第1章 足尾暴動の主体的条件
──原子化された労働者」説批判──
結びにかえて──暴動後の友子同盟と飯場制度
山中委員制の廃止
これまで,鉱山労働運動における友子同盟の役割を高く評価し,いわばその再評価を強調してきた。だが,友子同盟は何時いかなる場合でも運動にとって積極的な役割を果たしてきた,と主張しているのではない。労働組合でさえ,時とすれば資本による労働者支配の道具となりうる。まして,友子同盟は親分・子分関係を基本としていただけに,飯場頭がその主導権を握ることが容易であり,友子同盟はしばしば飯場頭の支配を補完する機能を果たした。ただ,飯場頭が鉱業主との関係で相対的な自主性を保ち,鉱業主と対立的な関係にたった場合,あるいは暴動前の足尾銅山のように一般坑夫の代表が友子の運営に力をもった時は,経営者と対抗しうる存在となったのである。決定的なことは,友子同盟の運営の主導権を誰が握り,それが経営側といかなる関係にあるかであった。
この意味で,暴動後の足尾において,一般坑夫の代表である山中委員制をどうするか,これが問題となったのは当然と言えよう。その口火を切ったのは本山の一飯場頭,山本某であった。〈全員解雇,選別再雇用〉で鉱山全体が騒然となっていた2月12日,山中委員制の廃止を提唱したのである(14)。この提唱を受け,本山の飯場頭や山中委員は同日以降再三集会を開き,3月はじめには山中委員制度の廃止を決定した。この間の事情を警察の報告書は次のように伝えている。
「既報ノ如ク本山山中委員全部ハ本日〔2月14日〕同所か組飯場ニ集合シ,箱元及ビ山中委員存廃ニ関シ協議ヲナセリ。ソノ結果一応各飯場頭ト協議ヲ遂ゲ,明後十六日午后六時迄ニ箱本意見書ヲオか組飯場則チ現今ノ箱元ヘ差出コトゝシ 散会シタリ。
本件ニ関スル各飯場頭及ビ山中委員等多数ノ意向ハ箱元ハ従来ノ侭存置シ之ニ要スル費用等ハ一切飯場頭ニ於テ処弁シ山中委員ハ此際之レヲ廃セントスルニアルガ如シ」(15)。
「昨〔2月〕十八日午前九時本山ノ各飯場頭役二十四名集合予テノ問題タル山中委員存廃ニ関シ熟議ノ結果多数ノ意見ニヨリ廃止スルコトニ決定シ,今十九日該決議ノ趣一般山中委員ニ通知ヲナス計画ナルモ若シ山中委員多数ノ反対アルニ於テハ,廃止ヲ実行スルノ決意ナキ模様ナリ」(16)。
「既報ノ如ク本山ニ於テハ山中委員廃止ノ結果是レマデ山中委員ニ於テ取扱タル事務ハ坑夫頭役ヨリ五名,掘子頭役ヨリ二名ノ委員ヲ挙ゲ整理スルコトニ昨〔3月〕四日各飯場頭役一同ニ於テ協定シ,夫々委員ヲ撰挙セリ」(17)。
要するに,本山では山中委員に代わって飯場頭が友子同盟の実務一切を握ったのである。この問題が他の坑場でどの様に推移したか,その詳細はわからない。ただ,何時か明らかではないが通洞でも本山同様に山中委員制度が廃止されたこと,しかし小滝では同年9月中旬ころまで存続していたことだけは確かである。 というのは,この月,足尾銅山古河鉱業所は〈頭役使用細則〉を制定し,9月14日飯場頭の代表者を集め発表したのであるが,これについての田所足尾警察署長の報告はつぎのように記しているのである。
「今回,鉱業所ニ於テ頭役使用細則ヲ改正発表セリ。右ニ付キ各坑場ニオケル頭役ハ飯場規程,飯場申合規約ヲ定メ,坑場ニ差出スベキ筈ニテ,目下各方面共寄々協議中ニシテ別紙本山ノ規程,申合規約ヲ標準トシテ,多分一両日中円満ニ決定スルトハ信セラルゝモ改正条項ノ内ニ於テ,飯場割ノ金銭或ハ独立坑夫ニ直接金銭ノ支払ヒヲ為ス等,及ヒ使用細則ノ精神ヨリ見ルトキハ当然山中委員ヲ廃止セザルベカラザルヨリ(小滝ハ今日迄モ現存セルヨリ此廃止ニ就テハ多少議論アルモノト信ス。又通洞坑夫間ニ於テハ山中委員ヲ此際設ケタシトノ希望ヲ抱クモノアリテ多少ノ問題トナルヤモ難計)。是レ等ニ就テハ又多少偵察ヲ要スル義ニ付目下偵察中ニ在之候ヘ共不取敢現下ノ状況参考迄報告候也。追テ大体ニ於テ各方面ノ頭役ハ使用規則ヲ歓迎スルモノゝ如キニ候」(18)。
報告書中,山中委員につき「小滝は今日迄モ現存セルヨリ」とあること,「又通洞坑夫間ニ於テハ山中委員ヲ此際設ケタシトノ希望ヲ抱クモノアリテ」と述べられていることからすれば,通洞ではこの時までに山中委員制が廃止されてしまっていたことは明らかである。
ところで,問題の〈頭役使用細則〉はその第4条で「頭役ハ当該飯場ヲ代表シテ飯場組合ニ加盟スルノ義務ヲ有ス」ことを定めていた。そして,この田所報告書に付された〈本山坑夫飯場組合規程〉および〈本山坑夫飯場申合規約〉によれば,頭役が加入を義務づけられたこの飯場組合なるものは,飯場頭だけがその構成員である(組合規程第2条)のに,友子同盟の機能を合わせ持つものであった。即ち,奉願帳,寄付帳などをはじめ山中交際に要する費用はすべてこの飯場組合が支出する(組合規程第12条)一方,その費用を〈飯場割〉として坑夫から徴収することが認められた(申合規約第5〜6条)。
