もちろん,これは本来賄賂などによる不公正な番割りを防ぐための制度であった。しかし,実際には「正式の抽籖なるもの行はれし例更になく」(31)と言われている。さらに,5日ごとの〈小鑑定〉の存在はこれを骨抜きにした。すでに割り当てられた切羽の〈間代〉を採鉱方や区長が変更し得たからである。〈間代〉の査定だけでなく,掘進延長の実測でも賄賂の有無,多寡によって特定の坑夫に有利に,あるいは不利に査定することは容易であった。
もちろん,こうした出来高制をとれば必ず賄賂がはびこるというものではない。採鉱方を監督する立場にある区長や坑場長が絶えず現場を見回り,実状をよく把握していれば,不公正を抑止することは可能である。現に小滝では江刺坑場長が坑内の実状をよく把握していたために,現場員の間に不正行為が少なかったとされている(32)。しかし,本山,通洞ではこうした規制はなかった。検察の控訴意見書にも「役員等ガ坑夫ヲ遇スル不公平ニシテ,黄白ノ多寡ニヨリテ待遇ヲ異ニスルコト,役員等不公平ナルコトハ被告人等ノ多数ガ予審及公判廷ニ於テ等シク訴フル処ニシテ,即現場員ガ賄賂ヲ要求シ,賄賂ヲ与フレバ善キ切羽ニ廻シ,賄賂ヲ贈ラザレバ善キ切羽ヲ与ヘザル旨ノ陳述ヲ為セルモノ其数夥シク,殆ド被告人ノ半数以上ニ達シ,其内ニ現ニ役員ノ要求ニヨリテ贈賄シタル事実ヲ陳述セルモノ亦不尠,以テ坑夫一般ニ通ズル不平ト見做スニ充分ナリ」と記されている。
賃金の査定に強大な権限をもっていた採鉱方だけでなく,単に坑夫の入出坑の管理に当たっていたに過ぎない見張方も賄賂を要求した。見張方はその権限が限られていただけに,その不公正はより露骨なものとなった。たとえば,規定の入坑時間に遅れた場合は10分の1の減給処分を受けるだけでなく,精勤賞与が取り消される(33)ことを利用し,「賄賂ヲ贈レバ其罰ヲ取ラズ大目ニ見ル様ノコトヲ致シ,若シ賄賂ヲ贈ラヌ者ハ一分遅レテモ罰金ヲ取ラレル」ばかりか,出坑時間が遅れた場合でさえ減給処分を行った(34)。あるいは「飲む水がありませんから下さいと言ふとないと言ふ。賄賂を使った者にはどんどん出てくる」といった嫌がらせ的なことも行われた(35)。
賄賂が横行したもう1つの原因に,現場員の賃金が思いのほか低かったことがある。役員の給与水準についての統計的なデ―タは得られないので,正確なところは判らないが,暴動原因について報じた一新聞記事は「区長といえる月給十四,五円の会社役員」(36)と記している。月給14〜15円は日給にすれば50銭足らずでしかなく,坑夫の平均日給を下回っている。坑夫の場合は火薬や道具代などの経費がかかること,一方役員には賞与が出ることを考慮に入れても,少し低過ぎるように思われる。ただ,別稿でやや詳しく見たように,1897年の経営方針の変更後,役員に対する給与等も厳しく抑えられていたことは確かである。至誠会もこうした事実を認め,南助松は「役員モ賄賂ヲ取ルノハ薄給デアルカラデアル」と演説している。
ところで,すでに述べたように,現場員の多くは坑夫や支柱夫の間から登用されていた。本来,現場員は工手学校の卒業者から採用することを予定していたと思われる。しかし,その適格者が少なかった上に,労働者からの登用が作業現場の志気を高める効果を持っていることに気付き,比較的多くの労働者が登用されていた。足尾の労働者の間でも日本の労働者一般に共通する,強い上昇志向があった事実は,一審判決が坑夫の不満の1つとして「南所長以来役員ノ採用ハ支柱夫ニ限ル。古河市兵衛存命中は技倆ノ如何ニヨリ各労働者ヨリ採用シタ」ことを挙げていることからもうかがえる。現場員に登用された者は一般に熟練度の高い労働者であり,特に坑夫の場合は出来高給であったから,かなりの高賃金を得ていたであろう。名目賃金であれば,登用によって低落した事例もありえたと考えられる。それでも,多くは役員への道を選んだに違いない。賄賂はそれを補うものでもあった。
