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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史





補論(1)  飯場頭の出自と労働者募集圏


飯場制度の労働力確保機能

 飯場制度の重要な機能のひとつが労働力の確保にあることは,第2章でも指摘した。しかし,第2章では1900年前後における飯場制度の変化を重視し,その変化にかかわった作業請負機能の存立と喪失の根拠を追究することに力点を置いたため,労働力確保の機能については充分に論じえなかった。そこであらためて,飯場制度における労働力確保の機能について検討してみたい。
  第2章で見たように,飯場制度の主要な機能のうち作業請負は比較的短期間で消滅した。これに対し,労働者を募集し,その日常生活を管理し,出役を督励するという広い意味での労働力確保の機能はより長期間存続した。『鉱夫待遇事例』は「飯場制度ニ於テ普通利益ナリトスル主要ノ事項」としてつぎの4項目をあげているが(1),これらはいずれも労働力確保の機能とかかわりをもっている。

「一 鉱夫ノ募集上便利ナルコト
 二 新参鉱夫ノ世話並ニ単身鉱夫生活上ノ世話等懇切周到ナルコト
 三 鉱夫ノ勤惰ヲ監督シ鉱夫ノ繰込及事務ノ配当等利便ニシテ鉱山ノ手数ヲ省キ役員ノ数ヲ減シ得ルコト
 四 急速事業ノ進捗ヲ計リ若ハ産額ノ劇増ヲ計ラントスル場合等ニ於テ利便アルコト」。

 一の鉱夫の募集は,〈労働力の確保〉そのもので,とくに説明を要しないであろう。飯場頭は彼個人や配下鉱夫の地縁,血縁を通じ,あるいは募集人を使って所要人数の確保に努めた。時には他鉱山にもぐりこんで熟練労働者を引き抜くことさえしたのである。こうした労働者募集の際,大いにものをいったのは前貸し金であった。鉱夫の多くは旅費を自弁するだけの余裕がないだけでなく,しばしば借金を負っていたからである。募集人や労働者の旅費,さらに前貸し金などの募集費用は一般に飯場頭の負担であったが,急速な増員が必要な時には鉱山主側がこれを貸与し,あるいは負担することもあった(2)
 二は募集した労働者の定着をはかること,いわゆる〈居つき〉をよくすることとかかわっている。労働者の多くは見知らぬ土地に〈着の身着の侭〉でやってくる。彼らの住まい,食事をはじめ日常生活に必要な品々はほとんど飯場頭が貸してくれる。もちろんすべて有料で(3),市価にくらべ割高ではあるが,まったくの〈無一文〉でも,なんとかその日は送れるようになっていた。飯場頭にしても,配下の鉱夫は〈金の卵〉を産む鶏であるから,逃げたり,怠けたりしないかぎりは「懇切周到ナル世話」をすることになる。飯場制度というと,とかく逃亡者に対する残虐なリンチなど暴力的な支配が強調されるが,むしろ労働者を引き留めるには前貸し金や物品の供給・貸与,あるいは賭博などによる債務をつうじての支配が大きな意味をもっていたのである。一方経営側は,直轄制で有れば当然負担せざるをえない労働者の募集費用,新参鉱夫の世話などをすべて飯場頭に委ねることで,経費の節約をはかることができた。
 三の第1は出勤率を高めることである。飯場頭は寄宿舎の舎監的存在で,労働者の生活を四六時中チェックし得るから,出役督励は容易であった。しかも配下鉱夫の出役率は〈入坑手数料〉などによって飯場頭の経済的利益と結び付いていたから,彼は熱心に「鉱夫ノ勤惰ヲ監督」した。また飯場頭をつうじて作業の配当(番割り)をすることで,職員の数を減らし,経営の負担を軽減させうることも指摘している。
 四は,事業の拡大期に飯場制度が有効なことを指摘している。これは,単に現存する飯場頭により労働力の確保につとめるだけでなく,一定数の配下労働者を確保できる者なら誰でも飯場頭に登用する,という方法で急速な増員が可能であったからである。足尾銅山は,1880年代の急増期に,まさにこの方法で鉱夫を集めたのである。その当時,坑夫飯場を開設するのに必要な最低人員は20人であった。大直利を掘り当て好景気にわいていた足尾銅山に,各地の鉱山やトンネル工事現場から,配下の労働者を引き連れた飯場頭が集まったことは充分考えられる。「生野ヨリ来山直チニ頭役ニ任命(4)」された本山ノ組飯場の十南粂吉の事例は,こうした事態を裏書していよう。また緊急に増員が必要な場合であれば,統率力のある坑夫に募集費用を貸し与え,出身地などから労働者を集めさせて飯場頭とすることもあったであろう。


