第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)
Ⅲ 製煉部門における技術進歩(続き)
2)熔鉱工程
吹床の改良
選鉱・焼鉱にくらべ,熔鉱部門の近代化は一歩遅れた。物理的処理を主とする選鉱,さほどの高温を必要としない焼鉱とちがい,約1,200〜1,300度Cの高温を要し,複雑な化学変化をともなう熔鉱は,技術上の困難がより大きかった。欧米で成果をあげている熔鉱炉をそのままコピ―しても,鉱石の組成や形状が異なる日本で成功するとは限らなかった。炉の形だけでなく,炉材の性質,鉱石や燃料・熔剤の性質,装入物の混合比,装入量と装入方法,風力,風量など工程の成否に影響する多くの要因があり,それらの組み合わせによって複雑な変化が生じたからである。
まず企てられたのは,在来の吹床の改良であった。主として送風具の改良によって,熔鉱量の増大がはかられた。1882(明治15)年,木製の手押し鞴(箱鞴)が足踏みの扇状革鞴に変えられた(8)。これによって従来は1吹きの熔鉱量240貫前後であったものが,300貫から400貫,さらには600貫も処理できるようになった。吹床数も1877(明治10)年の2座から78年3座,82年8座,83年14座と増加している(9)。しかし,1883(明治16)年から84年における出鉱の急増は,その程度の改良や増設で対処できるものではなかった。つぎの第19表は製鉱量(選鉱処理済みの精鉱量)と熔鉱量の推移である。83年下半期以降,未製煉の精鉱量が急増している。とくに84年下半期には前年の年間製鉱量に匹敵する92万4,142貫が次期に繰り越されている。この時点では製煉部門が産銅拡大のネックであり,その拡張は急務であった。
第19表 製鉱量,熔鉱量季別推移
年次 | 前季繰越高 | 当季製鉱高 | 当季熔鉱高 | 次季への繰越高 |
1881(明14)上半季 下半季 | 26,184 | 106,372 | 111,138 | 21,417 |
21,417 | 154,194 | 155,413 | 20,200 |
1882(明15)上半季
下半季 | 20,200 | 168,659 | 175,641 | 13,218 |
13,218 | 161,890 | 170,550 | 4,558 |
1883(明16)上半季
下半季 | 4,558 | 310,004 | 305,562 | 0 |
0 | 696,739 | 482,670 | 214,069 |
1884(明17)上半季
下半季 | 214,069 | 1,280,813 | 947,868 | 547,014 |
547,014 | 2,108,129 | 1,731,001 | 924,142 |
1885(明18)上半季
下半季 | 924,142 | 1,697,080 | 2,559,933 | 61,289 |
61,289 | 2,049,433 | 2,017,884 | 92,838 |
【備考】
『栃木県史』史料編・近現代九 147〜149ページ所収の「明治十四〜十九年鉱物生産・移出重量及割合」表より作成。ただし1881年下半季の製鉱高は同147ページの「明治十四〜十七年鉱物産出高」表により訂正した。
このため,1883年に新製煉所の建設が始まり,翌84年8月には部分的に操業を開始し,同年中にはほぼ完成した(10)。それまでの製煉所は〈本山吹所〉と呼ばれてはいたが,実際は本山を流れる出沢(出川)と呼ばれた小川の沿岸数ヵ所に,ばらばらに設けられた吹床,土竈,焼鉱用反射炉の総称でしかなかった。これに対し,新製煉所は本山の選鉱所から出沢に沿って下ること約1キロ,松木川沿岸の向原に,傾斜地を切り開いて造成した1万余坪の用地に製煉用の諸設備や事務所を配した一大工場であった。製煉所に接した松木川には大きな木橋・直利橋がかけられ,その名をとって〈直利橋製煉所〉と呼ばれた。また,地名をとって〈向原吹所〉とも称された。これが後に〈本山製煉所〉と名を改め,足尾の中央製煉所となったものの始まりである。『古河市兵衛翁伝』には竣工直前と見られる〈直利橋製煉所〉の写真が掲載されている。そこには事務所,工場,倉庫など20棟をこえる建屋が建ちならび,焼鉱用反射炉の大煙突,吹床用の小煙突40本が林立している。
