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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


第1章 足尾暴動の主体的条件
       ──原子化された労働者」説批判──



VI 〈原子化された労働者〉説批判

1)自然発生説について

組織性と自然発生性

 ここでもう一度本章冒頭の設問に立ち返り,「暴動は,組織をもたず経済的に窮乏していた労働者による,自然発生的な抵抗であった」とする見解,その亜種のひとつで,一見すると明晰な理論的分析に基づいて展開されているかにみえる〈原子化された労働者〉説について考えてみたい。
 まず暴動の〈自然発生説〉であるが,これを批判しているからと言って〈自然発生的〉とか〈自然成長的〉といった概念そのものを否定している訳ではない。文字どおりの暴動となった2月6日の本山坑外における坑夫の行動それ自体には,誰かが意識的に計画し,指導あるいは煽動した形跡は見られない。建物の破壊や役員に対する攻撃,放火などは自然発生的な大衆行動としか考えようのないものであった。しかし,これとて至誠会による南挺三所長批判といった,意識的な行動の影響抜きには起こりえなかったとも考えられる。

 一方,暴動の発端となった2月4日の通洞坑坑内の見張所襲撃が100パ―セント自然発生的と言い切れない側面をもっていたことは,すでに詳しく検討した。一部の飯場頭が計画した意図的な挑発行動であった疑いが強いのである。だが,この場合でも実際に見張所に投石したり,ダイナマイトを破裂させた坑夫の多くは,そうした企てを知って意識的に参加したわけではなく,その意味では自然発生的な側面をもっていたことも否定できない。現実には,いかに計画的,組織的なものであろうと,それが大衆運動である限り自然発生的な要素は不可欠であると言ってよい。逆に,いかに自然発生的に見えるものであっても,それが大衆的に展開された行動であるとすれば,何等かの組織を背後にもっている場合が少なくない。デイヴィド・モントゴメリーも指摘するように,「自然発生性と組織性とは決して相互に排他的な両極をなすものではない。両者は弁証法的に不可分である」(1)というべきであろう。

 ところが,従来の通史的研究では,ともすれば〈自然発生的〉の一語を用いるだけで,争議や暴動の原因,特質が明らかになったかのように考え,それ以上の追究をおこなっていない。そこでは,高島炭坑の一連の争議や暴動も,三池炭坑における1883年の囚人暴動も,1907年の足尾暴動も,鉱山暴動はすべて「劣悪な労働条件に耐えかねた坑夫等による自然発生的反抗」と規定し,その歴史的差異は無視され,一色に塗りつぶされている。

 このような事実認識が生まれ,広く受け入れられてきた原因はおそらく次の2点にあろう。第1は,資料的な制約である。もともと争議や暴動は当事者による記録が残されることが稀な上に,残された資料の中には意識的に事実を隠そうとしたものが少なくない。当然のことながら,裁判記録は一般にその傾向が強い。そうなると,われわれが利用できる資料は新聞記事など外部の観察者による記録が主となる。ところが,局外者にとって,争議や騒擾などの意図は明らかでないことが多く,これを自然発生的なものと報道する事例は少なくない。今我々に要求されているのは,こうした資料の限界を見抜き,それぞれの争議や騒擾における組織性,意識性と自然発生性との相互関係を明らかにすることであろう。
 もう1つの,より大きな理由は,日本の労働運動史・社会運動史家をはじめ社会科学研究者が,〈自然発生性〉と対置して〈組織性〉を問題にする時,そこで想定する〈組織〉は,欧米型の労働組合や政党に限られていたためではないかと思われる。近世以前からの伝統的な組織には無関心で,これを取り上げる場合でも,それが現実にいかなる機能を果たしてきたかを具体的に検証することなく,〈封建遺制〉であり,〈前近代的〉な存在であるとして否定的にしか評価してこなかったのではなかろうか。




