『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
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第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)Ⅱ 選鉱部門における技術進歩と労働の質的・量的変化1)選鉱作業の機械化動力機による砕鉱
まず,動力化,機械化が進んだのは選鉱工程である。1884(明治17)年に洋式の選鉱所が建設されたのである(1)。それまで,足尾銅山の選鉱技術は,金鎚による砕鉱,竹ざるでの選鉱という,はなはだ遅れた水準にあった。これについて足尾銅山会所の「明治十六年分砿業景況取調書」はつぎのように述べている(2)。 「先ヅ粗砿ヲ偏平石塊ノ上ニ置キ,鉄鎚ヲ以テ打砕シ,細粒トナシ,之ヲ笊ニ盛リ,井替(井替ハ,地面ヲ方三尺深貳尺五寸ニ掘リ,木函ヲ埋メ,水ヲ通ジタルモノニシテ,底ニ木鉢ヲ置キ,笊ヨリ漏洩セル粉末砿ヲ受ケシム)ニテ淘汰シ,砿ト石トヲ分チ」。 徳川時代でも,金銀山などであれば,砕鉱には水車を動力とする石臼を使い,精鉱と廃石の選別には〈板取り〉〈ねこ流し〉などが用いられていた(3)。それと比べても,古河が経営を始めたばかりの足尾は遅れた水準にあった。だが翌1884年の「砿業景況取調書」になると,選鉱工程には「砕砿器三基,砕砿輪器一基,水撰砿器十五台ヲ運転シ」ていることが記されている(4)。これらの〈器械〉の動力には,横浜製鉄所で製造された10馬力の蒸気機関が使われた(5)。この新設の洋式選鉱所は坑内で選別された1番粗鉱(品位12%前後)の処理をおこなった。鉱石はまず網目30ミリの篩にかけられ,篩目に残った鉱塊は碎砿器〔クラッシャ―〕で砕かれ,ふたたび篩にかけられた。篩を通った小塊は碎砿輪器〔クラッシングロ―ル〕で粉砕され,これを1ミリから8ミリまで6種類の目をもつ回転篩〔トロムメル〕に次々に通して大きさを揃え,水撰砿器〔ジガ―〕にかけ,精鉱と廃石とを分別した。ジガ―は,鉱石の細粒を入れた木製箱型の篩を水中に入れ,1分間に60回水を振動させる装置で,精鉱は比重が大きいので下層に沈澱し,軽い廃石は上層にたまった。6種もの目をもつ回転篩にかけたのは,比重による選別であるので,大きさを揃える必要があったからである。精鉱と廃石の中間には,再選別を必要とする〈片羽〉〔片端〕が層をなすが,これは旧来の竹ざるを用いた〈ざる揚げ〉法によって処理された。 1885(明治18)年5月,本山に第二選鉱所が建設され,第一選鉱所で生じた鉱滓の再処理を開始した。そこでは第一選鉱所のジガ―や〈ざる揚げ〉で生じた鉱滓をふたたびジガ―を用いて選別し,鉱石を含む〈片羽〉を取り出し,これを鉄製の杵をもつ4座の〈搗鉱器〉〔スタンプ〕でさらに微細な粉末状につき砕いた。この粉末は8基の〈振動汰盤〉〔パ―カッション・テ―ブル〕とジガ―を用いて精鉱と廃泥に分別された。この際生じた〈片羽〉は〈扇舟〉と呼ばれる旧来の道具で再選別された。〈扇舟〉は,その名のように扇状で舟型をした木製の箱で,長さ9尺,上部は幅5寸,下部は幅5尺の大きさであった。この箱に,粉鉱を水とともに流し入れ,鍬状の道具で下部に沈澱した鉱石を繰り返し,繰り返し掻き上げるのである。これによって,重い精鉱は上部に残り,軽い砂は下部にたまり,さらに軽いものは泥水として仕切り板を越えて流れ出る仕組みであった。なお,第二選鉱所の動力としては,14馬力と15馬力の2基の蒸気機関が備えられた(6)。 【注】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
【最終更新:
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Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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