選鉱所と製煉所の間の運搬には,平鉄レールを主に,一部にドコビール(11)を使用して軌道とし,手押しの鉱車が使われた(1885年竣工)。新製煉所で注目されるのは,吹床への送風が動力化されたことである。吹床のうち32座に,8馬力の水車を動力とする送風機(ルーツ・ブロワー)2台が設置された。革鞴による送風では吹床1座,約12時間で600貫の鉱石を熔解するのに3人の鞴押し人夫を要したのに対し,直径25尺の水車は,12時間で900貫を熔解する吹床16座に同時に送風したのである(12)。これによって人手は大幅に節約され,しかも風力・風量の安定によって熔解量を増し,燃料消費を節減した。
だが,水車を動力とすることには難点があった。水車の用水は松木川の上流1.3キロの地点から木製の水路を通して取水したが,冬季には水量が減少して風力が落ちただけでなく,水車が凍結し,製煉がストップするという事態がしばしば起きたのである。そこで,翌85年11月には水車に代えて16馬力の蒸気機関を動力とした。その成績が良好だったので,86年6月には革鞴による送風を続けていた残りの16座の吹床にも,12馬力の蒸気機関を動力とするルーツ式4番送風機を設置した(13)。このように送風を動力化・機械化した吹床を多数設置することで,出鉱量と熔鉱能力のギャップはひとまず埋められたのである。
しかし吹床の改良には限界があった。1回の熔鉱量が少ないこともだが,連続操業ができないことが何より問題であった。また燃料が木炭に限られ,その消費量も多かった。なぜ連続操業が不可能であったかといえば,吹床の内壁の材料が木炭末に粘土を加えた〈スバイ〉であったからである。1吹き(約12時間)で吹床の内壁はすっかり侵食されてしまい,その都度塗り直さなければならなかった。48座の吹床といっても,実際は24座づつ昼夜交代で操業していたのである。連続操業ができれば,炉の数を減らし,したがって炉の操業や補修に要する人員を削減しえることはもちろん,炉の温度を保つことで燃料消費の節減が期待しえた。送風を革鞴からルーツブロワーに代えただけで,鉱石と鈹900貫の熔解に必要な燃料は木炭300貫から,木炭170貫と薪4分の1棚(約60貫)に減少した。しかし,それでも出鉱の増大にともない燃料の確保は困難をきわめた。1884(明治17)年以降,90年代前半まで,足尾銅山における木炭や薪の消費量がいかに莫大なものであったかは,つぎの第20表に明かである。
第20表 足尾銅山年間薪炭消費量及び価格推移
| 薪 | 木炭 | コークス | 石炭 |
消費量 (棚) |
価格 (円.銭.厘) |
消費量 (貫) |
価格 (銭.厘) |
消費量 (貫) |
価格 (銭.厘) |
消費量 (貫) |
価格 (銭.厘) |
1880(明13) | 2,000 | 90.0 | 68,000 | 12.5 | | | | |
1881(明14) | 3,000 | | 175,000 | | | | | |
1882(明15) | 4,000 | | 273,000 | | | | | |
1883(明16) | 6,000 | | 588,000 | | | | | |
1884(明17) | 17,000 | | 1,872,000 | | | | | |
1885(明18) | 22,000 | 1.20.0 | 3,166,000 | 20.0 | | | | |
1888(明21) | 54,000 | | 10,080,000 | | | | | |
1890(明23) | 57,786 | | 6,869,707 | 25.0 | 393,540 | 上74.7
下85.0 | | |
1891(明24) | 47,843 | | 5,408,839 | 30.0 | 352,718 | 85.5 | | |
1892(明25) | 46,479 | | 4,109,076 | | 847,712 | 75.0 | | |
1893(明26) | 40,385 | | 4,078,928 | | 781,151 | | | |