2)〈原子化された労働者〉説批判

鉱山労働運動における友子同盟の意義

 ここで〈原子化された労働者〉説について検討しつつ,この問題についてさらに考えることにしよう。まずは,暴動を「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作」とする理解がなり立ちがたいことは,これまで足尾暴動を素材に,詳しく検討をくわえてきたところである。確かに,足尾暴動は「近代化のインパクトにさらされた労働者の反応」という側面をもっている。しかし,足尾暴動は,近代化の過程で共同体から切り離され,砂のごとくバラバラにされた労働者によって引き起こされた事件ではなかった。暴動の主な参加者は,徳川時代からの伝統をもつ坑夫のクラフト・ギルドともいうべき友子同盟に組織されていた人びとだったのである。まったく組織をもたない労働者に,暴動を引き起こす力はない。〈非結社形成的〉であったから暴動を起こしたのではなく,むしろ〈結社形成的〉であったからこそ暴動を起こし得たのである(2)
 さらにいえば,足尾暴動に加わった坑夫達は自ら暴動を計画し,実行した訳ではない。彼らが望んでいたのは賃金の引き上げであった。しかも,それを組織的に鉱業所へ請願することによって実現しようとしていたのである。その行動はきわめて〈結社形成的〉な特質をみせている。
 すでに見たように,足尾の友子同盟は,暴動に先立って24カ条もの請願書を作成している。その作成過程もまた,きわめて組織的なものであった。詳しくは,本章の「暴動前夜」の項を参照願いたいが,大筋だけを記せば次の通りである。 1)まず賃上げ請願を発意した通洞の山中委員が各山の山中委員に連合協議会の開催を働きかけ 2)それを受けて,友子の基本組織である通洞,本山,小滝,簀子橋の各山で山中委員による討議が行われ 3)その上で正式に選出された代表者による4山の協議会を開き,十数時間のマラソン討議を続け 4)そこで得られた成案をいったん各山に持ち帰り,各飯場を代表する山中委員に説明し 5)山中委員は,これをさらに各自の選出母体である飯場に持ち帰って会合を開き,全員の同意をえた上で 6)再び各山で山中委員の会合を開いてこれを確認し 7)その上で4山の協議会を開き,ようやく連合規約に調印している。もちろん,これとて,親分・子分関係で結ばれていた友子同盟の内部でどれほど自主的で自由な発言が保証されていたか,疑問の余地はあるであろう。だが,手続き的に見るかぎり,民主的なものというほかない。また実際にも,構成員全員の合意を得ることを重視し,請願には必ずしも積極的ではなかった小滝の山中委員を参加させるために,時間をかけた説得が続けられている。いずれにせよ,こうした行動を〈非結社形成的〉な労働者の特質と見ることはできない。
 また,その請願の内容を見ても,友子同盟を労働者の意向を代表する組織として鉱業所に認めさせようとする事項を含んでいた。例えば「山中委員ヲシテ請負賃金ニ不公平アリ亦現場請負ニ不公平アリ亦ハク〔注 [ハク]は鉱石を意味する一字漢字[金偏に白]〕ノ歩合ニ不相当ノ点アリタルトキハ総テ立会及ビ調査ノ権利ヲ与ヘラレタシ」と要求している。さらには,「今後吾々ニ対スル施行規則発布セラレル前ニ通達マテ承諾ノ有無ニ依テ実行セラレタシ」といった主張をおこなっている。こうした言動をとる労働者を「絶望的に原子化された労働者」とみなし,その行動を「けいれん的な発作」とみなすことは,まず不可能であろう。



永岡鶴蔵と友子同盟

 友子同盟のもった意義は,たんに暴動に先立つ賃上げ運動でのその組織的役割にとどまらない。そもそも暴動前の足尾銅山において大日本労働同志会,大日本労働至誠会といった〈結社形成〉の起動力となったのは永岡鶴蔵であった。この時期には稀な労働者出身の組織者である。こうした人物が生まれたこと自体,友子同盟の存在と切り離しては理解できない。
 永岡が事実上労働運動の指導者となったのは1893(明治26)年,足尾銅山に入る10年以上も前のことである。この年2月,彼は院内銀山で安全設備の充実等を求めるストライキを指導し要求の7割を獲得した。また同年5月から12月にかけては秋田県を相手に新設されたばかりの坑夫税に反対し,これを撤廃させることに成功している。この坑夫税反対闘争は,明らかに友子同盟の組織をもとに展開されたものであった。永岡の自伝「坑夫の生涯」はこれを次のように記している。 

