『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
|
第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)Ⅴ 製煉夫賃金の低落理由1) 1888年製煉夫スト吹大工黄金時代の終りだいぶ回り道をしたが,さきに提起した問題,すなわち1880年代において坑夫に匹敵する高賃金を支払われていた製煉夫が,1900年代には雑役夫をわずかに上回る水準にまで低落してしまったのは何故か,という問いにようやく答えうるところにきた。
すでに見たように,1880年代冒頭における富鉱脈の発見と,坑内通気の改善により,83年,84年と出鉱は激増した。これにともなって,選鉱・製煉部門も急速な拡張を迫られた。そのための要員を短期間で確保するには,一般に比べ高賃金を払わざるを得なかった。とくに製煉部門は技術的な制約から,旧来の吹床に部分的改良を加えたものを多数設置することで対処するほかなく,その操業には,1炉あたり最低1人の熟練した吹大工が必要であった。しかし,長期の修練を要する吹大工は全国的にも少数で,しかも彼等は伝統的に鉱山労働者中の最高給職種であった。そうした人びとを他鉱山から引き抜いてきた足尾銅山の吹大工が,1880年代に相対的に高賃金であったのは当然である。 「此ノ如クナリシヲ以テ漸ク其優遇ニ慣レ何レモ傲岸ニシテ且ツ懶惰ノ風ヲ生セリ,然ルニ其供給ニ於テハ漸ク充実スルニ至レリ,且ツ同時ニ明治十九年頃ヨリ漸次西洋式熔鉱炉ヲ使用スヘキ運命ニ至リ,其吹大工必要ノ程度ヲ減シ,従テ漸次其待遇法ヲ緊縮セシムルヲ要スルニ至レリ,茲ニ於テ従来吹大工ノ懸賞法中其木炭ノ使用率ハ定率以下ナル時ハ其残額ヲ買上ケ,是レヲ給与シタリシカ,当時ニ至リ,漸ク鉱石ニ母岩ノ混スルコト多キニ至リ,其熔解以前ノ如ク容易ナラサルニ至リタルヲ以テ,往々其定率以上ニ使用スルコトアリ,故ヲ以テ二十一年十二月ニ至リ其本番賃金ヲ従来ノ如ク一日五十銭トシ,是レニ従来ノ懸賞中其木炭使用量定率以下ナル時ハ,是レヲ買上ケ給与スルコト旧ノ如クナリシモ,若シ定率以上トナル時ハ,是ヲ買上ケ価格ニ相当スルモノヲ本番賃金ヨリ差引シタルコト,並ニ従来道具代トシテ一日十七銭ヲ給与シタリシヲ十二銭ニ改正シタリ,茲ニ於テ当時前大工飯場ノ経営者藤助ナルモノ中心トナリ,数回事務所ニ往復シテ是レニ不服ヲ称ヘシカ,終ニ到底容レラレザルヲ察シテ,旧吹大工一同(小滝ヲ含ム)就業セザルコトゝナリ,又丸型西洋式熔鉱炉ニ従事セル者モ是レニ加ハリ,事件容易ナラザルニ至リ,旧吹炉ハ凡テ其業ヲ中止スルコトゝナリ,熔鉱炉ノミハ坑部課ヨリ掘子等ヲ集メテ之レカ操業ニ当ラシメ,又一面ニハ就業セザル吹大工二百余人ヲ解雇シ,即日其住宅ヲ追放シタリシヲ以テ漸ク彼等其非行ヲ感ズルニ至リ,同時ニ足尾村長・僧侶・警察署長等其間ヲ介シテ慰諭頗ル努メ,終ニ一同罪ヲ謝スルニ至リタルヲ以テ,事務所ハ藤助飯場ヲ解散セシメ其他凡テ罪ヲ問ハザルコトゝナシテ事了レリ,是レヨリ製煉夫一般ノ風俗一変シ,且ツ旧吹床モ漸次其跡ヲ絶チタルヲ以テ,茲ニ今日ノ如キ等級ヲ有スル本番製煉夫トナリ以テ今日ニ及ベリ」。 ここで再度確認しておきたいのは,1880年代前半の足尾銅山の製煉夫の所得は,第5表や第16表の平均日給の数値よりはるかに高かった事実である。第5表は1883年と84年の「砿業景況取調書」の記載にもとづき,両年の製煉夫の平均日給をそれぞれ45銭5厘,42銭5厘とした。しかし,これが吹大工だけの日給の平均ではなく,選鉱夫,焼鉱夫などまでふくむ広い意味での製煉労働者の平均であることは,再三指摘した。80年代前半,〈吹床の主監者〉である本大工の日給は50銭であった。しかし,これはいわば基本給であって,この他にさまざまな手当や賞与が支給されていた。
その第1は,製煉コストに大きな比重を占める燃料を節約するため,木炭の使用量が一定量以下であるとき,未使用分を買い上げる形で支給された手当である。すなわち,「六百貫ノ鉱石ニ付二百貫ノ木炭ト相定メ,コレヲ定率トシ実際ニハ百五十貫位ニテ足リタルモノ」であった。1885年当時,木炭の価格は10貫につき2銭であった(2)から,その〈買い上げ額〉は1円となる。なんと吹大工の基本給の2倍である。おそらく,この手当は本大工だけでなく前大工や鞴人夫にも配分されたであろうし,つねに定率との差が50貫に達したわけではないであろう。しかしこれが,基本給と比べ,決して小さくない額であったことは確かである。
