第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)
Ⅱ 選鉱部門における技術進歩と労働の質的・量的変化(続き)
2)補論──鉱毒被害の主原因について
鉱毒被害顕在化の時期
ここで本書のテーマからはずれるが,選鉱部門の技術史に関連する重要な問題なので,ふれておきたいことがある。それは渡良瀬川流域の鉱毒被害の主要原因についてである。従来の足尾鉱毒事件の研究では,足尾銅山が古河の経営に移ってからの産銅量の急増が,鉱毒被害の増大と合致することを一般的に指摘するにとどまり,鉱毒の直接原因を解明する仕事は,まだないように思われる。もちろん,鉱毒を発生させた諸要因はいくつか挙げられている。すなわち廃石や選鉱滓・製煉滓の投棄,あるいは坑内水や選鉱排水,さらには〈たんぱん〉〔硫酸銅〕製造の際の排水など。これらが焼鉱や製煉の排煙などとともに,鉱毒原因となり得ることはもちろんである。しかし,これらの要因が,同じ比重で鉱毒被害をもたらしたとは思えない。たとえば,排煙は松木村や足尾周辺の山林被害の主要因ではあったが,渡良瀬川下流の農地被害の原因としてはさほど大きくないことは確かである。
ここで検討したいのは,鉱毒事件として大きな社会問題となった渡良瀬川流域の農地被害をもたらした主原因についてである。まず問題となるのは,渡良瀬川流域の被害が何時始まったかである。この点で注目されるのは東海林吉郎氏の研究である。氏は,従来の通説が鉱毒被害顕在化の始点を1880(明治13)年としてきたことの誤りを指摘し,1885(明治18)年8月6日,7日の鮎の大量死が,鉱毒被害の最初であることを明らかにされている(7)。
搗鉱器の使用と鉱毒
見逃せないのは,これがまさに第二選鉱所における〈搗鉱器〉の試験操業の開始と同時だったことである。原田慎治「足尾銅山記事」は『日本鉱業会誌』1887年3月号に掲載されたが,記事の内容は1885年8月上旬から中旬にかけて足尾銅山に滞在し,調査したものである。その原田は文中で「予ガ巡見ノ際ハ搗鉱器汰盤据付ヲ完了シテ試験淘汰ヲ施セリ」と記している。この〈搗鉱器〉は,重さ240キロの鉄の杵20本で,これまで廃棄していた第一選鉱所の選鉱滓や低品位鉱を微細な粉末につき砕き,残った鉱分を回収しようとするものであった。その排水は,泥水となって渡良瀬川に放出されたのである。もとより,それ以前にも,第一選鉱所の選鉱廃水には硫酸銅や硫酸鉄など水溶性の有毒物質や微粉鉱が含まれていたに違いない。しかし,クラッシャーやクラッシング・ロールに比べ,〈搗鉱器〉〔スタンプ〕は大量の微粉鉱を生み出し,より高濃度の硫酸銅や硫酸鉄が発生しやすくなった。これが鮎の大量死の原因となったのではなかろうか。
1885年秋以降,第二選鉱所は本格的な操業を始めた。一方,渡良瀬下流の農民が鉱毒を認識し始めるのは1887(明治20)年ころである。1890(明治23)年8月,被害はいっきょに栃木,群馬両県の7郡28村,1,650余町歩に拡大した。このように洪水によって被害地が急激に拡大した事実は,鉱毒の主原因となった有害物質は潅漑用の水に含まれていたというより,洪水によって運ばれた土砂に混じっていたことを意味している。その有害物質とは,主として第二選鉱所の〈搗鉱器〉によって作られた微粉鉱であったのではないか。念のために言えば,坑内水や廃石堆積場の通過水は無毒・無害であったと主張しているのではない。ただ,潅漑用水中の有害物質の絶対量は〈搗鉱器〉が生み出した微粉鉱に比べれば,はるかに少なかったのではないかと考えるのである。
第二選鉱所から廃棄された汚泥水がいかに厖大な量であり,またその中にどれほど多量の銅分が残されていたかは,古河自身が1892年の『米国萬国博覧会出品解説書』につぎのように記している(8)。
「然ルニ第二選鉱所より−−引用者注廃棄シ来リタル右ノ鉱尾ニハ尚ホ幾分ノ銅分ヲ含有スルヲ以テ,今回右等ノ鉱尾ヲ聚収シテ微量ノ銅分ダモ余ス所ナク抽収センガ為メ,一ノ鉱尾採集所ヲ建築シテ左ノ諸機械ヲ装置シ,一昼夜ニ三千六百キロリートルノ鉱尾泥水ヲ処理シ,凡ソ二噸ノ精撰鉱ヲ製出スベキノ計画ニシテ目下之ニ従事セリ(後略)」。
この〈鉱尾採集所〉は1893(明治26)年に本山に新設された第三撰鉱所である。被害農民の強い抗議を受けた足尾銅山が鉱毒対策として新設した施設である。ここで「一昼夜ニ三千六百キロリートルノ鉱尾泥水ヲ処理シ,凡ソ二噸ノ精撰鉱ヲ製出ス」るというのは,第三選鉱所設置前は,毎日ドラム缶1万8,000本分の泥水がそのまま渡良瀬川に流されており,その中に最低2トンの精鉱が含まれていたことを意味している。実際は,後で見るように〈粉鉱採集器〉では鉱分を100%回収することは不可能で,回収率はせいぜい30%であるから,流出した鉱分は1日6トンに達する。しかも,これは本山の選鉱所だけの数字である。1886(明治19)年には小滝に,1888年には通洞にも選鉱所が新たに設置されていた。この3選鉱所から流出した微粉鉱まじりの砂泥が,5年間かかって渡良瀬川の川床にたまり,これが1890年の大洪水でいっきょに下流の田畑を埋めてのである。被害が出なければ不思議であった。