「明治二十七年〔正しくは26年〕の春,秋田県は鉱夫税を徴収する規則を発布した。其当時自分が働いて居った院内銀山の坑夫等も此報に接して,打ち捨てて置けぬと騒ぎ出した。地下幾十丈暗黒の穴に槌を休めて,〈困る〉〈此貧乏人から税金〉と反対の声は漸く全山を蔽はん形勢である。其年の五月六日坑夫の頭分に依って協議会は開かれた。〔中略〕気焔当るべからず,全会一致で反対運動を為すことに決議した。運動委員には高田為五郎,関川栄太の両君と予の三人が選まれた。〔中略〕
 運動には団結の必要を最良の武器と吾等は県下の鉱山を遊説して漸く〈日本鉱山同盟会〉〔別資料によれば秋田県鉱夫同盟会〕を組織した。此同盟会の成立と同時に吾等は会を代表して,時の秋田県知事へ坑夫税廃止請願書を呈出し,八月十四日県庁に知事平山安彦氏を訪ふて坑夫の窮状を訴へた,元より県庁の自由に改廃し得べき者でないから更に運動の方向を変へて三十六名の県会議員を悉く数回訪問し,極力運動した。運動の効は空しからず仝年十一月〔正しくは1893年12月〕十九日に開いた通常県会は遂に坑夫税廃止の決議を通過せしめたのである」(3)

 この運動の出発点が,「坑夫の頭分に依って」開かれた「協議会」であることに注目願いたい。「頭分」は〈頭=かしら〉あるいは〈親分〉の意であろう。しかし,飯場頭ではない永岡が委員に選ばれたところをみれば,これは飯場頭の会合ではなく,友子同盟の協議会であったに違いない。さらに県下の各鉱山に働きかけるという運動の進め方も友子同盟を基盤にしたことをうかがわせる。友子同盟では,〈取立式〉に必ず隣山から立会人を招くなど,近隣の鉱山と日常的な交流があったのである。
 友子同盟があるのに,これとは別に「日本鉱山同盟会」とか「秋田県鉱夫同盟」という名称を持つ組織を結成したことを不審に思われるかもしれない。しかし,もともと友子同盟には全国規模,あるいは県単位の組織や機関が,明文の規定をもって存在したことはなかったのである。もちろん友子同盟としての〈交際〉は全国的に行われており,取立免状や奉願帳の宛先には,「大日本帝国諸鉱山同盟御中」とか「大日本帝国諸鉱山同盟友子御一統様」と記していた。そこで,鉱夫税の廃止という知事や県議会を相手とする運動を展開した時,正式の名称を持つ必要を感じ,〈日本鉱山同盟会〉とか〈秋田県鉱夫同盟〉という名を選んだのであろう。その名称自体,坑夫税反対運動が各鉱山の友子同盟を基礎に組織されたものであることを明示している。永岡が,後に大日本労働同志会や大日本鉱山労働会を組織することを発想し得たのは,この鉱夫税反対運動での独自組織結成の経験があったからであろう。

 さらに,友子同盟の存在は,足尾における永岡の活動を容易にする上でも小さからぬ役割を果たした。たとえば,永岡が足尾銅山にたやすく入山し,また3年余を労働組合の組織者として足尾にとどまり得たのは,彼が友子同盟の一員であったからである。
 永岡が,足尾で最初の1ヵ月余を過ごしたのは,ほかならぬ坑夫飯場であった。友子同盟の一宿一飯の権利がそれを可能にしたのである。さらに古河銅山足尾鉱業所は,労働組合の組織者であることが明白な永岡を坑夫として雇い入れている。これも,おそらく永岡が友子同盟の一員であったことによろう。飯場頭とすれば,友子同盟の成員で職を求める者を,鉱業所に紹介することは当然の義務であった。鉱業所としても,欠員があるかぎり,飯場頭が保証する者の採用を拒否するわけにはいかなかった。まだこの当時,会社側が採鉱夫を養成する制度はなく,その技術訓練は事実上友子同盟が握っていた。そうした段階では,鉱業所も飯場頭も友子同盟の存在を,特にその〈渡り歩き〉の慣行を無視し得なかったのである。



