第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)
T 足尾銅山における賃金水準(続き)
4)〈高賃金〉の背景
労働力需要の激増
では1880年代の足尾鉱夫,とりわけ坑夫,製煉夫が相対的に高賃金だったのは何故か,その理由を次に考えてみたい。結論から先に言えば,その最大の理由は,この時期の足尾や草倉における生産規模の急速な拡大にともなう,労働力需要の激増にあった。次に掲げる〈第13表〉に明らかなように,草倉銅山では1870年代後半から80年代前半にかけ,足尾では1880年代を通じてほぼ一貫して,産銅を増加させている。特に83年から85年にかけての両山の産銅量の伸びは著しく,85年などはこの2山だけで全国の銅生産の49%を占めている。この年の産銅量を1877年と比べると,足尾では実に73.6倍,草倉でも11.1倍に達している。
第13表 草倉・足尾産銅量,同対全国比推移(単位:トン,%)
| 草倉銅山 | 足尾銅山 | 全国産銅量 |
産銅量 | 比率 | 産銅量 | 比率 |
1877(明10)年 | 93.2 | 2.4 | 56.1 | 1.4 | 3,942.4 |
1878(明11)年 | 108.6 | 2.6 | 50.1 | 1.2 | 4,256.3 |
1879(明12)年 | 172.5 | 3.7 | 90.9 | 2.0 | 4,630.5 |
1880(明13)年 | 172.9 | 3.8 | 92.3 | 2.0 | 4,609.5 |
1881(明14)年 | 191.0 | 4.1 | 173.5 | 3.7 | 4,669.5 |
1882(明15)年 | 444.1 | 7.9 | 293.3 | 5.2 | 5,616.2 |
1883(明16)年 | 1,016.6 | 15.0 | 653.8 | 9.7 | 6,774.8 |
1884(明17)年 | 1,084.5 | 12.2 | 2,308.4 | 26.0 | 8,888.6 |
1885(明18)年 | 1,031.3 | 9.8 | 4,131.3 | 39.2 | 10,540.8 |
1886(明19)年 | 814.6 | 8.3 | 3,631.1 | 37.1 | 9,774.2 |
1887(明20)年 | 802.2 | 7.3 | 2,980.6 | 26.9 | 11,063.8 |
1888(明21)年 | 650.7 | 4.9 | 2,464.1 | 18.6 | 13,254.4 |
1889(明22)年 | 682.7 | 4.2 | 4,115.7 | 25.3 | 16,254.1 |
1890(明23)年 | 827.6 | 4.6 | 5,844.0 | 32.3 | 18,115.5 |
1891(明24)年 | 612.7 | 3.2 | 6,084.6 | 32.0 | 19,033.1 |
1892(明25)年 | 537.9 | 2.6 | 5,906,6 | 28.5 | 20,726.7 |
【備考】 日本工学会編『明治工業史・鉱業篇』第十一表の一及び第十二表より作成。
このような生産の急増が可能であったのは,両山とも富鉱脈が発見されたからである。さらに,足尾の場合は1884年に本口坑道と二番坑道が貫通し,それまで生産拡大のネックとなっていた通気不良が解消したことが大きかった。もちろん,このような富鉱脈の発見,あるいは通気,排水問題の解決等の背景には,欧米の進んだ鉱業技術の採用があった。火薬,とりわけダイナマイトの使用は,坑道を従来よりはるかに深部まで,しかも短時間で掘鑿することを可能にした。しかし,それと同時に,生産拡大にとって不可欠だったのは,大量の労働力の確保であった。足尾も草倉も,蒸気機関や水車を原動力とするさまざまな機械が導入され始めていた。しかし,これらは砕鉱や熔鉱炉への送風などごく一部に限られ,多くの作業は依然として人力に頼っていたからである。
第14表,15表は草倉および足尾における従業員数の推移を示したものである。草倉の場合は同一資料によっているので問題はないが,足尾の数字は,さまざまな記録から拾い集めたものなので,そのまま統計的な比較が可能なものではない。しかし,おおよその傾向を知ることは出来よう。