飯場頭の出自

 では,足尾銅山で飯場頭になったのはどのような人びとで,彼らは何処から,どのようにして労働者を集めていたのであろうか。
 第1に飯場頭になり得る立場にあったと思われるのは,旧下稼人である。旧稿では,必ずしも明示的にではないが,彼らを飯場頭の源泉の一つに想定していた(5)。それというのも,『古河市兵衛翁伝』が,古河家経営開始当時の状態について「当時の足尾は下稼人の足尾であって,坑主は唯彼等に米噌を給し出銅を買い上ぐる金主たるに過ぎなかった。殊に前坑主の経営末期には僅かながらの直営稼行をも下稼人の手に委ねるに至つたので,操業の実権は全く坑主の手を離れて居た。この旧套を脱して坑主直裁の新容に移る為めには,先づ,新方面の開掘を直営し,漸を追うて下稼人の採掘ヶ所を自分の手に収めて,全山を統一ある経営の下に置かねばならぬ」と述べていたからである(6)
 だが,古河鉱業株式会社の『創業100年史』に下稼人全員の氏名が発表された(7)ことで,この想定は修正を迫られることになった。というのは,これら下稼人の名が,その後判明する限りでの飯場頭の名前の中に一人も見あたらないのである。もっとも,飯場頭の名で判っているのは,1902年,1907年,1908年(8)などで古河が足尾の経営を始めた1877年から四半世紀も経過しており,珪肺などのため平均寿命の短い坑夫の名が残っていなくても不思議ではない。だが問題は,飯場頭職は通常〈株〉として世襲されることが多かったのに,下稼人と飯場頭の間で共通する姓が少ないことである。たとえば,神山姓は下稼人38人中11人の多数を占め,その1人の神山盛弥は41人もの配下を有する有力な下稼人であったが,飯場頭の中には神山姓は1人もいないのである。下稼人と飯場頭の間で共通する姓は斎藤,小林,福田,金子の4つであるが,このうち坑夫飯場の頭役は斎藤だけで,あとは掘子や雑夫の飯場頭である。結局,坑夫飯場の頭役で,引き継ぎ当時の下稼人の子孫であるかも知れないのは,通洞3号の斎藤金蔵だけである(9)。おそらく,古河は意識的に旧借区人時代からの下稼人を排除する政策をとったのであろう。
 では,飯場頭はどこから来たのか? かなり後の時代のものであるが,この問にあるていど答えてくれる興味深い調査がある。それは1919年現在の「頭役考課表」で,20人の飯場頭の出身地,前職などが記されている。第2表はそれをもとに作成した表である。

