第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)
Ⅱ 選鉱部門における技術進歩と労働の質的・量的変化(続き)
3)選鉱機械化の影響
選鉱労働者数の推移
ふたたび選鉱所の内部にもどろう。選鉱作業が機械化,動力化されたことは,労働者にどのような影響を及ぼしたであろうか。まず,次の第18表を見ていただきたい。
第18表 足尾銅山選鉱労働者数,能率推移
年次 | 選鉱夫 | 選鉱女 | 計(A) | 1番粗鉱 | 2番粗鉱 | 粗鉱計(B) | 精鉱(C) | 産銅量(D) | B/A | C/A | D/A |
1877(明10) | 0 | 51 | 51 | | | | | 46 | | | 0.9 |
1884(明17) | 100 | ? | ? | 399 | | 399 | 267.9 | 2,286 | | | |
1885(明18) | 75 | 41 | 116 | 375 | | 375 | 457.8 | 4,090 | 3.2 | 3.9 | 35.3 |
1886(明19) | 124 | 151 | 275 | 406 | | 406 | 392.4 | 3,595 | 1.5 | 1.4 | 13.1 |
1895(明28) | 497 | 256 | 753 | 1,190 | 2,130 | 3,320 | 607.6 | 4,898 | 4.4 | 0.8 | 6.5 |
1896(明29) | 588 | 427 | 1,015 | 1,480 | 2,100 | 3,580 | 756.4 | 5,861 | 3.5 | 0.7 | 5.8 |
1898(明31) | 393 | 252 | 645 | | | | 1,128.8 | 5,443 | | 1.8 | 8.4 |
1900(明33) | 435 | 362 | 797 | | | 3,301 | 1,096.3 | 6,077 | 4.1 | 1.4 | 7.6 |
1901(明34) | 496 | 352 | 848 | 1,165 | 3,001 | 4,266 | 1,146.2 | 6,320 | 5.0 | 1.4 | 7.5 |
1902(明35) | 245 | 272 | 517 | 1,159 | 2,757 | 3,951 | 1,185.5 | 6,695 | 7.6 | 2.3 | 12.9 |
1905(明38) | 113 | 302 | 415 | 1,094 | 5,372 | 6,466 | 1,269.1 | 6,577 | 15.6 | 3.1 | 15.8 |
1906(明39) | 301 | 275 | 576 | 1,111 | 5,945 | 7,056 | 1,364.4 | 6,735 | 12.3 | 2.4 | 11.7 |
【備考】
1) 1877年の選鉱夫数は,古河鉱業株式会社『創業100年史』58〜59ページによる。
2) 1884年の選鉱夫数は,『日本労働運動史料』第1巻,82ページ。
3) 1885,86,96年の選鉱夫数は『栃木県史』史料編・近現代九,27,14,491ページ。
4) 1896年の選鉱夫数は小島甚太郎『足尾銅山選鉱報告』による。
5) 1898年の選鉱夫数は,『足尾銅山景況一斑』による。
6) 1900年の選鉱夫数は上山達三『足尾銅山製煉報告』による。
7) 1901,1905年の選鉱夫数は『栃木県史』通史621ページ。
8) 1902年の選鉱夫数は蓮沼叢雲『足尾銅山』による。
9) 1906年の選鉱夫数は『鉱夫待遇事例』による。
10) 粗鉱量,精鉱量の根拠は後掲第36表の備考参照。なお、粗鉱・精鉱量の単位は万貫。
11) 産銅量は『創業100年史』82ページ。単位はトン。