役員に対する攻撃で,とりわけ重要な意味をもつのは足尾鉱業所長・南挺三への〈暴行〉である。何故なら,坑内における坑夫,支柱夫対採鉱方,見張方との衝突にとどまっていた〈暴動〉を坑外に拡大し,その攻撃対象を下級職制から役員全体に向け,さらには警察に対してさえ公然と反抗する契機をなし,〈暴動〉の転換点になったのは,他ならぬ南所長に対する攻撃であった。その意味で,鉱夫等にとって南挺三がどのような存在であったかを知ることは,足尾暴動の性格,原因を考える上で重要である。
これについてきわめて明快な回答を出しているのは一審判決である。宇都宮地方裁判所の宮本力之助裁判長は,判決の冒頭で,暴動原因の第1に南所長の鉱夫に対する処遇が極めて苛酷であったことを指摘し,特にこれを古河市兵衛の生存中と比較し,次のように論じている(37)。
「古河鉱業所所属足尾銅山ニ労働スル数千ノ鉱夫ガ,故古河市兵衛生存中ノ待遇宜キヲ得タル為メ欣ビテ其業ニ就ケルニ反シ,同人ノ病没後ハ坑夫ノ賃金ガ物価ノ騰貴ニ伴ハザルモ措テ顧ミズ,尋テ南挺三ノ鉱業所長トナルヤ鉱夫ヲ遇スル苛酷ニシテ秋亳モ仮借セザル事実ニ付テハ巡査石川宇吉ノ報告書ニ,第一南挺三赴任シタル時ヨリ以後ハ坑内ヨリ腐朽シタル細小ノ木材ヲ薪 ニ供スル為メ持チ出ストキハ罰金ニ処ス。古河市兵衛生存中ハ此事ナシ。第二南所長以来役員ノ採 用ハ支柱夫ニ限ル,古河市兵衛存命中ハ技倆ノ如何ニヨリ各労働者ヨリ採用シタリ。第三古河市兵衛存命中ハ坑夫等一ヶ月二三日位休業スルモ減米ノ制裁ナカリシニ,南時代ヨリハ一日欠勤スルトキハ一升五合ヲ減ジ渡スコトヲ実行ス。第四古河市兵衛存命中ハ労働者勤務時間ハ六時間ナリシニ,南時代ヨリ八時間ト改正シタリ。第五古河市兵衛存命中ハ一ヶ月二日ノ公休ナリシガ,南ハ之ヲ廃止ス。第六古河市兵衛存命中ハ一ヶ月公休二日ノ外二日位欠勤スルモ本番二日分ノ賞与アリシニ,南時代ヨリハ罰金五銭タリトモ徴収サルル者ニハ賞与ヲ給セズ。甚シキニ至リテハ入坑五分間ヲ遅レ,出坑五分間ヲ遅ルル時ハ五銭ヨリ弐拾五銭位ノ罰金ヲ科スル規定ヲ設ケ実行シタリ。第七古河市兵衛存命中ハ正月及ビ山神祭ニハ一般労働者ニ酒肴ヲ与ヘタルモ,南時代ヨリハ全廃シタリ,トノ記載。警部川嶋兵三郎捜査顛末第一回報告書ニ,古河鉱業所長南挺三ハ性極メテ急激ニシテ労働者ニ対シ自己ノ意ニ反シタルコトヲ発見シタルトキハ往々鞭撻ヲ加ヘ且ツ彼等ヲ待ツ極メテ苛酷ナリトノ説アリトノ記載。警部田所種実報告書ニ,足尾銅山坑夫ノ賃金ハ明治二十八年ニ至リ本番賃金ヲ五十銭ト定メ多少ノ増賃ヲ為シタルモ……其後明治三十二年ニ至リ物価騰貴ノ理由ニヨリ増給ノ請求ヲ為シ,又三十六年ニ於テ同一ノ理由ニヨリ請求ヲ為シタルモ何レモ採用セラレザリシ〔後略〕」。
ここで指摘されている南挺三の〈悪行〉のうち,坑内の古材を持ち出した者への罰金制,出入坑の定刻に遅れた者への罰金制,さらに罰金を科された者には精勤賞与を支給しないこと(38),欠勤者への〈供給米〉の制限,さらに公休日の廃止(39)といったことは何れも南所長時代にとられた措置である。また坑夫の本番賃金の凍結も明らかな事実である。だが,これらの〈悪行〉が全て南挺三個人の責任に帰せらるべきものかと言えば,大いに疑問がある。
