第2章 飯場制度の史的分析 ─ 〈出稼型〉論に対する一批判 ─(5 完)
VI 採鉱法の進歩
抜き掘法から階段掘法へ
以上見たように,飯場制度は日本鉱山業の産業革命期における技術的特質──すなわち,運搬・排水・選鉱・製煉過程の機械化の反面,採鉱作業が鎚と鑚による〈抜き掘〉的採鉱法に留まったこと──に基盤をもっていた。そのことは同時に,飯場制度のそれ以後の変化が何に起因するものであったかを示唆している。繰り返すまでもなく,それは生産過程,とりわけ採鉱過程の技術的進歩にある。とすれば,当面の問題である足尾銅山における作業請負廃止の根拠も,採鉱過程の技術的変化を追究することによって解明しうるであろう。
そこでまず問題となるのは生産用具であるが,これには全く変化が見られない。鑿岩機が採鉱作業に使用されるようになるのは1910年代以降のことである。それまでは依然として鎚と鑚が使用されていた。しかし採鉱法はこの間に著しく進歩した。それは〈抜き掘法〉から〈階段掘法〉への移行である。
〈抜き掘法〉は鉱脈中の富鉱部のみを採掘するものである。このため採掘量に比して採鉱量は多く,しかも品位が高い。また運搬量は少なく,選鉱も簡単である。このため運搬,選鉱等への設備投資は比較的少額ですみ,その割に産銅額は多い。こうした点は資金面で制約がある場合には,何ものにも代え難い有利な条件であった(37)。しかし〈抜き掘法〉はこうした利点の反面,いくつかの欠陥をともなっていた。
1)鉱脈の変化を追って,しかも富鉱部のみを採取するため,掘り跡は狭い上に不規則となる。そのため,掘り進むにつれて運搬の能率は下がる一方で,しかも通気不良をもたらし,その後の採掘を困難にする。
2)賃金が鉱量と品位によって決まる,いわゆる〈定目法〉であることは,採掘困難な箇所や貧鉱を顧みぬ〈乱掘〉となり,必然的に鉱山の生命を短くする。
3)処理しないまま切羽に遺棄した貧鉱は鉱毒の原因となる。
4)採鉱の機械化,切羽運搬の機械化を不可能にする。
これらの欠陥は資金量が限られた創業初期においては全く顧慮する余裕がなかった。しかし,運搬,排水,選鉱,製煉等の一応の機械化が完了した1890年代後半になると,次第に克服を要する課題として意識されはじめる。とくに1891(明治24)年を頂点として産銅がまったく頭打ちとなってしまったこと,さらに渡良瀬川下流で鉱毒による被害が問題になったことなどを契機に,採鉱法の転換が日程にのぼった。それを最初に示したのは1893(明治26)年12月,当時の足尾坑長・木村長七から古河市兵衛に宛てた手紙である。
「二十七年度は壱万頓出銅の御見据も有之,其上当山の階段掘実施,大選鉱所の建設……」(38)。
しかし,これはまだ極く一部で行われたに過ぎないことは,1897年刊行の『足尾銅山景況一班』の一節に「目下階段掘ヲ実施スル場所僅カニ数ヶ所ニ止マリ」とあることからも推察される。ただ,同書は「当山採鉱法ハ漸次階段掘ニ変更スルノ目的ナルヲ以テ之ニ伴フ選鉱法ノ規模亦拡張セザルヲ得ザルニヨリ,更ニ一昼夜六百頓以上ノ鉱石ヲ扱フ選鉱所ヲ設ケ,今後二ヶ年ヲ期シ之ヲ竣工セシメ……而シテ之ニ要スル動力ハ水力ヲ利用シ三相交番電流発電機ヲ同時ニ竣功運転セシムルノ計画ナリ」と述べ,ようやく1890年代末にいたって階段掘への転換が本格的に進められたことが窺える。いつ階段掘への転換を終えたか必ずしも明らかではない。暴動直後の1907年月でも簀子橋では抜き掘が続いている。しかし,足尾で採掘された鉱石の品位の推移を見ると,1903(明治36)年にそれまで16%台であったものが5。41%と急速に低下している(39)。階段掘による採鉱は抜き掘法にくらべ,低品位鉱まで採掘せざるを得ないことから見て,1903〜4年ころ完了したものと推測される。
階段掘法と作業請負の廃止
このように,〈階段掘法〉への移行が1900年前後に進められたことと,飯場頭による作業請負の廃止がちょうど同じ時期に実施されたことは,単なる偶然の一致ではないであろう。両者の関連を示す資料は足尾については残っていない。しかし,別子銅山の次の事例はその密接な関係を明瞭に示している。