すぐ気がつくのは,1885年の著しい能率の向上である。古河が足尾の経営を引き継いだ1877年当時,労働者は,囚人50人を含め265人,そのうち51人は〈製鉱女〉であった。この頃の1日の出鉱量は250貫前後であるから,〈製鉱女〉1人の平均処理量は僅かに5貫目に過ぎない。もっとも〈製鉱女〉は,坑夫の妻や娘であり,おそらく家事のかたわら作業に従事したであろうし,その職務も選鉱だけではなく,切羽から坑外への鉱石運搬などにも携わったであろうから,選鉱作業だけに専念すればもっと多くの鉱石を処理し得たであろう。それにしても,鉄鎚で鉱石を砕き,竹ざるを使って精鉱を分離するといった方法では,あまり能率があがらなかったに違いない。これに対し,動力を使用した洋式選鉱所は,1885年においてさえ,僅か116人の選鉱夫で1日1万貫以上の粗鉱を処理している。1人当たりの処理量で100貫をこえている。機械化前の約20倍の能率である。このような大幅な能率の向上は,何よりも砕鉱の動力化,機械化によるところが大きい。クラシャ―1基は,1昼夜で3,000貫の鉱石を径30ミリ以下の細鉱にし,クラッシングロ―ルは細鉱1万3,000貫を1昼夜の間に径8ミリ以下に粉砕した。クラッシャ―は4基,クラッシングロ―ルは1基,その操業に必要な人数は,クラッシャ―は1基当たり2人,従って4基1昼夜2交代で16人,クラッシングロ―ルは1基当たり4人,1昼夜では8人であった。ジガ―は手動であったが,選鉱夫1人で500貫を処理しえた。熟練した選鉱婦は〈ざる揚げ〉で120貫を処理した(14)というから,ジガ―はその4倍の能率を上げたわけである。
機械化,動力化にともなう,もう1つの大きな変化は,それまで女子だけが従事していた選鉱作業に,男子が進出したことであった。鉱石を肉眼で見分ける手選鉱やざる揚げは,依然として女子の仕事であった。しかし,機械の運転,保守,鉱石の運搬,装入作業などには,男子労働者が使役された。
ただ,1885年の能率の高さは,こうした説明だけでは理解し得ないものがある。なにより,375万貫の粗鉱を処理して457万8,000貫の精鉱が得られるはずはない。実は,この数字はこの年の熔解精鉱量であって,前年に粗鉱を処理して得たものが含まれているのである。出鉱の急増に製煉能力が追いつかず,84年下期末で92万4142貫が精鉱のまま繰り越されたのである。また,この時期の鉱石品位が高く,選鉱方法もおおまかであったことも,85年,86年の選鉱能率の高さに影響していよう。
80年代後半から90年代なかばにかけては,データがないので,はっきりしたことは分からない。しかし,すでに見たような選鉱部門の機械化の進展にもかかわらず,1880年代後半から1890年代なかばまで選鉱労働者は増え続けている。1885年の116人は翌86年には275人,95年には753人,96年には1,015人と11年の間に10倍にも達している。この間,産銅高は増勢を示してはいるが,選鉱労働者の増加に見合うほどではなく,1人当りの産銅量は減少している。この間,選鉱作業そのものの能率もそれほど上がらず,1人当りの精鉱量はむしろ減少している。だが,この間に機械化,動力化がいっそう進んだことは確かである。ジガ―は手動から動力使用のものに置きかえられ,クラッシャ―等への鉱石装入も部分的ではあるが自動化されている。1884年に10馬力,85年に39馬力であった動力が1892年に200馬力に達している事実が,この間の機械化の進展を明示している(15)。
選鉱所の新増設
では,なぜ選鉱労働者は産銅の伸びより早いテンポで増加し,選鉱作業の能率は上がらなかったのか? いくつか理由はあるが,第1はこの間に選鉱所の新増設が相ついだためである(16)。
1885(明治18)年 本山第二選鉱所設置
86(明治19)年 小滝に選鉱所新設
88(明治21)年 通洞に選鉱所新設
89(明治22)年 通洞選鉱所増設
90(明治23)年 簀子橋に選鉱所新設
91(明治24)年 小滝に第一,第二選鉱所設置
93(明治26)年 本山第三選鉱所設置
小滝,通洞,簀子橋に選鉱所が新設されたのは,足尾全山の探鉱が進み,採鉱箇所が本山地区だけでなく,これらの地域にも広がったためである。粗鉱のまま本山まで運搬するより,主要坑口のそばに選鉱所を設ける方が採算面でも有利であった。もっとも,選鉱所が新増設されたのは,ただ採鉱箇所の拡大だけによるものではなかった。これまでであれば坑内に放置してきた低品位鉱や廃石からも銅分を採取する必要から設けられたものもある。すでに見た本山第二選鉱所,あるいは1891年の小滝第二選鉱所はこれを目的としていた。長期的な鉱山経営の採算を考えれば,当然の設備である。
