『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
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第3章 足尾銅山における労働条件の史的分析(続き)Ⅵ 坑夫の賃金水準の推移(続き)2) 1890年代における実質賃金の低落原因鉱毒予防命令の影響
1897年から1901年における実質賃金の低落はなぜ起きたか,これがつぎの問題である。 ここで問題となるのは,1897(明治30)年5月27日,東京鉱山監督署長・南挺三の名で出された〈第3回鉱毒予防命令〉の影響である。この命令は,前年12月の第1回鉱毒予防命令,同年5月13日の第2回鉱毒予防命令にくらべ詳細かつ具体的に鉱毒予防のための施設──沈澱池,濾過池,脱硫塔,堆積場──の設置を命令し,しかも各施設の竣工までの期日を,長いものでも120日間,短いものでは30日間に限っていた。そして,命令の最後第37項には「此命令書の事項に違反するときは直ちに鉱業を停止すべし」と記されていたのである(3)。 予防工事に使用したる職工人夫の種類は煉瓦夫,石工,大工,機械職,鍛冶職,鳶人足,坑夫,土工其他の雑夫にして,工事中最も多く使用せし時は一日六七千人,少なき時と雖ども二三千人を下だらざりし。而して是等の職工人夫の供給を受負ひたるものゝ重もなるものは,鹿島組,上州組,鈴木組,小西組,飯塚組,田村組,市ヶ谷組,中松組等にして,尚ほ当所在来の土木工夫は勿論,坑夫,製煉夫,撰鉱夫,機械夫に至るまで,苟も繰合せ得る限り出役せしめ,漸く其必要を充たせしものなり。而して,是等工夫,人夫の延人員実に五十八萬三千五百八十九人にして,此賃銀総計金四十七萬三千八百七十四円二十六銭八厘に達し,此賃銀一日一人の平均額八十一銭二厘に相当せり。然るに此頃井上大蔵大臣の調査によれる最近三ヶ年間に於ける政府継続事業に伴ふ労働者の種類及び其賃銀高比較表によれば,其各種労働者平均一日一人の賃銀五十四銭に当るを見る。故に当所が此工事の為め支払ひたる労働賃銀は,世間普通の賃銀より凡五割多額の賃銀を与へたるものなり。是れ畢竟其成功期日を限られたる急工事にて,労働者,受負者の多数は此事情を知るが故に,出来得る丈け多額の労銀を請求し,当所は其急要に迫まられ,敢て其賃銀の多少を論ずるの暇なく,只其人員を充たすに急なりし結果なり。斯の如く其労銀の多寡を問はざるのみならず,非常なる熱心と非常なる手段とを以て之が募集に奔走尽力し,当所に同情を表したる請負者の如きも,有ゆる手段を尽して募集したるに拘はらず,最初の廿日間の如きは其希望の十分一をも充す能はずして,為めに当所は本工事も到底其指定期日内には成功することは能はざるを疑ひ,大に苦心焦慮したることありたり。是れ畢竟昨三十年度は政府民間事業の起工経営最も旺盛を極め,政府,府県,市町村,諸会社の事業のみに使用する一ヶ年の人夫職工の延人員殆んど九千萬以上に上り,左なきだに人夫職工の払底を告げ居たるに,突然本工事の為め,僅々三ヶ月間にて凡六十萬人の人夫使用を要することゝなりたる次第なれば,当所が人夫職工の募集に難儀し及び非常の費用を要したるは無理ならぬことなり。 『足尾銅山予防工事一班』は鉱業所による鉱毒予防工事PR用の文書であり,その点を考慮して讀む必要がある。しかし,期日を限られた大工事で多数の労働者を短期間に集める必要があったこと,それが一般的な賃金の高騰をまねいたことは疑いない。ただし,「此賃金一日一人の平均額八十一銭二厘」は,古河にとっての人件費コストであって,実際に労働者1人1人に支払われた賃金の平均ではないことは注意すべきであろう。文中にもあげられているが,古河と労働者の間には多くの人夫請負業者が介在し,全国から労働者を集めている。この募集に要した費用も含め,彼等の取り分がこの中には含まれている。いずれにせよ,予防工事に従事した労働者の相対的な高賃金は,足尾銅山鉱夫の賃金水準にも影響し,その上昇をもたらしたであろう。