役人あがりの南挺三が〈封建的官僚臭〉を帯びた人物であったことは(40),おそらく事実であり,罰金制の強化など規則づくめのやり方に,彼の性向が反映していたことも確かであろう。
だが一審判決は,暴動の原因を余りに南個人に負わせ過ぎている。例えば,坑夫の労働時間が6時間から8時間に延長されたのは1901(明治34)年以前のこと(41)であって,南の責任ではない。また本番賃金の据え置きも彼個人の意向によるというより,古河鉱業会社としての決定であったと思われる。飯場頭の賃上げ請願に対する対応はこうした推測を裏付けている。南個人の資質より重視すべきは,1897(明治30)年の〈第三次鉱毒予防命令〉を機とした古河の経営方針の転換の影響である。これについては第3章で詳しく論ずるので(42),ここでは要点のみにとどめたい。
1875(明治8)年の創業以来,古河の経営は完全に市兵衛が独裁するところであった。彼の基本方針は産銅シェアの拡大を主目標とする積極政策で,具体的には足尾を中心に大規模な設備投資を行うとともに,全国の金属鉱山,特に銅山を買いあさったのである。しかし市兵衛の周囲には,渋沢栄一,陸奥宗光などその積極拡大政策を危ぶむ者は少なくなかった。1897年の鉱毒予防命令に際し,渋沢の第一銀行は工事費の融資の条件として経営方針の変更を求め,以後経営の主導権は陸奥の次男で市兵衛の養嗣子・古河潤吉の手に移った。潤吉は「進取拡張の創業時代を去りて,守成整理に適応する取締の制を設け」る方針を強調し,経費節減を目標とするさまざまな諸施策を具体化した。労働時間の延長,賃金の凍結,一斉休日の削減,罰則の強化を主とした規則の制定などは,この経営方針の転換の一環として進められたのである。その意味で一審判決が古河市兵衛時代を1つの極にもってきたのは誤りではない。ただ,それは市兵衛存命中ではなく,市兵衛独裁時代であるべきであった。また市兵衛の対極には南挺三ではなく,むしろ古河潤吉が来るべきであった。南挺三は潤吉の下で進められた〈守成の時代〉の一端を担った1人に過ぎない。
しかし,足尾銅山の鉱夫の多くが1903年4月に市兵衛が死去し,同年9月に南挺三が鉱業所長として赴任した後に,事態が悪化したと考えたのも無理はなかった。経営方針の転換が現場の末端まで浸透するには一定の時日を要し,さらに賃金凍結の影響が出来高制のもとにある坑夫にまで実感されるには,さらに日数を必要としたからである。
加えて,坑夫等が南挺三を〈諸悪の元凶〉と認識するのを助けたのは,南助松,永岡鶴蔵らによる公然たる批判攻撃であった(43)。至誠会も結成当初は「役員モ賄賂ヲ取ルノハ薄給デアルカラデアル。所長デモ学士連デモ実際気ノ毒ナモノデアル」と述べるなど,鉱業所幹部に対する攻撃は差し控えていた。しかし1907年1月に入ってからは鉱業所幹部を名指しで批判し始めた。なかでも南所長は格好の攻撃対象であった。足尾全山を閉山の危機に追い込んだ〈第三次鉱毒予防命令〉の署名人としての前歴といい,さまざまに伝えられたその言動といい,南挺三は〈悪玉〉としてうってつけであった。
1月8日,南助松は演説した。