選鉱所の拡大を必要としたもう1つの理由がある。それは,鉱毒の社会問題化であった。2番粗鉱の選鉱滓から,さらに銅分を抽出し,鉱毒の原因を取り除く必要に迫られたのである。93年の本山第三選鉱所の新設をはじめ,通洞や小滝でもいわゆる〈粉鉱採収器〉の設置など,設備の拡張を行わざるを得なかったのはこのためである。
しかし,選鉱部門の人員増は1896(明治29)年の1015人をピ―クに減少した。当時は,採鉱法が〈抜き掘法〉から〈階段掘〉に移行し,低品位の鉱石の産出量が増大し,選鉱処理の必要な鉱石が急増した時期だけに,この人員減は不思議ではある。考え得る理由はいくつかある。第1は,機械化,動力化のいっそうの進展である。砕鉱,篩別に始まった動力機械の導入は,精鉱・片羽・廃石の分別作業に,さらには鉱石の運搬や砕鉱機械・篩別機械への鉱石の装入作業へと波及していった。また,同じ砕鉱機械,篩別機械,淘汰機械でも,より高能率のものが採用されている。1892年に200馬力であった選鉱部門の動力は1906年には602馬力に達している(17)。
第2に,製煉技術の進歩によって,低品位の精鉱でも処理し得るようになった。それと同時に,洋式熔鉱炉による製煉は,粉鉱を減らし塊鉱の比率を高めることを要求した。また,鉱石を粉砕し過ぎることが鉱毒の原因となることも分かってきた。そうした結果,1番粗鉱は簡単な手選鉱だけでそのまま製煉所に送り,できるだけ砕鉱機にかけないようになり,選鉱部門の作業量は軽減されたのである。さらに1900年代の後半になると,1番粗鉱は全く選鉱せず,そのまま製煉するようになった。これについては,製煉作業について述べる際またとりあげることにしよう。
人的要因
最後に,しかし選鉱能率の向上という点で,無視しえない重要性をもっていたのは,そこで働く人間の問題であろう。洋式選鉱所がつぎつぎと建設されても,それが直ちに充分な能力を発揮し得たわけではない。その操作に習熟するにはかなりの期間を要したに違いないからである。もっとも選鉱作業そのものは,それほど高度な熟練を必要とするものではない。男子労働者の主な作業は,クラッシャ―,トロンメル,ジガ―などの機械に鉱石を投入し,搬出することで,仕事の実質からすれば運搬作業と変わりはなかった。女子労働者が従事した手選鉱,〈ざる揚げ〉なども,長期の習熟期間を要するものではなく,機械の導入によって,その熟練の性質が変化したわけではなかった。
しかし,選鉱所全体の指揮・監督・運営にあたった技術者,さらには機械の運転・保守・修理にたずさわった労働者の知識,経験,能力は重要な意味をもっていた。たとえば,クラッシャーやクラッシング・ロールは硬い鉱石を破砕するという負荷のかかる仕事をする機械であるから,しばしば故障した。ここでの故障は,たちまち工場全体の操業をストップさせ,全体の能率を低下させることになった。故障を減らし,機械の能力をフルに発揮させるには,大事な整備のポイントを知り,装入する鉱石の大きさや量がどれほどであればよいかを知り,異常音などから故障の余兆を早く発見して,しかるべき対策を講ずるといったことが必要である。また,故障が起きた場合は,問題の箇所をすぐに発見し得るか否か,また出来るだけ短時間で適切な修理を施し得るか否かが,工場全体の能率に大きな意味をもっている。
だが,つぎつぎと選鉱所を建設し,新たな機械を導入していた段階では,機械の操作,保守にあたる者,ほとんどすべてが未経験者であり,不熟練者であった。官営鉱山と違って,足尾ではただ1人の外国人技術者も,外国人労働者もいなかった(18)から,すべて自力で,試行錯誤を重ねながら進めて行くほかなかった。こうした所では,仮に機械化・動力化の程度が全く変わらなかったとしても,一定の段階で急速に能率が向上することがあり得る。1900年代の足尾は,まさにそうした段階に入りつつあったと考えられる。
これに関連して見落とすことが出来ないのは,選鉱,機械,電気などの専門技術者の出現である。この点は,別の機会に詳しく検討してみたいが,暴動までの足尾銅山における技術者には,3つの世代がある。第1世代は,鉱山技術を主として実地経験によって学んだ人びとで,開発の初期を担った世代である。なかでも生野鉱山においてコワニーの下で働いた経験をもつていた中江種造は,初期の古河家の〈技師長〉格であった。彼は草倉通洞の開鑿をはじめ,足尾に手押しポンプやハンド・クラッシャー,革鞴を導入するなど,大きな役割をはたしている(19)。