第14表 草倉銅山従業員数推移
| 役員 | 坑内使役 | 製煉使役(うち女) | 計 |
1877(明10)年 | 7 | 107 | 55 | (35) | 169 |
1878(明11)年 | 9 | 116 | 55 | (35) | 180 |
1879(明12)年 | 14 | 193 | 90 | (52) | 297 |
1880(明13)年 | 16 | 195 | 116 | (65) | 327 |
1881(明14)年 | 25 | 238 | 141 | (71) | 404 |
1882(明15)年 | 37 | 396 | 255 | (114) | 688 |
1883(明16)年 | 52 | 851 | 490 | (227) | 1,393 |
1884(明17)年 | 62 | 925 | 725 | (295) | 1,712 |
【備考】
1) 原田慎治「草倉銅山記事」『日本鉱業会誌』第15号,1886年5月。
2) 原表の合計数のうち1877年は160,1880年は322,1883年は1,193となっている。誤植か集計上の誤りと考え訂正した。
第15表 足尾銅山従業員数推移
| 役員 | 労働者 | 囚人 |
総数 | 坑夫 | 製煉夫 | 雑役夫 |
1877(明10)年 | | 215 | 120 | | | 50 |
1878(明11)年 | | | | | | |
1879(明12)年 | | | | | | |
1880(明13)年 | | 750 | (371) | (142) | | |
1881(明14)年 | | | (637) | (142) | | 103 |
1882(明15)年 | | | | | | 137 |
1883(明16)年 | 51 | 1,075 | 415 | 202 | 458 | 151 |
1884(明17)年 | 112 | 3,067 | 1,012 | 539 | 1,516 | 187 |
1885(明18)年 | 121 | 3,331 | | | | |
1886(明19)年 | 145 | 4,015 | 1,298 | 398 | 2,319 | 98 |
1887(明20)年 | | 6,781 | | | | 75 |
1888(明21)年 | | 10,529 | | | | 99 |
1889(明22)年 | | 14,092 | | | | |
1890(明23)年 | | 18,535 | | | | |
1891(明24)年 | | 10,188 | | | | |
1892(明25)年 | | 6,138 | | | | |
【備考】
1) 1877年の賃金数は「渡世人数調」(古河鉱業株式会社『創業100年史』58〜59ページによる。同年の囚人数は『古川市兵衛翁伝』追録32ページによる。
2) 1880年の労働者総数『木村長兵衛伝』46ページ。同年および81年の坑夫数,製煉夫数は『日本帝国統計年鑑』第二回,第三回「民行鉱業ノ一」より算出。81年の囚人数は『木村長兵衛伝』47ページ。誤りと考え訂正した。
3) 1882年以降の囚人数は『栃木県統計書』明治19年,20年,21年により,在監延人員の一日平均数。
4) 1883,84年は『古河潤吉君伝』36ページ,42ページ。ただし囚人数を除く(以下同様)。
5) 1885年は『栃木県勧業報告』第27号。
6) 1886年は『日本労務管理年誌』第一編(上)209ページ。
7) 1887年以降の労働者数は『栃木県統計書』各年より算出。1891年以外は延工数を男子1人年305工,女子240工として計算した。