反面,予防工事によって多数の労働者が流入したことは,地域的な物価騰貴をまねき,実質賃金の水準を引き下げることになった。とりわけ米,味噌,醤油,酒といった日用品の消費量は急増し,その価格は暴騰した。ふたたび『足尾銅山予防工事一班』によれば,「是等需要品の多くは附近の村落市街より買ひ入れたるが為め,附近地方殊に物価の騰昂を生じ,僅々一二ヶ月間にして右等主要物品の価格平均殆んど五割以上の暴騰を見るに至れり。爾後工事止むの今日と雖も,猶ほ其余響を受け,総べて世間普通の価格に比すれば高価にして,当所の経済上尠なからざる損害を受けつつあるなり(5)」。 経営政策の転換鉱毒予防工事は,直接に足尾銅山の賃金水準に影響を及ぼしただけではない。むしろ,長期的にみれば,間接的な影響の方がはるかに重要な意味をもっていた。それは,鉱毒問題の深刻化によって,とりわけ予防工事の資金調達問題を契機に,古河家がその経営方針を一変したことである。これは,単に賃金水準だけでなく,労資関係全体に重大な変化をもたらしたものであるので,多少横道にそれることにはなるが,やや詳しくみておこう。 創業以来,古河の経営は完全に市兵衛の独裁下にあった。その経営方針は,市兵衛自身の言葉を使えば〈鉱山専業〉〈進業専門〉であった(6)。より具体的に言えば,資金の許す限り鉱山,とりわけ銅山を買い入れ,有望な鉱山には積極的に資本を投下し,設備を拡大して,生産を増大させることである。実際,1896年以前に古河が入手した鉱山は銅山が18,銀山10,金山4,炭鉱5,その他6の計43山に達している(7)。市兵衛がこのような積極的買山方針をとった背景には,彼が独立直後に手がけた草倉銅山,足尾銅山の両山における華ばなしい成功の体験があったと思われる。草倉,足尾ともに短期間で富鉱脈を掘り当て,廃山同様だった山が1884(明治17)年には別子を抜いて全国第1位と第2位の銅山になり,翌85年には,両山だけで全国産銅の49%を占めたのである。このような「一山どころか二山も当てた」経験は,市兵衛に,廃山同様の鉱山でも,火薬やダイナマイトを使用し坑道を深部まで掘り進めば富鉱脈を発見し得ること,また大通洞を開鑿することで,排水,運搬などに新技術を導入すれば生産コストの大幅な削減が可能であるとの確信を抱かせたに相違ない。欧米の新技術を導入すれば日本の鉱山の再生は可能である,この信念が〈鉱山専業〉〈進業第一〉の方針をとらせたのであろう。もちろん,その後の少なからぬ鉱山での失敗の経験は,新技術の導入だけですべての鉱山が成功するものでないことを思い知らせたであろう。しかし,市兵衛は自分の〈運〉の強さを信じていた(8)。それに,なにより足尾銅山の莫大な利益は,彼の積極的な買山を可能にするだけの利潤をもたらしていたのである。 市兵衛の積極政策は,単に鉱山の買収に発揮されただけではない。彼は絶えず産銅シェアの拡大を望み,主要鉱山とりわけ足尾銅山では探鉱,採鉱,運搬,選鉱,製煉等の各部門に大資本を投入し,設備の近代化,機械化をすすめた。1880年代から90年代にかけて,足尾銅山における新技術の導入は,国際的にみてもトップレベルにあった(9)。だが,その設備投資の決定は,必ずしも充分な調査と綿密な計画によるものではなく,市兵衛の〈進業第一〉の信念にもとづく積極果敢な決断によっていた(10)。 