結社形成的労働者と暴動

 以上の主張に対しあり得る反論は次の2つであろう。
 (1)「原子化した個人」が「非結社形成的」であるというのは,彼らが自発的に,自ら進んで隣人と結ぶのを嫌うという意味で用いているのである。友子同盟のように仕事において結ばれるものはここで言う「結社形成的」なものではない。
 (2)足尾銅山はたまたま永岡の様なクリスチャンで,中央の社会主義者とも交流のある運動家がいたために組織的な活動が展開し得たにすぎない。いわば全く例外的な存在である。
 第1の疑問に対しては,友子同盟の一員になるには単に開坑,採鉱作業に従事するだけでは充分でなく,坑夫=専業の開坑・採鉱夫となることを決意した個人が自発的,積極的に加入意思を表明し,これが承認されねばならなかったことを指摘すべきであろう。単に同じ坑内で働き,同じ飯場で寝泊まりするだけでは友子同盟の成員たり得なかったのである。加入に際しては〈取立式〉と呼ばれる極めて入念な儀式的な手続きが不可欠であった。〈取立式〉において正規のメムバ―である特定の個人と親分・子分の関係を結び,3年3月10日の徒弟期間をへて,はじめて一人前の友子仲間と認められたのである。なお,友子同盟への加入を彼らが〈出生〉と呼んだことはもっと注目されるべきであろう。そこには,〈取立式〉を通じて加入者がその出自から切れ,鉱山の専業労働者として再生するとの思想が見てとれる。その意味で,友子同盟のメムバーは農村出身者であっても,いわゆる〈出稼型〉労働者ではなかったというべきであろう。

 ところで,暴動を〈非結社形成的〉な労働者の行動様式とする丸山真男氏の主張の背後には,〈結社形成的〉な労働者とは,労働組合を組織し,経営者との間で団体交渉により労働条件を決めるものであるとする理解があり,また労働組合とは純粋に自発的で結社形成的な個人の集まりである,とする考えがあるように思われる。その理解には,大河内一男氏が「労働組合は労働力の売り手の大衆組織であり,それ以上でも以下でもない」と主張されたことと,共通するところがある。あるべき労働組合の要件としての主張であればともかく,現実に存在した労働組合を常にこうした性格のものと見ることは疑問である。この基準で裁断すれば,第二次大戦前の日本には労働組合の名に値するものは殆ど存在しない。そこから,戦前の日本の労働者は一般に〈非結社形成的〉であったとの結論をを下すことは容易である。しかし,それでは事実の一面を捉えたに過ぎない(4)
 もともと産業労働者は生産過程そのものが各人の協力,共同を要求する上に,相互の利害が一致する点が多く,一般に各個人の態度=パ―ソナリティとしては結社形成的な性向をもつものである。もちろん,これに対し経営側は労働者の自主的な結社の形成を好まず,これを妨げようとする。また国家の法的,政治的規制も労働者の自律的な結社形成に阻害的であることが多い。こうした対抗関係の結果として労働組合が存在しえないことはしばしばである。第一次大戦以前の日本では,労働組合が存在することの方がむしろ例外的であった。だがこうした場合,労働組合不在の事実から労働者のパ―ソナリティを「非結社形成的」であると結論づけ得るであろうか。

 率直にいって丸山真男氏が使われた概念図式の有効性には疑問がある。丸山氏の図式の最大の難点は,ある社会で支配的な「個人の態度」「パ―スナリティ」類型からその社会における大衆運動の発生,非発生等を説明しうるとする一元論にある(5)。氏の理解では,暴動は「非結社形成的」で「求心的」なパ―ソナリティと結びつけられている。しかし,民衆の不満が暴動という行動様式をとるか否かは民衆のパ―ソナリティだけで決まるものではない。むしろ,その不満を突きつけられた支配者がこれにどの様に対応するかという,いわば相手の出方によって左右されるところが大きい。