「南所長ハ第一人道ヲ知ラヌ国家ノ大罪人デアル。吾国家ノ大忠臣タル吾々至誠会ヲ非常ニ恐ルゝのは何ヨリノ証拠ダ。南所長ハ今度本店ヘ八百名ノ巡査ノ派遣ヲ請求シタトノ話デアルガ,本店デハ八百名ノ巡査ヲ派遣スルニハ一万円ノ金ガ要ル。其金ヲ坑夫一人ニ一円ヅツモ呉レタラ坑夫モ喜ブダロウ。世間体モ宜シカロウト云ッタソウダ」。
次いで1月12日の演説会でも南助松は南挺三を批判している。
「元来南ナルモノハ其ノ経歴首肯セザル所。鉱山監督署長時代ニ於テ水〔鉱〕害予防工事ノ不完全設備ヲ黙契指摘セザル事ヲシ,一ハ会社ノ不正利益ヲ□ラシメ,以テ交換的ニ現地位ノ椅子ヲ占メタルモノナリ。其ノ不法行為ノ枚挙又タ少ナカラズ」。
さらに1月26日,この日はかねてから大日本労働至誠会足尾支部主任南助松が,元東京鉱山監督署長,足尾古河鉱業所長南挺三に宛てて〈公開状〉を発し,立ち会い演説会への出席を要求していたその日であった。むろん南挺三は出席しなかったが,永岡鶴蔵は彼を糾弾した。
「南鉱業所長ハ足尾ヘ鉱山監督署長トシテ予防工事ノ際ハ日本ノ国家ヲ代表シテ六十円ノ月給デ来タモノダガ,足尾ヘ来テ怱チ二百円デ鉱業所長トナッタ人デアルガ,南所長程虚言ヲ云フ人ハナイ。達磨ヤ女郎デモ南所長程虚言ハ云ハヌ。嘗テ三年以前南氏ヨリ送シ書面ナリトテ書面ヲ朗読シ,斯ノ如ク立派ナ書面ヲ送リナガラ,三年後ノ今日何ノ改善モシナイ。益益労働者ヲ苦シムルデハナイカ。夫レカラ南所長ハ此様ナ規則ヲ設ケテアルト足尾鉱業所鉱夫使役規則ノ一部ヲ摘読シ,此様ニ規則ヲ設ケテアリナガラ,坑内其他ニ於テ南所長ハ自ラ規則ニ違犯シテ居ルデハナイカ」。
暴動直前の2月1日,永岡鶴蔵,南助松はそれぞれ立って,南挺三を糾弾した。永岡は「実ニ彼レ所長ハ冷情無血ノ人物タリ。嘗ッテ細尾峠ヲ駕篭ニテ越ス際,至急ヲ告ルトテ駕夫ニ一休息ヲ与ヘズ,全速力ヲ以テ通リシ話柄アルニアラズヤ。世人其ノ人ト為リノ一班ヲ見,如何ニ足尾ノ労働坑夫ヲ使役スルノ暴逆ナル酷遇ヲ知ルニ難カラズト言ヒシ人アリトヤ」と指摘した。
この日,南助松は「南挺三氏ニ三寸ノ舌刀ヲ呈ス」と題して演説し,「暴逆専横ノ南所長,今ヤ猛省セズンバ,予ハ正ニ白木ノ三宝ニ舌刀ヲ載シ,切腹ヲ勧メント欲ス。然カモ尚ホ悟ル所ナクンバ,非常手段ニ出ツ,敢テ辞スル所ナシ」と攻撃の焦点を南所長に向けたのである。
こうした至誠会の公然たる所長批判,南挺三に対する個人攻撃は鉱夫等に大喝采をもって迎えられた。鉱業所長という足尾銅山の最高責任者が,その地位を〈賄賂〉同然に得たものであること,〈冷血無情〉な誠意を欠く男であることは,皆に強く印象づけられた。この至誠会による南所長攻撃がなければ,はたして坑夫の見張所破壊は,南所長役宅への襲撃にまで発展したであろうか。もちろん,明確な答の出し得る問題ではないが,あえて問われれば〈否〉と言うほかはない。
(27) 前掲書 77ペ―ジ。
(28) この当時の足尾銅山における賃金決定に関する文献で,現在比較的容易に見られるものは「控訴意見書」である(『栃木県史』史料編・近現代2,677〜679ペ―ジ)。ここでは東京大学工学部所蔵の工科大学学生の卒業実習報告書『細谷源四郎実習報告書』(1905年),『玉木二五三九実習報告書』(1907年)前掲『採鉱法調査報文 第二回』77〜93ペ―ジ等を参照した。
(29) もちろん切羽ごとに鉱石の買い上げ価格を異にすることも原理的には可能である。しかし,事務がきわめて煩瑣となるだけでなく,他人の切羽の盗掘,鉱石の盗難,あるいは複数の坑夫が組んで単価の低い切羽から高い切羽への横流し等の弊害が起き易い。
