『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
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第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)Ⅴ 製煉夫賃金の低落理由(続き)3)洋式熔鉱炉導入の影響OJTによる企業内熟練養成1890年,吹床はすべて廃棄され,洋式熔鉱炉にとってかわられた。吹大工がこれにどのように対応したか明かではない。しかし,組織的な抵抗をおこなった形跡はない。争議敗北の直後のことであってみればそれも当然といえよう。「足尾銅山製煉所沿革」が1888年の製煉夫のストライキの記述をつぎのように締めくくっていることからも,それはうかがえる。 「是レヨリ製煉夫ノ風俗一変シ,且ツ旧吹床モ漸次其跡ヲ絶チタルヲ以テ, 茲ニ今日ノ如キ等級ヲ有スル本番製煉夫トナリ今日ニ及ベリ」。 いずれにせよ,洋式熔鉱炉の導入は,製煉夫の賃金水準をいっそう低下させることになった。もちろん,すでに見たように,洋式熔鉱炉の製煉夫,とくに炉前夫は本大工以上に長年の経験と高度の熟練を必要とした。そうした熟練をもった労働者は全国でもきわめて少数であった。しかもその労働環境は劣悪で,災害の危険性も,吹床時代よりはるかに高かった。1操業の規模は大きく,もし失敗すれば損害も吹床とは比較にならない大きさで,それだけ緊張を強いられる労働であった。そうしたことからすれば,洋式熔鉱炉の製煉夫は,吹大工以上の高賃金であっても不思議はなかった。 だがそうならなかったのは,洋式熔鉱炉の製煉夫はすべて未経験者として入職し,足尾銅山で学校出の技術者の指揮・監督のもと,現場で働きながら熟練を積んでいった者だったからである。入職時の賃金は,不熟練労働者として最低の水準に抑えられた。第27表と第28表は1900年と1906年における製煉課の直轄夫の職種別,日給額別の人員であり、第29表,第30表はこれをもとに賃金階層別の人員とその比率が分かるように作成したものである。 なお、活字本と違って、モニターでは表が大きくなりすぎ一覧しにくいので,第27表から第30表までの4つの表をまとめた別ファイルを作成し、新たなウインドウで見ることも出来るようにしてある。どちらを選ばれるかは、もちろん読者の自由である。
【備考】 上山達三『足尾銅山製煉報告』136-139ページより作成。
【備考】 大川原三郎『足尾銅山冶金報告』81,82ページによる。
一見して明らかなように,下級職制である工手でさえ,その最低給は28銭と雑役夫の平均日給30銭を下回る額である。もちろん経験を積み,技能の熟達に応じて,その等級は上がり,賃金は増額された。だが,吹大工の等級は本大工と前大工の2段階,賃金は本大工は一律50銭,前大工が25銭と30銭と,3段階であったのに,熔鉱夫の等級は十数段階にも細分化され,1回の昇給額は2銭から5銭,それも下級ほど昇給幅は小さく設定されていた。もちろん,こうした賃率の作成,個々の労働者への適用は経営側が一方的に決定した。こうした場合でも,もし,そこで養成された技能が社会的に通用するものであれば,労働者は職場を移動することによって,これにある程度影響を及ぼすことができたであろう。しかし,転炉錬銅法は1908年に日立銅山,1909年に小坂銅山で採用されるまでは,別子で短期間試験的に操業されただけで,足尾以外に錬銅夫の職場はなかった。水套式熔鉱炉は,他の鉱山でも採用されていたから,製煉夫の場合は移動による昇給の可能性は皆無ではなかった。事実,1906年には「時恰モ銅価暴騰シ,各地ニ新ニ鉱業ヲ起スモノ多ク且当所職工ノ平均賃金低廉ナリシカ為メ,他ヨリ奪取セラルゝコト多ク」(10)と記録されている。ただ,注目されるのは,足尾の製煉夫の定着度がかなり高かったことである。 〔補注〕本書をほとんど書き終った段階で,武田晴人氏の労作『日本産銅業史』に接した。氏は,足尾銅山の製煉夫の場合に,夜間勤務については,実際は1工であるものを,賃金計算上は1.3工として計上している事実を指摘され,『本邦鉱業一班』の数値を使用されて,実際に支払われたであろう賃金をつぎのように推計された上で,本書のもとになった論文を批判され,二村は「両者〔坑夫と製煉夫〕の賃金格差を強調しすぎている」と指摘されている(11)。
【備考】
1) 『本邦鉱業一斑』各年、『本邦重要鉱山要覧』1917年版より作成。 2) 武田晴人『日本産銅業史』173ページより引用。 製煉夫の夜間勤務手当が,工数の歩増しで支払われていたことは同書ではじめて教えられたところである。製煉では,夜間勤務の他にも,無欠勤者への賞与やコークス消費が少ない場合の賞与を工数を加算する形で支給していることも,今回あらためて気付かされた。なお,コークス消費が多い場合は,罰として工数を減らしている。いずれにせよ,これまで製煉夫の賃金について論じてきたところは再検討を要ることは明らかである。おそらく,製煉夫の賃金水準と雑役夫等とのそれがほとんど変わらないとした点は,修正を要するであろう。また,坑夫と製煉夫の賃金格差も若干縮小するであろう。ただし,この批判を受けたことで,製煉夫賃金の低落について述べてきたところは誤りであり,根本的に改めなければならない,とは考えない。
【備考】 農商務省鉱山局『明治四十二年本邦鉱業一斑』(1910年)および『明治四十五年・大正元年本邦鉱業一斑』による。
延べ工数が人員からは考えられないような大きな数値になる理由は,単に,夜間勤務などへの〈歩増し〉だけでは説明できない。むしろ主たる要因は、人員が〈常雇い〉だけの数であるのに対し,延べ工数は〈臨時雇い〉を含めて,実際に雇用された者が計上されたためであろうと推測される。たとえば,1906年上半期の1日平均の数字で,熔鉱工場には〈本番夫〉である熔鉱夫が66人,〈臨時本番夫〉である熔鉱夫が64人働いていた。その延べ工数は,1ヵ月で〈本番夫〉が1,974工,〈臨時本番夫〉が1,910工となっている。また,錬銅工場には,〈本番夫〉である製煉夫が32人,〈臨時本番夫〉である製煉夫が7人である(13)。同年の足尾の製煉夫数は『鉱夫待遇事例』によれば103人である(14)。この製煉夫の数は明らかに〈本番夫〉だけを計上したものである。要するに,足尾銅山は,鉱夫数について報告する際,〈常雇い〉だけを計上し,延べ工数は臨時雇いを含めて実際に雇用した者を計上していたと見られるのである。
【注】
[初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
【最終更新:
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Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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