この〈頭役使用細則〉〈坑夫飯場組合規程〉〈坑夫飯場申合規約〉制定の狙いの1つは,小滝における山中委員制の廃止にあったに違いない。その帰結は明らかではないが,暴動後における鉱業所・飯場頭・坑夫の三者の力関係からすれば,おそらく小滝でも山中委員制は廃止されたと思われる(19)。これによって足尾銅山における友子同盟は,その自主性を失っただけでなく,飯場制度と一体化し,それを補強するものとなった。にもかかわらず,1919年全国坑夫組合が結成された際,その中心になったのが足尾銅山の坑夫であり,その組合結成の構想が友子同盟を基盤にしたものであった事実は(20),長い歴史をもち,全国的な広がりをもつ友子同盟の根強さを示しているといえよう。
飯場制度改革
もちろん,この〈頭役使用細則〉などの制定は,単なる友子同盟対策ではなかった。それ以上に飯場制度改革としての内容をもっていた。特に注目されるのは,飯場頭による中間搾取を制限しようとしたこと,および配下坑夫の独立性を強化した点にある。
中間搾取の制限は主に〈坑夫飯場申合規約〉によっておこなわれた。そこでは,通洞山中委員と飯場頭の対立点であった〈飯場割〉について,その月額が坑夫は1円以下,見習い坑夫は70銭以下と定められた(第4条)。 また〈飯場割〉の使途についても,山中交際と飯場の共通費用に限定された(第5条)。さらに,これまで坑夫の間で不満が強かった飯場の賄料についても,上賄料1人1ヶ月6円,並賄料 同5円40銭と決められた(第9条)(21)。この他,飯場において供給する物品の価格も「鉱業所貸下品ノ価格ニ準ジ」て定めることとされた。
配下坑夫の独立性の強化は主として〈頭役使用細則〉で定められた。すなわち,その第6条で「頭役ハ其組下坑夫若クハ見習卒業后ノ坑夫ガ三ヶ月間勤続シタル場合ニ当鉱業所ヨリ直接倉庫品ノ貸下及ビ賃金ノ払渡ヲ受クルコトヲ認諾スベシ。此場合ニ於ケル坑夫ヲ独立坑夫ト称ス」と明文をもって定めた。実は,これ以前でも坑夫は形式的には鉱業所の直轄とされ,入職後3ヶ月たった坑夫の賃金は直接本人に支払われることになっていた。しかし,坑夫は一般に飯場頭から〈前借り〉をしており,その場合は飯場頭に賃金の代理受け取りを委ねるとの委任状を渡していた。このため,事実上は飯場頭による賃金の代理受け取りが一般的であった。だが〈頭役使用細則〉は飯場頭による賃金の代理受取りにも制限を加えたのである。すなわち,坑夫に対する前貸金は「坑夫ノ独立以前ノ稼賃金ト頭役ノ貸与シタル金額トノ差引明細書ヲ作リ,之ニ対スル本人ノ月賦返済約定証ヲ添ヘ其坑夫ト連署ノ上,当鉱業所ニ提出スベシ」(第7条)と定めたのである。要するに,前貸金を賃金から差し引くには鉱業所の承認を必要とすることになったのである。しかも,従来は前貸金があるかぎり,飯場頭は賃金全額を代理受け取り出来たのに,今後は前貸金の月賦返済額だけが賃金から差し引かれ,残りは直接坑夫に支払われたのである。
こうした一連の飯場制度改革が実行されたのは,もちろん暴動に現れた坑夫の不満を無視することが出来なかったためであろう。しかし,もう一方では,飯場頭の経済状態を改善する必要のあることも認識された。飯場頭の正規の収入が少ないことが,飯場割や賄料などによる中間搾取の一因であることは明瞭であったからである。飯場制度改革について足尾鉱業所長から本店監事長宛に発せられた1907年8月28日付けの手紙はこの点に関し次のように記していた(22)。
「曩ニ飯場制度改正ノ儀ニ付稟請仕候趣意ハ,現今ノ飯場制度ノ弊ニ伴フ頭役対坑夫ノ関係ヲ改善シ,一方ニ於テハ当所ヨリ頭役ニ給与スル諸手当ヲ増加シテ,其生活上ノ困難ヲ救済シ,他方ニ於テハ坑夫ヲ保護シテ,頭役ノ覊絆ヲ脱セシメ,直接当所ノ監督被護ノ下ニ立タシメントスルノ方針ニ有之候ヘシ処,其後巨細調査致候結果,其裏面ニ於テハ表面ト多大ノ相違アル事実モ有之,今日迄急施ヲ要スルト考ヘヲル事モ却テ他方ノ実施ヲ要スルナドノ事実ヲ発見致候。要スルニ,坑夫状態ノ改善元ヨリ忽ニスルヲ得ザレドモ,目下ノ急務ハ寧ロ頭役ノ窮状ヲ救治シテ,部下坑夫ニ対スル待遇ヲ革正セシメ,兼ネテ其ノ威信ヲ保持セシムルニ在ル事ヲ認メタルヲ以テ,種々考査ノ上,今回別紙ノ如キ頭役使用細則及ビ之ニ付随スル飯場組合規程及ビ飯場申合規約ヲ制定シ,実施致候事ニ取極メ申候。尤モ,是等ノ規則ハ従来多クハ不文法トシテ存在セシモノヲ,成文法ニ改メタルモノニ有之候」。