第2表 頭役年齢,前職,出身地等一覧表
組名氏名年齢前職頭役
経験
年数
出身地
イ組O.M.49坑夫8年4月新潟県東蒲原郡西鹿瀬村
ロ組B.Y.41坑夫10.2福島県相馬郡小高村
ハ組A.Z.61坑夫22.2福井県大野郡西谷村
ニ組K.K.36坑夫 6.2福井県大野郡上庄村
ホ組A.K.29坑夫 5.9栃木県上都賀郡足尾町
ヘ組U.G.31坑夫 5.9岐阜県吉城郡河合村
ヌ組Y.K.54坑夫26.8石川県能美郡中海村
ヨ組K.O.35坑夫 6.2新潟県西蒲原郡森村
レ組Y.H.61坑夫28.8兵庫県朝来郡生野町
ナ組N.S.62坑夫17.2福井県大野郡上庄村
ラ組S.E.47坑夫22.4福井県大野郡西谷村
不明S.T.35坑夫 9.2栃木県上都賀郡足尾町
ヤ組T.I.22坑夫 0.3栃木県上都賀郡足尾町
メ組Y.S.41坑夫 7.1岐阜県大野郡大八賀村
半田組N.T.59鉱夫(飯場帳付)22.1福島県伊達郡半田村
田村組T.S.64鉱夫(飯場帳付)22.1新潟県南蒲原郡三条村
若栗組H.I.58鉱夫(二類夫)22.2富山県下新川郡若栗村
吉川組F.G.33鉱夫(手子) 2.4福井県足羽郡一条村
佐藤組S.M.53機械夫10.2栃木県上都賀郡足尾町
選鉱組F.K.51鉱夫(飯場取締) 5.6栃木県下都賀郡赤津村

【備考】 1) 大山敷太郎『鉱業労働と親方制度』251,251ページより作成。
       2) ハ組頭役は柴又組頭役を,ヨ組頭役は仙六組頭役を,レ組頭役は生野組頭役を兼任。
       3) 組名不明ものは,前後関係からウ組(先代頭役は関角謙吉)と推定される。

 この資料を発掘された大山敷太郎氏は触れていないが,この調査は本山の,それも坑部課所属半場の頭役だけのものである。組名がイロハ順だったのは本山の坑夫飯場だけで,通洞,小滝は1号,2号といった番号順であった。坑部課所属飯場であることは坑夫飯場だけでなく掘子飯場,選鉱飯場の頭役も含まれていることから分かる。イロハ順の組は坑夫飯場であり,半田組から佐藤組までは掘子飯場,最後の選鉱組はもちろん選鉱飯場である(10)
 まず前職について見よう。坑夫飯場の頭役の前職はすべて坑夫である。1919年の時点では,頭役が作業の指揮・監督にあたることは形式化していたにもかかわらず,全員が坑夫出身であることはやはり注目に値する。一定数の労働者を募集し,確保することが,飯場頭に要求された不可欠の条件であったが,単なる募集人では坑夫飯場の頭役にはなり得なかったのである。まして,作業請負制をともなった坑夫飯場の生成期にあっては,飯場頭は開坑・採鉱作業で配下坑夫を指揮・監督する力量を要求されたに違いない。これに対し,掘子飯場の場合は前職に〈飯場帳付〉や機械夫を含み,ここでは作業の指揮・監督はそれほど大きな意味を持たなかったのであろう。
 第2は出身地である。町村レベルまでさがれば,当然のことながら足尾町出身者が4人と全体の2割を占めている。氏名がすべてイニシャルに変えられているので確言はできないが,足尾出身者の多くは親の代からの頭役で,その死か引退にともない後を襲ったものと推定される。彼らがいずれも年齢が29歳,35歳,22歳と,佐藤組のSMの53歳を除き全体に若く,頭役としての経験年数が短いことが,これを裏書きしている。
  出身地で注目されるのは,坑夫飯場の頭役14人中4人が福井県大野郡の出身者である点である。大山敷太郎氏は「果してどういう機縁によるかは未詳ながら,この両地域間に何らかの関連を察知させる」としか解説していない。しかし,これにははっきりした理由がある。それは他でもない,古河経営下で足尾再開発の中心となったのは〈越前坑夫〉だったからである。『木村長兵衛伝』はこれについて,つぎのように記録している(11)