1894(明27) | 41,726 | 1.46.6 | 3,877,738 | 34.6 | 1,039,227 | 73.6 | | |
1895(明28) | 33,811 | 1.61.0 | 3,882,610 | 38.3 | 926,876 | 87.0 | | |
1896(明29) | 32,285 | 2.27.0 | 2,710,295 | 37.3 | 2,907,740 | 82.5 | 194,506 | 44.0 |
1897(明30) | 17,423 | 3.04.0 | 1,784,972 | 47.2 | 2,907,74 | 82.5 | 194,506 | 44.0 |
1898(明31) | 17,083 | 3.27.0 | 1,862,061 | 48.7 | 3,219,086 | 1.03.7 | 586,800 | 50.2 |
1902(明35) | 5,755 | 3.84.0 | 139,799 | 73.0 | 3,239,978 | 97.0 | 199,309 | 46.0 |
【備考】
1) 消費量は1880年から85年までは『木村長兵衛伝』85ページ。88年は『栃木県史』史料編・近現代九,254ページ。95年から98年は農商務省『鉱山発達史』149ページによる。1902年は出縄惟則『足尾銅山冶金報告』29ページ。ばい,88年の数値の信憑性には若干問題がある。
2) 価格は1880年は『栃木県史』史料編・近現代九,111ページ,85年は同書34ページ,90年から92年は同書112ページによる。また、94年以降の価格は上山達三『足尾銅山製煉報告』3ページ,ただし1896年の石炭価格は崎川茂太郎『足尾銅山製煉報告』32ページによる。1902年は出縄維則『足尾銅山冶金報告』35ページ。
ピーク時の1888(明治21)年には,1日の所要量が2万8,000貫前後に達している。これだけの木炭を調達するのはどれほど困難であるかを,1885年頃足尾の〈山林方〉をつとめた佐藤貞三は,つぎのように語っている(14)。
「明治十八年十九年と横間歩大直利の極点に達し年産銅六百万斤熔鉱炉四十八座を設備するに至った当時は,坑所使用木炭毎日一万貫を要することヽなって炭焼きに大狼狽を来しました。何分毎日一万貫の木炭を出すには炭釜七百座を要しますが,第一には炭焼夫が容易に雇入出来ず第二に炭釜が速急に間に合ひません。夫にも不拘,鉱長さんは熔鉱炉維持が困難であるからとて私の傍に附きづめで叱りつけられまして,時には全く鉱長さんの傍へは寄り付けない様なこともありました。夫れで炭焼夫雇入れに越後や伊豆に出掛け,また炭釜が間に合わぬので神子内の他人の地所に大穴を掘って附近の立木を伐り倒して穴に詰め込み火を点けて消し炭の如き木炭で一時を間に合わせたこともありましたが,夫でも昨日は五炉休業したとか,今日は又十炉休んだとかで鉱長さんの叱り方憤り方は一通りではありませんでした。愈々細尾峠から群馬県の強戸迄の五里,七里ある広汎なる区域の彼方此方に亙って七百座の炭釜を据付け,人夫も揃って一日九千貫一万貫の木炭製造可能となったときは,其運搬と貯蔵場が大問題となって入れ場に困り,沢入などでは野天で木炭を山積にして置いたから相当盗難にも遭ひました」。
洋式熔鉱炉の導入実験
一日1万貫でこの騒ぎである。ジャ―ディン・マセソン商会と産銅一括契約を結んでいた1888年から1890年では,一日の木炭所要量は2万貫から3万貫にも達している。薪炭価格の上昇は当然であった。また,年々薪炭の生産地は遠隔化せざるを得ず,輸送手段の改善をはからぬ限り,運搬コストの逓増もさけ難かった。しかも1884年以降,銅価は低落傾向をたどっていた。これは主としてアメリカにおける製煉法の進歩がもたらしたコスト削減,産銅増大の影響によるものであった(15)。将来を考えれば,洋式熔鉱炉を導入して,木炭からコークスへの燃料転換をはかり,またその消費量を節減することは急務であった。