この手紙を発掘された大山敷太郎氏は,この後半部分等を根拠に,暴動後の足尾銅山が〈親方厚遇方針〉を採用し,これによって「頭役(親方)等の地位はこの結果逆に,一層強化せられ」(23)たと主張された。しかし,これは事態をいささか単純に解釈されているのではなかろうか。
たしかに〈頭役使用細則〉の制定と同時に,鉱業所から飯場頭に対する諸手当は増額された。すなわち,飯場頭の入坑手当および坑夫紹介手当が新設され,また配下坑夫の入坑手数料も引き上げられた。入坑手当は飯場頭1人につき1ヵ月15円,ただし1ヵ月間に最低15日は坑内に入り「部下坑夫ノ就業状態ヲ視察シ其勤怠ヲ監督スルコト」ことが義務づけられた。坑夫紹介手当は,飯場頭が紹介した坑夫が3ヵ月働いて「独立坑夫」となった時に4円,その1ヵ月後に1円,さらにその1ヵ月後に1円の計6円が支給された。また,入坑手数料は配下坑夫1人1日入坑につき,従来の1銭5厘が3銭に倍増された。こうした措置を〈親方厚遇方針〉と呼ぶことに,さしあたり異論はない。しかし,こうした〈改革〉によって,飯場頭の地位は強化されたとの理解には賛成出来ない。たしかに,坑夫との関係だけで見れば飯場頭の力は一時的に強まった。しかしこの一連の改革で,飯場頭に対する鉱業所の支配・統制はさらに強化され,飯場頭の力が弱まった側面を見落としてはならないであろう。飯場制度それ自体は明らかに弱体化したのである。鉱業所側からすれば,所要労働力の確保をはじめ労務管理の上で,飯場頭はまだまだ必要な存在であり,完全廃止にはふみ切れなかった。しかし,暴動の経験は,経営内に独自の権限を有する飯場頭,組頭といったものを残しておくことの矛盾を,強く意識させることになったに違いない。そのことは,1908年に始まる坑夫養成制度の改革,とりわけ1912年の坑夫養成寮の設置などに示されている(24)。もっとも,現実に飯場制度の廃止が日程に上ったのは,1919年争議で〈飯場制度の撤廃〉が労働組合の要求として提出された後のことであったが。
【注】
(14) 本章 IV〈暴動〉[事後処理]の項参照。
(15)1907年2月14日付,秘第189号「足尾銅山騒擾状況」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類)。
(16) 1907年2月19日付,「足尾銅山騒擾後ノ状況」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
(17) 1907年3月5日付,秘第300号「足尾銅山情報」(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
(18) 1907年9月16日付,足尾警察署長・田所種実より宇都宮地方裁判所検事正・向井巌宛て報告書(『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類』)。
(19) 1908年2月に小滝の「坑夫飯場組合規程細則」に友子交際関係条項が追加されている(労務管理史料編纂会『日本労務管理年誌』第一編(下)222〜226ページ)ところを見ると,遅くともこの時以前には小滝においても山中委員制は廃止されたと考えられる。
(20) 拙稿「全国坑夫組合の組織と活動」1〜3 (法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.109,168,185)。
(21) 賄料には1日3食の他布団2枚の料金が含まれていた。
(22) 大山敷太郎『鉱業労働と親方制度』(有斐閣,1964年)180ページ。但し,ここでの引用には労務管理史料編纂会『日本労務管理年誌』第一編(下)52ページを参照した。
(23) 前掲大山書179ページ。
(24) 足尾鉱業所が〈坑夫養成規定〉を定め,坑夫を鉱業所が直接養成する方向をとったことは,友子同盟にとっても重要な意味をもっていた。技能養成は友子同盟の親分子分関係の主要な絆であったからである。技能養成が鉱業所に直接把握されてしまえば,友子同盟の力は次第に弱まらざるをえない。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
[本著作集掲載 2003年10月8日]
【最終更新:
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