補論(1) 飯場頭の出自と労働者募集圏
飯場制度の労働力確保機能
飯場制度の重要な機能のひとつが労働力の確保にあることは,第2章でも指摘した。しかし,第2章では1900年前後における飯場制度の変化を重視し,その変化にかかわった作業請負機能の存立と喪失の根拠を追究することに力点を置いたため,労働力確保の機能については充分に論じえなかった。そこであらためて,飯場制度における労働力確保の機能について検討してみたい。
第2章で見たように,飯場制度の主要な機能のうち作業請負は比較的短期間で消滅した。これに対し,労働者を募集し,その日常生活を管理し,出役を督励するという広い意味での労働力確保の機能はより長期間存続した。『鉱夫待遇事例』は「飯場制度ニ於テ普通利益ナリトスル主要ノ事項」としてつぎの4項目をあげているが(1),これらはいずれも労働力確保の機能とかかわりをもっている。
「一 鉱夫ノ募集上便利ナルコト
二 新参鉱夫ノ世話並ニ単身鉱夫生活上ノ世話等懇切周到ナルコト
三 鉱夫ノ勤惰ヲ監督シ鉱夫ノ繰込及事務ノ配当等利便ニシテ鉱山ノ手数ヲ省キ役員ノ数ヲ減シ得ルコト
四 急速事業ノ進捗ヲ計リ若ハ産額ノ劇増ヲ計ラントスル場合等ニ於テ利便アルコト」。
一の鉱夫の募集は,〈労働力の確保〉そのもので,とくに説明を要しないであろう。飯場頭は彼個人や配下鉱夫の地縁,血縁を通じ,あるいは募集人を使って所要人数の確保に努めた。時には他鉱山にもぐりこんで熟練労働者を引き抜くことさえしたのである。こうした労働者募集の際,大いにものをいったのは前貸し金であった。鉱夫の多くは旅費を自弁するだけの余裕がないだけでなく,しばしば借金を負っていたからである。募集人や労働者の旅費,さらに前貸し金などの募集費用は一般に飯場頭の負担であったが,急速な増員が必要な時には鉱山主側がこれを貸与し,あるいは負担することもあった(2)。
二は募集した労働者の定着をはかること,いわゆる〈居つき〉をよくすることとかかわっている。労働者の多くは見知らぬ土地に〈着の身着の侭〉でやってくる。彼らの住まい,食事をはじめ日常生活に必要な品々はほとんど飯場頭が貸してくれる。もちろんすべて有料で(3),市価にくらべ割高ではあるが,まったくの〈無一文〉でも,なんとかその日は送れるようになっていた。飯場頭にしても,配下の鉱夫は〈金の卵〉を産む鶏であるから,逃げたり,怠けたりしないかぎりは「懇切周到ナル世話」をすることになる。飯場制度というと,とかく逃亡者に対する残虐なリンチなど暴力的な支配が強調されるが,むしろ労働者を引き留めるには前貸し金や物品の供給・貸与,あるいは賭博などによる債務をつうじての支配が大きな意味をもっていたのである。一方経営側は,直轄制で有れば当然負担せざるをえない労働者の募集費用,新参鉱夫の世話などをすべて飯場頭に委ねることで,経費の節約をはかることができた。
三の第1は出勤率を高めることである。飯場頭は寄宿舎の舎監的存在で,労働者の生活を四六時中チェックし得るから,出役督励は容易であった。しかも配下鉱夫の出役率は〈入坑手数料〉などによって飯場頭の経済的利益と結び付いていたから,彼は熱心に「鉱夫ノ勤惰ヲ監督」した。また飯場頭をつうじて作業の配当(番割り)をすることで,職員の数を減らし,経営の負担を軽減させうることも指摘している。
