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『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史





第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)


T 足尾銅山における賃金水準

1)1880年代の賃金水準

経営内資料の検討

 足尾銅山の賃金に関するデ―タで,今われわれが利用しうる最も早い時期のものは『古河潤吉君伝』に収められている 「明治十六年分砿業景況取調書」と「明治十七年分砿業景況取調書」である。そこには1883年と84年における役員〔職員〕数と彼等に支払った俸給総額が記され,さらに労働者については坑夫,製煉夫,雑役夫の3職種に分け,その人数と平均日給額が記されている。第5表はこれによって作成したものである。ただ,この記録では職種区分がおおまか過ぎるので,他年次との比較には注意を要する。すなわち,ここで〈坑夫〉と呼ばれているのは,採鉱・開坑夫だけでなく,坑内労働者一般を指しているとみられる。なぜなら,同時期の足尾労働者についてより詳しく職種別人員を示している他の資料と照合すると,この人数は過大で,掘子,手子などが含まれているとしか考えられないからである。そうなると,この表の坑夫賃金は狭義の坑夫すなわち開坑・採鉱夫の賃金を下回っているに相違ない。

第5表 足尾銅山従業員賃金
職 種1883年1884年
人数月給日給人数月給日給
役 員 51人13円54銭   (50銭1厘)  112人10円00銭  (37銭)   
坑 夫415人(12円60銭)   52銭5厘1,012人(10円92銭)   45銭5厘
製煉夫202人(12円28銭5厘)45銭5厘  539人(11円47銭5厘)42銭5厘
雑役夫458人( 7円64銭1厘)28銭3厘1,516人( 6円07銭5厘)22銭5厘

【備考】
   1) カッコ内の数字は,比較のために算出した数値。
   2) 役員の日給,製煉夫,雑役夫の月給は1ヵ月27日就労として算出。
   3) 坑夫の月給は,1ヵ月24日就労として算出。
   4) 役員には年俸のほかに賞与の支給があったと思われる。

 そこで,採鉱・開坑夫の賃金がどれほどであったかを,他の資料を使って推計してみよう。それにはまず,1883年と84年について,「砿業景況取調書」が〈坑夫〉として一括した労働者の職種別内訳を推定し,これをもとに坑夫賃金を算出することとしよう。さいわいこの両年については,比較的詳しい職種別の労働者数に関する記録が残っている。すなわち,1883年の職種別数は『鉱業雑誌』第1号の「足尾銅山概況」(3)に記されている。それによれば,同年の初冬において坑夫は330人,運夫(坑内土砂運)は158人,車夫(坑内鉄道車押)18人,計506人である。この職種別比率を「砿業景況取調書」の〈坑夫〉415人にあてはめれば,坑夫271人,運夫(掘子)129人,坑内車夫15人となる。掘子や車夫などの〈坑内運搬夫〉の日給は雑役夫を僅かに上回る水準にあった。同年の雑役夫の平均日給は28銭3厘であったから,掘子や車夫などは30銭前後,高くても35銭程度と見てよい。仮に車夫などが日給30銭であったとすれば,坑夫の日給は64銭5厘となる。もし,前者が35銭であったとすれば,坑夫の平均日給は62銭1厘となる。実際より多少低めと思われるが,後の数値を採用しておこう。

 1884年については,同年8月現在での農商務省鉱山課属の工学士・大原順之助の視察報告「足尾銅山現況」(4)が役にたつ。これによれば,同年8月下旬において坑夫750人,支柱夫50人,掘子300人の計1100人である。この比率を「砿業景況取調書」の〈坑夫〉1012人にあてはめれば,坑夫690人,支柱夫46人,掘子276人となる。同年の雑役夫の日給は22銭5厘であるから,掘子の日給は25銭から多くても30銭程度であったに相違ない。25銭とすれば,坑夫・支柱夫の平均は53銭2厘,30銭とすれば51銭3厘となる。大原の報告では,坑夫の平均日給は50銭,掘子は20銭と記されている。ここでは坑夫・支柱夫の平均日給53銭2厘,掘子25銭として大過ないであろう。
 この他には,宇都宮県立図書館所蔵の〈佐藤家資料〉の中に1880年代の足尾銅山の財務関係の記録があり,その一部は『栃木県史』史料編・近現代九に収録されている。1883年の開坑坑夫は日給1円27銭,85年でも86.25銭と非常な高さである。いずれも予算記録なので,実際に支払われた賃金とは違いがあろう。むしろ,実際の賃金額を示しているのは,『栃木県史』に採録されてはいないが,同じ〈佐藤家資料〉に含まれている「明治十九年自一月至八月八ヶ月間買上砿合計平均表」(5)である。そこには,この期間中に古河が買い上げた鉱石の重量,代価および坑夫の延べ人員が記録されている。これによって算出した坑夫1工あたりの賃金は,本番鉱40銭4厘8毛,過鉱11銭8厘1厘(6)計52銭2厘9毛である。これが1886年の坑夫の平均稼得賃金の実際である。

〈坑夫〉だけでなく,〈製煉夫〉の人員についても,「砿業景況取調書」の数値には問題がある。前出の大原順之助視察報告によれば,製煉作業に従事していたのは熔鉱夫60人,吹夫(鞴人夫)90人,土竈夫54人,焼鉱夫70人,選鉱夫100人の計374人である。「明治十七年分砿業景況取調書」の〈製煉夫〉539人には,製煉夫だけでなく,焼鉱夫,選鉱夫,さらには製煉関係の雑役夫まで含んでいると見られる。当然,その平均日給は,製煉夫だけの場合より低目に出ているに違いない。ただ,この点は後で取り上げることとし,いまは先へ進もう。



 

【注】


(3) 『鉱業雑誌』第1号(《日本鉱業史料集》第1期,明治編4『足尾銅山概況等』に収録)。なお,この記事は『下野新聞』1884年12月29日付に転載された(『栃木県史』史料編・近現代九 8ページ)。

(4) 『工学会誌』第34巻,1884年10月25日,労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻,78〜83ページにこの記録の抄録がある。ただし,『日本労働運動史料』は,この『工学雑誌』の刊行月を1月と誤記している。

(5) 〈佐藤家資料〉は,その内容からみて『古河市兵衛翁伝』『古河潤吉君伝』『木村長兵衛伝』などの筆者であった茂野吉之助が所蔵あるいは保管していたものではないかと推測される。茂野は1906年に東京高等商業学校を出て古河合名に入社した。伝記作家であり,患者の立場からする結核撲滅運動の先駆者であり,前進座の有力な後援者で,かつ俳人でもあったこの異色の実業家については田辺一雄他編『茂野吉之助』(茂野吉之助伝刊行会,1957参照)。

(6) 採鉱夫の賃金は通常〈出来高制〉で,採掘した鉱石の品位と重量に応じて支払われた。ただ,採掘箇所(切羽)の条件によって鉱石の品位,採掘量は大きく異なる。そこで,月2回切羽ごとに予想採掘量を査定し,これを本番鉱と呼んだ。この予想採掘量に達した時に〈本番賃金〉が支払われた。予想採掘量を上回った分については,高い単価で支払われた。これが過鉱である。予想採掘量に達しなかった場合は減額された。なお,〈本番賃金〉とは〈標準日給〉ともいうべきもので,開坑作業など鉱石の採取が見込めず,出来高給をとりえない時には〈本番賃金〉が支払われ,これを〈本番坑夫〉と呼んでいた。



[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年3月4日]

【最終更新:







Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon
The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan
Duke University Press, Dec. 1997

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法政大学大原社会問題研究所            社会政策学会  

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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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