1886年10月,足尾銅山における最初の洋式熔鉱炉の建設が始まった。その指揮をとったのは,前年,阿仁銅山の払い下げとともに古河に入った末松他三郎(16)である。阿仁鉱山製煉課長として洋式熔鉱炉の建設,操業にたずさわった経験を買われ,足尾銅山製煉課長に起用されたのである。末松が足尾に導入したのは,アメリカ製の水套(ウォーター・ジャケット)式円形熔鉱炉で,炉の内径は1メートル,羽口の数は6であった。煉瓦製の熔鉱炉による製煉では,煉瓦中の珪酸がスラグ内の酸化鉄と反応して炉壁を侵食するという難点があった。これを解決したのが水套式熔鉱炉で,二重の鉄板のブロックを連結して炉壁をつくり,鉄板の間に冷却水を循環させる方式である。1875年に発明されたばかりの,この最新式の熔鉱炉を足尾はその12年後に設置したのである。1887(明治20)年3月,新型炉の据え付けは完成し,これも阿仁から連れてきた製煉夫の手で試験操業が始まった。だが,この熔鉱炉も末松も不運であった。操業開始直後の87年4月8日,松木村の山林から発した火は足尾の町を焼く大火となり,〈直利橋製煉所〉も全焼し,水套式熔鉱炉は「漏水ノ場所ヲ生ジ」「廃物(17)」となってしまったのである。
末松は直ちに旧型の吹床40座を再建して,製煉作業を継続すると同時に,新たにピルツ式熔鉱炉3座を新設した。ピルツ式熔鉱炉は,末松が工部省鉱山寮技術見習生として鉱山学の手ほどきを受けたゴッドフレー(G. G. H. Godfrey)推奨の熔鉱炉で,阿仁銅山時代に操業の経験がある炉であった(18)。工部大学校の卒業生で組織された工学会の機関誌『工学叢誌』の第7号(1881年6月)に,佐渡鉱山在勤の足立太郎が,ゴッドフレーから送られたピルツ炉の詳細図と英文仕様書を紹介しており,おそらく末松はこれによって建造したものであろう。
これは円筒形の高炉で,羽口付近の熔解部の一部を水套式とし,あとは炉底,内壁すべてを耐火煉瓦で作り,外壁はすべて鉄製であった。この炉の特色はなりよりもその炉高の高さにあり,基盤から炉頂まで28フィート(8メートル53センチ),羽口レベルから炉頂まででも24フィート(7メートル32センチ)もあった。
だが,このピルツ炉の導入は不成功に終った。なぜなら,この炉は,紹介者の足立太郎も明記しているように,「鉛鉱ノ熔解ニハ最第一ノ名誉ヲ得タル」ものであった。融点が摂氏327度4分の鉛に最適の炉が,1083度でなければ熔解しない銅を製煉するのに適切であったとは思えない。さらに問題だったのは,足尾の場合,選鉱の過程で,鉱石を粉砕して精鉱を分離したため,粉鉱(径3厘=0.9ミリ以下)や粒鉱(径2分5厘=7.6ミリ以下)の占める比率が,それぞれ46.1%,30.7%と高かったことである(19)。旧来の吹床なら粉鉱の方が熔解し易すかったが,ピルツ炉のような炉高の高い炉では,粉鉱はすぐ炉内に詰まってしまい,送風困難となった。『足尾銅山製錬所沿革誌』も,末松のピルツ炉失敗の理由を,「其直径ノ大ナルニ比シ,送風機ハ過小ニシテ元ヨリ所要ノ風圧ヲ得ベクモアラズ」,「装入物ノ高キニ過キ一層通風ヲ防遏スベキを以テ(20)」と記している。
末松のあとを引き継ぎ,足尾における洋式製煉導入の中心となったのは塩野門之助(21)である。塩野は古河の競争相手である住友が育てた人材で,当時の日本ではトップレベルの製煉技術者であった。別子銅山の技師長として新居浜惣開製錬所の建設にあたっていたが,その完成に先立つ1887(明治20)年,住友総理の広瀬宰平と衝突して退職し,友人の福岡健良(古河・本所熔銅所長)の推挙で足尾銅山に入ったのである。この塩野に,足尾の責任者であった木村長兵衛はピルツ炉の改造を命じた。後年の回想で塩野はつぎのように語っている(22)。
「独逸の如き拳大の塊鉱製煉にはピルツ炉は或は可なるも,足尾の如き選鉱して大部分は粉粒鉱を処理する処では,ピルツ炉は高きに過ぎて不向であるのを米国で見て来て居るので,この改造は容易でない。殊に末松君の失敗した炉だから困るとて大いに談じ込んだのですが,長兵衛さんは中々承知せられぬのです。『それならうまく行くかどうか疑問だがやって見ませう』とて取掛り,四五ヶ月で五尺の高炉を三尺の高さに縮め甚だ不十分ながら幾分米国式に改造したのですが,送風機其他も不完全であり,且鉱石も不純分が多く熔解困難な含有物が多いのと,熟練した職工もなく仕事に馴れないので成績良く参りませんでした」。