「君〔木村長兵衛〕は本番採鉱革正の為め,草倉より木下潤輔を迎へた。潤輔は輩下の越前坑夫の一党を率ゐて入山した。氏は旧大野藩の士,草倉山大切開鑿の為め市兵衛翁に招じられ大に功のあつた練達の人であつた。その輩下の越前坑夫はいずれも新興草倉の坑内で鎚を揮つた面々であるので,此の一党を迎へた足尾の坑内は俄かに生気横溢たるものがあつた」。

 越前大野藩はその領内に面谷鉱山(12)を有し,1832(天保3)年から1871年の廃藩置県まで,藩の直営でこれを経営していた。その後は村民の手で稼行されていたが,経営は不振であった。木下潤輔は,おそらくこの藩営時代からの山師か山留であったと思われる。古河操業以前からの足尾の下稼人がいわば〈外様〉であったとすれば,〈越前坑夫〉の一党は古河の〈直参〉で,市兵衛や木村長兵衛の信頼が厚く,〈別手組〉として古河直営の坑道開鑿などに従事していた。おそらく,下稼人の勢力を抑えようとしたとき,〈越前坑夫〉で統率力のある坑夫はどしどし飯場頭に取り立てられたのであろう。
 坑夫飯場で福井県大野郡出身者と足尾町出身者に次ぐのは,岐阜,新潟が各2人,石川,福島,新潟,富山,福井が各1人である。一方,掘子飯場,選鉱飯場の頭役は地元が2人,福島,新潟,富山,福井が各1人となっている。全体に北陸地方の比重が高く,また当然のことながら,鉱山所在地近辺の出身者が多い。すなわち新潟県西鹿瀬村は草倉銅山,岐阜県河合村は天正金山,石川県中海村は原銅山,兵庫県生野町はいうまでもなく生野銀山,福島県半田村は半田銀山の所在地である。坑夫飯場の頭役で,鉱山とのかかわり合いがない土地の出身者は2人だけである。
 飯場頭の出身地を知る手がかりが,もう1つある。それは飯場の名である。残念ながら肝心の坑夫飯場はイロハ順か番号順のため役に立たないが,掘子飯場の場合は出身地にかかわる名をつけたものが少なくない。先の表でも半田組,若栗組がそれであった。そこで現在わかっている限りでの飯場名のうち,明らかに頭役の姓を附したものを除き,およそ40の組の名を地名索引(13)で調べてみた。地名と姓と区別がつかないものがあり,また複数の県に存在する地名もあってとても100%確実とはいえないが,一応の参考にはなろう。
栃木県 栃木組,南摩組,楡木組,北条組,田沼組,日光組,水代組,細尾組,鹿沼組,簀子橋組。
新潟県 牛込組,栃堀組,元村組,蒲原組。
福井県 城戸内組,浄教寺組,足羽組。
富山県 下新川組,若栗組。
兵庫県 生野組,銀谷組。
福島県 半田組,津尻組。
埼玉県 大宮組,八甫組。
茨城県 稲荷組,結城組。
石川県 羽昨組。
山梨県 甲州組。

不明 小松川,高島,豊岡,相田,笹又,清島,河内,西岡,本町。
 ここでは地元の栃木県が多数を占めているが,新潟,福井,富山の北陸3県が上位に並んでいる。



足尾銅山の労働者募集圏

 では,飯場頭らは,どこから労働者を集めて来たのであろうか。さいわいこの疑問に答えるデータが『栃木県史』史料編・近現代九に収録されている。足尾町役場が所蔵する〈入寄留簿〉によって作成された「明治期ノ足尾町ヘノ府県別入寄留者数」である。第3表はこれをもとに作成したものである。