ところで,機械設備の導入や鉱山の買収など,いわばハード面での装備にはきわめて積極的な市兵衛ではあったが,こと経営組織,経営管理面ではまことに保守的,消極的であった。〈進業第一〉は生産部門に限られ,管理部門,とりわけその中枢である本店の機構は,旧態依然とした商家のそれであった。しかもその人員は,事業規模の大きさに比べ,異常ともいうべき少人数であった。1896年,操業中の鉱山が足尾をはじめ17山,探鉱中のものが18山,他に東雲製煉所,本所熔銅所,深川骸炭所を経営し,2万人近い従業員を擁し,全国産銅の38.3%,産銀の28%,産金の7.4%を占める(11)一大経営の本部スタッフは,市兵衛を含め,僅かに14人に過ぎなかった。50坪の本店は古河家の居宅を兼ね,〈店員〉の多くもここに寝泊まりしていた。技師1人,会計兼庶務1人,会計1人,出納1人,売込1人,買付1人,運送1人,庶務2人,雑役1人,小僧3人(12)の陣容では,各事業所の状況を具体的に把握し,統一的に管理することは不可能である。本店の業務は,資金の調達,製品の販売,主要機械の購入などに限られていた。各事業所に対しても,生産増大を一般的に督励するだけで,具体的な指示は与え得なかったに違いない。生産部門の管理は,各事業所の責任者に全面的に委ねるほかなかった。こうした経営管理のあり方は,事実上,事業所ごとに独立採算方式をとらせることになったと思われる。そうであれば,豊富な鉱体に恵まれ,設備面でも他山をはるかに凌ぐ足尾の賃金水準が,同じ古河経営の他鉱山と比べても高くなるのは当然であった。しかも,経営の最優先目標は絶えざる産銅シェアの拡大にあったから,能率刺激のために出来高賃金制が一般的な坑夫の場合,相対的に高賃金となるのは必然であった。1880年代の足尾鉱夫の高賃金の1つの原因がこのような経営の性格と経営方針によるものであったことは明かである。 このように生産増大を最優先させる〈進業第一〉の方針,生産現場に大幅な決定権をゆだねるやり方は,短期間に古河家の事業を発展させた条件の1つであった。しかし,鉱毒問題の発生は,この現場第一主義の限界を露呈した。とくに1896年の大洪水を機とした鉱毒問題の深刻化は,古河市兵衛個人商店にしか過ぎなかった〈本店〉の力量の弱さをいっきょに暴露したのである。 ここで経営組織の刷新,創業から守成への経営政策の転換の推進者として登場したのは古河潤吉である。潤吉は陸奥宗光の次男で,幼時から古河の養子となることが親同士で約束されていた。病弱のため,また市兵衛の方針もあって,コーネル大学の別科生として1年間化学を学んだほかは,ほとんど正規の学校教育を受けたことがなく,また古河家の事業についても27歳になるまで責任ある立場につくことはなかった。しかし,早くから足尾をはじめ各地の鉱山をまわり,また常時,瀬戸物町の本店にあって,市兵衛の仕事のやり方を近くで観察する機会には恵まれていた。また実父の陸奥宗光や,実父,養父がともに親交を結んでいた渋沢栄一から,市兵衛の猪突猛進的な経営方針についての批判・憂慮をしばしば耳にしていたであろうと想像される。さらに推測すれば,渋沢栄一が,鉱毒事件を契機に,市兵衛の〈進業第一〉の方針を転換させるため,潤吉に働きかけた可能性も充分考えられる。 いずれにせよ,1896年末,潤吉は市兵衛を説いて〈本店〉の機構改革に着手し,古河家の経営責任の一端を担うにいたった。改革の第1は,本店内に「営業全体を整理」するものとしての〈総務部〉を設け,自ら総務部長に就任したのである。総務部には,鉱務課,庶務課を置き,近藤陸三郎,井上公二をそれぞれ課長に任命した(13)。近藤は工部大学校,井上は慶応大学と,ともに古河本店では数少ない学校出である。