『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』 |
第2章 飯場制度の史的分析 ─ 〈出稼型〉論に対する一批判 ─ (2)Ⅱ 飯場制度の定義飯場制度の機能ところで,飯場制度を検討する時,まず問題となるのは,この〈飯場制度〉という言葉が本来慣用的なもので,学問上の概念として定着していないため,人によってさまざまな内容をもって用いられていることである。これをそのままにして飯場制度の歴史を解明しようとすれば,不必要な混乱を招くだけである。そこで,はじめに飯場制度で共通にみられる機能を,日本最初の鉱業労働事情に関する全国的かつ全面的な調査である『鉱夫待遇事例』によって概観し,〈飯場制度〉の具体的内容を明らかにしておきたい。『鉱夫待遇事例』は足尾暴動の前年,1906年に農商務省鉱山局が,主として鉱夫500人以上を擁する鉱山,炭坑を対象に実施した調査である。同書は,調査対象のなかに「鉱夫の監督 附直轄及飯場制度」の一章を設け,つぎのように記している(12)。 「………飯場制度ノ下ニアル飯場頭ノ職務ニ付テハ広狭一ナラザルモ概ネ左ノ如シ
以上いささか雑然と順不同に列挙されているが,これを整理すれば,次の4つの機能にまとめ得るであろう。
(1)労働力確保の機能
(2)作業請負の機能 坑夫ハ大納屋坑夫及鉱山直轄夫ノ三種ニ分カツヲ便宜トス。大納屋坑夫ノ制度ハ旧式ナルモノニシテ今尚二,三ノ大鉱山,多クノ小鉱山ニ採用セラレ最モ弊害多シ。コノ大納屋制度ノ請負法ニモ大略二種類アリ。其一ハ鉱山全部若シクハ広大ナル一局部ノ操業全部ヲ請負フモノニシテ,九州地方ニ於テ金先掘ト称セラル。コノ制度ニ於テハ鉱山主ハ単ニ鉱業権ヲ保有スルニ止リ,操業上ニ関スル何等ノ学識,経験及ビ心労ヲ要セズ,加之操業ハ勿論起業及操業ノ資金ハ勿論,鉱夫其他ノ諸材料ノ収集其他諸般ノ事業ヲ一手ニ引キ受ケ経営シ,鉱山主ニ対シテハ出鉱何程ニ対シテ何分ノ割合ニ,若シクハ収益ノ何分ノ割合ニ鉱区貸付代価ヲ払フベキ義務ヲ負担ス。(中略)而シテ此大納屋制度ニ在テハ請負者タル大納屋頭領アリ,此下ニ納屋頭領アリテ,何レモ不完全ナガラ実験上ヨリ得タル操業上ノ知識ヲ有シ,各頭領何レモ八九人以上数十人ノ坑夫ヲ収容シ之ヲ養ヒテ下層社会ニ普通ナル主従ノ如キ関係ヲ有セリ。(中略)
この記録は,同じ請負といっても,いくつか異なった形態のものがあることを教えてくれる。すなわち,1)請負者が自己の資金と危険負担で,鉱業権者から一鉱山全体あるいはその一部の操業を請負うもの 2)鉱業権者が,一定の価格で鉱石あるいは金,銀,銅といった製品を買い上げる約束で,請負者に一鉱山全体またはその一部を請負わせるもの 3)鉱業権者が直接自己の責任で鉱山の経営に当たるが,開坑・採鉱など作業の一部を一時的に請負わせるもの。 以上から,飯場制度における請負いは,1)開坑,採鉱など現場作業の局部的かつ短期的請負いである。2)飯場頭は請負った作業を配下の鉱夫に割り当て,自身で,あるいは配下の〈人繰り〉を通じて,その指揮・監督にあたる。3)ただし局部的かつ短期的請負であるからには,飯場頭の指揮監督権限は絶対的なものではなく,操業の基本方針は鉱業権者の決定するところであり,飯場頭といえども現場係員の指揮の下に入ることになろう。
(3)賃金管理の機能