「斯く全山に新施設の行はるゝに伴ひ,鉱夫の従業方法に対する合理化の必要また頓に緊切となり,明治三十九年を以て,時の採鉱課主任は従来の飯場制度に大改革を断行し,その積弊を一掃するに努めた。〔中略〕依って採鉱課においては明治三十九年九月先づ飯場取締規程を定め,新たに飯場三個所を増設して定数を二十とし,一飯場所属の坑夫負夫の員数を百二十に制限すると共に,従来不良の飯場頭を罷免して新に採鉱課の詮衡せる者に換へ,且つこれまでの採鉱は飯場の請負稼として,その掘場に細密なる区劃を定めず,相当広範囲において飯場頭の自由採掘に委ねてゐたのを,業場すなはち掘場の制度に改めて,階段掘に依るべきを命じ,また担当の掘場は各飯場頭に抽籖をもって決定せしめることゝし,さらに翌四十年四月一日には,従来飯場頭が所属の鉱夫より徴収せる飯場世話料なるものを廃し,之に相当する金額は採鉱課において直接飯場頭に支給する等の新規程を設けて,儼にこれが励行を命じた。要するにこれらの改革は全山の気風を粛正し,善良なる一般鉱夫を保護すると共に,旧来の濫掘を防いで産銅能率を増進するにあった……」(40)。
では何故〈階段掘法〉の採用は,飯場頭の作業請負の廃止をともなわざるを得ないのであろうか。それには先ず〈階段掘法〉について知る必要がある。
〈階段掘法〉には上向階段掘と下向階段掘とがある。基本的には大きな違いがあるわけではないので,ここでは日本の多くの鉱山で採用された上向階段掘について見よう。第1図はその標準的な形である。先ず鉱脈に沿って上下に平行に坑道が開かれ,一定の間隔をおいて小竪坑(坑井)が切り上げられる。次いで,鉱脈に沿って一定の高さと(足尾では6尺)一定の幅(鉱脈の幅によって異なるが,足尾では通常3尺)の区画をきめ,図のように順次に段形に掘進するのである。この方法では鉱石だけでなく,無用の岩石も採掘せざるを得ないから,その限りでは高品位の鉱石だけを採取する抜き掘法に劣っている。しかし,この場合は,抜き掘法では遺棄された貧鉱も残りなく採取され,同時に運搬,通風,支柱等は容易となり,〈抜き掘法〉の欠陥は殆ど取り除かれる。
ところで,抜き掘法であれば坑夫は鉱脈の変化を追って,ただ富鉱部だけを採取していればいい。この場合には,採鉱作業は鑚の使い方,鉱石の見分け方など経験的に習得した〈技能〉によって支えられている。ここに,彼自身熟練した技能の持ち主である飯場頭が生産過程に介入し,作業の指揮・監督を行い得た根拠がある。しかし階段掘になると,もはや作業の指揮・監督はこれまでのような経験に基づく技能だけでは処理し得なくなる。鉱脈の変化に応じて階段のとり方を変え,あるいは運搬の便を考慮して鉱石を処理するなど〈科学的技術によらなくては作業を遂行しえない部面が増大する。これに対し,旧来の経験のみに頼る飯場頭が即座に適応し得ないことは当然であろう。ここに階段掘の採用に伴って,飯場頭が作業請負をなし得なくなった主要な原因がある。同時に,階段掘の導入によって切羽が集約・整理されたため,それまでに比べれば直接的な監督が容易になったことも飯場頭の作業請負の意義を減少させることとなった。
以上のような飯場制度の変質は,1900年代までには足尾銅山や別子銅山だけでなく比較的大規模な鉱山では進行していたものと思われる。つぎの2つの引用は,このことを明示している。
「明治二十三年以降,二十八年頃にかけては益々上向階段法,下向階段法を応用するものを増加したりと雖も,整理せる鉱山と称せらるる処に於てすら尚ほ且,一に坑夫の自由採掘に委するもの多く,而かも其賃金の算定は採鉱量の多少及び含有の貧富によるを以て弊害百出し,坑夫は一に利に走り,最も脆弱にして含有に富む部分のみを採掘すること,旧套を脱せず,為に堅硬にして含有豊かならざるものは価値の有無如何に拘らず,悉く遺棄するの状態なりし。 〔中略〕 明治三十六年に於ける主要なる鉱山四十一に就いて見るに,階段法によるもの三十四にして実に其の八割を占む(41)」。
「飯場頭ニシテ右ニ記載スル権限ノ全部ヲ有スルモノハ甚タ稀ニシテ僅ニ二三ノ鉱山ニ其例ヲ見ルノミ。多クハ日用諸品ノ供給,賃金ノ代理受取ヲ禁シ或ハ事業ノ受負ヲ禁スルガ如キ,或ハ又単ニ独身者ヲ寄宿セシメテ飲食其他日常ノ世話ヲ為スニ過ギザルモノアリテ……(42)」。
飯場頭の坑夫統括力の弱化