洋式熔鉱炉導入に成功
塩野はアメリカ式の長方形水套式熔鉱炉の実験を希望したが,長兵衛はこれを認めなかった。現場たたき上げの鉱長は,学校出の技術者を信用していなかっただけでなく,末松のあいつぐ失敗があり,さらに大火事で製煉所を全焼させた上に,銅価の低迷によって資金面での余裕がなかったことも,新たな実験をためらわせた理由の一つであったと推測される(23)。88年4月,塩野は在山半年余で足尾を去った。だが,間もなく木村長兵衛が急死し,古河がジャーディン・マセソン商会との間で産銅一括販売契約を結び,資金面での裏付けを得たため,問題は解決した。同年秋,塩野はふたたび足尾に戻り,小滝で一部水套式長方形熔鉱炉の実験を開始する。
その結果が比較的良好であったので,1890(明治23)3月から本山の直利橋製煉所の旧型炉を一部水套式長方形熔鉱炉に置きかえ始め,同年12月までに旧型吹床およびピルツ炉は全廃された。塩野が新設した熔鉱炉は羽口から炉頂までの高さが2メートル20センチ,羽口面での大きさは内法で150センチ×80センチ,羽口数は長辺側に各4,短辺側に各2の計12であった。羽口付近の熔解部のみ水套式で,外壁は鉄板,内壁は耐火煉瓦製である。後には炉底や炉頂部には耐火煉瓦の代わりに石英粗面岩のブロックが使われた。この一部水套式長方形熔鉱炉は,本山に8座,小滝に4座が設置された。各炉は1昼夜に2700貫から3000貫の鉱石および鈹を熔解した(24)。動力送風機付き吹床の3倍余の能力であるが,吹床と違い連続操業が可能であったから,実質的には6倍以上の能力であった。洋式熔鉱炉の導入によって,燃料消費は節減され,木炭からコークスへの燃料転換も進んだ。1890年には精鉱100貫を荒銅に仕上げるのに必要な木炭とコークスは112貫であったが,翌91年には80貫弱に減少している。
塩野の成功は何によるものであったか。この疑問に対し、直接答えてくれる資料は残っていない。しかし,ある程度の推測は可能である。これまで言われてきたのは,それが水套式熔鉱炉であり,これによって炉壁の侵食問題が解決し,連続操業が可能になったからだというのである(25)。水套は鉄製のブロックを組み合わせて作られており,部分的に交換が可能であった。その交換に要する時間も1時間弱と短かった。水套の耐久製も長く,鋳鉄製であれば238日,錬鉄製の場合は715日にも達している(26)。しかし,すでに見てきたように,失敗に終ったピルツ炉も一部水套式であり,これだけでは説明がつかない。
第2は,送風機の能力のアップである。1886年では送風機用の動力は28馬力でしかなかったが,89年7月には80馬力のタービンが据え付けられ,さらに92年現在では,製煉用の動力は250馬力に達している(27)。末松のピルツ炉失敗の原因の1つが送風機の能力不足にあったことを考えれば,この要因は決して小さなものではなかった。
第3,しかし,送風機の出力を増しさえすれば,洋式製煉は成功するというわけではない。問題は粉鉱の処理であった。炉体の長高な洋式高炉では,風力が弱ければ粉鉱はすぐに詰まってしまい,熔鉱に必要な温度が得られなかった。だからといって,ただ風力を強くすれば,粉鉱は舞い上がって煙灰となりロスが多くなる。そこで,これを解決するためにとられたのが,粉鉱に粘結材を加え,煉瓦状あるいは炭団状に成型したした上で焼き固める方法であった。何時からこの方法が採用されたか明かではないが,1892年5月の「米国万国博覧会出品解説書」には,「粉末鉱は粘土を調合シ煉瓦型ニテ打出シ陶器竈ニテ之ヲ焼鉱ス(28)」と記されており,91年の塩野の水套式熔鉱炉への転換とほぼ同時であったと思われる。ただし,粉鉱の処理はこれで完全に解決したわけではなく,その後も粘結材として粘土の代わりに選鉱過程での沈澱物を用いたり,さらにはこれに焼石灰を加えたり,あるいは粉鉱を炭団状にしたものの周囲を熔けた鈹や鍰〔製煉滓=スラッグ〕で包みこむ方法,あるいは熔けた鈹や鍰の中に粉鉱を混ぜ込む方法など,さまざまな試みがなされた(29)。しかし,どの方法でも満足な結果は得られず,その一応の解決は1900年代後半の圧結法やポット焼結法の導入までもちこされた。とはいえ,この時期では,粉鉱を煉瓦状に成型したことが,洋式熔鉱炉の成功を可能にした一因であったと思われる。