(30) 「控訴意見書」(『栃木県史』史料編・近現代二,677ページ)。
(31) 『二六新報』1907年2月15日付(『栃木県史』史料編・近現代二,768ペ―ジ)。
(32) 「本山に来てからは賄賂の話は沢山なるが,小滝には一切収賄の話はありませんでした」(米沢八三郎公判廷陳述 『下野新聞』1907年8月6日付)。
(33)〈鉱夫賞罰施行細則〉によって,坑夫には1年を3期に分け1期間公休日を除き休業7日以内の者には5人工賃額を,10日以内の者には3人工賃額が支給され,さらに全期を通じて賞与を受けた者には,年末に最終期と同額の賞与が上積みされた。ただそれには「一定ノ期間勤続シ処罰ヲ受ケズ且ツ其稼賃金一日平均一工賃額ニ相当スルモノ」という条件がついていた。遅刻は10分の1減給という〈処罰〉の対象であった。
(34)「足尾銅山の大騒動」(『国民新聞』1907年2月10日付,『栃木県史』史料編・近現代二,752ペ―ジ)。
(35)「暴動の原因(其二)」(『国民新聞』1907年2月10日付,前掲書,720ペ―ジ)。
(36)鶴峯生「暴動小観(二)」(『二六新報』1907年2月15日付,前掲書, 767 ペ―ジ)。
(37)「足尾暴動事件宇都宮裁判所判決」(労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻 231〜232ペ―ジ)。
(38)以上は1906年2月に制定された〈鉱夫賞罰施行細則〉に規定されている。同細則は,賞与については精勤者及び長期勤続者に対するものを規定しているに過ぎない。一方罰則については9条34項にわたって詳細に定めている。その中には無届け遅刻,無届け休業,入坑の届け出を他人に託した者,託された者等が含まれている。
(39)南所長のもとで制定された〈鉱夫使役規則〉は,それまで年間27日(1月,7月,12月は各3回,その他の月は2回)あった一斉休日を,元旦,紀元節,山神祭,旧盆,天長節,大晦日の7日だけとし,残る20日は輪番制に改めた。
(40)『古河虎之助君伝』103ペ―ジ。 なお,同様の評価は,『東京朝日新聞』1907年2月19日付にも見られる。「然るに三年以前,南挺三氏近藤氏に代りて所長となるや,官吏出身たる丈けに総て規則的となり,杓子定規となり,従て直接彼等〔鉱夫〕に対する役員迄も官吏風となりて,言葉遣ひさへ荒々しくなり行き,官尊民卑の風は此別天地に吹き荒むに至れり。彼等は之を恨み且つ怒れり。是れ今回の暴動が単に賃銀値上問題のみに非ずして,役員に対する平素の欝憤をはらさんとしたのも亦其主なる一因なり」。
(41)〈古河足尾銅山鉱夫使役規則〉第十三条 鉱夫就業時間ハ八時間乃至十二時間トス但シ工場ノ都合ニ因リ臨時六時間ト為スコトアルベシ(《風俗画報》増刊 『足尾銅山図会』1901年7月刊)。
(42)本書第3章第6節参照。
(43)労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻,196,198,201,205ペ―ジ。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月15日。掲載に当たり若干の加筆訂正をおこなった。]
Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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