第3表 足尾町への入寄留者府県別数

 この人数は,入寄留者に限ったものであるから,これがそのまま各年の新規雇用者を示しているわけではない。すなわち,この中には労働者本人だけでなく,その家族も含まれている。また,〈寄留届〉を出さずに働いていた労働者も 少なくない。というより,〈寄留届〉を出さなかった者の方が圧倒的に多かったであろう。年間の〈入寄留〉者は300〜700人台にすぎないが,実際に足尾へ流入した労働者はもう1桁多い数であったと思われる。短期の土木工事への〈出稼ぎ者〉をはじめ,近在の者などは〈寄留届〉は出さずに済ましていたに違いない。主に〈寄留届〉を出したのは,新規入山者よりも,足尾にすでに定着しつつあった者であろう。
 したがって,この表で意味があるのは,寄留者の絶対数よりも,年次毎の変化,各府県間の比率やその順位などであろう。そうしたことを前提に,この表から読み取れるいくつかの特徴をあげ,その問題点について若干の考察を加えてみよう。
 (1)沖縄を除く全国46府県から人を集めており,足尾銅山の労働市場圏の広さがうかがえる。
 (2)しかし,富山,新潟,福井,石川の北陸4県と栃木,群馬の地元2県,それに近県の茨城,東京が常に上位にあり,以上8県だけで全体の4分の3を越えている。すでに見た飯場頭の出身地分布からもある程度予測されたことであるが,足尾銅山の労働市場圏としては北陸地方が特別に大きな比重を占め,ついで地元,近県の順となっている。
 (3)富山,栃木,新潟,福井がほとんど毎年,この順序で上位4県に位置している。各県のシェアも,総数がきわめて少ない1895年以前と1906年以降を除き,富山県20%,栃木県16%,新潟県11%,福井県7.6%の平均値から上下1〜2%の範囲内にだいたい収まっている。
 (4)群馬,茨城,石川,東京の4府県は5%前後,福島,岐阜,埼玉,秋田の4県は2%台と,いわば第2,第3集団を形成している。ここでも各県が占める比率は年による変化が少ない。
 (5)この表では一括してしまったが,これに続いて兵庫,長野の2県が80人台(1.5%)山形,千葉が50人弱(0.9%),岡山,奈良,滋賀,和歌山,島根,広島の6県が30人台に集まっている。なお,遠隔地の兵庫,岡山,奈良,和歌山,島根,広島などは,秋田,福島,岐阜などとともに鉱山所在地である。
 (6)別子銅山のある愛媛県の20人を除き,九州・四国の各県はいずれも1桁である。
 以上が全体的な特徴であるが,つぎにいくつかの問題点につき検討を加えよう。
 第1の問題は,年によって入寄留者の総数はかなり変動しているのに,各府県間の比率が比較的安定しているのはなぜか,ということである。
 もし,寄留者が,個々人の自発的な意思によって足尾に職を求めて入山した者ばかりであれば,こうした地域的な偏りが生じることはないであろう。こうした傾向は,特定の地域に重点的に形成された求人網の存在を予測させる。もう少し具体的にいえば,坑夫飯場は富山,新潟,福井,石川の北陸4県に求人網をもち,掘子飯場は北陸だけでなく,地元の栃木,群馬両県やその周辺に求人網を張り,土工や雑夫は主として地元と近県を縄張りとしていたのであろう。富山県からの寄留者が毎年20%を占めるのは,求人網全体の20%は富山県を縄張りにしていたということであろう。
 第2の問題はつぎの点である。一般に,各飯場の〈求人網〉は,その飯場頭の出身地となる傾向があったと予想されるが,入寄留でトップの富山県は坑夫飯場の頭役の出身地として全く顔を出さず,掘子飯場の頭役出身地としても決して多くはない。一方,坑夫飯場,掘子飯場でも多くの頭役を出している福井県は一般労働者の出身地としては相対的に低い。これは何故であろうか。
 福井県出身の頭役が多い理由はすでに見た。富山県出身の頭役が少ないのは県内に目ぼしい鉱山がないからであろう。これに対し,労働者では富山県出身が多く,福井県が少ないのは,農民層の分解の程度の差がかかわっているのではないか。山口和雄氏によれば,1883年において富山県の小作地比率は51.1%と全国でただ1県だけ耕地の半ばを越え,自作農の比率は24.0%と全国一低いのである。一方,福井県は小作地比率33.8%,自作農比率41.8%と,農民層の分解の程度は全国平均以下である。ちなみに,全国平均は小作地比率が35.9%,自作農比率は37.3%である。おそらく,草倉や足尾で飯場頭に登用された〈越前坑夫〉は,郷里だけでは必要な労働力を募集することができず,それにかわって隣県で,しかも足尾や草倉により近い富山県に,労働力の豊富な給源を見出したのであろう。新潟県が地元の群馬県を抜いて第3位になっているのも,足尾再開発の中心となった坑夫が,同県所在の草倉銅山から移って来たという歴史的なつながりと同時に,小作地比率47.7%,自作農比率28.2%という農民層分解の進展度の高さと無関係ではないであろう。