最初に人員が急増したのは1884(明治17)年である。この年,草倉の従業員数は1,712人,役員を除く労働者だけの数では1,650人である。同年,足尾の労働者総数は3,067人,前年の3倍近い増加である。ひとつの事業所の従業員数が1,650人,あるいは3,067人といった数は,現在のわれわれの感覚からすれば,それほど大きなものではない。しかし同年の日本の総人口が3,746万人弱と現在の約3分の1以下であり,しかもその8割は農家人口であったことを考えれば,その大きさが今とは大きく異なっていたことが理解できよう。鉱工業に従事していた人数は正確には把握できないが,『第一次農商務統計表』による全国の「工場職工数」は1万9,181人にすぎない(14)。当時の大経営として誰でも思い浮かべるのは軍工廠であるが,同年末現在,最も多くの労働者を擁していたのは海軍横須賀造船所で,2,478人である。陸軍の所管では東京砲兵工廠の2,094人が最大である。鉱山でいえば,この年に工部省が経営していた非鉄金属5山(佐渡,生野,阿仁,院内,小坂)の労働者数は総計で3,763人である(15)。足尾3,067人,草倉1,650人,計4,717人が如何に大きな数であったかがわかろう。まして前年には両山合わせても2,519人の労働者しかいなかった。つまり1年間で2,372人の増加であった。鉱山労働者の高い移動率(16)を考えれば,1年間に新たに雇い入れた労働者の数は3,000人を上まわったに相違ない。
このように見てくると,1890(明治23)年の足尾銅山の労働者総数1万8,535人にいたっては,ほとんど信じがたい大きさである。同年の官営工場の職工総数は1万88人(17),足尾一山だけで軍工廠をはじめ大蔵省印刷局,富岡製糸所など官営9工場の全労働者数を8,000人も上まわっていたというのである。この1万8,535人という数字は,『栃木県統計書』に〈足尾銅山製銅所〉の職工延べ人員として記載された男子501万7,640人,女子50万人,計551万7,640人を,男子は1人年305工,女子は240工として算出したものである。この平均工数は『鉱夫待遇事例』によったものであるが,仮にこれを男女とも年中無休(18)の365工としても,1万5,117人という大きな数になる。こうなると『栃木県統計書』になんらかの誤りがあることを疑うべきであろう。特に,翌1891年には1万188人,翌々92年には6,138人と減少していることは,この疑いを強くする。私自身は当初,古河がジャ―ディン・マセソンを通じて,フランスの銅シンジケ―トに産銅の一括販売契約を結んだ最終年がこの1890年であり,発電所,運搬用の鉄索の架設,水套式溶鉱炉12座の新設,古河橋鉄橋の架橋という〈四大工事〉を完成させた年でもあるので,生産規模の拡大にともなう増員や,工事関係の労働者を加えれば全くあり得ない数字ではないと考えていた。そしてその後になって,別の資料で,足尾銅山の人員と延べ工数についていちじるしい食い違いがあるのを発見し,延べ工数の方に誤りの可能性もあると考えるようになった(19)。しかし現在では,この人員と延べ工数の食い違いは,つぎの2つの要因によって引き起こされたものであると考えている。すなわち,1)人員の場合は〈常雇い〉だけを計上し,延べ工数は〈臨時雇い〉も含んだ数であること,2)無欠勤者などに対する種々の賞与を工数の〈歩増し〉として支給したこと。したがって,延べ工数の方が,より現実に近い数値であるが,賞与・手当などの〈歩増し〉によって若干の水増し分があるので,1人当りの年間工数を平均より高めに設定すべきであろう。
いずれにせよ,短期間でこうした大量の労働者を集めるためには,どうしても他を上まわる有利な労働条件を提示せざるを得なかったであろう。とくに製煉夫,坑夫など一定の熟練を要する職種の労働者は,未経験者を雇い入れて自山で養成訓練するといったやり方では,とうてい間に合わなかった。しかし,彼等は,特に製煉夫の場合は,その絶対数が全国的にも限られていたから,いきおい高賃金を出し,旅費を貸し与えるなどして,熟練者を他鉱山から引き抜いてこざるを得なかった。そうした事態を裏付ける記録をいくつか紹介しよう。
その1つは「足尾銅山製煉所沿革誌」(20)が伝える〈吹大工〉の不足である。
「抑モ古河氏ノ始メテ当山ヲ経営セラルルニ当リ,其最モ困難セラレタルコトノ一ツハ稼人ノ欠乏是ナリ。然レドモ坑夫ハ幸ニ漸次聚集スルコトヲ得タルモ,製煉夫タル当時ノ吹大工ニハ最モ其不足ニ苦シメルガ如シ,従ッテ是レガ優遇ハ非常ナリシモノニシテ,種々ノ懸賞法ヲ用イ金銭ヲ給シ時ニ酒肴ヲ以テ是レヲ労ヒ,又焼B吹等ニ至リテハ一日六百貫ヲ処理スル時ハ本番賃金五十銭ノ外,酒二升・鯡一把ヲ給シタリ,而シテ此工程ハ割合容易ナリシモノニシテ, 一ヶ月ニ十日分此恩典ヲ得タルモノナリト云フ」。
