第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)
Ⅵ 坑夫の賃金水準の推移
問題点
ここで,暴動の主な参加者であり,鉱山業における基幹職種である坑夫の賃金水準の推移をとりあげたい。検討の便宜のため,第16,17表から坑夫賃金に関する部分を抜きだして再掲しよう。
第33表 坑夫名目賃金,実質賃金推移
年次 | 名目賃金(指数) | 実質賃金(指数) | 物価指数 |
1883(明16) | 62銭1厘(116.7) | 62銭1厘(110.5) | 100.0 |
1884(明17) | 53 2 (100.0) | 56 2 (100.0) | 94.6 |
1886(明19) | 52 3 ( 98.3) | 61 3 (109.1) | 85.3 |
1895(明28) | 55 2 (103.8) | 51 5 ( 91.6) | 107.2 |
1896(明29) | 58 5 (110.0) | 50 6 ( 90.0) | 115.6 |
1897(明30) | 67 5 (126.9) | 51 1 ( 90.9) | 132.1 |
1901(明34) | 68 0 (127.8) | 46 1 ( 82.0) | 147.4 |
1903(明36) | 75 0 (141.0) | 46 6 ( 82.9) | 160.8 |
1905(明38) | 72 5 (136.3) | 42 3 ( 75.3) | 171.5 |
1906(明39) | 72 5 (136.3) | 41 5 ( 73.8) | 174.8 |
この表を見て気付くのは,さしあたり次の3点である。
(1) 1883年と84年の間における名目賃金の大幅下落の原因は何か? 名目賃金に関する限り,他の年次はほぼ横ばいか上昇で,全体的には上昇傾向が続いているのに,この年だけは15%近く低落している。これは何故か?
(2) 1897年から1901年と1903年から1906年にかけての実質賃金下落の原因は何か? 実質賃金の下落は1883年から84年にかけて,また1886年から1895年にかけても生じている。しかし前者は第1の疑問が解ければ明かとなり,後者は10年間もの開きがあるので,他の時期と同じように検討するには無理がある。これについては,つぎの問題とあわせて考える他はない。
(3) 最後はより長期的な問題で,1880年代に群を抜く高水準にあった足尾坑夫の賃金が,1890年代から1900年代にかけて,名目では横ばいか僅かな上昇にとどまり,実質賃金では低落傾向をたどったのは何故か,ということである。
以下,この3点について順を追って見て行こう。
1)1884年における賃金低落の原因
賃金決定法の変化
1884年に賃金が低落したことは確かである。83年と84年のデータはともに足尾銅山会所の「砿業景況取調書」によっており,相互に比較可能な数字である。では,なぜこのような名目賃金の大幅低下が生じたのであろうか。
1884(明治17)年2月26日,当時は足尾の主要坑道であった本口坑とその上部にあった二番坑道との間の通気坑道が貫通した。これによって,それまで坑内作業の能率を妨げていた通気不良が解消し,出鉱が激増した。それにともない,坑夫数も83年の300人前後から700人台へと倍増した。普通であれば,このような人員急増期に名目賃金が低落することはない。まず予想すべきはデータの誤りであるが,すでに述べたように両年とも「砿業景況取調書」という経営の内部資料で,その可能性は小さい。
ここで考えられるのは松方デフレによる一般的な物価低落の影響と,それに加えて銅価格の下落の影響である。消費者物価は対前年比で5%以上下落し,それにともなって名目賃金も低落傾向をたどっていた。同時に銅価格も急落していた。周知のように銅は国際商品で,ロンドン相場がそのまま日本の銅価格を決定した。
第34表 銅価格推移
年次 | ロンドン相場 英1トン | 別子丁銅 100斤価格 | 足尾荒銅 100斤価格 |
1877(明10)年 | 70ポンド4分ノ1 | 21円12銭6厘 | - |
1878(明11)年 | 62 8分ノ1 | 20 12 6 | - |
1879(明12)年 | 58 8分ノ7 | 22 05 6 | - |
1880(明13)年 | 63 2分ノ1 | 29 11 2 | - |
1881(明14)年 | 上期 | 61 8分ノ1 | 31 85 1 | 27円24銭 |
下期 | 26 79 |
1882(明15)年 | 上期 | 67 0分ノ0 | 31 09 3 | 26 00 |
下期 | 25 69 |
1883(明16)年 | 上期 | 63 2分ノ1 | 27 31 9 | 23 19 |
下期 | 21 24 |
1884(明17)年 | 上期 | 53 8分ノ7 | 19 10 6 | 16 87 |
下期 | 15 00 |
1885(明18)年 | 上期 | 67 0分ノ0 | 31 09 3 | 26 00 |
下期 | 25 69 |
1886(明19)年 | 上期 | 63 2分ノ1 | 27 31 9 | 23 19 |
【備考】
1) ロンドン相場は,古河鉱業株式会社『創業100年史』88ページによる。
2) 別子丁銅は『日本鉱業会誌』第1号(1895年3月)72〜73ページによる。
3) 足尾荒銅は『栃木県史』史料編・近現代九,148ページ。
