『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』 |
第2章 飯場制度の史的分析 ─ 〈出稼型〉論に対する一批判 ─ (3)IV 飯場制度の生成下稼人第2節では飯場制度について概観し,第3節ではその前身としての山師制を見た。とうぜん次に問題になるのは,山師制から飯場制度への移行である。本節では足尾銅山を舞台にこの問題を追究して見たい。
足尾銅山は1550(天文19)年に発見されたといわれ,1680年代には年産250万斤(1500トン弱)に達し,全国無比の良鉱として知られた。しかし,間もなく衰退に向い,幕末には廃山一歩手前にあったという。ただ,徳川時代の足尾銅山については信頼すべき史料に乏しくく,多くを知ることはできない。だが,これは当面の問題にとってそれほど重要ではない。差し当たり,ここでは1877(明治10)年,古河市兵衛が経営を始めた当時も依然として山師制の段階に止っていたことが確認されればよい。 「………引継当時の採鉱箇所は如何なる状況であったかと言うに,鉱脈露頭より掘込んだ坑口弐百五十余を算したが,現に採掘しつつあった稼ぎ場所は七十四ヶ所であって,それが三十八人の下稼人によって個々別々に操業されていた」(17)。 また『木村長兵衛伝』も同様のことを伝えている。 「下稼人中には手許不如意のため会所より物品の貸し下げを願出づるものもあったが,多くは牢乎たる権力を有し,各々坑場を借り受けて実際稼行の衝に当り借区人は此等下稼人が採掘製煉せる荒銅を買取るに過ぎぬ実情であった」(19)。 これらの記述からうかがえることは,「坑場を借り受け」「採掘から製煉」まで「個々別々に」「実際稼行の衝に当」った下稼人はまさに山師に他ならないことである。また一方「米噌を給し」,あるいは手許不如意の下稼人に「物品の貸し下げ」をおこない「荒銅を買い取る」ところの古河は,請主的存在であったと見てよいであろう。 〔補注〕下稼人に関する以上の評価は,旧稿執筆時のものである。まだ当時は依拠しうる資料が『古河市兵衛翁伝』などしかなかったため,このようにしか考えられなかった。しかし,その後古河鉱業株式会社『創業100年史』が刊行され,そのなかに足尾買山当時における下稼人の配下労働者数を記録した「渡世人数調」が発表されたことで,こうした『古河市兵衛翁伝』そのままの評価は妥当ではないと考えるにいたった。すなわち,33人の下稼人中,半数をこえる18人は配下の坑夫〔大工〕がたった1人,6人は配下坑夫が2人だけといった小規模なものばかりでとても「牢乎たる権力を有」するといった力をもっていたとは考えられない。最大の勢力を有したのは神山盛弥であるが,彼とて坑夫19人,掘子6人,岡廻り8人,製鉱女8人の計41人に過ぎない。2番目が斎藤八郎で,坑夫6人,掘子2人,岡廻り2人,製鉱女4人の計14人である。下稼人の大部分は〈山師〉というより〈かなこ〉であったと思われる。 統一的開坑
だが,このような下稼人による小規模分散経営では,永年にわたって衰退の原因となってきた排水問題を解決して,生産の拡大を図ることは不可能であった。更に,急速に生産を拡大し,生産コストを引き下げつつあったアメリカなどとの競争に耐え得ないことも明白であった。こうした事態を解決するには,探鉱,開坑,採鉱,運搬,排水等鉱業技術全般にわたる近代化の方向しかあり得なかった。そのための技術的条件は,官営鉱山を中心とした海外の先進技術の導入によって準備されていた。 「翁が足尾経営の当初に於ける問題は,此等の下稼人を統一ある指揮の下に置いて,探鉱採鉱の両方面に就業せしめる事でなければならぬ。併し,浅野坑長の手柬に,『誠に世上の評判よりも悪弊有之候』などあるのによっても,多年困憊の間に醸された弊習の牢固なるを思ひ得るのであって,加ふるに,前にも叙べた如く下稼人の一派は新坑主に反抗して借区外出願の密謀を囘らして居た故に,翁は十年三月に事実上足尾の引継ぎを了したけれども,直ちに経営革新に指を染める事は出来なかった」(20)。 この直営坑の開鑿,採鉱には,古河・草倉銅山などから熟練坑夫を集めて作業に従事させ,急速に経営を拡大し,下稼人の所有坑の比重を低めていった。