次は,これまでも度々引用した永岡鶴蔵「坑夫の生涯」である。永岡は1884(明治17)年に兵庫県の生野鉱山から古河の草倉銅山に移ったのであるが,その時の様子を次のように描いている。
「夫れから夫れいと備前備中美作等の各鉱山を巡りて,生野の銀山へ来り後ち,古河市兵衞に雇はれ神戸より横浜へ遠江丸に乗り込み来た。其の当時古河市兵衞という人は坑夫を大切にして,横浜停車場まで役員が迎ひい来て東京日本橋瀬戸物町七番地古河市兵衞と云ふ名刺を各々に渡し,小船町二丁目奥州屋新助と云旅館に宿泊させて大した御馳走であって,三日間の滞在,案内者まで古河氏より付けて東京見物であった。是は〔明治〕十七年二月十二三日の頃で百七十人組であったが上方坑夫は何千人と云ふ程で古河氏に雇はれた。大勢の坑夫は喜んで云ふには,古河さんと云ふ御人は下々の心を能く知る人であるから我々を大切にして呉れる。古河さんのお蔭で我々田舎者が東京が見物出来る,難有々々と云ふて喜んで居た。此云人の為には恩返に精々忠実に働かねばならんと口々に嬉しがって居た。坑夫は吉原で遊び過して,困って居る者が,幾等も古河さんに助けて貰ふた者もある。坑夫は古河さんを親か神様の様に思ふて居た。将たせるかな古河氏が一代にして東洋一の鉱山師となったのは坑夫を大切にしたのが一大原因であると確信する」。
鉱夫争奪をめぐる大論争
1884年といえば草倉銅山の最盛期であり,足尾が人員を1,075人から3,067人に急増させた年である。永岡の証言は,鉱山経営者にとって熟練坑夫の獲得がいかに重要な意味をもっていたか,またそのために,古河が市兵衞を先頭にどれほど力を入れていたかをよく示している。もちろん熟練坑夫の引き抜きは,中国,関西方面だけではなく,足尾や草倉により近い東北や北陸,それに岐阜県などの各地でも行われた。なかでも官営鉱山は,火薬使用など先進技術に熟達した労働者を擁し,労働条件は相対的に低かったから引き抜きの格好の目標となった。この古河対他鉱山の鉱夫引き抜きをめぐる争いは激烈であった。その激しさは,鉱山技術者や鉱山経営者の全国組織,日本鉱業会の機関誌上で展開された大論戦からも窺うことが出来る。
口火を切ったのは宮内省御料局佐渡支庁長心得であり,工科大学教授でもあった渡辺渡である。彼は『日本鉱業会誌』第51号(1889年5月)に「鉱業家須ク徳義ヲ重ズベシ」と題する論稿を寄せ,古河草倉銅山を名指しにして,「坑夫ヲ窃取シ職工ヲ騙誘スルノ卑劣所業」を行う「鼠賊」とまで呼んで,非難したのである。ちなみに,渡辺は労働者争奪の弊害として5点をあげたが,その第1は「給金ノ増加ヲ促ス事」,第2は「諸職工ノ勤続ヲ保セザル事」であった。
早速次号には,当の草倉銅山の坑長・青山金弥と,足尾銅山の3代目坑長で当時は同じ古河が経営する軽井沢鉱山(福島県大沼郡)の坑長であった鈴木誠介がこれに反論した。青山は佐渡に募集人を派遣した事実はないと主張すると同時に「抑モ人ノ生活ハ之ヲ物品器具ト日ヲ同フシテ窃取シ騙誘シテ以テ活用スルヲ得ルモノニアラザルナリ」と〈正論〉を吐いて渡辺を批判し,さらに草倉では坑夫の移動の自由を束縛することは一切していないと強調した。この青山の主張は,明らかに,前年から社会問題となっていた〈高島炭鉱事件〉を意識し,御料局佐渡支庁の鉱夫処遇を攻撃したものであった。また,鈴木誠介は,過去に古河の幸生鉱山が佐渡鉱山局によって「坑夫六十人余を窃取セラレタ」こと,また最近でも軽井沢鉱山で坑夫雑夫が佐渡に引き抜かれたことを指摘して,渡辺に反撃した。
この論争は渡辺の反論,青山・鈴木の再反論,さらに第三者も加わって,数号に及ぶ大論戦となった(21)。この論争自体なかなか面白い内容をもっているが,ここでは省略する。ただこの論争の過程で明らかになったのは,草倉銅山の雇人が佐渡に渡ったところを,かねてから人夫の引き抜きに悩まされ,警戒していた佐渡金山の人夫親方が取り押さえ,〈詫入一書〉をとっていたこと,またこの事件に先立って,佐渡鉱山局は,草倉など周辺の鉱山に対し,「今般当鉱山局ニ於テ規則ニ改正ヲ加ヘ候ニ付,自今佐渡鉱夫ニシテ其他鉱山ニ至ルモ採用無之様致スベシ」との通告を行っていたことであった。佐渡と草倉との間で坑夫,人夫の争奪があったことは確かであり,この争奪戦では,あきらかに労働条件でまさる草倉が佐渡に対し優位に立っていた。佐渡側は,宮内省御料局の権威で周辺の鉱山に通告を発し,あるいは人夫親方の実力行使によって労働者の移動を防ごうとしていたが,実効があがらず,たまりかねた渡辺の投稿となったものであった。