 この点を,明瞭に示しているのはアメリカの労資関係史である。そこでは労働争議が暴動化し,施設の破壊どころか,しばしば銃の撃ち合いによる対決にまで至った事例は少なくない。一推計によれば,アメリカ労働運動の全歴史を通じ,労働争議の際の暴力による死者の数は700人をこえ,負傷者は数千人に達し,軍隊の出動回数は160回におよぶという(6)。とくに20世紀の冒頭には流血をともなう労働争議が頻発した。1902年1月1日から1904年9月30日の2年9ヵ月の間だけでストライキやロックアウトの際の死者は198人,負傷者は1966人にも達している(7)。それでは,この時期にアメリカの労働者は最も〈原子化〉していたのであろうか。そうではない。よく知られているように,当時はアメリカ労働運動史の上で組合の組織化が急速に進展した時期である(8)。1899年に61万1000人だった組合員数は1904年には207万2700人と5年間で3.4倍になった(9)。多くの暴力事件は労働組合の承認問題をめぐって起きたのである。ここでも暴動は労働者が〈非結社形成的〉であるためではなく,〈結社形成的〉であったからこそ起きている。暴動の主たる原因は労働者のパ―ソナリティにあったのではなく,労働者の組合承認要求に対し資本家が断固としてこれを拒否し,ストライキに対抗して実力を行使することを躊躇せず,州や連邦もこれを保護したところにある。日本の場合でも,1907年の一連の鉱山争議で,暴動化したものと暴動に至らなかったものの違いは,労働者のパ―ソナリティの差であるよりは,経営者側の対応の相違によるところが大であるように思われる。



足尾例外説の検討

 ここで第2の足尾例外説について考えて見たい。確かに南助松や永岡鶴蔵のような中央の社会主義運動との結びつきをもった組織者は,足尾以外の鉱山,炭坑の労働争議では見られない。その限りで足尾は例外的存在であった。しかし,そのことは足尾以外の鉱山争議はすべて「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作」であったとの主張を支持するものではない。
 ストライキはもちろん,暴動の場合でも,労働者はいきなり実力を行使したわけではない。どの争議も,何等かの形で代表者を選出し,要求(嘆願)を取りまとめることから始まっている。例えば1907(明治40)年4月,足尾に続いて暴動を起こした幌内炭坑の場合は,暴動勃発の1カ月以上も前に坑夫,雑夫の総代により賃上げなどを求める嘆願書が提出されていた。これが拒否された後も〈鉱夫総代〉は再三〈砿長〉に会見を求めて嘆願を繰り返し,ついには400名の連判による請願をおこなっている。しかし,これまた拒否されたばかりか,〈鉱夫総代〉が解雇されるといった経過をへて暴動が起きている(10)。同じく暴動となった別子銅山の場合も,暴動に先立つ5月30日,負夫(運搬夫)の代表が賃上げを請願し,ついで6月2日には坑夫の代表が賃上げ請願を行っている。ところが,この要望を会社側が受け入れず,ここでも代表者の解雇を強行し,これが暴動勃発につながっている(11)

 それでは,暴動化しなかった鉱山争議はどうであったか。これらの場合は,新聞記事以外にほとんど資料が残らず,正確な事実を把握し難い。しかし,断片的な記録からでも浮かび上がってくるのは,争議の予想以上の組織的な性格であり,そこにおける友子同盟の積極的な役割である。即ち,『日本労働運動史料』第2巻には,1907年におきた金属鉱山の労働争議が足尾,別子のほかに4件収録されている(12)。このうち和歌山県麻生津鉱山の紛議は,労働争議ではなく賭博取締りをめぐる警察対坑夫の対立であり,これを除けば兵庫県生野銀山(7月,9月の2回),岡山県帯江銅山,同吉岡銅山の3山について『大阪毎日』『大阪朝日』の記事が紹介されている。この何れの事例も争議が友子同盟を基盤に展開されたことを推測させる。関連部分のみ引用することで,そのことを示そう。