1881(明治14)年1月には,足尾全山の出鉱量1万5600貫中,下稼人出鉱の分は3300貫と21%余にまで減少した(22)。この新坑直営と並行して,下稼人の所有坑の買収も進められ,1881(明治14)年8月に,当時〈直利〉〔富鉱脈〕を発見し足尾の主要坑となっていた〈鷹の巣坑〉の買収によって,経営統一の前提条件が確立した(23)。 さらに1885(明治18)年,阿仁,院内両鉱山の払い下げ(24),1888(明治21)年の国際的銅シンジケ−トへの売銅契約によって(25),技術面でも資金面でも強力な裏付けを得た古河は,膨大な資本を投下して近代技術を導入し,短期間で足尾を世界的にもトップ・クラスの銅山にした。では,この間に下稼人制はどのように変化させられたのであろうか。 下稼人制度の廃止
(1)第一の変化は,鉱業主による選鉱・製煉部門の直営である。これまで下稼人は採鉱から製煉までを一貫して請負い,粗銅を鉱業主に売り渡していたのであるが,その後は,採鉱作業にのみ従事するようになった。要するに,下稼人は『採鉱法調査報文』のいう〈大納屋制度〉の第1の型から第2の型に転化したのである。 ここで新たに形成された生産組織が飯場制度であったことを疑う余地はほとんどない。しかし,残念ながら1890年代における飯場制度の実態を示す資料はないに等しい。ただ『鉱夫待遇事例』が簡単ながら1906年現在の状況を伝えてくれるだけである。 「足尾銅山,本鉱山ハ飯場制度ニシテ頭役及組頭ナルモノヲ置キ前者ハ坑夫,支柱夫,進鑿夫,坑内運転夫ヲ支配シ後者ハ其他ノ鉱夫ヲ支配ス。而シテ其職務ハ鉱夫ノ傭入レ,部下鉱夫ノ飲食物其他日用品ヲ給与シ,賃金ノ代理受取リヲ為シテ,之ヲ分配シ(傭入後三ヶ月ニ至リソノ鉱夫ヲ独立セシメ物品ノ供給及賃金ノ支払ヲ受ケシムルモ)鉱夫ノ保護監督ヲ為ス。其報酬ハ会社ヨリ頭役ニ職頭手当ト入坑鉱夫取扱手数料ヲ給ス。其他採鉱部独立鉱夫ハ一ヶ月間ニ於ケル所属鉱夫ノ入坑工数ニ応ジテ支給ス」(26)。
要するに,暴動当時の足尾銅山における飯場制度には2つの異なったタイプがあった。 いずれにせよ,1906年になっても一部に作業請負が残り,鉱業所に直接雇用されていた労働者でも賃金が飯場頭を通じて支払われていた事実は,古河が足尾銅山経営を引き継いだ直後に行なった〈下稼人制〉廃止の内容が不徹底なものであったことを窺わせる。ただ,ここで検討を要するのは開坑・採鉱作業に関する請負いの有無である。いわゆる一類鉱夫の場合,飯場頭は,はじめから作業請負権を有していなかったのかどうかである。 これについては1897年刊行の『足尾銅山景況一班』に「毎月両回,方言ニ大鑑定ト謂ヒ,鉱脈ノ広狭,鉱質ノ貧福,稼行ノ難易等ヲ斟酌シテ採鉱量ヲ定メ,指定若クハ抽籤ヲ以テ請負稼行セシメ………」とある。このほか『日本鉱業会誌』第18号(1886年8月)所収の「栃木県足尾銅山点検報告」にも「採鉱法ハ都テ請負掘ニシテ」と報じ,また同誌第25号(1887年3月)の「足尾銅山記事」も「開坑,採鉱共多クハ請負法ニヨリ操業セシム」と記している。これらから少なくとも1897年頃までは採鉱部門でも作業請負が行われていたと見られる。 では,この作業請負制はいつ,いかなる理由で廃止されたのであろうか? この点は1907年の暴動の背景を解明する上で,きわめて重要である。というのは,暴動の主力となったのは他ならぬ坑夫,支柱夫といった一類鉱夫であり,しかも暴動を可能にした要因として予想した飯場制度の弱体化は,まさにこの作業請負機能の喪失に伴って起きたのではないかと考えられるからである。だが残念ながら,この問題に関して決め手となる史料はほとんど残されていない。この問に答えるには,その前に飯場制度成立の根拠,特に作業請負存続の根拠を究明しておかなければならない。 【注】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
【最終更新:
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Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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