この論争に参加した1人に官営・生野鉱山の栗本廉がいる。彼もまた足尾の坑夫引き抜きの事実を証言している。栗本によれば,生野は交通の便がよく,また坑夫の腕の良さが高く評価されているので「坑夫誘導ノ弊最モ多ク,一時ハ生野市街ニ空舎軒ヲ列ヌルニ至レリト。而シテ其行ク所ヲ穿鑿スレバ何ゾ料ラン十中八九ハ僉ナ足尾銅山ニ在リ………斯ノ如キハ当山ノミナラズ他方ニ於テモ亦然リ。現ニ飛騨地方ニ於テモ余ガ実見ニ忘レザル所アリ」(22)。
不熟練労働者の不足
製煉夫や坑夫のような熟練労働者に比べれば,不熟練労働者は募集上の制約は小さかった。しかし,暗黒の坑内で一度に100キロから200キロもの重荷を背負って運ぶ掘子や,同じく主として坑内で重いトロッコを押す車夫などの坑内労働者は重労働であるだけでなく,地下労働としての特殊性から,その所要労働力量を確保することはたやすくなかった。また,仮に応募者があっても,就職したその日から一人前に働けるわけではなかった。真っ暗闇の中をカンテラのかすかな明りをたよりに,作業現場へ行くだけで一仕事であった。低く狭い坑道を進み,すべりやすい雁木や梯子を昇り降りするのは危険で,落盤や墜落などの事故も多かった。未経験者にとって,どれほど暗黒の坑内が恐ろしいものであったか,数多くの証言がこれを語っている(23)。さらに,歴史的に形成されていた鉱山社会に対する一般社会の根強い偏見は,〈囚人労働〉や〈高島炭鉱事件〉などで増幅されていた。それだけに,坑内作業の希望者は少なく,定着率も低かった。一方,所要労働力量は,当時としては極めて大きかった。これを解決するための方策が〈囚人労働〉であり,〈飯場制度〉であった。これについては第2章とその補論で検討したので,ここでは省略する。
【注】
(14) 相原茂・鮫島龍行編『統計日本経済』(筑摩書房,1971年)74ページ。ただし,この数値の信憑性には問題がある。
(15) 軍工廠,官営工場とも『日本帝国第五統計年鑑』による,153,135ページ。
以上の人員は,前注の鮫島推計をふくめ1年間の延べ労働者数を,各工場,鉱山の営業日数で割ったものである。したがって,これらは営業1日あたりの就業労働者数であり,在籍労働者数はこれを20%前後は上回ったであろう。
(16) 農商務省『鉱夫待遇事例』によれば,足尾銅山鉱夫の移動率は100人につき年間の退山者66人,入山者76.8人である。なお,これは1906年の数字であるから,鉱山労働者の争奪が激しかった1880年代の移動率はこれを上まわったであろう。なお,金属鉱山全体の平均では,退山が年間61.2人,入山は69.6人で足尾より若干低い。
(17) 『日本帝国第十一統計年鑑』第246表より算出。
(18) 実際には,足尾も年中無休ではなく,「全山休業日ハ毎月第一日ト定ム而テ毎年旧盆節季ニハ全山職工ヘ休暇ヲ授ケ」(大原順之助「足尾銅山現況」『工学会誌』第34巻408ページ)ていた。大原順之助が足尾を視察した直前の半年間,1984年1月から6月までの足尾銅山の〈行業日数〉は172日であったから,9日は休業している。仮に鉱山が年中無休であっても,労働者は年中無休ではありえない。
(19) 本章の旧稿「足尾銅山における労資関係の史的分析(2)」(法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』281号,1981年11月)と,金属鉱山研究会での報告(『金属鉱山研究会会報』第27号,1981年3月)では延べ工数によって労働者数を算出したが,後に「原蓄期における鉱山労働者数(上)」(『研究資料月報』289号,1982年9月)において1880〜90年代の鉱業労働者数に関する統計の吟味をおこなった際,1897年以前の栃木県の〈延べ工数〉が労働者数に比し異常に高いことに気付き,足尾銅山の事務担当者が延べ工数を実際の記録によらず,在籍人員を基礎に計算し,その際なんらかの誤りがあったのではないかと推測した。