ところで,鉱毒の主要原因が粉鉱にあると考えたのは,もちろん私が最初というわけではない。鉱毒被害を調査した専門家も,足尾銅山の技術者も,そのようにみていた。たとえば,1891年に被害農民の依頼によって被害地を視察した帝国大学医科大学教授の丹波敬三は,「除害ノ策ヲ施行センニハ,一ハ之ヲ本源ニ,他ハ之ヲ未被害地ニ施サヽル可ラズ。即チ本源ナル銅山ニハ粉鉱器ヲ設置スルニアリ,此器ハ百中九十九分ヲ採拾スルヲ得ルモノナレバ,現ニ流出スル銅ヲ百トスルトキハ九十九浚取ルナリ。然ルトキハ流出スルハ百分ノ一ナリ,去レバ田地ニハ万分ノ幾分ト云フ微々タルモノトナル(9)」。
このほか,第一次鉱毒調査委員会において,委員の長岡宗好帝国大学農科大学助教授は洗鉱と水を用いる選鉱の停止を主張し,同じく委員の渡辺渡帝国大学工科大学教授は,足尾銅山の問題点として「鉱石ヲ洗ヒ過ギテ居ル,私ガ見タノデハ即チ其粉鉱ニシ過ル。上等ノ鉱石ヲ粉末ニスルコトガ多過ル」と指摘し,「足尾ノ場合ニハ流下物l〔硫化物〕ノ粉末ニナッタモノヲ水ノ中ニ入レルコトノ量モ減ラサセルト云フコトハドウシテモサセネバナラヌ(10)」と主張しているのである。
足尾銅山の関係者が,鉱毒原因を粉鉱にあるとし,〈粉鉱採集器〉の設置によって鉱毒を解決得ると主張したことは,よく知られている。1893(明治26)年に本山に設けられた第三選鉱所弐は,砂鉱分類函〔サンド・クラシファイアー〕,泥鉱分類函〔スライム・ソーチングボックス〕,三段砂鉱跳汰盤〔ハーツ式ファインサンド・ジガー〕,二重回転淘汰盤〔ダブル・リヴォルヴィング・パッドル〕,渣滓淘汰盤〔エヴァンス式スライムテーブル〕などが備えられ,廃水処理のための沈澱池も設置された。翌94年には小滝選鉱所も増設をおこない,泥鉱淘汰盤などが置かれた。これら,いわゆる〈粉鉱採集器〉の効果について,足尾鉱毒事件の研究者は一般に否定的に評価している。たしかに,〈粉鉱採集器〉は,古河が被害農民との間で示談契約を結んだ際,鉱毒問題解決の決め手のように主張したが,その後も鉱毒被害の発生を防ぎえなかったことが示すように,その効果のほどは疑問がある。実際,1897年の鉱毒予防工事終了直後のデータによれば,砂鉱採集器〔サンド・コレクター〕の回収率は本山で最高80.8%,最低14.1%,平均37.3%,小滝では最高34.5%,最低6%,平均で11.1%にしか過ぎない(11)。しかも,通洞選鉱所には砂鉱採集器は備えられておらず,廃水はそのまま沈澱地に送られていた。明らかに〈砂鉱採集器〉の効果には限界があった。
しかし,沈澱池や濾過池まで含めた鉱毒予防工事全体についてみれば,粉鉱の流出を防ぐ点ではかなりの効果があったと思われる。その根拠は,1902(明治35)年9月8日の〈足尾台風〉による大洪水が1890年や96年とは異なった結果を生んだ事実である。足尾鉱毒事件の研究者も認めるように,この洪水は「鉱毒被害地に新しい土を大量に運び,その結果被害土地の生産性を幾分か回復させ(12)」,「翌1903(明治36)年には豊かな稔りがもららされた(13)」のである。これは,1896年以後は,それ以前にくらべ粉鉱の流出が減少し,渡良瀬川の川床や沿岸に粉鉱を蓄積することが少なかったことを意味していよう。1897年の〈予防工事〉は,ある程度の効果をあげたのではないか。それと同時に,この事実は,1897年以前の鉱毒被害の主要原因が多量の粉鉱の流出にあったことを裏付けている。
【注】
(7) 東海林吉郎「渡良瀬川の沿革と鉱毒の深化」(飯田賢一編『技術の社会史』4,有斐閣,1982年)。
(8) 『栃木県史』史料編・近現代九,45ページ。
(9) 飯田賢一編『技術の社会史』4(有斐閣,1982年)112ページより重引。
(10) 「足尾銅山鉱毒事件調査委員会議事速記録第三号」(『栃木県史』史料編・近現代九,702〜704ページ,712ページ。
(11) J.Kojima " Report on Dressing Work at Ashio Copper Mine "(小島甚太郎『足尾銅山撰鉱報告』,1898年,東京大学工学部金属工学研究科図書室所蔵,PP.159〜160)。
(12) 菅井益郎「足尾鉱毒事件−−日本資本主義確立期の公害問題(下)」 (『公害研究』第3巻第4号,1974年4月)64ページ。
(13) 布川了「鉱毒被害と農民」(飯田賢一編『技術の社会史』4,有斐閣,1982年,135ページ)。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年3月11日]
【最終更新:
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