四は,事業の拡大期に飯場制度が有効なことを指摘している。これは,単に現存する飯場頭により労働力の確保につとめるだけでなく,一定数の配下労働者を確保できる者なら誰でも飯場頭に登用する,という方法で急速な増員が可能であったからである。足尾銅山は,1880年代の急増期に,まさにこの方法で鉱夫を集めたのである。その当時,坑夫飯場を開設するのに必要な最低人員は20人であった。大直利を掘り当て好景気にわいていた足尾銅山に,各地の鉱山やトンネル工事現場から,配下の労働者を引き連れた飯場頭が集まったことは充分考えられる。「生野ヨリ来山直チニ頭役ニ任命(4)」された本山ノ組飯場の十南粂吉の事例は,こうした事態を裏書していよう。また緊急に増員が必要な場合であれば,統率力のある坑夫に募集費用を貸し与え,出身地などから労働者を集めさせて飯場頭とすることもあったであろう。
飯場頭の出自
では,足尾銅山で飯場頭になったのはどのような人びとで,彼らは何処から,どのようにして労働者を集めていたのであろうか。
第1に飯場頭になり得る立場にあったと思われるのは,旧下稼人である。旧稿では,必ずしも明示的にではないが,彼らを飯場頭の源泉の一つに想定していた(5)。それというのも,『古河市兵衛翁伝』が,古河家経営開始当時の状態について「当時の足尾は下稼人の足尾であって,坑主は唯彼等に米噌を給し出銅を買い上ぐる金主たるに過ぎなかった。殊に前坑主の経営末期には僅かながらの直営稼行をも下稼人の手に委ねるに至つたので,操業の実権は全く坑主の手を離れて居た。この旧套を脱して坑主直裁の新容に移る為めには,先づ,新方面の開掘を直営し,漸を追うて下稼人の採掘ヶ所を自分の手に収めて,全山を統一ある経営の下に置かねばならぬ」と述べていたからである(6)。
だが,古河鉱業株式会社の『創業100年史』に下稼人全員の氏名が発表された(7)ことで,この想定は修正を迫られることになった。というのは,これら下稼人の名が,その後判明する限りでの飯場頭の名前の中に一人も見あたらないのである。もっとも,飯場頭の名で判っているのは,1902年,1907年,1908年(8)などで古河が足尾の経営を始めた1877年から四半世紀も経過しており,珪肺などのため平均寿命の短い坑夫の名が残っていなくても不思議ではない。だが問題は,飯場頭職は通常〈株〉として世襲されることが多かったのに,下稼人と飯場頭の間で共通する姓が少ないことである。たとえば,神山姓は下稼人38人中11人の多数を占め,その1人の神山盛弥は41人もの配下を有する有力な下稼人であったが,飯場頭の中には神山姓は1人もいないのである。下稼人と飯場頭の間で共通する姓は斎藤,小林,福田,金子の4つであるが,このうち坑夫飯場の頭役は斎藤だけで,あとは掘子や雑夫の飯場頭である。結局,坑夫飯場の頭役で,引き継ぎ当時の下稼人の子孫であるかも知れないのは,通洞3号の斎藤金蔵だけである(9)。おそらく,古河は意識的に旧借区人時代からの下稼人を排除する政策をとったのであろう。
では,飯場頭はどこから来たのか? かなり後の時代のものであるが,この問にあるていど答えてくれる興味深い調査がある。それは1919年現在の「頭役考課表」で,20人の飯場頭の出身地,前職などが記されている。第2表はそれをもとに作成した表である。
第2表 頭役年齢,前職,出身地等一覧表
組名 | 氏名 | 年齢 | 前職 | 頭役
経験
年数 | 出身地 |
イ組 | O.M. | 49 | 坑夫 | 8年4月 | 新潟県東蒲原郡西鹿瀬村 |
ロ組 | B.Y. | 41 | 坑夫 | 10.2 | 福島県相馬郡小高村 |
ハ組 | A.Z. | 61 | 坑夫 | 22.2 | 福井県大野郡西谷村 |
ニ組 | K.K. | 36 | 坑夫 | 6.2 | 福井県大野郡上庄村 |
ホ組 | A.K. | 29 | 坑夫 | 5.9 | 栃木県上都賀郡足尾町 |