【 注 】


(1) 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』214ページ。

(2) 『鉱夫待遇事例』の第三章「鉱夫傭入ノ方法」には,足尾銅山について「飯場頭ヲシテ傭入ヲ為サシメ其費用ハ概シテ飯場頭ノ負担ナリト雖モ必要ニ応ジ会社ハ募集費若ハ応募ノ坑夫及家族ニ旅費ヲ給スルコトアリ」と記している。また『栃木県史』史料編・近現代九,所収の「明治十四〜十七年収支計算表」では,1884年上半季のみに「諸稼人雇入費」2,685円47銭が計上され,他年度には記載がない(同書152ページ)。

(3) 足尾暴動後に制定された「本山坑夫飯場申合規約」は,第9條で「三食代及蒲団二枚ノ料金ヲ含ム」「賄料」を1ヵ月6円の〈上賄料〉と同5円40銭の〈並賄料〉とに定めたほか,第10条で「飯場ニ於テ取扱ノ副食物及日用品ノ代価ハ専ラ鉱業所貸下品ノ価格ニ準ジ別ニ之ヲ定ム」としていた。この第10條によって決められた「物品ノ価格」は次のとおりである。

 一 副食物ハ一皿ニ付三銭均一トス
 一 湯銭一ヶ月稼人一人ニ付,飯場居住者拾銭,長屋居住者弐拾銭
 一 草鞋 一足    二銭
 一 蒲団 一枚一夜  一銭
 一 晒木綿  一本   九銭
 一 手拭   一本   五銭
 一 油    一合   四銭五厘
 一 醤油   一合   二銭五厘
 一 蝋燭   一挺   二銭
 一 カンテラ 一個   五銭
 一 木炭  十貫目   七銭三厘

「鉱業所貸下品ノ価格ニ準ジ」とあるように,この頃には飯場を通さずに鉱業所から直接米をはじめ種々の日用品を購入することが出来た。それにもかかわらず飯場の物品供給が成り立ったのは,飯場頭が鉱夫に債権を有する場合には,その代金を「代理受け取り」する権限を認められていたからである。もちろん独身鉱夫の場合,自炊はほとんど不可能であり,物品の購入も飯場を通す方が手間が省けて便利であったからでもあろう。

(4) 武田晴人『日本産銅業史』(東京大学出版会,1987年,185ページ)。この他,1886年に小滝で雑夫飯場を開設し,のち坑夫飯場頭役となった人物を父にもつ木村勝蔵氏の談話に「その後においても20人以上坑夫を引き連れてくれば飯場を開設することが出来た」とある(『日本労務管理年誌』第1編(上)35ページ)。

(5) 「足尾暴動の基礎過程」(『法学志林』第57巻第1号,65〜66ページ)。

(6) 五日会『古河市兵衛翁伝』119〜120ページ。

(7) 古河鉱業株式会社『創業100年史』55〜59ページ。

(8) 1902年の飯場頭氏名は蓮沼叢雲『足尾銅山』(公道書院,1903年)62〜64ページ。1907年は宇都宮地方検察庁所蔵『足尾騒擾事件ニ関スル機密書類綴』。 1908年は王孫子『足尾案内銅山大観』(萬秀堂,1908年)213〜218ページ。