ところで,先の製煉夫ストの記述からうかがえるように,この争議は事実上経営側から仕掛けたものであった。争議は偶発的ではなく,「吹大工必要ノ程度ヲ減シ,従テ漸次其待遇法ヲ緊縮セシムルヲ要スルニ至」ったと判断した鉱山側が,吹大工の労働条件を意図的に切り下げたことに端を発している。それまでは,木炭の消費を節約させるための賞与だけであったのに,あらたに木炭消費量が定量を越えた際の罰金制を設け,さらに道具の損耗代を1日あたり5銭減らしたのである。ただし,経営側がはじめからストライキを予想し,挑発したとは考え難い。争議が発生した1888(明治21)年12月といえば,古河がジャーディン・マセソン商会と産銅一括販売契約を結んだ直後である。それまでの古河各山の実績からすると,2年半で契約の1万9000トンを生産するのは容易でなかった。産銅拡大が至上命令といってよいこの時期に,意識的にストライキを挑発することはないであろう。 おそらくそれは,この時期,銅価格が急落した反面で足尾の産銅コストが急上昇しつつあったことと関わっていると推測される。1885(明治18)年下半期に産銅100斤につき6円64銭であった足尾の産銅コストは,2年後の87年下半期には11円58銭と増加している。このうち熔鉱費は,同じ時期に1円8銭から2円16銭と倍増である(4)。これは,主として足尾の鉱石品位の低下と燃料価格の急騰によるものであった。一方,銅の市況は,1888年こそ銅シンジケートの買占めによって大幅に上昇していたが,長期的に見れば1870年代前半をピークに,急激な低落傾向をたどっていた。これを足尾銅の販売価格でみると,1881(明治14)年上半期には荒銅100斤あたり27円24銭であったものが,84年上半期には 16円86銭,86年上半期には11円27銭となっている(5)。しかも問題は,このような銅価格の低落が一時的なものではなく,世界の産銅の半ば以上を占めるアメリカにおける選鉱・製煉技術の進歩によるコスト削減という,構造的なものだったことである。『日本鉱業会誌』第46号(1888年2月)は同年10月のロンドン『エコノミスト』の記事にもとづいて「銅買占め人一年間の挙動」と題してつぎのように報じていた。 「重要ナル産銅地タル米国ノ実況ニ就キテ言ハンニ,諸産業ノ中過グル十年間ニ製(ママ)産費ノ減ジタルコト銅鉱業ノ如ク甚シキモノアラズ。スピルオリ湖鉱山ノ如キハ,1866年ニハ搗鉱及淘汰料ヲ毎1頓ニ5$50仙宛支払ヒシガ,1876年ニハ右費用減ジテ83仙余トナリ,1887年ニハ尚ホ一層減シテ47仙余トナレリ。其他ノ費用モ之ニ応シテ著シク減シタルヲ以テ,1876年ニハ該銅山ニ於ケル精製銅ノ産出費1封度ニ付キ15仙42ナリシガ,1885年ニハ同8仙半ニ過ギズ。爾後3年間ニモ尚ホ種々ノ費用節減方法ヲ工夫シテ,製産費は弥ヨ減ズルノ傾向アリ。…………現今ノ銅生産費は1876年ニ比スレバ,殆ド半額ナリ」。
ジャーディン・マセソンとの産銅一括販売契約によって1890年までは100斤あたり20円75銭と,足尾の産銅コストの2倍近い価格が保証されているとはいっても,その後の見通しは明るいものではなかったのである。 ジャ―ディン・マセソンとの産銅販売一括契約で,足尾産銅を1ヵ月50万斤から90万斤へ大幅に増加させる必要があり,製煉夫は増産の鍵を握っていた。それにもかかわらず,ストが製煉夫側の敗北に終った理由の1つは,ジャ―ディン・マセソンとの契約満了にまだ2年余の余裕があり,経営側に強気の対応を可能にさせたことであろう。さらに,吹床は全面操業中止に追い込まれたとはいえ,丸型西洋式熔鉱炉が「坑部課ヨリ掘子等ヲ集メテ之レガ操業ニ当ラシメ」得たことも無視できない。その意味で,ピルツ炉の導入は技術的には失敗であったとしても,経営的には成功であったといえよう。 一方,製煉夫の側からすれば,労働条件が切り下げられたとはいえ,足尾はまだ他の鉱山に比べれば〈高賃金〉で,他山に職を求めても,より好い条件を得られる見通しはなかった。それどころか,この時期,足尾の他には200人近い吹大工を受け入れ得る鉱山はまだなかった。全国銅生産に古河の占める比率が,1886年には52%,87年で40.3%という高さであることに(6),その困難さを見ることが出来よう。洋式熔鉱炉の製煉夫の場合,足尾以外にその職場はなかった。これも,製煉夫ストが不成功に終らざるをえなかった一因である。
【注】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
【最終更新:
|
Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
|
|
|
||
Wallpaper Design © あらたさんちのWWW素材集 先頭へ |