鉱務課の分掌事務として掲げられた4項目は,すべて各事業所の業務内容の掌握であり,庶務課の業務内容はすべて財務,経理に関するものであった。潤吉がまず最初になすべきことと考えたのは,生産現場を技術面と同時に経理面でも完全に本店の指揮・統轄下に置くことであった。 つぎに実行したのが,古河家の家事と事業との分離で,第三次予防命令の出た直後の1897年6月,鉱業事務所を新設し,これがもっぱら事業にあたることとなった。瀬戸物町本店は古河家の居宅とし,新たに八重洲1丁目1番地に古河鉱業事務所を置いた。これと同時に,市兵衛をこれまでの〈元方〉という呼び名から〈総長〉と呼ぶことに改めた。また,設置したばかりの総務部を廃し,潤吉は〈専務理事〉に,木村長七と岡崎邦輔が〈理事〉に就任した(14)。さらに予防工事完了後の同年12月,〈第2次営業制規改正〉をおこない,鉱業事務所内に鉱務,商務,会計,庶務の4課を設け,商務課内に販売係,仕入係,運輸係の3係を,会計課内に出納係,精算係,用度係を,庶務課内に庶務,文書の2係を置き,その後の事務機構の原型が出来上がったのである(15)。この〈第2次営業制規改正〉の際,潤吉が示した〈改革趣意〉は,彼が市兵衛の経営方針をどのように見ていたかを明らかにしている。 輓近社会の進歩は百事複雑を致し,唯一片の道義的関係と簡単なる条規の制裁を以て,当家の如き多数の人々を統御し,広汎なる事業を処理し,以て成績を挙げむとするは得て望む可きに非ず。殊に従来に於ける当家の営業方針なるものは,拡張進取にありて,其鋭進に急なりしが故に,区々たる制規の改正若しくは事務の整理を図るが如きは殆んど之を顧るの遑あらず。為めに使用人に対する待遇取締の厳を欠き,事務不整理の傾ありしは,是亦已むを得ざるのことなりき。然るに,今や当家の営業方針としては進取拡張の創業時代を去りて,守成整理に適応する取締の制を設け,以て執務の順序を立てざるべからず。是れ今日の制規改正を促したる所以なり。 潤吉の市兵衛批判のポイントは,「使用人に対する待遇取締の厳を欠き,事務不整理の傾あり」というにあった。同じことを,別の角度から,より明瞭な表現で述べている(16)のは,潤吉を助けてこの機構改革を推進した岡崎邦輔である。 初代市兵衛翁が余り手を拡め過ぎたといふのが二代潤吉君の意見で,袋の口を締めないから金が幾らあっても溜らない。五十萬円儲けて五十萬円を資本に入れるといふのでは何時迄経っても駄目であるといふのが潤吉君の意見であったのです。 もちろん,市兵衛はこのような自己の経営方針に対する批判を素直に受け入れたわけではない。現に,1899年,すでに古河鉱業事務所が設立され,市兵衛独裁ではありえなくなっていた段階で,彼は依然として〈鉱業専一〉〈進業第一〉の信念を語り続けていた(17)。 私は明治八年に鉱山事業に着手しましてから以来,ただ一心に斯の事業にばかり従事いたしまして,全国中のあらゆる方面に手を出して,種々なる製造所を設立いたしましたけれども,悉く鉱業に関係しないものはありませぬ。この上とも私の資力の許す限り,生命の続く間は,飽くまでも,専ら斯の事業の拡張を計る積りであります。世間では私自身と私一家の安全を計るが為めには,この上更に斯様な危険なる仕事に手を伸ばすことは止めて,銀行か,又は其他の安全な事業に着手してはどうだなぞと深切に忠告して呉れ,前年死去した陸奥なども,屡々この注意を与へて呉れ,亜米利加に往って居る時でさへも遥々と手紙を寄越して,懇篤な注意を与へて呉れた事もありますが,どうも二十余年来の決心は益々堅くなりまして,飽くまでこの事業を拡張しようという存念は止みませぬ。