作業請負が廃止されたことは飯場制度にどのような影響を及ぼしたであろうか。これまで飯場頭は坑夫の雇い入れ,解雇について,さらには賃金決定,支払いについても独自の権限を有していた。飯場頭の坑夫に対する強固な支配力の基礎にはこれらの権限があり,その背後には飯場頭が作業請負を行っていることがあった。したがって開坑・採鉱作業についての請負制度が廃止されたことは,単に飯場頭の諸機能の1つが失われただけではなく,その他の機能をも変化させずにはおかなかった。
第1の労働力確保の機能は,依然として飯場頭の重要な任務であった。労働者を募集し,前貸金などをてことしてその移動を制限することは,むしろ他の機能の意義の低下によって,飯場制度の第一義的な機能となった。しかし,雇い入れ,解雇に関する飯場頭の権限は大幅に制限されるにいたった。1900年前後に制定された〈古河足尾銅山鉱夫使役規則〉は直接雇用となった坑夫,支柱夫などの一類夫と請負制度のもとにある車夫,手子など二類夫のそれぞれに関する雇い入れ手続きを定めているが,両者の違いはこれを明示している。すなわち,「二類夫トハ其組頭ノ下ニ間接ニ使役スルモノ」であり,鉱業所は組頭からの一括採用願いを承認するだけである。ここでは実質上の雇い入れの決定権は組頭にある。これに対し一類夫の場合は「採用ヲ請ハント欲スルモノハ其志願ノ組合ニ就キ紹介人ヲ立テ」て,直接本人が鉱業所に願い出なければならなかった。もちろん,飯場頭の紹介なしに採用願いは出し得ないから,飯場頭が坑夫の採用に全く無力だったわけではない。しかし,採否の決定権は飯場頭にはなかった。すなわち,鉱業所は「願アルニ際シ事務所ニ於テ雇人ヲ要スルトキハ其来歴ヲ調査シ不都合ナシト認ムルニ於テハ一類夫ハ試験ヲ為シ合格セシモノハ採用スベシ。コノ場合ニ於テハ同組合中確実ナルモノ二名以上ヲ保証人トシ三号書式誓約書ヲ差出スベシ」というのである。要するに,作業請負の廃止にともない雇用,解雇の決定権は飯場頭から鉱業主に移り,しかも,それは明文を以て規定されることになったのである。
第2の作業請負の機能はいうまでもなく,このたびの変化の中心である。しかし,作業請負の廃止によって直ちに飯場頭が生産過程から全面的に排除されたわけではなく,坑夫の出役督励および配下坑夫の作業監督さえも,なおしばらくは彼の任務とされていた。しかし,飯場頭は現場係員の〈補助者〉たるにすぎず,それさえ次第に鉱業主の直接監督の強化にともない,その比重を減じていった。〈古河足尾銅山鉱夫使役規則〉中に「頭役ニシテ自己ノ本業ニ労役シ難キ事情アルモノハ主務局課ヘ出願ノ上定期又ハ無期労役ニ服セザルコトヲ得」とあることに,この間の状況が反映している。
第3の賃金管理に関する機能も,もちろん著しい変化を蒙らずにはいなかった。配下坑夫の番割り=作業切羽の配分を操作することによって飯場頭が保持していた個々の坑夫に対する事実上の賃金決定機能は,作業請負の廃止によって当然失われ,代わって現場員がこの権限を掌握した。ただし,賃金の代理受取りは,即座に失われたわけではない。一般に鉱業主は,作業請負の廃止と同時に出来るかぎり中間搾取を制限しようとするから,賃金の代理受取り禁止の意図を示すことが多い。しかし,飯場頭が坑夫に前貸金,あるいは賄い費や日用品の貸し付けを行っている限りは,賃金の代理受取はなんらかの形で存続せざるを得ない。
第4の坑夫の日常生活管理の機能には,本質的な変化は見られない。しかし,他の機能の喪失,縮小によって飯場制度はこの部面の比重を増大させた。特に作業請負を奪われた飯場頭は,賄い費や供給品の値上げ,あるいは各種賦課金の徴収など流通面での収奪を強化せざるを得なかったから,絶対的にもこの機能の意義は増大した。
以上のような飯場制度の機能の変化は,飯場頭の坑夫統率力を弱めずにはいなかった。これまでも見てきたように,飯場頭が強固な支配力を有していたのは配下坑夫の雇いいれ,解雇について,また賃金決定について独自の権限を持ち,形式的・外見的にせよ,その雇用主として立ち現れたことによるものであった。ところが作業請負の廃止は,この雇用・解雇,賃金決定権を飯場頭から奪ったのである。それに伴い,外見的にも飯場頭の雇用主としての地位は失われ,その中間搾取者としての本質はあらわになった。