第4に,1887年頃,洋式熔鉱炉の実験開始と同時に,熔剤として石灰石を用いるようになったことも見落とせない。石灰石は鍰の流動性を増し,銅分の損失を防いだだけでなく,炉内の通風をよくする効果もあげたのである。
【注】
(8) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』64ページ。 なお,「足尾銅山製煉所沿革」(『栃木県史』史料編・近現代九,109ページには,「送風ハ〔明治〕十二年ニ至ル迄ハ吹子ヲ用ヒ,十三年に至リ踏鞴ヲ用ヰタリ」とある。しかし,古河にこの足踏み式革鞴の仕様を教えた渡辺渡の回想があり(『古河市兵衛翁伝』追録15〜16ページ),古河家との最初の接触は「明治十四年頃,私が助教授でまだ一ツ橋の大学に行って居る頃」であり,はじめは手押しポンプ,つぎにハンドクラッシャーについて教え,革鞴はその後のことであると記しているので,『木村長兵衛伝』の明治15年説をとった。1880年では,渡辺渡はまだ准助教である(『細倉鉱山事業意見』日本鉱業史料集第1期明治篇(3)の葉賀七三男解説参照)。
(9)「足尾銅山製煉所沿革」(『栃木県史』史料編・近現代九,109ページ)。
(10)五日会『古河市兵衛翁伝』136ページおよび同書所収の第12図の説明文では,1884(明治17)年8月操業開始と記す一方,「足尾銅山製煉所沿革」では1885年上季竣工となっており(『栃木県史』史料編・近現代九,110ページ),両者の記述はくい違いをみせている。 『古河市兵衛翁伝』では,1884年8月の「出銅高は本山二十一万斤,直利橋十三万斤であったが,漸次に分工場の規模を拡張して,終に本山吹所を廃した」とはっきり直利橋分工場の産銅高を記しており,この月に操業しているのは明かである。しかし,ちょうど1884年8月下旬に足尾銅山を視察した大原順之助の報告「足尾銅山現況」によれば,その時点で,新製煉所は完成していない。また新製煉所の最新設備であるルーツブロワーが設置されたのは1884年11月のことであった(田代苗臣「足尾銅山点検報告」『日本鉱業会誌』第18号,1886年8月)。そこで,本文のように「84年8月部分操業開始,同年中にほぼ完成」とした。
なお,大原順之助の報告は,その大部分が労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻に収録されているが,肝心の〈新製煉所計画〉の部分は削られている。新製煉所建設の時点で,その計画を詳しく伝えている貴重な記録なので,ここで紹介しておきたい。句読点を加え,明白な誤植は訂正した。
「新製煉所計画
当山ノ鉱業駸々トシテ日ニ月ニ隆盛ニ赴クニ随ヒ,従来ノ焙焼炉及鎔鉱炉ニテハ相互ノ位置不便ニシテ,員数亦タ足ラズ。為ニ製鉱ノ業,採鉱ノ業ト並進ム能ハザレバ,字向ヶ原,即チ会所ヨリ渓流ヲ下ル事凡ソ五丁,銅山川ノ右岸ニ於テ規模広大ナル製煉所ヲ新設ス。未ダ全ク成就セズト雖ドモ,総経費凡ソ五萬円ナリトス。此ニ建設スベキハ鉱石貯蔵所,一日二千四百貫ノ鉱石ヲ焙焼スベキ焙焼炉六座,冷鉱室二棟,日本式鎔鉱炉三十二座及ビ焙焼炉ノ為ニ設ル煙突(内法四尺四方)等トス。却説,会所ノ側ナル精鉱処ヨリ鉱石貯蔵所マデ,山腹ニ沿ヒ軽便鉄道ヲ敷設シテ精鉱ヲ運輸ス。又タ貯蔵所ヨリ焙焼炉鉱石装入口マデ條鉄ヲ敷設ス。酸焼シタル鉱石ハ冷鉱室ニ送ル。焙焼炉ヨリ該室ニ至ルマデ隧道アリテ,又軌鉄ヲ敷ク。冷鉱室ノ下鄰ニ三拾二座ノ鎔鉱炉ヲ造リ,冷鉱室ヨリ各鎔鉱炉ノ背部ヘ鉄路ヲ延シ,運搬ヲ便ニス。
鎔鉱室ハ四棟ニシテ,一棟中八座ノ鎔鉱炉ヲ造ル。炉ハ各二尺五寸四方,深二尺五寸ノ凹形ヲ有シ,渾テ炭灰ヲ以テ炉辺ヲ固メ,一日鉱石六百貫目ヲ熔解スルモノトス。送風ニハ鞴ニ代ルニルーツ式送風器二個ヲ以テセントス。送風ノ量ハ毎分凡ソ三千立方尺ニシテ,圧力ハ水銀柱四分一時トス。送風管ハ鉄製ヲ用ユ。