では,独裁的な創業者で,オーナー経営者であった市兵衛が,自己の経営方針に確乎とした信念をもっていた市兵衛が,潤吉の意見をいれ,鉱業事務所の設立,経営機構の改革を受け入れたのは何故であったか。それは,かねてから市兵衛の経営方針に強い危惧の念を抱いていた渋沢栄一(18)が,鉱毒予防工事資金の融資をテコに,「従来,第一銀行との交渉」を「専掌」してきた市兵衛を退け,潤吉を交渉相手としたことであった。 この場合,資金の供給は従来の関係によって第一銀行に仰ぐべきであったが,既に同行が古河家に対する貸出は制限以上に達して居たのみならず,今回の用途が予防工事の如き不生産的方面である故を以て,第一銀行は市兵衛翁に対して精密な償却案を明示すべきことを望んで,容易に翁の要求を容れなかった。この時,翁に代って渋沢頭取に会見したのは君である。君は渋沢氏に対して過去の援助を謝し,今後古河家の経理事務は己れが担当処理すべく,営業の現状は斯く斯くの次第なれば,今回希望する予防工事費の借款は毎半期毎に必ず一定額を償却し,旧債は整理終了次第償還の方法を確定すべき旨を語り,一回の会見にして,よく渋沢氏の肯諾を得て,所要の資金を調達することに成功した。 古河のドル箱である足尾銅山の〈鉱業停止処分〉を避けるためには,鉱毒予防工事の期限内達成が至上命令であった。工事資金の調達は,この危急の事態を打開するため,不可欠の条件であった。市兵衛からすれば,機構改革,経営政策の転換は,こうした状況の下で,内外の圧力によって承認を余儀なくされたものであった。 足尾鉱業所の改革方針経営方針転換の影響は,もとより,本店だけにとどまってはいなかった。各事業所においても,〈守成の方針〉にもとづいて,業務の見直しがすすめられた。足尾に対しては,古河鉱業事務所新設後間もない1897年8月10日,業務の再検討が訓令された。足尾鉱業所ではこれを受けて,「反覆審議ノ上改正スベキ」項目案を決定し,同年9月20日に答申した。〈進業第一〉の創業時代における生産現場での問題点と,その後の変化の基本方向を示した注目すべき文書である。やや長文ではあるが,『日本労務管理年誌』に記載されている限りで全文を紹介しておこう(20)。 一 現時ノ形勢ニ微シ壱ヶ月約八十万斤ヲ以テ産額ノ定率トナスベキ事 「反覆審議ノ上」で決定した改革方針としては,何とも未整理で,性格の異なるものを順序不同に列挙している。これも長年産銅拡大一本槍で押し通してきた生産現場の事務能力の水準を示すものといえよう。そこで,改革方針の意図するところを整理し,若干のコメントを加えておこう。
(1)改革の中心目標は〈経費節減〉である(二,三)。各部門毎に平均5.1%の経費節減が指示されている。ただ「別途工事」だけは23.1%の増が見込まれているが,これはおそらく鉱毒除去のための経費増であろう。この増加分をカバーするため,「事務所費」が46,7%もの大幅削減となっている。
①については,すでに「着手中ノ工事ト雖モ緊急ヲ要セザルモノハ当分ノ内渾テ停止」という思い切った方針がとられた。もっとも,こうした方針が可能であったのは,1880年代後半から90年代にかけて進められた積極的な設備投資によって各部門における機械化,近代化が1896年の通洞と横間歩第一竪坑との接続によって,この段階としてはひとまず終っていたことによろう。この工事中止の決定によって停止されたのは,日光電気精銅所の新設工事である。これが部分的に再開されるのは,1903(明治36)年の別倉発電所の着工によってであり,さらに日光電気精銅所の新設方針が再決定されたのは翌1904年,実際の着工は1905年のことであった(21)。 ②の人事管理,とくに職員に関する人事管理の制度化は,今回の改革の1つの柱であった。