〔生野銀山〕

 1)銀山坑夫の番頭〔当番〕は左の決議をなし昨夜来引続き坑夫の調印を求めつつあり 2)金香瀬,大勢〔太盛〕両山の外新に若林山の本坑夫連約百名も動揺〔同様〕連署して逸早くも十三日夕刻現場長(課長)の手許に嘆願書を提出したり。〔以上7月〕 3)金香瀬鉱山の大田,足達,植木飯場に属する坑夫大頭番〔大当番〕は太盛山を聯絡一致の運動を取るべく桑田組大頭番に対し会見の申込をなし目下協議中なれば之にて両山の聯絡成り一致の行動を採るに至るべし。 4)警察は今回の問題が会社の強硬なる反対意見と共に更に解決の長引かんことを恐れて一日警察に会社及び飯場,大頭番の各代表者を招き一場の対決を演ぜんとせり。5)大頭番等は今に尚集会し善後策講究中なり。

 この生野銀山の事例は友子同盟が中心となって組織されたことが明瞭な争議である。記事中の「大頭番」は明らかに「大当番」の誤記であり(13),友子同盟の代表者ともいうべき役員である。太盛,金香瀬,若林の3山は,足尾銅山でいえば本山,小滝,通洞にあたる地区で,それぞれが友子同盟の組織単位となっていた。各山の大当番が連絡を取り合って運動を展開する方式は,正に足尾と同一である。



〔帯江銅山〕

 1) 阪本金弥所有帯江鉱山坑夫は,昨日正午鉱山事務所に対し突然坑夫の貯金払戻を要求し同時に清酒二樽の貸与を迫る等挙動穏やかならざりしが,果して彼等は午後九時頃より鉱山付近熊野神社山に続々会合,夜に入りて約百五十名に達したるも警察の説諭に服し,特に坑夫中より協議員十三名,交渉委員三名を選定無事退散す。 2) 帯江鉱山の小川支配人は本日午前十時坑夫取締役佐藤愛次外六名をして飯場頭横川良造宅に坑夫側委員杉田寅吉他十三名の坑夫を集め其意志を告げしめて曰く,此後は一同の要求通り白米一升十三銭づつにて供給し,又日給は平均九十銭以上を支給し,疾病休業の者にも必ず相当以上 の特待をなし永年勤労者の疾病廃業する者には五円以上の謝礼金を与ふる事となすべしと。坑夫総代等は意外にも自分等の目的以上の回答に接したるをもって大に其優遇を喜び感謝の意を述べて退散し,本件も一先づ落着を告ぐるに至れり」。

 この帯江銅山の争議は足尾や生野のように友子同盟の関与は必ずしも明瞭ではない。ここに見られる「交渉委員」,「協議員」といった名称は友子同盟のものではない。もっとも,協議員は友子同盟の役員として一般的な評議員の誤記かもしれない。「坑夫総代」は友子同盟にもある名称ではあるが,それだけで友子の存在を立証するものではない。だが,その名はともかく交渉委員,協議員の選出方式はまさに友子同盟のそれである。すなわち,帯江銅山規模の鉱山では友子同盟の意思決定機関は友子加盟者が全員出席する〈山中大集会〉である。大当番,箱元などの役員の選出もここで行われた。〈山中大集会〉の会場に山神社が選ばれるのもごく普通のことであった。いずれにせよ,日常的に〈山中大集会〉を開き,役員を選出していた友子の慣行を抜きに,この争議での坑夫の行動は理解し得ないであろう。


〔吉岡銅山〕

1) 去九日夜重立ちたる坑夫十三四名柳井飯場に密会して,坑夫の待遇上につき鉱主に対する要求事項を協議し尚同盟坑夫よりは運動費一人につき五十銭をださしむる事を決議して散会……。2) 銅山役員等は初めて事態の容易ならざるに狼狽し早速相当の処置を取るべしとて,十二日午後五時を期し坑夫の重立ちたるもの二十二名を事務所に召集し懇ろに慰撫する所ありしに,坑夫等は既に陰謀の露見を予想し斯くなる上は事実を隠蔽するの要なしとて先づ同盟休業をなすと共に事務所に要求事項を提出するの企をなし,若し聞かれざる時は最後の手段に訴ふるの筈なりと自白して直ちに要求事項を提出したるが同事務所は大抵之を容認したるを以て険悪の形勢全く地を代へ平常に復したる由」。