この銅価の低落は,コスト削減への圧力となり,賃金を引き下げる要因の1つとなったことは十分考えられる。さらにこの年,足尾では,出鉱の激増に製煉部門が対応しきれず,大量の鉱石が未製煉のまま山積みされていたことも,採鉱賃金の引き下げを容易にしたであろう。しかし,これだけで説明がつかないのは,足尾銅の販売価格が1885,86年と低落をつづけ,また消費者物価も大幅に低下しているのに,86年の名目賃金がそれほど落ち込まず,実質賃金はかなりの上昇を見せたことである。こうなると,問題はむしろ1883年の方にあったのではないかと思われる。いいかえれば,1884年に賃金が下落したのは,1883年の足尾の賃金水準が異常に高かったからではないか。そのように考えるのは,84年以降の名目賃金がなだらかな上昇傾向を示しているのに,83年だけが飛び抜けて高いからである。また1884年に坑夫賃金の決定方法が変更された事実と,この問題とが関係したのではないかと推測されるからである。
市兵衛の片腕として,古河の経営にあたっていた木村長七はつぎのように語っている(1)。
従来足尾の稼行は,鉱石買上法を採って居りまして,鉱夫が百貫目掘れば幾何で買上げるといふ方法でしたが,これは各鉱夫の掘り出したものを各自の鉑倉に半ヶ月分納めて居りましたから,少し発展すると数多の鉑倉が一ぱいになって始末に困る事になるのです。これでは大規模の稼行に適しませんので,何とか良好の方法を講じたいものと,私は前々から長兵衛氏と相談して居たのでしたが,今度の大直利で,到底今迄のやうな事をして居っては事業に併行しないものですから,これを理想的の鑑定法に改めました。即ち荒鉱の侭鑑定して,日々鉱夫より之を受取るものです。
この長七談話の細部の正確さについては疑問がある。またこの談話では,問題の〈鉱石買上法〉改革の具体的内容は明かでない。ただ1882年11月における横間歩の発見に加え,84年2月の通気坑道の完成によって,出鉱量が激増し,それまでの賃金決定方法が修正を迫られていたことは明らかである。
また,古河操業当初の足尾銅山の採鉱夫賃金の決定方法は,形は〈精鉱買い上げ法〉でありながら,実質は〈荒銅買い上げ法〉であったことも,この談話によって判明する。要するに,各人が採取した鉑=精鉱を各人別に製煉し,それによって得られた粗銅の重量に応じて各人に賃金を支払っていたのである。そうでなければ,鉱石を半ヶ月分も各人別の鉑倉に蓄えておく必要はない。吹床による製煉の最小単位である200貫から300貫になるまで精鉱を各人別に蓄え,製煉した上で賃金を決めたものであろう。
いずれにせよ,富鉱脈が発見されれば,坑夫1人当りの精鉱採取量は増大する。その場合,出来高賃金の決定方法や決定基準に変化がなければ,坑夫の賃金水準が急上昇するのは当然である。とはいえ,富鉱脈の発見と同時に,坑夫賃金の算定基準や算定方法を変更できるわけではない。そうした変更の企ては,坑夫の公然・非公然の反抗をまねくおそれがあり,少なくとも労働意欲の低下は避けられない。
経営者はつねに高い労働意欲を求めるものだが,とりわけ労働者の労働意欲に依存せざるをえない時がある。1883年の足尾銅山は,まさにそうした時期であった。1882年11月〈横間歩大直利〉と呼ばれる富鉱脈が発見された。しかし,このころ坑内の通気不良は著しく,切羽にカンテラはともらず,呼吸困難のため1人1時間以上連続しての坑内作業は不可能であったという(2)。そうした問題を解決するためには,1日も早く通気坑道の開鑿をすすめる必要があった。同時に,坑道掘鑿に必要な資金を得るためにも,採鉱量を増やす必要があったのである。極端に劣悪な労働条件のもとで,開坑や採鉱を続けるには、坑夫個々人の高い労働意欲が不可欠であった。こうした矛盾を解決する唯一の方策は,相場よりはるかに高い賃金を支払うことしかなかった。「明治十六年後半季坑部予算書」が,開坑作業に従事する坑夫の予算賃金として,1人当り1ヵ月平均38円23銭もの高額を予定していたのは,経営側がこのことを明瞭に意識していたことを示している。
だが1884年2月の通気坑道貫通はこうした事態を一変させた。労働環境は改善され,坑夫1工あたりの精鉱採取量は前年にくらべ50%近く増加した。賃金決定方法を変えなければ,賃金水準のさらなる上昇が予想された。経営者は,賃金決定の方法を改める必要性を痛感したに相違ない。この際,単に坑夫賃金の決定基準である鉑の〈買い上げ単価引き下げ〉だけで済ますことは出来なかった。賃金決定方式全体の変更が急務だったのである。〈精鉱買い上げ方式〉を続けていては,選鉱・製煉の近代化,機械化が不可能だったからである。坑夫一人ひとりが採取した鉱石を各人別に選鉱し,焼鉱,製煉するやり方では,選鉱・焼鉱・製煉の各工程の機械化はできない。どうしても粗鉱の段階で買い上げ,これを一括して選鉱,焼鉱,製煉するように改めなくてはならない。木村長七が問題にしたのはこのことであった。
間もなく,坑夫賃金は,各人が採掘した粗鉱の品位と重量を銅山の役員〔職員〕が〈鑑定〉し,これをもとに決定することに変更された。この改訂は,坑夫にとって二重の意味で不利であった。1つには,これを機に,賃金決定の単価が事実上切り下げられたことである。もう1つは,〈荒銅買い上げ法〉であれば,各人の出来高が比較的正確に決定され得たのに,新たな賃金決定方法では,品位の決定が恣意的なものとなるおそれがあったのである。そして,それは単なる〈おそれ〉ではなく,その後,賄賂をめぐる坑夫と〈役員〉との対立の原因の1つとなったことは,すでに見たとおりである。
【注】
(1) 茂野吉之助編『木村長七自伝』168ページ。なお,同書255〜256ページも参照。
(2) 茂野吉之助『古河市兵衛翁伝』132ページ。
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
[本著作集掲載 2006年5月22日、掲載に際し加筆]
【最終更新:
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