『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
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第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)T 足尾銅山における賃金水準(続き)2)他産業の賃金水準との比較高賃金・短時間労働では,こうした足尾坑夫の賃金が,他産業の労働者賃金と比べ,どれほどの水準にあったかを検討して見よう。対照ために使うのは官営工場の男子労働者(第6表)と大工,石工,鍛冶職,日傭人足の日給である(第7表,第8表)。これらを選んだ理由は,官営工場は足尾に匹敵する大経営であり,大工,石工,鍛冶職は職人中では代表的な高賃金職種であったからである。また石工は坑夫と,大工は支柱夫や坑内外の建設関係の労働者と,鍛冶職は機械や鑚修理の労働者と作業内容や所要熟練度などに共通するところがあるからである。もちろん日傭人足は各種の運搬作業や土木作業に従事する不熟練労働者と対応する。なお,第8表で東京と富山を取り上げたのは,東京は足尾に近い大都会で労働力の確保にあたって競争関係にたった可能性があること,富山は足尾銅山鉱夫の最大の供給地であったからである。
【備考】 『第九回日本帝国統計年鑑』139〜141ページによる。
【備考】
1) 『第八回日本帝国統計年鑑』173〜175ページ。 2) 毎年12月末調べ,食料込みの1日の賃銭。 3) 1884年の数字は各府県統計書の上等・中等・下等賃銭の平均。
【備考】 『日本帝国統計年鑑』第五回,第六回,第七回による。
いずれと比べても足尾銅山の坑夫賃金がかなりの高水準であることが判る。これと肩を並べうるのは,僅かに東京砲兵工廠の労働者と東京の石工だけである。
もちろん労働条件を比較するとなれば,賃金だけでなく労働時間が問題である。しかし,この点でも1880年代の足尾銅山はいちじるしく好条件であった。すなわち坑夫の場合は1日6 時間4 交代制,支柱夫,掘子は8 時間3 交代,選鉱夫などの坑外労働者は10 時間であった(7)。坑夫の6時間は職人の1日拘束10 時間,官営工場の8 時間から10 時間に比べても格段に短い。 足尾視察報告等での検証
先ず,次の2つの報告を見ていただきたい。 「坑夫一人六時間の操業にして賃金平均五十銭,同人足二十銭,鎔鉱夫一人五十銭にして通常職工人足は二十五銭より三十銭とす」。
もう1つは,すでに見た大原順之助の「足尾銅山現況」である。これは1884年8月現在の各職種の賃金を以下のように記している(10)。 「 坑夫(D掘普請坑夫等)賃銭(六時等) 平均 五拾銭 両者とも,いわば第三者による足尾視察報告であるが,ともに「砿業景況取調書」の数字とほぼ一致している。ただ,20銭,25銭,30銭,50銭といった切りの良い数は,これが実際の稼得賃金の平均ではなく,〈標準賃金〉的な数値であることを意味していよう。なお,栃木県の役人や大原順之助が賃金に関するデータを得たのは古河の足尾銅山会所であろうから,数字が一致するのは当然で,裏づけ資料としては弱いと言われるかもしれない。その意味では,つぎの一労働者の証言をより重視すべきであろう。それは他でもない〈足尾暴動の主魁〉として起訴された永岡鶴蔵の自伝「坑夫の生涯」である。彼は1884年2月から,古河市兵衞の経営する草倉銅山で坑夫として働いたのであるが,その時のことをつぎのように述べている(11)。 「労働時間は六時間の者は間切と云ふて一間幾等に掘る方の坑夫である。中には四時間の者もあった。之は急速の場所を掘る時は一日を六交代にして働かす。採鉱と云ふものは三時間三十分づつ二度に午前と午後に働くのである。実際坑夫の働きは一日四時間が適当である。時間斗り長く居ても夫れ以上は働けるものでない。深ひ坑内は往復に時間がかかるから其の割に長くする必要がある。其の頃如何に金が儲かったかと云ふに一ヶ月五十円七十円の収入があるので,なかなか贅沢であって下帯と白足袋が飯場の隅に少しく穢れたのを山の如く捨てあった」。 草倉銅山は市兵衞が主家の小野組倒産後,独立して最初に手がけた鉱山である。そして古河による足尾銅山の再開発の中心になったのは草倉から移ってきた鉱夫の一団であった。したがって,この当時の草倉の労働条件は足尾にもあてはまったであろう。ただし「一ヶ月五十円七十円」という額は余りに多い。しかし,「坑夫の生涯」の叙述の全体的な正確さから見て,単なる誇張ではなく,最高給者の事例であったのではないか。なお,「坑夫の生涯」は,1880年代の坑夫の労働条件が好かったことを,他でも強調している。 「昔日の鉱石を採掘する者は随分威張って居て,金も儲かるし,その近村のものはソラ金掘さんが来たと云ふて尊敬もすれば,娘たちも惚れる。絹布を着て金がある。あるから坑夫は立派な者と思ふて居た」。
この永岡の一連の証言は無視しえない体験の重みを感じさせる。もっとも,これとて反論は可能である。すなわち,永岡が主張したかったのは,暴動時における鉱夫の窮状である。そのため1880年代の鉱夫の状態が美化されたのであろうと。 「我邦の銅山にては,下野国足尾の銅山を以て指を第一に屈す。(中略)工夫〔坑夫〕は目下殆ど三千人にして,採掘時間は一昼夜廿四時間を四分し,六時間毎に工夫を交替せしむ。又工銭は採掘の目方の多寡によるものなるが,良き場所を掘あてたるものは七円,少きものは一円五十銭程なりと。さらば工夫は就業時間中を除くの外は,いずれも美服を着し,金皮時計を持する様は,月俸五六十円の官吏もしくは会社の役員の如く(12)」。 つぎは時代は少し下って1896(明治29)年のものである。筆者は『国民新聞』の記者で,〈下層社会〉の探訪記では,横山源之助の先輩にあたる松原岩五郎,その足尾銅山ルポの1節である。 「この如く住所の汚穢なるを以て,坑夫の生活を直ちに貧人と一様に見るは甚だ誤れり。坑夫は所謂富める貧人にして,活計上に驚くべき奢侈あること想像の外といふべし。蓋し力役労働者の報酬として凡そ坑夫ほど裕かなる賃金を得るものなくして,今こそ左程になきとはいへ,一時鉱山の全盛を極めし時の如きは眇たる一坑夫の身を以て殆んど高等教育をうけたる技師相当の給分を得,山子に特有せる奢りの分限,一時は世の人知らぬ暮しを為したる事さえありしほどなれば,其境界は貧人中の最貧人なれども飲食活計の裕なることは,普通富人のしらざる奢侈にして,平日の境界とは天地雲壌の差ありというべし(13)」。 【注】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
【最終更新:
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Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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