注目されるのは,「所員以下事情的任用の慣例」の存在を認めている点である。暴動時における鉱夫の主な不満は,役員に不公正な行為が多いことであった。情実による役員任用の慣例が,この不満の原因であることは明かであった。また,役員の雇入れにあたって,事前に本店の承認を得ないことを〈弊習〉と呼んでいる。しかし,役員に対する最初の成文規則である「役員取締規則」(1886年1月施行)では,「役員ノ人数ニ制限なし。故ニ山ノ大小ニ応シ鉱長ノ存意ヲ以て適当ノ人員ヲオクへシ(22)」と明瞭に定めていたのである。この規定と「所員の員数ヲ制定し各其職責を明ニシ冗余ニ属スル人員ハ渾テ解雇スル事」という新規定との違いは,そのまま〈拡張進取ノ創業時代〉と〈守成整理〉の違いを明示するものといえよう。
③会計制度の改革のうち,予算制度はかねてから採用されており,新たに導入されたものではない。四の規定で意味があるのは「予算以内ニテ経費ノ決了ヲ図ルコト」であろう。「簿記法ヲ改正」することは,今回の改革のポイントの一つであった。しかし,本店でも,ようやく大福帳から洋式簿記に改めることが問題になった時期であり,現場の事務所にまで徹底させるには,まだ時間を要した。
されば足一歩を足尾に入れ仔細に銅山に於ける各局,各課,各係の状態を観察せしものは其各局,各課,各係は互いに割拠して請負事業となり,一品にても他係課局に渡すには金銭の授受ならざるなきに一驚を喫すべし。例せば坑内係にて採掘せる鉱石は選鉱に送られ,選鉱は其容量と品質とを察して之を現金にて購入し,之を石と銅とに分ち更に製煉課に致し,製煉課も亦種々の掛引きあり之を買入れ製煉して内局に売払ふなり。又調度課に見れば其運輸せし食品,材料其他を各部に販売し,各局,各課及び各係は順次之を購入し,遂に下々に迄是を普及せしむるなり,斯て各部に於て毎半期に之を決算し,利益の大小を報告し,会社にては利益大なりしものは多くの賞与を与え,又敏腕と認むるものを抜擢採用するより,各部に於ける競争は頗る激烈を極め,従て鉄柵〔鉄索〕に依りて足尾峠を越したる南京米が坑夫の口に入るまでには頗る高価のものに変ずるなり。 要するに,これまで事務用の消耗品は〈事務所費〉として足尾銅山全体の経費の中に含まれていたものを,各課の経費に分割したのである。それまで選鉱費につぐ多額を要した事務所費が,ほとんど半減に近い目標を打ちだしていたのも,このためであった。したがって,各課の節減目標は5.1%ではなく,実際にはこの事務所費の節減分も加えた8.4%であった。
ところで,〈坑内費〉のうち圧倒的な比重を占めていたのは人件費である。たとえば,時期はさかのぼるが,1888(明治21)年下半期の坑部課の予算15万5,943円のうち,人件費は85%に達している(24)。その後の坑内運搬の機械化によって,この人件費比率はいくらか減少した。しかし,〈坑内費〉の半ばを占めた採鉱作業にいちじるしい技術的進歩はなかったから,人件費比率減少の程度は僅かであったろう。8.4%の経費削減は,坑夫賃金に影響せずにはすまなかったに違いない。全国的な実質賃金の上昇期に,足尾では逆の傾向が現れたのも不思議ではない。
【備考】