(9) 下稼人の中には「草創期の足尾に開発の曙光をもたらした」とされる〈鷹の巣直利〉について権利をもっていた斎藤八郎をはじめ,松蔵,茂吉,源吉,松二郎の5人の斎藤がいる。斎藤金蔵が通洞3号という若い番号の飯場の頭役であるのも,彼が古くからの坑夫あるいはその子孫であることを示唆している。なお,武田晴人氏は坑部課の「頭役及組頭中多年勤続者調」(1908年)によって,飯場頭の経歴を紹介されそこに「長谷川栄次郎,旧足尾下稼人,83年下稼人及掘子飯場頭役被命」の例をあげておられる。ただ,この長谷川の場合は,古河経営の後に下稼人に任命されており,引き継ぎ当時の下稼人の中に,その名は見あたらない。

(10) この調査は坑部課所属の飯場だけが対象であるから坑夫,掘子,選鉱の3種の飯場だけであるが,製煉課には製煉飯場,工作課には土工飯場などがあった。

(11) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』45ページ。

(12) 面谷鉱山については小葉田淳監修『和泉村史』(1977年),『三菱鉱業社史』(三菱鉱業セメント株式会社,1976年)88ページ,喜多村寛治「面谷鉱山景況」(『工学叢誌』第20巻,27巻,『工学会誌』33巻,38巻,39巻,1883年6月〜1885年3月)など参照。尚,福井県大野郡西谷村には中天井鉱山,高屋鉱山が,上庄村には仙翁鉱山があった(大野郡教育会編『福井県大野郡誌』1912年刊行,名著出版,1972年)。

(13) 金井弘夫『全国地名索引』T,U,V(全国地名索引刊行会,1976年)。

(14) 山口和雄『明治前期経済の分析』(東京大学出版会,1956年)44〜49ページ。




【追記】

 本稿執筆後、武田晴人「金属鉱山における飯場頭の経歴」(東京大学経済学会『経済学論集』第53巻第2号,1987年7月)に接した。武田氏が発掘・紹介された足尾銅山関係資料の中には,飯場頭の出自に関する貴重な情報が含まれているが,いま全体を改稿する余裕はないので,補正すべき点に限り注記しておきたい。
 (1) 本文の「飯場頭の出自」において,齋藤金蔵は足尾土着の下稼人の子孫である可能性があるとしたのは誤りであった。1908年10月現在の「永年勤続者調べ」には,齋藤金蔵について「通洞3号頭役,明治23年本山ニ来山,27年通洞へ,27年3月通洞3号頭役被命」との記述がある。

 (2) 同じ資料に下稼人から飯場頭になった人物について次のような記録がある。

 「長谷川栄次郎 本山甲州組組頭
  従前ヨリ足尾ニ稼セルガ,〔明治〕10年4月当足尾銅山故総長ノ手ニ入ルト同時ニ下稼人トナル。
 16年6月下稼人及掘子飯場頭役被命
 25年7月掘子飯場頭兼キ組飯場取締頭役被命
古河家継承時代ヨリ飯場頭トシテ現在セシハ今,此栄二郎一人アルノミ,爾来今日迄掘子飯場頭トシテ金属セシ功労大ナリ。」
 

 この記述によれば、長谷川は古河操業以前から足尾で働いていた鉱夫である。しかし古河経営前には下稼人ではなく,古河によって下稼人に登用された人物である。本文で推定したように,古河が足尾引き継ぎ前からの下稼人を排除する政策をとったのは確かであると思われる。

 

[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2004年9月3日]

【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

編集雑記            著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
E-mail:
nk@oisr.org

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