送風器ヲ運転スルハ,普通木製水車ノ力ニ藉ル。用水ハ銅山川ニ遡ル事約十二丁ノ水源ヨリ導キ,一分時毎ニ凡六百立方尺ヲ得ベキ計算ナリト云。水車ハ径三十尺,幅3尺ニシテ,一分時二十回ノ旋転ヲ為ス。昼夜鎔鉱ノ業ヲ停止セザル為,三十二座ノ炉中半数,即チ十六座宛,交モ相交テ其業ヲ操ル。此ニ於テカ,送風器ノ運転モ徒ニ休止スル事莫シ」(『工学会誌』第34巻,1884年10月)。
計画段階では,吹床は48座でなく32座であったこと,吹床1座の熔鉱能力を1日900貫でなく600貫と見積っていたこと,また水車の直径は25尺でなく30尺としていたことなど,『市兵衛翁伝』などとかなり相違がある。しかし何よりこの叙述で強く印象づけられるのは,この製煉所の建設にあたって選鉱所→鉱石貯蔵所→焙焼炉(反射炉)→冷鉱室→鎔鉱炉という,鉱石の流れを配慮したレイアウトがなされ,その間を軌道によって結び運搬の便をはかっていることである。
(11) ドコビールとは,フランス人ポール・ドコヴィール(1846〜1922)が発明したポータブル軌道のことである(臼井茂信「DECAUVILLE(ドコビール)小史」,『鉄道ファン』1970年9月号参照)。一部にこれを汽車あるいは電車と誤解している例があるので念のため。もちろんドコビールの上に電車や汽車を走らせることは出来るが,この段階ではまだ動力は使用していない。平坦な部分は人力で押し,斜面では複線の両端で,ケーブルカー同様に2台の鉱車をワイヤー・ロープで結び,実車の重力を利用して空車を引き上げたのである(「栃木県下足尾銅山点検報告」『栃木県史』史料編・近現代九,18ページ)。
(12) 「明治十七年砿業景況取調書」(五日会『古河潤吉君伝』所収,41ページ。
(13) 「栃木県下足尾銅山点検報告」(『栃木県史』史料編・近現代九,19〜20ページ)。
(14) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇36〜37ページ。
(15) 巌谷立太郎「銅価下落ノ原因」(『日本鉱業会誌』第6号,1885年8月)参照。
(16) 末松他三郎は旧姓を笹木といい,越前の出身である。1873(明治6)年に工部省鉱山寮が第1回の技術見習生10人を採用した中の1人で,〈お雇い外人〉のゴッドフレイ(鉱山寮技師長,イギリス人)やネットー(鉱山寮鉱山師兼製鉱師,ドイツ人)らから速成の教育を受け,官営鉱山の技術スタッフとして現場で訓練された。大葛金山,小坂鉱山,阿仁鉱山で働いた。阿仁鉱山の古河払い下げに際し,これに反対する建白書を工部省に提出したことが『工部省沿革報告』に記されている(同書127ページ)。工部省に籍を残し(1885年12月工部省廃止後は大蔵省),休職の形で古河に入った。足尾退山後は,すぐ三井組に招かれて神岡鉱山の鉱長となり,1899(明治32)年まで在任した。なお,「足尾銅山製煉所沿革」は末松の足尾退山を1888年2月としている(『栃木県史』史料編・近現代九,111ページ)。しかし,末松は1887年11月26日付で三井組との間で神岡鉱長に就任するとの〈約定書〉を取り交わしており,末松の足尾退山は87年11月以前のことであろう(三井金属鉱業株式会社『神岡鉱山史』687ページ)。
(17) 的場中「足尾銅山近況」(『日本鉱業会誌』第38号,1888年4月),および「足尾銅山製煉所沿革」(『栃木県史』史料編・近現代九,111ページ)。
(18) 『工部省沿革報告』の鉱山課の明治15年3月20日の項に,清国政府から日本の銅山に関する質問があったことへの回答として,つぎのように記している。「而シテ阿仁ノ採鉱一日二拾四噸ニシテ純銅凡ソ一割二分ヲ製出ス。製鉱法ハ欧州ノ新法ヲ用ヰ『ピルツ炉』ヲ装置セリ。『ピルツ』風吹器ハ英国製ヲ用ヰ,馬力ハ二拾五ニシテ一日石炭凡一噸半ヲ費用ス」(同書65ページ)。また阿仁銅山の項に,「小砿炉二座及ヒ『ピルツ』炉一座ヲ新置ス」(同書125ページ)とある。しかし,この阿仁銅山のピルツ炉も決して成功したわけでなかったことは,阿仁の引き継ぎにあたった木村長七の自伝のつぎのような記述からもうかがえる。