もちろん,飯場頭は雇用・解雇,賃金決定について全く無力になったわけではない。坑夫が就職するには,まず飯場頭に紹介者になって貰わねばならず,採用決定後はその保証を必要とした。そのことの意義を過小評価してはならない。しかし,それはあくまでも鉱業主による労働者支配を円滑にする限りで許されたのである。もし,それが資本の立場と矛盾することがあれば,直ちにその限界は明らかとなった。また足尾の場合,賃金の代理受取は依然として飯場頭が保持していた。したがって,飯場頭は配下坑夫の賃金についても多少の操作をおこないえた。しかし,作業請負を行わず,さらに作業監督さえ怠るとなれば,賃金の代理受取は殆どその根拠を失ってしまう。そうなれば坑夫等がピンはねをピンはねとして意識し,飯場頭が彼等の労働に寄生する不当な存在であることを認識するのは著しく容易となる。
しかも,飯場頭は作業請負を奪われた代償として配下坑夫の入坑に応じた手数料を与えられただけであった。それがその後のインフレにより実質的に減収となり,彼等はいきおい〈飯場割〉といった賦課金の徴収,あるいは賄い費の増額など流通面での収奪を強化せざるを得なかった。このことは飯場頭の寄生的性格をいっそう強め,坑夫との間の矛盾を激化させたのである。
1907年の一連の鉱山争議は,まさに大河内氏が指摘したように「何れも足尾銅山の暴動と同じ社会的基盤に基づくものであった」。しかし,この「社会的基盤」は決して言われるような「奴隷制的飯場制度の強度な支配」にあったのではなく,全く逆のもの,すなわち1900年前後から全国の主要鉱山で進行しつつあった飯場制度の変質=弱化にあった。
この事実を〈出稼型〉論者は何故把握し得なかったのであろうか? それは,何よりも〈出稼型〉論が労働市場における労働力の特質にすぎない〈出稼型〉をもって,賃労働の生成期から今日にいたる日本の労働運動・労働問題の一切を基本的に制約するものと見なしたところにある。労働力の主要な存在の場は資本の支配する生産過程にあることを無視し,したがって「ブルジョアジ―は生産用具を,したがって生産関係を,したがって全社会関係を,たえず変革しないでは生きて行くことが出来ない」(43)」事実を見落としてしまったからである。
【注】
(37)官営阿仁銅山の払い下げを受けた古河が,経営の採算を向上させるため最初にうった手の1つが,階段掘法を抜き掘法に改めることであった。これについて,木村長七は次のように述べている。
「当鉱山の採掘は所謂段掻法に依って居りまして,鉱石は善くも悪くも鉱幅一杯に採掘するのです。為めに岩石も鉱石も一所に選鉱所へ搬ばれ,選鉱場で大体手選にし細かいものはジッガ―にかけたのです。私は視察を了へ事務所に帰って後,案内人の近藤,狐崎両氏に向ひ,現在坑内で行って居る採掘法は自分は不得策と思ふ。即ち採掘したものは上鉱でも何でも混合して悉く選鉱場へ送るから,選鉱実収が上がらない様に思はれる。であるから鉱石のよい処だけは之を現場で直ちに叺に詰め,製煉所へ直送する,其他は選鉱場に廻して処理すれば,選鉱の実収率も上がり,有利になるのでは無かろうかと申しました処,両氏は,それは面白い方法である,今日迄行はなかったけれども慥に名案と思はれるからとて直に実行に移しました」(茂野吉之助編『木村長七自伝』私家本,1938年)193〜194ペ―ジ。
(38)五日会編『古河潤吉君伝』(五日会,1926年)78ペ―ジ。
(39)古河鉱業会社足尾鉱業所『採鉱月報』による。
(40)平塚正俊編『別子開坑二百五十年史話』(株式会社住友本社,1941年)416〜417ペ―ジ。
(41)日本工学会編『明治工業史・鉱業篇』(1930年)183〜184ペ―ジ。
(42)『鉱夫待遇事例』213ペ―ジ。
(43)カール・マルクス『共産党宣言』(大月書店、國民文庫版)、31ページ。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日に刊行]
[本著作集掲載 2004年8月31日]
【最終更新:
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