1) 古河鉱業株式会社『創業100年史』193ページより。 2) その他は,幸生,永松,久根,骸炭所および九州の諸炭鉱である。通計には,その他欄に含まれない小事業所の損益が合算されており,他欄の合計とは一致しない。 3) 足尾の初期の利益は,実際にはここに表示されたものよりはるかに大きかったと思われる。たとえば1885年の利益は29万3684円余であった(『栃木県史』史料編・近現代九133ページ)。相馬,渋沢等への配当を差し引いた後の金額であろう(『栄一伝記資料』第15巻,371ページ参照)。 1886年以降,足尾銅山は毎年10万円をこえる黒字で,とりわけジャ―ディン・マセソンとの古河産銅一括販売契約の最終年の1890年には15万円,さらにその翌91年には70万近い利益を上げている。90年代に入ると足尾は一進一退ながら黒字を計上しているが,古河全体とすれば業績は必ずしも良いとは言えず,1893年,96年には久しぶりの赤字となっている。ところが,経営政策を転換してからの業績は年々改善され,1898年は57万円,99年は148万円,1900年は242万円,1901年には実に250万円を記録している。このような業績の好調は,80年代後半から90年代中頃にかけ低迷していた銅価格が,たまたまこの時期に上昇に転じたという市況の変化に助けられた面も小さくない。しかし,1899年以降,毎年150万〜250万もの安定した利益をあげえたのは,やはりこの〈守成の方針〉の〈成果〉であったに違いない。
【注】
(3) 足尾銅山古河鉱業所『足尾銅山予防工事一班』4〜8ページ。 常に元気旺盛で,楽天的で,少しも屈託したと云ふやうな色は見えない。直覚的に良いと感ぜられると,何事も自分の考へが事実となって現はれてくるような心持のした人で,実に信念が強い(『古河市兵衛翁伝』追録45ページ)。 市兵衛の座右の銘が〈運・鈍・根〉であったことは,よく知られている。 自分は重役の面前で見積書を作成した。数時間後にその見積書が古河氏に取次がれた処が,簡単な質問を受けたのみで,直ちに注文が決定された(五日会編『古河市兵衛翁伝』199ページ)。
(11) 古河鉱業株式会社『創業100年史』76〜81ページ。 1, 各役員の権限を劃定して責任の帰する処を明にす。 2, 役員の誓書に保証人を付して身元保証の制度を拡張し,取締を厳重にす。 3, 積立金の制度を設けて,役員の勤勉を奨励せんとす。 4, 恩給制度を改めて,役員優待,給与の公平を期す。 5, 巡視規則を創定し,各山巡視監督の実を挙げんとす。 6, 文書規定を設けて,事務の整理を期す。
(16) 薄田貞敬『昆田文次郎君の生涯』(後昆会,1929年)548ページ。 併し,その半面には事業に対して熱し過ぎる嫌ひがある。詰りこれも事業好きの結果であったろうが,何しろ無闇と山を買込む。その買込方も頗る大雑ぱのやり方で,大概は一目見て好い加減な鑑定を下し,どしどし買取って仕舞ふ。場合に依っては精細に調査研究することもあったが,大概は大腹な事をするのが弊であったから,自分等も大いにこれを気遣ひ,一時は山を買うことを中止するよう忠告した事もあり,又,口約では安心出来ぬから,今後余り事業を拡張せぬと云ふ証書を書かせた事もあった。併し当人は容易にこの癖は止まず,鉱山事業ばかりは如何なる先輩知己の言でも決して容れなかった(『古河市兵衛翁伝』追録10〜11ページ)。
(19) 茂野吉之助『古河潤吉君伝』118〜119ページ。 [初版は東京大学出版会から1988年5月10日刊行]
【最終更新:
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Edited by Andrew Gordoon, translated by Terry Boardman and A. Gordon The Ashio Riot of 1907:A Social History of Mining in Japan Duke University Press, Dec. 1997 本書 詳細目次 本書 内容紹介 本書 書評 |
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