「今林氏〔永太郎,官営阿仁鉱山技師──引用者〕は製煉が高炉に依って居りますから仕上りが高くなり,引合はぬ故,之を旧吹に改めるが得策であらうと建議されまして,実沢氏〔古河家代理人〕も賛意を表して居りましたが,私は折角高炉を用ひて居るのに之を旧吹に退却せしむるは遺憾であり,且つ将来旧吹きでは迚も発展の見込みがないと思つたものですから高炉維持説を主張致し,唯経費を削減する方法を講究する事にしました」 (『木村長七自伝』192ページ)。
(19) 高岩安太郎『足尾銅山景況一班』23ページ。
(20) 『栃木県史』史料編・近現代九,111ページ。
(21) 塩野門之助は,1874(明治7)年,フランス人ルイ・ラロックの通訳として住友に入った。76年,住友家最初の海外留学生に選ばれ,約6年間,主としてフランスのサン・テチュンヌ鉱山学校に学び,同校を4番の成績で卒業した。1881(明治14)年末に帰国すると,29歳の若さで別子銅山技師長となり,新居浜惣開での洋式製煉所建設の中心となった。また,それに先だって,当時,銅製煉の先進国であったアメリカにも赴き,その実情を視察している。足尾で洋式熔鉱炉,さらにはベセマー転炉の導入に成功した後,1895(明治28)年に招かれて別子に戻り,四阪島製煉所の建設に当たった。
(22) 茂野吉之助『木村長兵衛伝』追憶篇44〜45ページ。なお,この塩野の回想のうち,ピルツ炉改造に関する部分で「五尺の高炉を三尺の高さに縮め」とあるのは,「5メートルを3メートルに」の誤りであろう。ピルツ炉の改造については,的場中が『日本鉱業会誌』第38号(1888年4月)に寄せた「足尾銅山近況」によれば,「先年築造セシピルツ高炉ハ内床ナリシヲ前床ニ替ヘ目下又少々造リ替ヘ中ニテ何種ノ熔鉱炉ガ同山ニ適スベキヤ,未タ試験中ニナラズト云フ」とある。この的場の報告で塩野がピルツ炉を〈前床〉に改めたことがわかる。おそらく塩野は自身の設計で別子同山の惣開製煉所で建設中であった〈前坩堝ヲフマン炉〉に近いものに改造したのであろう。〈前坩堝ヲフマン炉〉については『日本鉱業会誌』第29号(1887年7月)の塩野門之助「別子同山新設熔鉱炉の説」参照。
(23) 〈直利橋製煉所〉建設の当初予算は5万円であった(本節注55に紹介した大原順之助「足尾銅山現況」参照)。しかし,吹床の増設,アメリカ式熔鉱炉の建設,水車を蒸気機関へ代えたことなどで,実際の経費はこれを上回ったであろう。これが火災で全焼したうえに,失敗に終ったピルツ炉の建設費は,建家まで含め1座1万5,000円であった(足立太郎による佐渡での試算)。3座では5万円近い経費がかかったわけである。
(24) はじめ,熔鉱炉1座の製煉能力は1昼夜で鉱石5,000貫の見積もりであった(「足尾銅山四大工事竣工記念式々辞」『木村長七自伝』227ページ所収)。しかし,実際の操業成績は2,700貫から3,000貫であった(K.Denawa " Report on the Metallurgical Works of Ashio Copper Mine " 1904, p.92,東京大学工学部金属工学研究科図書室所蔵)。
(25) たとえば,星野芳郎『現代日本技術史概説』(大日本図書,1956年)48〜49ページ。なお,一部水套式は全水套式にくらべ技術的に不完全であるかの如き理解がある(畠山秀樹「住友別子銅山の近代化過程」 宮本又次・作道洋太郎編『住友の経営史的研究』所収,199ページ)が,疑問である。炉壁の侵食が問題となったのは熔解部だけで,その部分を水套式にすればトラブルは解決した。現に後年でも,全水套式を採用した製煉所は四阪島他一,二にとどまり,大部分の製煉所は一部水套式であった。
(26) 出縄維則実習報告書,119〜120ページ。
(27) 『米国万国博覧会出品解説書』(『栃木県史』史料編・近現代九,49ページ)。
(28) 前掲書,47ページ。
(29) 粉鉱をそのまま製煉する方法として,反射炉による熔解がある。足尾でも1896(明治29)年2月に熔鉱用の反射炉1座が建設された。しかし,炉の大きさが長さ15尺,幅9尺6寸と小さ過ぎ,またその構造にも欠陥があったため,完全な失敗に終った(「足尾製煉所沿革」『栃木県史』史料編・近現代九,116ページ)。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年3月12日]
【最終更新:
|