しかし,さらに検討の結果,この人員と延べ工数のくい違いは,一時的なものではなく,その後も,たとえば1912(明治45)年の『本邦鉱業一班』でも,坑夫以外の職種,とくに製煉夫,選鉱夫,坑内運搬夫,坑内雑夫などが450工から535工もの高さであり,足尾銅山全体としても1人当り361工であることから,単なる誤りの可能性はほとんどないと考えるにいたった。本文でも書いたように,賞与・手当を工数の歩増しによっていることは,足尾の延べ工数を大きくしている要因ではあるが,それだけでは,到底説明がつかない。一番大きな要因は,人員については〈常雇〉だけを計上し,延べ工数は,臨時雇用の者を含み,実際に雇用された数であると考えるのが,もっとも合理的であると思う。しかし,今は,まだ材料不足で,ここで確定的な結論を出すことは避け,今後の検討に待ちたい。
(20) 『栃木県史』史料編・近現代九,116ページ。
(21) この論争は単に鉱夫争奪の有無だけでなく,当時の鉱業技術者の労働者に対する多様な見解を反映したものとして興味深いものがある。たとえば,渡辺渡が鉱業家の〈徳義〉を強調し,鉱夫の引き抜きは,賃上げや鉱夫の移動を促進し,また労働者の「怠惰心及欲心ヲ増長セシムルコト」「熟練ヲ遅緩セシムルコト」「風儀ヲ乱スコト」などの弊害があると主張したのに対し,かつて佐渡鉱山の技師であった仙石亮はつぎのような痛烈な質問を提出している。
「我会誌に於て頃日流行の徳義論は其意味高尚にして大いに了解に苦しみ候に付き先以て左ノ件々質問仕度候
1.一鉱山に於て他鉱山に従事し又は居住するのみにて従事せざる工夫を雇入するは徳義に欠くる所ありや
2.賃金の増給或は他の手段を以て工夫(独立の)の雇入上の競争をなすは徳義に悖る所ありや」。
一方,鈴木誠介は,坑夫が「些少請負賃金ニ不適意ナルモノアレバ欠勤ヲ為シ働ヲ為サズ或ハ無頼ヲ為シテ他山ニ遁走ス,其弊亦同盟罷工ヨリ尚ホ甚シ」となげき,坑夫の「無頼ヲ矯正スルノ策」として,「同業家毎年一回地を卜シテ合同シ,坑夫職工使役及取締ノ方法ト賃金ノ正当ヲ議」すことを提唱している。また〈東濃ノ一寒生〉は,ストライキの防止策として「職工ハ撫恤スベシ」と労働者保護を呼びかけている。
(22) 『日本鉱業会誌』第53号(1889年8月)。なお,栗本は1886年6月から1年4ヵ月三井組神岡鉱山の鉱長であった。「飛騨地方ニ於テモ余カ実見ニ忘レザル所アリ」とは,この神岡時代に足尾銅山からの引き抜きにあったことを言うのであろう。もっとも,神岡も反対に1888年の鉱夫大募集の際には,足尾から鉱夫を引き抜いている(三井金属鉱業株式会社『神岡鉱山史』1970年,612,686ページ)。
(23) たとえば,17歳で大和の宗日鉱山に手子として入職した永岡鶴蔵は,最初に入坑した日のことをつぎのように回想している。
「始めて縄の袈裟を掛けたる乞食見た様な風をして,暗黒千仭の坑の中へ這ひたときはそれはそれは怖しかった。何百尺と云ふ深い坑の底でカンテラの燈が見る。坑夫が鉱石を掘る音がコンコンと云ふ音がする。時々発破の音が恐し轟ドーンと云ふ響がする。亦一方には旧式の水引と云ふて坑内の水をあげる音がゴーガタンゴーガタンと云ふ音がしている。亦,通風の為にトンートンーと云音がする。其当時の事を思ひだすさへ何となく恐しく感ずる。私は元商家に奉公して失敗した者であるから始て坑に這った時は恐しくて泣きながら働いた」(「坑夫の生涯」『週刊社会新聞』第38号,1908年3月8日)。
この他,北公輔「足尾銅山坑夫の惨状」(『明治文化全集』社会編〔続〕,日本評論社,1957年),夏目漱石『坑夫』(角川文庫版には,モデルの青年からの〈聞き書き〉も収録されている。なお,こうした文献には鉱山独得の用語についての誤りが少なくない。たとえば,〈坑夫〉は本来,金属鉱山では採鉱夫,開坑夫のみを指す言葉であるが,鉱山労働者一般を指す〈鉱夫〉と音が同じであるため混用されることが多い。夏目漱石の『坑夫』も,北公輔の「足尾銅山坑夫の惨状」も,実際は〈坑夫〉ではなく,坑内で運搬作業などに従事した〈掘子〉の生活を描いたものである。その他にも〈雁木〉を〈段木〉,〈坑部課〉を〈坑夫館〉とするような誤りが少なくない。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年3月7日]
【最終更新:
|