(4)日常生活管理の機能 外見上の雇用主以上見たように,飯場頭が鉱夫の雇用,解雇,作業の割り当てと指揮監督,賃金管理等に相対的に独自の権限をもっていたことは,彼を外見的に,あるいは当事者の主観の上で,鉱夫の雇用主としての位置に立たせることとなった。まさにこの点にこそ,飯場制度が強力な鉱夫統轄力を保持しえた根拠がある。もちろん,飯場頭が鉱夫の雇用主として立ち現われたのは,あくまでも外見上であり,当事者の主観の上においてのみである。そこでは,主要な生産手段はすべて鉱業主が所有していたのであり,飯場頭が有した生産手段はごく簡単な道具類のみであった。鉱業主は局部作業を飯場頭に請負わせはしても,操業全般に関する問題は自ら決定し管理した。さきにふれた飯場頭の賃金決定権にしても,それはあくまでも鉱業主が決定した枠内でのことであるにすぎない。要するに,そこにおける剰余労働は基本的には鉱業主が占取したのである。本質的には飯場頭は資本家と労働者の間に介在する中間搾取者にすぎず,鉱夫の雇用主は鉱業主であった。その意味では,飯場頭が請負人的性格をもつといっても,自ら生産手段を所有して作業をおこなう請負業者や,問屋から生産手段を貸与されながらも,その管理は自らおこなう問屋制手工業者とは異なる。言いかえれば,飯場制度は産業資本に包摂された請負制度である。〈労務管理〉についてはほぼ独自の権限をもち,生産過程においても一定の自立性を有するとはいえ,基本的には資本に従属したものであった。 III 山師制
では,飯場制度はどのような歴史的背景をもっているのか? その原型は近世の鉱山業における生産組織──かりに山師制と呼んでおこう──のうちに見ることができる。 彼ら山師は各々1ヵ所から2〜3ヵ所の坑(間歩)についてその操業を請負い,自らそれに必要な生産手段を所有し,坑夫,手子,支柱夫,製煉夫等を雇用し,採鉱から製煉まで,まったく自己の採算と責任において経営した。これに対し,代官や請主は,主として流通部面を掌握していただけであった。彼らは製銅を独占的に買い上げる商業資本としての地位に止っていたのである(16)。ここでさきにみた〈大納屋頭〉を思い起こせば,両者がほぼ同一の範疇に属することは明かであろう。 以上のような生産組織の在り方は,なによりも当時の生産力の低さに規定されたものである。採鉱法は古来の〈犬下り法〉から〈坑道掘進法〉に移っていたが,掘進技術,排水技術,通風技術の未発達から一般に深部採鉱は困難で,主として地表近くの富鉱部を不規則に採掘しただけであった。このため,一鉱脈を採取するのにさえ,地表の各所から多数の坑口を切り明けて進むほかなく,一鉱山といっても,実質は多数の,相互に独立した坑の集合体に過ぎなかった。このような状態では,直山,請山にかかわらず,代官や請主が直接に生産部面を握って統一的な経営を行なうことは容易ではなく,むしろ一鉱山を各坑毎に分割して山師に請負わせ,それを流通面において掌握する方向をとる。ここに〈山師制〉成立の根拠がある。 もっとも一部の大鉱山で,且つその隆盛期に於いては,代官や請主が大規摸な〈水抜き間歩〉や〈煙抜き間歩〉を掘鑿することにより,生産部面についても独自の指揮権を有することがあった。この場合は,坑夫のなかの熟練者が採鉱,選鉱,運搬を請負う,いわゆる〈かなこ〉として働いた。〈かなこ〉は通常1ヵ所から2〜3ヵ所の切羽を請負い,時には数人の坑夫や手子を雇い作業に従事した。彼らが山師と異なっていたのは,その作業が採鉱,選鉱,運搬に限られていただけでなく,彼自身はもはやその坑の所有者ではなく,経営者的性格をもっていないことである。このように見れば,〈かなこ制〉が〈飯場制度〉の萌芽形態であることは明らかであろう。ただ萌芽といっても,〈かなこ〉が飯場頭に転化したたという系譜的なものではなく,同一の範疇に属するという意味であるが。 【注】
【備考】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
【最終更新:
|
Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
|
|
|
||
Wallpaper Design © あらたさんちのWWW素材集 先頭へ |