 この吉岡の場合は友子同盟の関与がほぼ確実であるといってよい。「同盟坑夫」の一語がこれを示している。「同盟坑夫」「同盟友子」という言葉は,友子同盟の加盟者を言い表すのによく用いられる言葉である。
 以上,限られた事例ではあるが,暴動化しなかった生野,帯江,吉岡の3つの金属鉱山の労働争議は,何れも友子同盟を基盤に引き起こされたことが確かめられた。足尾だけが例外的に組織的な運動を展開し,他鉱山の労働争議は「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作」であったと主張し得ないこともまた明らかであろう。




【注】


(1) David Montgomery,  "Spontaneity and Organization:Some Comments", Radical America Vol.VII no.6, Dec.1973, p.74.

(2) 欧米の研究でも,大都市に新たにやってきた者が直ちに暴動や犯罪等に加わることはなく,それにはかなりの時間が必要であることが知られている。こうした行動に加わるには,親族や友達といった小さな世界をこえた外部との接触が必要であるというのである。 Charles Tilly,  "Collective Violence in European Perspective", p.9,H.D.Graham and T.R.Gurr ed. The History of Violence in America: Historical and Comparative Perspective, New York,1969.

(3)(3)永岡鶴蔵「坑夫の生涯」(中富兵衛『永岡鶴蔵伝』,御茶の水書房,1977年,所収)。

(4) 戦前期における日本の労働組合がどのような性格のものであったかについての私見は拙稿「企業別組合の歴史的背景」(法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』 NO.305,1984年3月),「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会年報第31集『日本の労使関係の特質』お茶の水書房,1987年)を参照願いたい。

(5) ここでは丸山真男氏の図式そのものの批判を意図しているわけではないので,簡単に指摘するにとどめるが,この図式は一社会の変化の特質を捉えるには,いささか単純に過ぎると思われる。丸山氏がヒントを得たロ―ウェル(Abbot Lawrence Lowell, Public Opinion in War and Peace, London, 1923)の場合は,全社会の成員に一様な要因,すなわち1)人々が現状に満足しているか否か,2)社会が今後改善されることについて楽観的であるか否かという2つの基準によって各個人を自由主義的,保守的,反動的,急進的の4類型に分けている。これに対し,丸山氏は「〈近代化〉の過程が,〈伝統的〉社会に生活している個人に解体的な影響を及ぼす際,それぞれの個人がとる態度」という,社会の成員にとって一様ではありえない要因をとりあつかい,それによって社会全体の特質を規定しようとしている。言うまでもなく,近代化が及ぼす影響の程度は,その個人の職業やその属する社会階層等によって,異ならざるをえない。ある場合には,近代化の影響をほとんど受けることのない人々も存在しているのである。丸山氏は,1900年代の日本では〈原子化〉した個人が支配的であったかのごとくに描いておられる.だが,そこで取り上げられた鉱工業労働者は当時の総人口の5%にも満たなかったのであり,これによって日本社会全体の特質を云々することは無理というほかない。

(6)(6) Philip Taft and Philip Ross, "American Labor Violence:Its Causes, Character, and Outcome", p.380, H.D. Graham and T.R. Gurr ed. The Historyof Violence in America: Historical and Comparative Perspective, New York, 1969.

(7) Slason Thompson, "Violence in Labor Disputes", World' Work, Dec.1904.但し,前掲のTaft & Ross論文より重引。

(8) David Brody, "The Expansion of the American Labor Movement:Institutional Sources of Stimulus and Restraint", David Brody ed.,The American Labor Movement, New York,1971.

(9) Philip S. Forner, History of the Labor Movement in the United States, Vol.III,p.60, New York,1964.

(10) 供野外吉『幌内炭山暴動始末』(みやま書房,1975年)。

(11) 労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第2巻162〜165ペ―ジ。

(12) 前掲書,127〜134ペ―ジ。

(13) 新聞記事には固有名詞や鉱山用語などの誤記がきわめて多い。記者が専門知識を欠いていたこと,それに遠隔地からの送稿が電話によるものであったためであろう。





[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2003年10月16日。掲載に当たり若干の加筆訂正をおこなった。]


【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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