ヘ組 | U.G. | 31 | 坑夫 | 5.9 | 岐阜県吉城郡河合村 |
ヌ組 | Y.K. | 54 | 坑夫 | 26.8 | 石川県能美郡中海村 |
ヨ組 | K.O. | 35 | 坑夫 | 6.2 | 新潟県西蒲原郡森村 |
レ組 | Y.H. | 61 | 坑夫 | 28.8 | 兵庫県朝来郡生野町 |
ナ組 | N.S. | 62 | 坑夫 | 17.2 | 福井県大野郡上庄村 |
ラ組 | S.E. | 47 | 坑夫 | 22.4 | 福井県大野郡西谷村 |
不明 | S.T. | 35 | 坑夫 | 9.2 | 栃木県上都賀郡足尾町 |
ヤ組 | T.I. | 22 | 坑夫 | 0.3 | 栃木県上都賀郡足尾町 |
メ組 | Y.S. | 41 | 坑夫 | 7.1 | 岐阜県大野郡大八賀村 |
半田組 | N.T. | 59 | 鉱夫(飯場帳付) | 22.1 | 福島県伊達郡半田村 |
田村組 | T.S. | 64 | 鉱夫(飯場帳付) | 22.1 | 新潟県南蒲原郡三条村 |
若栗組 | H.I. | 58 | 鉱夫(二類夫) | 22.2 | 富山県下新川郡若栗村 |
吉川組 | F.G. | 33 | 鉱夫(手子) | 2.4 | 福井県足羽郡一条村 |
佐藤組 | S.M. | 53 | 機械夫 | 10.2 | 栃木県上都賀郡足尾町 |
選鉱組 | F.K. | 51 | 鉱夫(飯場取締) | 5.6 | 栃木県下都賀郡赤津村 |
【備考】 1) 大山敷太郎『鉱業労働と親方制度』251,251ページより作成。
2) ハ組頭役は柴又組頭役を,ヨ組頭役は仙六組頭役を,レ組頭役は生野組頭役を兼任。
3) 組名不明ものは,前後関係からウ組(先代頭役は関角謙吉)と推定される。
この資料を発掘された大山敷太郎氏は触れていないが,この調査は本山の,それも坑部課所属半場の頭役だけのものである。組名がイロハ順だったのは本山の坑夫飯場だけで,通洞,小滝は1号,2号といった番号順であった。坑部課所属飯場であることは坑夫飯場だけでなく掘子飯場,選鉱飯場の頭役も含まれていることから分かる。イロハ順の組は坑夫飯場であり,半田組から佐藤組までは掘子飯場,最後の選鉱組はもちろん選鉱飯場である(10)。
まず前職について見よう。坑夫飯場の頭役の前職はすべて坑夫である。1919年の時点では,頭役が作業の指揮・監督にあたることは形式化していたにもかかわらず,全員が坑夫出身であることはやはり注目に値する。一定数の労働者を募集し,確保することが,飯場頭に要求された不可欠の条件であったが,単なる募集人では坑夫飯場の頭役にはなり得なかったのである。まして,作業請負制をともなった坑夫飯場の生成期にあっては,飯場頭は開坑・採鉱作業で配下坑夫を指揮・監督する力量を要求されたに違いない。これに対し,掘子飯場の場合は前職に〈飯場帳付〉や機械夫を含み,ここでは作業の指揮・監督はそれほど大きな意味を持たなかったのであろう。
第2は出身地である。町村レベルまでさがれば,当然のことながら足尾町出身者が4人と全体の2割を占めている。氏名がすべてイニシャルに変えられているので確言はできないが,足尾出身者の多くは親の代からの頭役で,その死か引退にともない後を襲ったものと推定される。彼らがいずれも年齢が29歳,35歳,22歳と,佐藤組のSMの53歳を除き全体に若く,頭役としての経験年数が短いことが,これを裏書きしている。