第2世代は,阿仁,院内の払い下げによって古河に入った人びとで,中心は工部大学校鉱山学科の初期の卒業生であった。暴動当時,古河鉱業会社の経営陣の中心にいた近藤陸三郎,小田川全之などがこの世代である。第2世代は,大学出の技術者といっても,大学自体が草創期であったこともあり,また日本の鉱山業の技術水準を反映して,その力は決して高いものではなかった。彼等もまた,鉱山で実地に働きながら学んで技術者となっていった側面が強いと思われる。ただ,第1世代との大きな違いは,外国に留学し,あるいは外国の技術書に学んで,それを日本に導入する能力をもっていたことである。
第3世代は,1890年代の後半に帝国大学工科大学を卒業すると同時に古河へ入った人びとである。彼らは大学教育がしだいに充実し,卒業期には一定の力量を身につけていた。一般に第2世代までは,探鉱,採鉱,選鉱,製煉のすべてについてのオールラウンドの鉱山技術者であったのに対し,第3世代は,すでに採鉱技術者,選鉱技術者,製煉技術者,電気技術者,機械技術者などに専門化していたことも大きな違いであった(20)。第3世代のうち,選鉱部門では,1898年に工科大学採鉱・冶金学科を卒業してすぐ足尾に入った小島甚太郎の存在が重要である。彼は1897年に足尾銅山で選鉱部門を中心に卒業実習をおこない,その報告書と同時に,新選鉱所の建設プランを作成している。1904年に建設された通洞第二選鉱所は小島の設計によるものであるが,これは後年「各機械ノ選択構造ノ外真心棒ノ置キ方,各製品ヲ導ク暗渠ノ配置,床ノ作リ方ナド中々注意ヲ払ッタモノデ,進歩ノ記録ヲ形態ニ残シテヲル(21)」と高く評価されたものであった。注目されるのは,この段階になると,個々の機械の性能だけでなく,工場全体のレイアウトが問題にされていることである。選鉱所は工場自体が一つの装置であり,個々の機械がすぐれていても,その間を結ぶ鉱石,廃石の流れがスムースでなければ,能率は上がらない。こうした点まで認識し,具体化するようになったことが,選鉱処理量の増加にもかかわらず,人員が減少した要因の1つであろう。
【注】
(14) 原田慎治「足尾銅山記事」(『日本鉱業会誌』第25号,『栃木県史』史料編・近現代九, 27ページ)。
(15) 『米国万国博覧会出品解説書』(『栃木県史』史料編・近現代九,44,49ページ)。
(16) 選鉱所の新設,増設については主として渡辺俊雄「本邦ニ於ケル選鉱術ノ沿革大要」(『日本鉱業会誌』第319号,1911年9月,『栃木県史』史料編・近現代九,98〜108ページ所収)により,一部を『古河市兵衛翁伝』等で補充した。
(17) 農商務省鉱山局編『明治三十九年本邦鉱業一班』193ページ。
(18) ただし,ドコビール式レールの敷設にはフランス人デニー・ラリウ,発電所の建設にはドイツのジーメンス電機製造会社々員であるヘルマン・ケスラーや技手ブリュートゲン,あるいは鉄索建設にはアメリカ人ヘイなど外国人技術者の力を借りている(『木村長七自伝』174,226,232〜234ページ)。また,探鉱をアメリカ人L.C.トレントに依頼している(『栃木県史』史料編・近現代九,87ページ)。しかし,日常の操業はほとんど日本人だけでおこなわれた。
(19) 五日会『古河市兵衛翁伝』83ページ, 渡辺渡「足尾銅山と鉱毒問題」(『古河市兵衛翁伝』追録14〜16ページ)。
(20) この両世代の違いは卒業論文のテーマに明瞭に反映している。すなわち1879年卒業の渡辺渡の論文は生野銀山,多田銀山,大阪造幣局,別子銅山,市ノ川鉱山,高島炭鉱などの視察記録であり,1880年卒業の近藤陸三郎の論文のテーマは『日本鉱業の進歩』( Thesis on Guidance to the Progress of Japanese Mine)であるのに対し,1898年卒業の小島甚太郎は『足尾銅山撰鉱報告』および『足尾銅山撰鉱計画』,同年卒の川崎茂太郎は『足尾銅山冶金報告』と『足尾銅山冶金計画』である。
(21) 渡辺俊雄「本邦ニ於ケル選鉱術ノ沿革大要」(『栃木県史』史料編・近現代九,100ページ)。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年3月11日]
【最終更新:
|