出身地で注目されるのは,坑夫飯場の頭役14人中4人が福井県大野郡の出身者である点である。大山敷太郎氏は「果してどういう機縁によるかは未詳ながら,この両地域間に何らかの関連を察知させる」としか解説していない。しかし,これにははっきりした理由がある。それは他でもない,古河経営下で足尾再開発の中心となったのは〈越前坑夫〉だったからである。『木村長兵衛伝』はこれについて,つぎのように記録している(11)。
「君〔木村長兵衛〕は本番採鉱革正の為め,草倉より木下潤輔を迎へた。潤輔は輩下の越前坑夫の一党を率ゐて入山した。氏は旧大野藩の士,草倉山大切開鑿の為め市兵衛翁に招じられ大に功のあつた練達の人であつた。その輩下の越前坑夫はいずれも新興草倉の坑内で鎚を揮つた面々であるので,此の一党を迎へた足尾の坑内は俄かに生気横溢たるものがあつた」。
越前大野藩はその領内に面谷鉱山(12)を有し,1832(天保3)年から1871年の廃藩置県まで,藩の直営でこれを経営していた。その後は村民の手で稼行されていたが,経営は不振であった。木下潤輔は,おそらくこの藩営時代からの山師か山留であったと思われる。古河操業以前からの足尾の下稼人がいわば〈外様〉であったとすれば,〈越前坑夫〉の一党は古河の〈直参〉で,市兵衛や木村長兵衛の信頼が厚く,〈別手組〉として古河直営の坑道開鑿などに従事していた。おそらく,下稼人の勢力を抑えようとしたとき,〈越前坑夫〉で統率力のある坑夫はどしどし飯場頭に取り立てられたのであろう。
坑夫飯場で福井県大野郡出身者と足尾町出身者に次ぐのは,岐阜,新潟が各2人,石川,福島,新潟,富山,福井が各1人である。一方,掘子飯場,選鉱飯場の頭役は地元が2人,福島,新潟,富山,福井が各1人となっている。全体に北陸地方の比重が高く,また当然のことながら,鉱山所在地近辺の出身者が多い。すなわち新潟県西鹿瀬村は草倉銅山,岐阜県河合村は天正金山,石川県中海村は原銅山,兵庫県生野町はいうまでもなく生野銀山,福島県半田村は半田銀山の所在地である。坑夫飯場の頭役で,鉱山とのかかわり合いがない土地の出身者は2人だけである。
飯場頭の出身地を知る手がかりが,もう1つある。それは飯場の名である。残念ながら肝心の坑夫飯場はイロハ順か番号順のため役に立たないが,掘子飯場の場合は出身地にかかわる名をつけたものが少なくない。先の表でも半田組,若栗組がそれであった。そこで現在わかっている限りでの飯場名のうち,明らかに頭役の姓を附したものを除き,およそ40の組の名を地名索引(13)で調べてみた。地名と姓と区別がつかないものがあり,また複数の県に存在する地名もあってとても100%確実とはいえないが,一応の参考にはなろう。
栃木県 栃木組,南摩組,楡木組,北条組,田沼組,日光組,水代組,細尾組,鹿沼組,簀子橋組。
新潟県 牛込組,栃堀組,元村組,蒲原組。
福井県 城戸内組,浄教寺組,足羽組。
富山県 下新川組,若栗組。
兵庫県 生野組,銀谷組。
福島県 半田組,津尻組。
埼玉県 大宮組,八甫組。
茨城県 稲荷組,結城組。
石川県 羽昨組。
山梨県 甲州組。
不明 小松川,高島,豊岡,相田,笹又,清島,河内,西岡,本町。
ここでは地元の栃木県が多数を占めているが,新潟,福井,富山の北陸3県が上位に並んでいる。
足尾銅山の労働者募集圏
では,飯場頭らは,どこから労働者を集めて来たのであろうか。さいわいこの疑問に答えるデータが『栃木県史』史料編・近現代九に収録されている。足尾町役場が所蔵する〈入寄留簿〉によって作成された「明治期ノ足尾町ヘノ府県別入寄留者数」である。第3表はこれをもとに作成したものである。
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